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2013年5月 の投稿

チベットの秘密

カテゴリー:中国

著者  ツェリン・オーセル、王力雄 、 出版  集広舎
中国の中のチベット独立運動が中国政府によって力で抑えこまれていることを告発している本です。
 もし、我々がチベット語の重要性を強調すれば、「狭隘な民族主義者」というレッテルを貼られる。人目に触れない中国政府の公文書では、チベット語のレベルが高ければ高いほど、宗教意識が強くて、思想が反動的で敵対的だとされている。
 チベット語を学ぶために、チベット語で授業を行う教育システムを整備することは、近代化に求められる人材を育成するために必要なだけでなく、チベット民族の最低限の人権でもあり、また民族的な平等を実現するための根本的な条件でもある。
 1959年以来、ダライ・ラマは世界の人々がもっとも尊敬する亡命者になっている。尊者ダライ・ラマへの信仰心はますます堅くなり、命を惜しまず自分の信仰を守ろうとする者が増えている。
 亡命を余儀なくされているダライ・ラマは雪国の文化の魂であり、弱小民族が大漢民族の強権に抵抗するための最高のシンボルである。敬虔な仏教徒であるチベット民族にとって40年ものあいだ、自分たちの神に謁見できないことは、チベット人の中核的な価値を剥奪したに等しい。ダライ・ラマを非難し、誹謗中傷することは、チベット人の心を刃物でえぐり出すに等しい。
 2008年3月のチベット事件のあと、チベット全域で自殺が急増した。仏教の信仰心の篤いチベット人が自殺にまで追い込まれるということは、生きることの苦しさが輪廻の幾層倍の苦しさよりも大きくて、耐えきれないからだ。
 チベットの統制支配が強まる一方なので、だからこそ抗議の焼身自殺が続いている。それは代えることのできない信仰の自由を守るためなのだ。
 チベット担当の官僚集団はチベット事件の原因を「ダライラマ集団」に押しつけ責任を回避した。文化大革命で大損した官僚集団は、独裁指導者が官僚集団を破砕するような状況を再現させまいと決心した。
 今日、中国共産党内部には既に牽制しあうメカニズムが形成されており、官僚集団もかなり多くの権力を有し、酷吏を用いる方式で党内を粛清することの再現など許されず、文化大革命のような大衆運動の再現も許されず、さらには党内を分裂させる可能性のある路線闘争も許されない。
 今や、中共党内のトップの権力闘争は、歴史上どの時期よりも弱く、権力の交代もある程度はプログラム化されている。その要員としては、深層において、「官僚集団の民主性」が作用している。
 官僚集団は、政治権力装置を熟知し、運営にたけており、ひとたび権力者のトップを牽制するメカニズムを構築すると、それを最大限に活用する。官僚たちは形を現さずに政権トップの浮沈、人事異動、政策方向を決定する。このような能力を手に入れたら、党内粛清や文革の発生を防止するだけでなく、それを延長して、自分たちの利益に不利になることすべてを未然に防止し、できるだけ多くの利益を得ようと謀る。したがって、いわゆる「党内民主」を中国民主化の歩みと見なすのは、まったくの誤りなのである。
 チベット独立運動の状況を知り、そして、中国の支配的官僚層の分析について学ぶことができました。
(2012年11月刊。2800円+税)

真田三代・風雲録

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  中村 彰彦 、 出版  実業之日本社
真田(さなだ)幸隆・昌幸・幸村という真田三代の武勇と知略で血湧き肉躍る武勇伝の数々です。700頁もの巨編ですので、東京往復2日間かけてじっくり読み尽くしました。
 『業政(なりまさ)走る』という小説を読んでいましたが、初代の真田幸隆は業政に助けられたのでした。戦国時代は「合従連衡」(がっしょうれんこう)の世の中です。武士は二君に仕えず、というのではありません。強い方についてもよいのです。なぜなら、基本的にそれぞれ独立した存在だったからです。明日に生き残るためには、昨日の友も敵とせざるをえません。
 真田幸隆は、結局、武田晴信(信玄)の配下に組み込まれます。そして、武田軍のなかで鬼謀をめぐらして頭角をあらわしていきます。その有力な敵は越後の上杉勢でした。
 川中島の合戦のころは、真田幸隆は武田軍の有力武将だったのです。
 昌幸は真田家の二代目。武田勝頼に仕えます。しかし、勝頼は自らに甘い近臣を重用し、有力な重臣を遠ざけてしまうのでした。それが長篠の戦いでの武田軍惨敗につながるのです。
真田昌幸は、武田家が滅亡したあと、徳川家康と豊臣秀吉の間で苦労させられます。そして、秀吉亡きあと、昌幸そして幸村は家康と相手に戦うことになるのです。しかし、昌幸の子は徳川方と秀頼方の二手に分かれて戦うのでした。
 この本によると、昌幸が、その子を二手に分けたというのではないとしています。私も、そう思います。成り行きで、そうなってしまったのだと思います。
 関ヶ原の合戦のとき、家康の長男・秀忠軍4万を信州・上田城にくぎづけにした真田軍は、なんと2500にすぎなかった。秀忠軍は上田城を攻略できずにぐずぐずしていて、ついに関ヶ原の決戦に間にあわなかった。怒った家康は、秀忠に会おうとしなかった。有名な話です。家康は、関ヶ原で必ず勝てるという自信はなかったはずだと指摘されています。初代の真田幸隆は鬼謀ただならぬ才人だった。二代目の真田昌幸について石田三成は「表裏地興(ひきょう。卑怯)の者」という厳しい評を下した。三代目の幸村は「日本一の兵」(つわもの)と評された。
 大阪夏の陣で真田勢は、家康本陣に斬り込んでいったのです。とても面白く読み通しました。ただ、石田三成が襲われて家康の館へ逃げ込んだというのは史実に反するように思います。間違いとして訂正してほしいところです。
(2012年12月刊。1900円+税)

毛沢東と中国(上)

カテゴリー:中国

著者  銭 理群 、 出版  青土社
戦後の中国、そして現代中国を語るときに欠かせないのが毛沢東です。私が大学生になったとき(1967年)には、とっくに文化大革命が始まっていましたが、その実情は日本にほとんど伝えられていませんでした。断片的に伝わってくる情報は、あくまでも文化面での大きな改革がすすんでいるというもので、かなり中国を美化したものでした。権力闘争、しかも厳しい奪権闘争であると思わせるものではありませんでした。ただし、そのうちに馬脚をあらわしてきました。中国がすべてで、日本人もそれに従うべきだという押しつけが始まったのです。それは、私も、いくらなんでもとんでもないことだと思いました。赤い小型の毛沢東語録(日本語版)は、私も入手しましたが、こんな語録を振りまわして世の中が変わるだなんて思いませんでした。それでも日本人のなかにも毛沢東を神のように盲従した人たちが少なくなかったのです。今となっては信じられないところでしょうが・・・。
 この本は、自らも若いときに毛沢東主義者だった学者が自己分析をふくめて中国の戦後史をふり返っています。中国史そして毛沢東についてはかなりの本を読んだと自負する私ですが、この本の掘り下げには、まさしく脱帽です。なるほど、なるほどと、何度も深くうなずきながら、必死に700頁近くの本を読みすすめていきました。
中国人が、現在のように好戦的、熱狂的、興奮症になったのは、まさしく毛沢東文化の改造の成果である。
 毛沢東は、自らを豪傑であり、聖人でもあるとした。毛沢東が望んだのは、人の精神をコントロールし、人心を征服し、人の思想に影響を与え、改造し、専政を人の脳まで浸透させ、脳内で現実化することであった。しかも、そのための系統的な制度と方法までつくりあげた。
 毛沢東は、文化大革命の初期に、すべてを疑えと提唱したが、その裏には、越えてはならない一線があった。つまり毛沢東本人への懐疑は絶対に許されなかったのだ。ところが、すべてを疑った人は、ついに毛沢東まで疑ってしまった。そのとき、毛沢東はためらいなく弾圧した。
農民出身であり、農民運動で名を成した毛沢東にとって、自分こそが農民の利益を代表していると考えるのは当然であった。個人的な感情としても、毛沢東が自分を完全に農民の子どもとみなしていた。
 毛沢東は、1953年ころ、高崗を自分の後継者として指名するつもりたっだ。そして、「高饒事件」は毛沢東が発動したものだった。「高饒反党集団」というのは、実際には冤罪事件であり、党内闘争の産物にすぎなかった。毛沢東は高崗に手のひらを返し、高崗を「資産階級の党内における代理人」として追い出した。そして、毛沢東は高崗をつかって劉少奇の譲歩を引き出し、党内の知識人、農民革命家の両者を骨抜きにして勢力図を再編させた。
 中国の政治は瞬時に全てが一変する。1957年の整風闘争のときにもそうだった。
 ハンガリー動乱を知り、毛沢東は中国にも同じことが起きるのではないかと心配した。北京大学に大字報が貼り出されたのを知り、毛沢東は不安にさいなまれ、夜も眠れないほどだった。毛沢東と共産党の幹部がもっとも恐れていたのは、学生が労働者や農民と連帯することだった。そして、毛沢東は、軍隊で学生を鎮圧することだけは絶対に避けようと考えていた。それをしてしまえば、全体の統治が危機に陥るからである。
毛沢東は、旧知識人を消滅させることを求めていた。毛沢東は次のように語った(1957年、反右派闘争のとき)。
 「ブルジョア教授の学問などは、とるに足らないもので、まったくムダで、さげすみ、過小評価し、蔑視すべきものである」
 1958年に、モスクワで全世界共産党会議が開かれ、毛沢東も出席した。毛沢東は会議の中心人物となった。スターリン亡きあとの共産主義運動のリーダーとなった。毛沢東は、1958年に人生のもっとも輝かしいときを迎えた。
 1958年に毛沢東は、奔放に宇宙やら時空やら生死やら有限無限やらを語り、矛盾論や認識論を大いに語った。国産的問題を処理するときですら、毛沢東はまずは哲学を語った。毛沢東は、終生、孫悟空に特別な感情を抱き続けた。
 1958年8月の会議で、毛沢東は公開の場で、法制によって多数の人を治めてはいけないと語った。民法や刑法によって秩序を維持しないという。毛沢東は、恥じることもなく、個人の意思を法律、とくに憲法の上においた。
 毛沢東が戦争上手であることについて、党内で異議を唱える人はいなかった。しかし、毛沢東が経済を指導できるかどうかは、別の問題だった。毛沢東は、戦争をやるように、工業そして農業をやろうとしていた。毛沢東は詩人の想像力で国を治めようとした。毛沢東の空想的社会主義は、実際には小農原始社会主義であり、それに中国農民の近代化の想像がまざっていた。
 毛沢東が人民公社を発動したとき、食事がただ、病院がタダ、住宅がタダの三代要求は確かに中国の貧窮農民の基本的な願望を反映していた。しかし、食事と住民について解決していた富裕農民、そして、これから個人の自由労働によって富裕になろうとしていた中農民の抵抗にあった。
 毛沢東の構想では、家庭も最終的には削減するものだった。
 1958年、またたくまに大躍進は大飢饉に転じた。1959年4月。食事はタダから、わずか半年足らずだった。大飢饉と大死亡は1960年に頂点に達し、1961年まで続き、1962年にようやく好転した。3年間で餓死者が3600万人も出た。毛沢東は、1958年、完全に自己の意思によって理想の国づくりを試みたが、それはまたたくまに失敗し、災難となり、天国から地獄となった。これは毛沢東にとって、初めての挫折だった。それ以後、毛沢東の人生は、自己の権力と理想をかたくなに守りながら、総体として下降していった。
工業化、国防建設、都市の安定を保証するため、つまり富国強兵のためには農民を犠牲にする。たとえ農民が餓死しても、いとわない。それが、中国の農民が大量に死亡したことの本質だった。
中国共産党指導下の中国政権には二つの面があった。一つは強いイデオロギー性であり、もう一つは、強烈な民族性だ。毛沢東を代表とする中国共産党はマルクズレーニン主義者であると同時に民族主義者だった。現実には、最終的に本当に根をおろし、本当に民衆の支持を得られたのは、民族主義だった。民族主義の凝集力は長く続き、しかも力強かった。
 1964年、アメリカのCIA報告は興味深い。CIAの分析によると、毛沢東の後継者になりうる人間は3人。周恩来、劉少奇、林彪である。劉少奇は毛沢東と同じ世代であり、個性に欠け、ユーモアがないという欠点がある。もっとも可能性が高いのは鄧小平である。うひゃひゃ、CIAもよく見ていますね・・・。毛沢東は劉少奇を基本的に信頼していた。劉少奇は軍隊への影響力が毛沢東に遠く及ばず、軍を掌握していなかった。これが劉少奇の致命的な弱点だった。
 1964年末ごろ、毛沢東は、劉少奇を主要な打撃目標にしようという決心を固めた。
 いよいよ文化大革命がはじまります。続きは下巻で・・・。
(2012年12月刊。3900円+税)

出雲と大和

カテゴリー:日本史(古代史)

著者  村井 康彦 、 出版  岩波新書
大変刺激的な本です。従来の通説に果敢に挑戦しています。
邪馬台国は出雲勢力が立てたクニである。
 これは、この本のオビに書かれた文章です。本当なのでしょうか・・・。
奈良の三輪山は、大物主神を祭っている。そして祭神の大物主神は出雲の神なのである。
 古事記や日本書紀は、天皇勢力の前に出雲勢力が大和進出を果たしていた事実を記述しているのだ。出雲王国の中枢(みやこ)は、出雲国を象徴する斐伊川の流域にあるはずだと考えてきたが、「風土記」によって、それが裏付けられた。
 出雲国の西部奥地は古くから鉄の主要な生産地帯であった。
出雲文化圏を特徴づけるのが、方形墓の四隅がヒトデのように突出する、いわゆる「四隅突出型墳丘墓」の存在である。丹後をふくめた、出雲から越(こし。高志)に至るまで日本海沿岸に存在する四隅突出墓は、出雲後からが遠く北陸の地にまで及んでいたことを示す何よりの証拠であった。それはフォッサマグナを束限とする。信濃は、出雲国にとって、束限の重要な土地であった。
 邪馬台国は出雲との関わりを抜きにしては語れない。
 卑弥呼は大和朝廷の祖先ではなく、無縁の存在であると考えられていたので、「日本書紀」に書きとめられなかった。すなわち、卑弥呼は、大和朝廷の皇統譜に裁せられるべき人物ではないのである。したがって、邪馬台国も大和王朝の前身ではなかった。そこで、大和朝廷を立てたのは、外部から入った勢力だということになる。神武軍の侵攻を阻んだ軍勢は、まぎれもなく出雲勢力であった。卑弥呼亡きあとの邪馬台国連合は、王国を守るために勢力を結集していた。しかし、ついに神武軍は大和に入ってきて、大和朝廷を成立させた。
 邪馬台国は外部勢力(神武軍)の侵攻を受けて滅亡したが、それは戦闘に敗れた結果ではない。総師・饒速日命(にぎはやひのみこと)が最後の段階で戦わず帰順したから。饒速日命は、もっとも信頼のおける部下の長髄彦を殺してまでも和平の道を選んだのである。
同じ出雲系氏族のなかでも、中央の政治に関与した氏族は、葛城氏や蘇我氏のように、いっときの栄光のあとに無念な没落が待っていた。これに対して出雲氏、海部氏・尾張氏などは、神を奉祭する祝の道を歩んだころで存続し、長く血流を伝えている。物部氏は少し特異な生き方をした。
 とても全部は理解できませんでしたが、出雲の勢力が鉄を武器として中央へ進出していったというのは十分にありうる話だと思いました。なにしろ、文明の地(朝鮮半島)にも近かったわけですからね。たまには、卑弥呼の昔をしのんでみるのも、いいことです。
(2013年3月刊。840円+税)

職業史としての弁護士・弁護団体の歴史

カテゴリー:司法

著者  大野 正男 、 出版  日本評論社
ありきたりの、弁護士について簡単に歴史的経過をたどった本かな、などと予断をもって期待することもなく読みはじめたのでした。すると、案に相違して、とても面白く、知らないことも書かれていたりして、一気に読み終えました。1970年に書かれた本の復刻本です。150頁ほどのハンディな一冊にまとまっていて、読みごたえがあります。
 明治5年に司法職務定制が定められた。訴訟代理制度が始まったわけであるが、そのとき専門的職業に不可欠の資格要件が定められていなかった。
 これは二つの点で重大な効果をもたらした。一つは、人的に旧来の公事師がそのまま営業を続けることができた。二つは、代言人や代書人は裁判所において何らの職業的特権も権威ももっていなかった。
 公事師は、明治以降の弁護士制度の発展に重要な影響を与えた。公事師については、二つの説がある。公事師は、もぐりでしかなかったというのと、公認された公事師がいたというもの。
 代言人制度の初期において、評判の悪い公事師から人的な継受があったことは、代言人一般の社会的地位を低からしめた。しかし、本当に、このように公事師を全否定すべきものなのでしょうか・・・。
 明治9年、司法省は代言人規制を制定し、代言人を免許制にした。ただし、代言人の職務には重大な制約が課せられていた。それは、代言人は立法趣旨とその当否を論じることができないこと、また、裁判官によって処分されること。
 代言人が、刑事裁判の法廷で無罪弁論をしたとき、立会検事が官吏侮辱であるとして代言人を起訴し、禁錮1月罰金5円さらに、代言人の停業3ヶ月を併科された。
 うひゃあ、こ、これはないでしょう・・・。
 明治初期から、中期にかけての代言人の司法における地位は、はなはだ低かった。
 ところが、明治20年ころからの自由民権運動の進展とともに、有為の人物が次々に代言人として登録し、代言人の社会的地位を高めた。
 明治26年に弁護士法が制定された。このとき、弁護士は判検事の資格試験とは別の試験に合格することが要件とされた。そして、登録手数料が低額化された。これによって弁護士の出身階級の多様化がもたらされた。さらに、このとき弁護士会への強制加入制がとられた。ただし、検事正の監督を受けた。
 弁護士にとって、国家機関からの監督が桎梏であると自覚されるのは、明治29年に日本弁護士協会が設立されてからのことである。
 弁護士の法廷における言論の自由を確保することは、明治期の弁護士の大きな課題であった。明治30年以降、刑事裁判について、当時の弁護士は強い不満をもち批判していた。
 弁護士会内部の対立抗争が激化して、大正12年5月、第一東京弁護士会が設立され、大正15年3月に第二東京弁護士会が発足した。全国的な任意の弁護士団体も、大正14年5月、帝国弁護士会が設立されて二分した。
 弁護士階層の分化が進んだ。弁護士数の激増による。大正8年に3000人いなかったのが、大正12年に5000人をこえ、4年間で2300人も増えた。これは青年弁護士を激増させた。このころ、民主主義や普通選挙の要求が激しい時代だった。
 昭和8年に弁護士法が改正された(昭和11年4月施行)。このとき、女性弁護士が誕生した。そして、弁護士会を監督するのは、検事正から司法大臣となった。
大正の終わりから昭和の初頭にかけて、日本社会をおそった経済的不況は弁護士の経済的基盤に大きな影響をもたらした。しかも、不況に反比例してこの時期、弁護士は急増していた。
 大正12年に5266人だった弁護士が、昭和4年には6409人に達した。大正9年の3000人からすると、倍増したことになる。このころ、毎年300名ほど増えていた。昭和4年ころ、東京には非弁護士が2万人いたという。現代の日本でも似たような議論があるものだとつくづく思いました。
 それにしても、この本では公事師が低く評価されているのが気になりました。
 『世事見聞録』にみられるように、江戸時代には今の私たちが想像する以上に裁判は多かったのです。そして、そのとき公事師の働きは不可欠だったはずです。さらに、明治初めには、とても裁判件数が多かったことをふまえた論述が欠落しています。
 これらの重大な欠点は、今後、必ず克服されるべきものだと確信しています。
(2013年3月刊。800円+税)

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