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2013年4月 の投稿

アフガン侵攻 1979-89

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ロドリク・ブレースウェート 、 出版  白水社
ソ連のアフガニスタン侵攻の始まりから撤退までを詳細に明らかにした本です。ベトナム侵略戦争におけるアメリカのみじめな敗退と同じことをソ連もやったわけです。
アフガニスタンには、機能する統一国家を築くための土台となる国家的組織体という観念はなきに等しい。地方から中央まで、あらゆるレベルの政治と忠誠は、各集団間の対立と取引によって規定される。それは末端の一族同士でも同じである。
 アフガニスタンは、世界でもっとも古くから人々が暮らしてきた地域の一つである。アレクサンドロス大王が支配し、ペルシア帝国の支配を受けたあと、13世紀にチンギス・ハン、
14世紀にティムールによって完全に征服された。この二人の子孫であるバーブルが16世紀にムガール帝国を築きあげた。
 アフガニスタンの国民はパシュトン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人、その他の弱小民族集団に分かれ、さらにいくつもの部族に細分化する。そして、アフガニスタン人の大部分はスンニー派のイスラム教徒である。
アフガニスタンで史上初の政治運動を生み出したのは大学だった。1965年に創設された共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党の創設メンバーである、ヌール・ムハンマド・タラキ、バフラク・カルマル、ハフィズラ・アミンの3人もそうである。そして、ラバニ、ヘクマティアル、サヤフ、マスードは、全員がカブール大学で学んでいる。
 1978年4月、ダウド大統領はアフガニスタンの共産主義勢力に打倒され、無残な最期を遂げた。4月のクーデターは悲劇の始まりだった。
ソ連にとって、アフガニスタンの共産主義勢力は、はじめから悪夢だった。1968年、人民民主党(PDPA)の党員はわずか1500人だったが、ソ連は彼らを無視できなかった。PDPAは理論を一掃し、権力の奪取と行使に専心した。さらに悪いことに、PDPAは、はじめから分裂状態にあり、パルチャム派とハルク派に分かれ、ときに血の闘争をくり広げていた。パルチャム派のリーダーはカルマル。パシュトン人で、陸軍の将軍の息子だ。ハルク派は、地方やパシュトン人部族から支援を集めた。リーダーは、タラキとアミン。
 狂信に支配されていたアフガニスタンの共産主義者たちは、いかに保守的で、誇り高い独立国であっても、銃を突きつけて無理やり言うことを聞かせれば近代化させることが出来ると確信していた。カンボジアのポルポト政権とよく似ている。しかし、カンボジアとは異なり、アフガニスタンの国民は、政府のそのような扱いを耐え忍ぶつもりはなかった。アフガニスタンの共産主義政権は、イスラム教の力と国民への影響力を過小評価するという致命的なミスを犯した。
 1979年3月、アフガニスタン政府からの軍事介入要請は、考えれば考えるほど、ソ連指導部にとっては望ましくないように思えた。しかし、完全に排除しようとする者はいなかった。そこで、最終的には結論として、軍需品といくつかの小部隊を送ることにした。
 1979年、アフガニスタン全土で、情勢が悪化し、共産主義政権に対する武力抵抗が拡大を続けるなか、主流派であるハルク派の内部抗争が激化していた。
 ソ連のKGBは、パルチャム派に巨額の資金を提供し、自分達の意見を反映させようとした。しかし、パルチャム派は、PDPAの党員1万5000人のうち、わずか1500人でしかなかった。それ以外は全てハルク派だった。ハルク派は陸軍の共産主義将校の大多数が所属する派閥であり、アミンは特別の努力を払って、この将校たちとの関係を築き上げていた。
 タラキ殺害で重要な役割を演じたのは大統領警護隊だった。アミンの指示によるタラキ殺害は、ソ連の意見決定プロセスにおいて決定的な転換点となった。とくにブレジネフは、そのニュースに衝撃を受けた。タラキを守ると約束していたからである。
 ソ連のカブール駐在の主席軍事顧問は、アミンを高く評価していた。アミンは、強固な意志をもち、非常に勤勉で、その組織化の手腕は並外れており、ソ連の友人を自称しているが、狡猾なウソつきで、血も涙もない弾圧者である。それでも、ソ連が手を組むとしたら、アミンしかないという結論だった。
 軍事介入に懐疑的なソ連の幹部たちは、わきに押しやられるか、無視された。アフガニスタンの首都に駐在するソ連幹部の大半は、この国で過ごしたことがほとんどないものばかりになっていた。アミンの支配下にあったのは国土のわずか20%にすぎず、しかも、その割合は徐々に縮小しつつあった。
 アフガニスタン人は、国内に外国人が駐留することを許容したことがない。ソ連軍部隊は否応なしに軍事活動に引きすりこまれるだろう。
 ソ連軍参謀長は、このようにブレジネフに進言したが、聞きいれられなかった。
 ソ連は、武力介入によって生じる不利をすべて予見していた。激しい内戦に巻き込まれ、多くの血が流され、巨額の費用がかかり、国際的に孤立することは分かっていた。
 1979年12月、アフガニスタンへの介入は最終決定が下されたとき、すでに介入は避けがたい状況になっていた。それは重大な政策ミスであったが、決して不合理な決断ではなかった。
 ソ連の軍事専門家は、アフガニスタンの安定化を図るためには、30~35個師団が必要だとみた。ソ連軍がカブールを制圧したとき、カルマル本人は、KGBの保護下にあった。
 カブール在住の多くのソ連民間人は、何が起きているかまったく知らなかった。アミン殺害作戦のなかで、民間人の犠牲者は一人も出さなかった。ソ連軍は航空兵力を使わなかったから。
 このころ、アメリカは、テヘランでアメリカ大使館員が人質にとられるという事件が起こった、ばかりだった。カーター大統領は、ソ連のアフガニスタン侵攻を公然と非難した。
 ソ連の武力介入の目的はPDPA内の残虐な抗争に終止符を打ち、共産政権による、恐ろしい逆効果を招いた極端な政策を根本的に変えさせることにあった。つまり、アフガニスタンを征服あるいは占領することが目的ではなかった。アフガニスタン政府が責任を引継げる状態になったらすぐにでも撤退するつもりだった。しかし、これは非現実的な願望にすぎなかった。アフガニスタンの問題は、政治的な手段で解決できないことを、ソ連は十分理解していた。ソ連は、その武力で体制を維持できないと思っていた。それでもソ連は、安定した政府、法と秩序などをアフガニスタン国民が最終的には歓迎してくれるだろうと期待していた。
 だが、やがてソ連は、アフガン人の大多数が己の道を行くことを望んでいて、神を認めぬ外国人や国内の異教徒どもに何か言われて気が変わることはないのだと悟った。ソ連は、この根本的な戦略問題に対処せず、また対処できなかった。
ソ連が目の当たりにした残虐な内戦は、侵攻のはるか以前に始まり、撤退後も7年間続き、1996年、タリバンの勝利でやっと終結した。
 ソ連軍は、いつかは国に帰る。そのことは、ソ連側もアフガニスタン側も分かっていた。
 ソ連政府の内外で失望が広がるにつれ、この残虐で犠牲の大きい、無意味な戦争を続けようという指導部の意思は後退していった。
 ソ連軍とソ連国家が受けた屈辱は大きく、将軍たちは愕然とした。それが、ソ連崩壊と新ロシア誕生の政治的動きのなかで重要な役割を演じた。
 ソ連軍のアフガニスタン侵攻を検証した画期的な本です。アフガニスタン政府の要請によってソ連軍は進駐したのだ、なんていう嘘が見事に暴露されています。また、ソ連軍とソ連の人々の受けた打撃の大きさもよく記述されていて、大変興味深く読み通しました。
(2012年1月刊。4,000円+税)

神と語って夢ならず

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  松本 侑子 、 出版  光文社
江戸時代最後の年、統幕と尊王にゆれる日本海の隠岐島で、若き庄屋が農民3000人を集めて蜂起。圧制の松江藩を追放し、パリ・コミュニケーションより3年早く、世界初の自治政府を始めた。王政復古と世直しの御一新に夢をかけた男たち。だが、その理想と維新の現実は異なっていた。さらに、思わぬ新政府の裏切りが・・・。
これはオビに書かれている文章です。明治維新に至る動きとして、あの隠岐島で自治政府が生まれていたなんて知りませんでした。まだ行ったことのない島です。ぜひ行ってみたいものだと思いました。
 ハーバード・ノーマンが、「隠岐島の事件は、維新後、数年間における日本の経験の縮図である」と書いているそうです(『日本の兵士と農民』1943年)。これまた知りませんでした。隠岐島と言えば後醍醐天皇。鎌倉幕府を倒そうとして隠岐島に流され、後に、足利尊氏とともに北条家を滅ぼし、建武の新政をおこした。しかし、足利尊氏に裏切られ、吉野へ逃れて南朝をたてた。
 慶応4年(1868年)、郡代追放、年貢半減、世直しの蜂起の檄文によって島中から男たちが集合した。49の村から、あわせて3046人が終結した。島後の男は7500人。子どもと老人を除く全男子が決起にくわわった。3千本をこえる竹槍が栗のイガさながらに立錐の余地もなく並び、熱気、緊迫感がみなぎった。
 自治政府を代官屋敷に置いて、70人が役についた。まつりごと全般について話しあう会議所(立法)には、長老の4人がついた。この4人の長老による会議制となった。まずは、学校を郡代屋敷にひらいた。
 公務をおこなう行政府としては総会所(行政府・内閣)をもうけた。頭取は前の大庄屋。文事頭取(内閣官房・文部)、算用調方(大蔵)、廻船方頭取(運輸)、周旋方(外務)、目付役(裁判)、軍事方頭取(防衛)。武装した自警団を三部隊ととのえた。
 松江藩が反撃し、陣屋を奪回した。自治政府は80日間で終結した。しかし、松江藩の統治もわずか6日間で終わった。これは薩長が進出してきたことによる。
 明治維新に至る複雑な政争が隠岐島でどのように展開したかを小説によって紹介する本です。大変面白く、一気に読了しました。
(2013年1月刊。1800円+税)

中華民族・抗日戦争史

カテゴリー:中国

著者  王 秀金・郭 徳宏 、 出版  八朔社
日中戦争(1931年~1945年)を中国側から見た通史です。770頁あまりの大作ですが、日中戦争の全体像を把握するためには欠かせない貴重な歴史書として、じっくり通読しました。
 日本側から見た日中戦争の通史は読んだことがありますが、中国側からのものは初めてです。しかも、中国共産党軍のみならず、蒋介石(国民党)軍もきちんと評価しているところがすごい本です。個々の先頭における中国軍の将兵の英雄的な戦いも、名前をあげて紹介しています。
 1931年9月に起きた柳条湖事件は、日本軍が仕掛けたものでした。第三中隊の河本末守中尉が部下の兵士を率いて満鉄線を爆破した。そして、上司に対して中国軍が鉄道を爆破し、激戦中と報告した。上司の川嶋大尉は驚いた振りをして、すぐに上級に報告し、派兵支援をもとめた。ところがこのあと、南京の国民政府の不抵抗政策によって20万近い軍は戦わず撤退したため、大きな地域が速やかに日本軍に陥落した。
 1931年9月、上海の埠頭労働者3万5000人が大ストライキを決行し、日本の対中侵略に抗議し、日本船舶の積み下ろし、貨物運搬を拒否し、船舶を動きとれないようにした。
 1932年1月、第一次上海事変。関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐は、「外国の目がわずらわしい。上海で事を起こせ」という電報を打った。中国軍は、装備の劣る7万の兵力で、装備のすぐれた8万の日本軍と33日間も戦い、日本軍に司令官の度重なる交代を余儀なくさせた。
 1934年3月、溥儀の強い要求によって、満州国は満州帝国と改称され、皇帝となった。そして、日本軍は、広くアヘン栽培を誘引し、多くの良田が麻薬農地に変わった。日本侵略者が土地を奪った主要な目的は、東北への移民を準備することだった。
 1936年12月、西安事件が発生した。蒋介石は、「我々のもっとも近い敵は共産党であり、危害がもっとも差し迫っている。日本は我々から離れており、危害はなお緩やかである」と演説していた(10月27日)。
 そして、12月4日、蒋介石は張学良に対して、「紅軍を徹底的に処理し、根本的に解決する」よう命令した。これに対して張学良は全国人民の利益を重んじるよう蒋介石に要望した。西安事変に接して、多くの人々は抗日には賛成したが、張学良の行動が内戦を大きくすることを恐れて、不支持を表明した。そして、蒋介石の回復を要求した。張学良は事前に中国共産党と協議していなかった。共産党代表の周恩来らは西安に到着し、張学良と協議した。
 張学良は、西安事変を平和的に解決する中国共産党の方針を理解すると、国家・民族の大局を個人的恩讐の上に置く共産党の大義を深く理解し、心から敬服した。
 周恩来は、張学良と宋子兄弟の同席のもと、蒋介石と会見した。そして内戦の停止、共同抗日こそが唯一の活路であると語った。こうして、14日間にわたった西安事変は平和的に解決され、国共再合作に向かった。
国民党は、ドイツから大量の要塞用重砲を購入し、ドイツ軍事顧問団の援助を得て、1933年から全面的にすすめた。
 1937年7月、盧溝橋で全面的な中国侵略戦争がついに勃発した。
 1937年8月、中国共産党は、中国紅軍を国民革命軍第八路軍に改編し、朱徳、彭徳懐を正副総指揮に任命した。
国民党は対日不抵抗政策をとった。しかし、受身の内戦防御戦では、効果的に敵(日本軍)を殲滅することはできず、戦略的持久を実現することは難しかった。国民党は、大地主・大資本か階級の利益を代表していたので、人民の抗戦を利用しながら、人民の力が抗戦の中で強大になるのを恐れていた。
 毛沢東は持久戦論を提起した。抗日戦争は持久戦であり、速決線ではない。日本の強さは、日本が小国であり、退歩的で、援助が少ないなど不利な要素に寄って減殺されている。中国の弱さは、大国であり、進歩しており、援助が多いなど有利な要素によって補充されていると説いた。
 1937年9月、中国紅軍は平型関で日本軍を大破した。中国紅軍は、山地の一本の狭い道路が延々と続く場所で待ち伏せた。平型関の待ち伏せ改撃は日本軍に壊滅的打撃を与え、死者1000余人、日動車100余台などを破壊した。平型関の戦いは、人路軍の抗戦における最初の勝利であり、全国の抗戦における初めての奇襲戦による勝利であった。これによって共産党と八路軍の声望は一挙に高まった。
 1937年8月、日本軍は上海侵略を開始した(上海会戦)。9月中旬までに日本軍は兵力10万人以上となった。さらに、10月初旬までに20万人に達した。10月中旬、中国軍は勇猛果敢にもちこたえ、すでに上海会戦は2ヶ月も続いていた。そして、ついに、11月中旬、中国軍が撤退した。日本軍は10個師団20万人の兵力を投入し、中国守備軍は70個師、70万人を投入した。日本軍の死傷者は4万人、中国軍は30万人近い死傷者を出した。
引き続いて南京防衛戦が戦われた。中国軍の南京撤退後、日本軍による大虐殺が始まった。このとき、安全区内には、29万人もの難民がいた。
 1938年3月から4月にかけての台児荘の戦役で、中国軍は2万人の死傷者を出しながらも日本軍を殲滅し、大勝利を得た。
 4月からの徐州会戦は日中の双方が数千万の兵力を投入し、5ヶ月間も戦った。
 1938年の夏から秋にかけては、武漢会戦そして広州の戦いが展開した。
 この武漢会戦中には、ソ連の中国支援志願航空隊が対日作戦で協力した。武漢防衛戦争での15ヶ月の戦いによって、日本軍の戦略的進攻は停止してしまった。「速戦即決」で中国の領土を占領する計画が決定的に破綻した。
 1938年10月、日本軍は武漢を占領した。日本国民は驚喜したが、つかの間の喜びでしかなかった。
 1940年8月、八路軍は主要鉄道・自動車道路を総攻撃する戦いを開始した。参加した部隊が105個団(連隊)であったことから、百団大戦と呼ばれる規模が最大で持続時間がもっとも長かった進攻戦役であった。百団大戦、日本軍北支那方面軍の「囚籠政策」に深刻な攻撃を与え、日本軍は「華北に対し再認識すべき」との驚きの声を上げた。
 日本軍は内部で、教訓を総括し、共産党と八路軍に対する情報活動を強化し、華北における共産党軍を作戦の焦点とする指導思想をさらに明確にした。
 百団大戦の勝利は、全国の徹底抗戦の信念を鼓舞し、強化した。百団大戦の勝利は共産党と八路軍の威信を高めた。しかし、同時に巨大な犠牲も払わされた。八路軍と抗日根拠地の補給能力の限度をこえていた。疲労も甚だしかった。
 しかし、国民党の妥協的傾向を克服するうえで、重要な役割を果たした。日本軍の「三光政策」は1940年冬に下達された。その目的は八路軍と八路軍の根拠地を殲滅することにあった。
 中国軍は、麻雀戦、地下道戦、地雷戦、襲撃破壊戦、水上遊撃戦、武装工作隊などの人民戦争を展開した。
中国人が強大な侵略者である日本軍といかに戦ったかが詳細に記述されています。実は、私の父も中国へ2等兵として出兵しています。不幸中の幸い、マラリアにかかって内地に送還されて、戦病死を免れました。その中国での戦闘状況の推移を中国側からみたものですので、大変勉強になりました。
 日中戦争の実情を知りたい日本人なら、ぜひ読むべき本としておすすめします。
(2012年12月刊。8900円+税)

犬とぼくの微妙な関係

カテゴリー:生物

著者  日高 敏隆 、 出版  青土社
適応度増大のためにとるべき戦略は、オスとメスとではまったく逆である。メスはオスに迫られても、すぐには応じない場合がほとんどである。知らん顔をしてみたり、逃げたり、明からさまに拒んだりする。複数のオスに近づかれると、メスはその中からどれかを選ぶ。
 メスは対称的な体をもつオスを選ぶ。対称的なオスを美しいと思うからではない。身体がより対称的な個体は、極端に非対称になっている個体より遺伝的にしっかりしたところがあることになる。そこでメスは、体つきの対称性を手がかりにして、そのようにしっかりしたオスを選ぶのだろう。
母親にとってかわいいのは子どもではなく、子どもがもっている自分の遺伝子なのだ。つまり、母親があらゆる苦労を身の危険もいとわずに子育てに努力を傾けるのは、子どものことを思ってではなく、あくまで自分の適応度増大というまったく母親の利己的な動機によるものなのだ。
 ワシ・タカ類は、卵を二つうみ、ヒナがかえる。そして、第一のヒナが無事に大きくなると、第一のヒナは二番目のヒナを殺してしまう。そして、親はそれを見て見ぬふりをする。
 これは、第一子が無事に育たないときの「保険」として第二卵をうんでおくことによる。第一子が第二子を殺せるくらい頑丈に育ったら、保険はもう要らない。そこで、第一子の食物を確保するために、第二子は第一子に殺させる。うむむ、自然の摂理はよく出来ていますね。
 性があることによって、動物は、単に遺伝子を混ぜあわせて多様性をつくりだせるだけでなく、偶然に生じてくる突然変異を急速に集積して有利な特徴をもつ個体を次々に生じることができる。これは性の存在のもたらす大きな利益である。
 ツバメは、渡るときには夫婦別々に飛んでくるようで、たいていオスが先に帰ってくる。そして、前の年に巣をかけた場所を覚えていて、結局は夫婦とも同じ地域に戻る。前年と同じペアで巣づくりを始める。しかし、旅先や旅の途中で不幸にあうものもいるので、半分ほど。
 ツバメが人家を好むのは、巣やひなに悪さをするスズメが来ないから。人の出入りが多い家や店ほどツバメがよく巣をかけるのは、そのため。店が繁盛しているからツバメが来る。
 コウモリは、鳥はなく、モグラとかハムスターに近い哺乳類だ。巣ではなく、赤ちゃんを産み、乳を飲ませて育てる。そして、コウモリは鳥よりも上手に空を飛ぶ。
猫も実は、人間に深く依存している。絶えず人間の動きを気にしている。その状況が猫にとって実に幸せなのである。猫はまず視覚によって世界を認知する。嗅覚はその次である。猫は視覚もすぐれている。
 たくさんの生き物について、語られている面白い本でした。さすがは動物学者です。
(2013年1月刊。1900円+税)

古代天皇家の婚姻戦略

カテゴリー:日本史(古代史)

著者  荒木 敏夫 、 出版  吉川弘文館
倭王権の婚姻の特質として、閉鎖的であることが言える。婚姻相手を近親に求める近親婚が盛行していた。
 その理由として、母系を通じて他氏族へ血統が流出しない閉鎖的な血縁集団が形成できること、豪族層から外戚として介入を受けない。自立した王家が確立できることがあげられている。
 日本古代の婚姻は異母兄弟姉妹間の婚姻は許されており、その実例は多い。内親王以下、四世王までの王族女性は臣下との婚姻の途が閉ざされていた。厳禁されていたのである。
絶体大王が手白髪と婚姻したが、大王になる前のヲホド王を一地方豪族とみると、王族女性と臣下の婚姻を示す。唯一の例となる。
大王のキサキやミコ、ヒメミコたちは大王と同居している場合は希であり、通常はそれぞれの居住空間である「ミヤ(宮)」に住んでいた。
 蘇我稲目は、戦時下の略奪によって倭国に来た二人の高麗の女性を「妻」とした。蘇我氏の婚姻の相手は列島内に限定されていなかった。倭国・日本にも、中国・百済・高句麗・新羅・伽耶などと同様に、国際婚姻が存在していた。
桓武天皇は、婚姻関係を結ぶ氏族を広くしており、9氏族からキサキを迎えている。藤原氏の南家・北家・武家・京家の四家からキサキを迎えている。
 桓武天皇の母は百済系和氏であった。桓武天皇自身も、百済王氏から、百済王教仁・百済王貞香、百済王教法の3人を入内させている。
 日本における王済王氏の存在は、天皇が元百済王族の者を臣下においていることを日常的に示すことで、天皇が東アジアの小帝国の君主であることを国内外に向けてアピールするうえで好都合の存在であり、象徴的な機能を果たしていた。
 古代天皇家の実体を改めて考えさせられました。
(2013年1月刊。1700円+税)

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