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2013年1月 の投稿

「本当のこと」を伝えない日本の新聞

カテゴリー:社会

著者  マーティン・ファクラー 、 出版  双葉新書
ニューヨーク・タイムズ東京支局長というアメリカの記者が日本の新聞は「本当のこと」を伝えていないと厳しく批判しています。残念なことに、まったくそのとおりと言わざるをえません。
 先日の総選挙のときもひどかったですよね。民主党大敗、自民党大勝を早々と大きく打ち出して世論を露骨に誘導しましたし、「第三極」を天まで高く持ち上げました。まさしく意図的です。月1億円の勝手放題に使っていい内閣官房機密費の最大の支出費は大手マスコミの編集幹部の買収費に充てられているのではないかと思えてなりません。
とは言うものの、アメリカの新聞・テレビも、遠くから眺めている限り「権力者の代弁」という点では日本と同じではないかとしか思えません。民主党と共和党の違いは、カレーライスかライスカレーかの違いと本質的にはあまり変わらないのではありませんか。オバマ大統領への期待もすっかり薄れてしまいました。
 日経新聞は企業広報掲示板である。
 私は日経新聞の長年の愛読者ですが、実は、そのつもりで読んでいます。大企業をいかなる場合でも露骨に擁護する新聞だからこそ、企業のホンネがにじみ出ているものとして価値があると考えています。
 日経新聞は、当局や一部上場企業が発進する経済情報を独占的に報道している。それは寡占というレベルではない。日経新聞の紙面は、まるで当局や起業のプレスリリースによって紙面が作られているように見える。大きな「企業広報掲示板」と同じだ。大手企業の不祥事を暴くようなニュースを紙面を飾るようなことは、まずない。
日本の新聞記者は日経新聞に限らず、大企業の重役たちと近く、べったり付きあっている。だから、いざというときに踏み込んだ取材をしたり、不正を厳しく指摘することがない(できない)。たとえば、民主党の有力参議院議員の誕生日を祝う会が担当記者50人の出席で開かれた。もし、こんな誕生会を企画して国会議員にプレゼントまで記者たちが贈っていることが分かれば、ニューヨークタイムズの記者なら即刻クビを宣言されるだろう。ジャーナリストとしての基本が疑われる重大問題なのだ。
 日本の記者はあまりにエリート意識が強すぎる。記者は東大や京大といった有名国立大学、そして早稲田や慶應という難関私立大学の出身者ばかりだ。つまり、官僚とジャーナリストは、同じようなパターンで生みだされている。大学で机を並べていた者たちが、官庁と新聞社という違いはあるにせよ、「同期入社組」として同じように出世していく。権力を監視する立場にあるはずの新聞記者たちが、むしろ権力者と似た感覚をもっている。
このことにアメリカの記者である著者は率直に驚いています。
 日本のマスコミ(記者)は、政治家に対しては割と批判的なのに、行政バッシングはできるだけ避けようとする。
 東大法学部を卒業してマスコミ業界に入っていく人は昔から多いのですが、その彼らが官僚や政治家そして自民党に何重ものしがらみでからめとられている実情を聞かされて大変おどろいたことがあります。
 日本のマスコミには、大いに反省してほしいと思わせる本でした。
(2012年9月刊。800円+税)

人間形成障害

カテゴリー:社会

著者  久徳重和 、 出版  祥伝社新書
人間形成障害とは、簡単に言うと年齢(とし)相応にたくましく成長していないということ。医学的に言うと、「親・家庭・社会などの文化環境(生育環境)の歪みに由来する心身の適応能力の成熟障害」と定義されるもの。
 人間形成障害は、「一人でも生きていく」(個体維持)、「群れをつくる」(集団維持)、「子どもを育てあげる」(種族維持)のための適応能力が障害を受ける。
 人間形成障害は遺伝的な疾患ではなく、ましてや原因不明の疾患でもない。
 人間は、日常生活という「通常業務」を直接つかさどる性格や体質の相当多くの部分を、生まれたあとに完成させる生物である。
 子どもは、まずたくましくなり、賢くなり、それから優しくなることによって、「どこに出しても恥ずかしくない一人前の大人」に育っていく。人間の成長とは、幼さと臆病さを克服していく過程ともいえる。
 人間形成障害は、「幼い」をベースとする適応障害と言える。ここで「幼い」とは、第一に、自分の実力を正しく認識しておらず、根拠のない自信と万能感、身のほど知らずのプライド。第二に、先の見通しが甘く、ピントはずれの判断をする。状況が読めない。
 第三に、うまくいかないときに悩んで落ち込み、キレるか、いじけてしまう。打たれ弱い。第四に、最終的に放り出すか、誰かに頼って解決してもらう(甘えと依存)。
 「幼さ」と「怒りと拒否」の背景に共通しているのは、健全とは言えない親子関係である。
 普通の子どもが突然キレるのではなく、突然キレるような社会的抑制に欠ける子どもが普通になってきた。
 中高生の不登校は成人後のひきこもりのリスクファクターのひとつである。
 子どもは1歳までに「お母さんはいいもの」をつくりあげ、そのうえに3歳までに「仲間はいいもの」という感性をつくりあげる必要がある。3歳までの子どもに、その周りに「みんな仲良く」とか「笑顔と会話と優しい気持ち」が満ち満ちていることが大切だ。
 人間は3歳までにかなりの言葉を覚えるが、この時期に覚える言葉は脳の深い部分に書き込まれて、その書き込みは「一生を支配する」ほど強固である。だから、人間は年老いて認知症になっても母国語は忘れないのだ。
 3歳までの脳への入力は、「深いところへ強固に」そして「自動的」である。
 だから、この時期に、本人に影響を与えるような不安感や緊張感・攻撃性を家庭内・身内に発生させるのは絶対に避けるべきだ。そのため、子どもに伝えないような頓智と芝居すら必要だ。
 家庭内に緊張感があるため、子どもが大人(親)の顔色を見るような臆病さをもった3歳児になるのは極力さけなければならない。それは成長したあと、まわりに人がいると緊張するという本能レベルでの臆病さになって、無意識のうちに本人を支配してしまう。これが成人してからの対人不安・対人緊張、社会不安の芽になってしまう。
 3歳から6歳までは、「親はいいもの」「仲良くはいいもの」をベースとして、自分もそのまわりの「いいもの」に加わっていきたい、一緒になりたいという「同一化の欲求」があらわれ、まわりに認められることを求めて頑張り始める時期である。反抗期と言われる時期は、人間の基礎を確立するための自己拡張期なのである。ままごと遊びを好むのも、大人の役割を意識しはじめた結果なのである。年上に引っ張られて伸びていくのが本来の姿である。
 10歳前後の子どもには批判精神が発達していない。だから、親に問題があっても、それを批判するよりは、自分なりに合理化して納得させ従ってしまう。10歳前後の子どもが親から虐待されても親をかばったりするのは、このためなのだ。
 10歳から15歳までのギャングエイジは、ピンチや修羅場を乗り越える力をつけるための実地訓練の時期とも言える。この時期のコーチは、親ではなく、新しい仲間とか頼りになる先輩、兄貴分、姉御分であるのが本来の姿である。
 この時期の親は、子どもとのディベートをリードするだけの「人生の先輩としての見識」を高めておかなければいけない。
大変かんがえさせられる内容の多い本でした。
                (2012年9月刊。820円+税)

一揆の原理

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  呉座 勇一 、 出版  洋泉社
寛延2年(1749年)に姫路藩を揺るがした全藩一揆(寛延一揆)では、大阪城代は姫路藩に対して「飛道具(鉄炮)を用いることは無用である」と、鉄炮使用を禁じた。幕府の許可がないと鉄炮は使えなかった。鉄炮を使用するには、事前に幕府の許可が必要という不文律は、やがて制度化される。
 そもそも領内での百姓一揆の発生は「統治の失敗」として幕府から責任を追及される恐れがあるので、藩や代官は一揆を穏便に解散させる必要があった。
 このとき、百姓は農具をもつ権利があると主張した。鎌や鍬は百姓のシンボルである。鎌や鍬を使っても鉄炮や弓矢を使わないことは、自分たちが百姓身分を逸脱していないという幕府や藩に対するアピールだった。
 江戸時代の一揆では、家屋を壊すことはあっても、人を殺すようなことはいけないというのが百姓一揆のルールだった。これに対し、明治の新政府反対一揆では、新政府側の役人が殺されている例が少なくない。新政府反対一揆は特定のテーマにしぼって反対しているのではなく、明治政府の新政策(新政)すべてに反対していた。つまり、新政府そのものを否定しているのである。
江戸時代の百姓一揆にとって、「仁政」を標榜する幕府や藩は交渉可能な相手であった。だからこそ、一揆は幕府権力と正面からの敵対を避けた。そのため非武装だった。
 百姓たちは、自分たちの行動を「一揆」とは決して呼ばなかった。百姓たちは基本的に非武装を貫き、「一揆」すなわち武装蜂起と認定されないように苦心していた。武装しないほうが百姓一揆の成功率は高く、非武装は合理的な作戦だった。
 中世社会では、一揆は社会的に認められていた。だから、一揆を結ぶ者たちは「一揆」を自称していた。
 中世では、百姓だけが一揆を結んでいたわけではなく、武士も僧侶も一揆を結んだ。だから、中世の一揆は多種多様である。中世においては一揆のイメージは決して悪くはない。本人たちが堂々と「一揆」を名乗っている。中世の「一味同心」の背後にいるのは、仏ではなく神である。
 傘(からかさ)連判という円形の署名形式では、首謀者隠しというより署名の順番を分からなくすることに目的があった。つまり、多数の署名者に上下の区別をつけないということ。「一味神水」そして「神水を飲む」意味は何か。焼いて灰にし、その圧を神水に混ぜて飲む。それは、一揆の誓いに違反したときに発生する神罰は、起請文の灰を体内に異変が起きるということ。
 一揆の場における一味神水とは、わきあいあいとした宴会的な共同飲食ではなく、恐怖と緊張にみちた一種の試練だった。
起請文は、神に捧げると同時に人に渡すものであった。
 中世の日本社会は訴訟社会であり、裁判には証拠文書(証文)が不可欠だった。起請文は中世的な「文書主義」の流れに乗って発達した。中世の一揆契状は、一味同心を約束する契約状という一面をもっていた。
 若手学者による大胆な一揆の見直し提起です。大変面白く読み通しました。
(2012年10月刊。1600円+税)

金属が語る 日本史

カテゴリー:日本史(古代史)

著者  斉藤 努 、 出版  古川弘文館
日本の金属貨幣は、7世紀後半の無文銀銭(むもんぎんせん)や富本銭(ふほんせん)に始まる。無文銀銭は、純度95%以上の銀を円盤にしたもので、真ん中に小さな丸い穴が開いている。富本銭は、銅でできているが、ほかにアンチモンという金属も含んでいる。
 皇朝十二銭は銅銭だが、鈍銅ではなく、青銅でできている。その銅山は山口県の長登(ながのぼり)銅山や蔵目喜(ぞうめき)銅山である可能性が高い。
和同開珎(わどうかいちん)の「和銅」は、「日本で初めて」という意味ではなく、「にきあかがね」と読み、製錬しなくても既に金属となっている銅のこと。
 日本刀は、折らず曲がらず、よく切れる。本来は相反する硬さと軟らかさの性質が日本刀という一つの製品の中で共存しているということ。日本刀には、硬い鉄と柔らかい鉄が巧みに組みあわされて作っている。
炭素が多いほど鉄は硬くなる。ここらあたりは、実際に刀匠の働き現場で見せてもらった経験が生きているようです。
刀身製作の最終段階の「焼き入れ」は刀に命を吹き込む瞬間である。これは、刀匠がもっとも神経をつかうドラマティックな工程だ。焼き入れの目的は刃部に焼を入れて硬くすること。焼きの入っている部分を入っていない部分の境界に刃文(はもん)を作ること、刀身に「反(そ)りを入れることの三つ。「反り」は日本刀を特徴づけるものの一つだ。
鉄炮は、炭素濃度0.1%以下の軟鉄で出来ている。日本刀と鉄炮は違う素材で出来ている。鉄炮は、火薬が爆発する衝撃で銃身が割れたりしないように、日本刀のような鋼ではなく、柔らかくて粘り強い軟鉄が使われている。
現代のライフル銃は鉄の丸棒の真ん中にあとから穴を開けて銃身にする。しかし、火縄銃は鉄の板を巻いて筒をつくっていた。
硬貨、日本刀、鉄炮について、改めて、その違いが少し分かりました。
(2012年11月刊。1700円+税)

泰平のしくみ

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  藤田 覚 、 出版  岩波新書
力で押さえつける政治、百姓を虐げる悪代官ばかりでは、270年もの泰平を維持できるわけがない。それはそうですよね。政治の安定と泰平が270年ものあいだ続けたことを説明しようとする本です。
 江戸時代は、民間請負の時代である。それは、年貢の収納から土木・建物工事、さらには物品の調達と売却まで幅広い分野で民間の請負が行われていた。
 年貢の請負とは、村請(むらうけ)制と呼ばれるしくみである。入札とは、投票によって行う意思決定の一つの方式である。江戸時代の村社会では、村役人の選出、悪事をはたらいた犯人の特定(盗賊入札)、善行者、悪業者の選定(善悪入札)などに使われた。
 入札は、中世以来いくつかの局面で利用されてきた意思決定の方式である。
 競争入札による請負工事が、幕府発注の土木・建築工事のありふれたやり方だった。一見すると合理的で公平に見える競争入札だが、担当役人と業者の贈収賄が横行して政治問題化した。入札による受注を目ざして業者は事業を担当する役人との接触をはかり、ワイロを送って有利な立場に立とうとし、幕府役人は収賄により私腹を肥やす。
あらゆることが競争入札によって行われたのは奉行が賄賂を手にしたいためだった。競争入札による工事を担当した奉行で、1000両を懐にしない者はいない。その結果、100両もかからない工事が、1万両もかかってしまい、それこそ幕府財政が元禄期に破綻した理由である。新井白石は、『折りたく紫の記』でこのように論じた。
請負工事の発注を担当する役人も、利益の配分を受ける手はずになっているので、この入札のカラクリを知っているのに知らないふりをしている。大変に分かりやすい官製談合である。
江戸時代、幕府の行政機関や裁判機関へ人々が訴え出る行為には、少なくとも2種類あった。訴願と訴訟である。訴願は、訴えや願いを行政機関に申し出ることで、現代の陳情に近い。訴訟は、裁判機関に訴え出ることで、現代と変わらない。
そもそも、訴願と訴訟の区別があまり明確ではなかった。江戸時代の行政機関と裁判機関が未分化で、裁判は行政の一部に組み込まれていたことによる。
江戸時代の裁判は長い時間がかかった。幕府は100日以内の決着をかかげていたが、それに必要なお金と時間も考えて内済(示談)にする決着が普及した。
江戸にあった町奉行所はわずか150人の与力、同心で50~60万人の住民を管轄し行政を行っていた。
 江戸時代の行政のあり方を実証的に考えた本です。市民セミナーでの話をもとにしているためか、とても理解しやすい本でした。
(2012年4月刊。2800円+税)

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