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2012年9月 の投稿

ミッドウェー海戦(第2部)運命の日

カテゴリー:日本史

著者   森 史朗 、 出版   新潮選書  
 下巻の冒頭は、日米両空軍の航空線の模様が、あたかも実況中継されているかのような迫力があります。飛行機乗りたちの心理描写、生の声まで記述されていますので、その場に居合わせているかのようです。
 「本日、敵機動部隊、出撃の算なし」
 なんと、のどかな敵情判断だろう。このように著者は厳しく弾劾しています。こんな甘い状況判断によって、日本海軍は完膚なきまでに叩きのめされたのでした。まさに、日本海軍トップの状況判断には致命的な誤りがありました。
 二つのアメリカ空母グループが北方方向からひそかに接近し、その前段として味方の攻略船団が発見され、B17型爆撃機によって空爆を受けた。ミッドウェー基地からの反撃は必至であり、行方の分からないアメリカ軍機動部隊が突如として姿をあらわすかもしれない。それにしても、ずいぶん緊張感を欠いた信令だ。
この大胆な、甘すぎる情勢判断は、過去半年にわたる連戦連勝気分による油断の頂点たるものであり、アメリカ海軍の戦意を軽んじきった驕りの気分に満たされている。
向かうところ敵なし。自信過剰の南雲司令部は、それゆえ警戒心を忘れていた。
 南雲中将は、決して自分から判断を下さない将官であった。水雷船のエキスパートでありながら、航空戦指揮は不得意だとして指揮をすべて航空参謀にゆだねる、他人まかせの一途な頑固さがあった。未知の分野には手を出さず、得意な分野だけ大事にする守旧型のリーダーである。そして、革新による変化をひどく恐れ、臆病なところがある。
 日本軍のゼロ戦対策として、アメリカ軍は「サッチ戦法」を編み出した。当時37歳のジョン・S・サッチ少佐が考えついたもの。ゼロ戦に対抗するには、日本機の特異な単機格闘戦法ではなく、2機ずつのペアが縦列を組み、同高度、同一方向で二列に並んで飛行する。そして、戦場では、互いに円を描いて位置を変え、それぞれのペアが相手ペアの後方に注意を払う。ゼロ戦が後方から接近すると、反対側のペアが素早くターンして攻撃にむかう。この二機ずつのペアが互いに交叉しあうことから、サッチ・ウィーヴ戦法と名付けられ、ミッドウェー海戦以降のアメリカ海軍戦闘機の有力な戦法となった。日本側は何も気づかず、アメリカ軍機をお得意の戦機格闘戦に引き込んで、かえって逆襲され、手痛い目にあった。
 日本軍の艦船はアメリカ軍飛行機に次々にやられていった。この状況を見て、南雲長官も草鹿参謀長も黙然として、事態への対応がまったく出来ない。源田実参謀の頭の中は真っ白になった。真珠湾以来、世界最強とうたわれた第一航空艦隊司令部は、その内実は強固な戦闘集団ではなく、組織的にもろい、危機管理能力が皆無にひとしい集団であることを曝露してしまった。
 南雲司令部は、機能喪失状態に陥った。被弾してから、軽巡長良に司令を移乗させるまでの20分間に、南雲中将は麾下の部隊に何の命令も発していない。草鹿参謀長も同様で、まったく石のように動かず、あとに「参謀長は泰然として腰をぬかした」とからかわれた。
アメリカ海軍は、日本軍の暗号を解読し、レーダーを装備して待ち受けており、日本海軍は準備不足、作戦発起の性急さ、人事異動による士気低下の悪条件のもとで戦闘に突入した。
 ミッドウェー海戦の推移を詳細に点検していくと、日本側の敗北の原因は技術的なものであった。南雲忠一中将を頂点とする司令部官僚たちは、戦闘にあたって冷静な判断力と臨機応変の対応力、勇断や決定力の資質が欠けていた。いたずらに判断を先送りし、結果的には一般艦の主力三空母は1機の反撃航空機も送り出すことなく、乗員ともども海底に没した。涙をのんでミッドウェー沖に沈んでいった若き戦士たちの無念が思いやられてならない。
 日本海軍は、ミッドウェー海戦の敗北を極秘扱いとし、一切の戦訓研究を禁じた。アメリカ海軍は、詳細に研究した。
日本海軍の被害は空母4隻、重巡1隻沈没、重巡一隻損傷、搭載航空機285機を喪失した。そして、熟練の乗員のうち、艦戦39人、艦爆33組、艦攻37組、合計109組を喪い、著しく戦力を低下させた。
 アメリカ海軍は、空母1隻、駐遂艦1隻沈没、航空機147機を喪失した。
 これだけの大敗北を喫しながら、日本海軍は戦史から戦訓・戦術の反省点を学ばなかった。山本長官は、自ら、失敗から教訓を導き出す作業を封印してしまった。
 本来なら、関係者を集めて研究会をさせるべきだった。それをしなかった理由は、突っつけば穴だらけだし、今さら突っついて屍にむち打つ必要まではないと考えたことによる。そして、なぜ失敗したのかの責任論は封印されてしまった。そのうえ、敗戦の真相隠しが始まった。大本営発表は虚像にみちたものとなった・・・。
 無責任、そして嘘だらけ。いやですね。軍人の世界って・・・。まるで三流政治家ではありませんか。
(2012年5月刊。1750円+税)

ジュゴン

カテゴリー:生物

著者   池田 和子 、 出版    平凡社新書 
 見ていると、何かしら心がほのぼのと温まる、人魚のモデルになったジュゴンについての本です。
 ジュゴンは、イルカやクジラと同じ、海に棲み哺乳類。ところが、ジュゴンは、浅い海で草を食む唯一の草食性哺乳類だ。どおりで、牛に似たのんびりした雰囲気があるわけです。
 ジュゴンがいるのは、日本では沖縄周辺のみ。いま話題の辺野古(へのこ)海岸あたりを活動分野としている。
ジュゴンは、かつては食料として、また骨製品の素材として使われていた。
 イルカには体毛がないが、ジュゴンには全身に毛がある。ジュゴンの脳は、軽くて、のっぺりしている。ジュゴンの骨は組織が緻密で、堅く、重い。これは水中生活に適応したもので、海底に沈みやすくなっている。
 ジュゴンは、脱力すると、自然に体が沈み、海底に着地するようになっている。海底の海草を自然に食べられるように発達してきた。
 ジュゴンは、基本的に海藻は食べないし、消化できない。うひゃあ、これには驚きました。ジュゴンが食べられるのは海草であって、海藻ではない。ジュゴンは、食べたものを長い腸で長時間、微生物の働きを借りて消化し、陸上の植物と比較して栄養価の低い海草を最大限に利用している。
 何もなければジュゴンは50年以上も生きる。もっとも長寿のジュゴンは73歳だった。
現在、世界中のジュゴンは10万頭。東南アジアに100頭、インドに150頭いると推測されている。オーストラリアの7万7000頭が最多。
 ジュゴンについて簡単に知ることのできる貴重な新書です。
(2012年6月刊。840円+税)
 福岡で弁護士の不祥事が続いていますが、とても残念なことです。これらのケースは弁護士が大量に増えたことは関係ありません(少なくともほとんど関係ないと思います)。なぜなら、懲戒された弁護士は、弁護士生活30年、20年、10年といったベテラン弁護士だからです。個別にいろいろ理由はあるのでしょうが、そもそも弁護士に向いていなかったのではないかという感想をもつようになりました、
 弁護士は毎日毎日、他人のトラブルに首を突っ込んでいます。ほとんどのケースで、どちらかが一方的に悪くて、どちらかは一方的な被害者であり、善であるということはありません。そうでなくて、双方に大小の差はあっても言い分があります。そのなかで、社会的にも適正妥当な解決を見出していくよう努めます。そのとき肝心なのは、信頼者への説得です。弁護士の意見を押しつけるわけはいきませんが、依頼者に利害損失をよく理解してもらって、一緒に落としどころを探っていきます。このとき、人生観、価値判断がぶつかりあいます。そして、弁護士はそれに「勝ち抜く」ことが求められるのです。
 処分を受けた弁護士には、その点がとても弱かったような気がします。依頼者の「言いなり」になって、しかも、事件がまわらない、まわせない。これでは弁護士としてやっていけません。
 受けるべきではない事件は受任してはいけませんし、途中でそのことが分かったら、さっさと手を引く必要があります。
 弁護士が急激に増えている昨今は、文書作成能力はあるけれど、対人折衝が弱いという若手弁護士が増えている気がします。
 自分に向かない職業だと思ったら、さっさと転身を図る、また周囲がそれを勧めるのは相互の利益になるように思います。いかがでしょうか・・・。

河原ノ者、非人、秀吉

カテゴリー:日本史(戦国)

著者    服部 英雄 、 出版    山川出版社 
 豊臣秀吉は、子どものころ乞食をしていて、6本指だった。そして、その子、秀頼は実子ではないというショッキングなことが書かれています。いずれも目を疑わせる記述です。
秀吉(藤吉郎)は、養父の筑阿弥(ちくあみ)と折りあいが悪く、家を出て放浪していた。若き日の秀吉は針を売って歩いていた。妻となった「ね」は連雀(れんじゃく)商人の家の出だった。秀吉は、道中、猿芸を続けながら放浪していた。この芸で多量の針を売って生活していた。貧農の子に生まれた秀吉は、ムシ口を携行する生活、つまり乞食生活を経験している。
そして、秀吉は6本指だった。織田信長は6本指の秀吉を「六つ目」と呼んでいた。
秀吉については、古くから私生児説があった。父の縁威は明らかでない。
秀吉は縁者ならすべてを登用したわけではない。苦境に遭ったときの自分を支援したものだけを登用していた。
 秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロである。
 秀吉は多くの女性と愛し合うことができたが、一人の子も授からなかった。茶々以外の女性は妊娠できなかった。秀吉とのあいだでは子ができなかったが、別の男性とのあいだでは子を産めた女性が少なくとも3人は確認できる。つまり、男性の側に欠陥があった。俗に秀頼の父は、大野修理(治長)とする見方が多数派である。
 ルイス・フロイスの報告書には、秀吉には子種なく、子どもをつくる体質を欠いているので、その息子は秀吉の子どもではないとしている。
 茶々は、秀吉自身が指示・命令した結果として妊娠し、出産した。決して不義密通の子ではない。茶々が産む子は豊臣の子であり、織田の子なのである。
 茶々の相手となったのは僧侶ないし陰陽師だった。その人格をもたないことが必須の条件だった。人格があると豊臣家の将来に禍根を残す。親権者の登場は避けなければならなかった。
 秀次は、そのことに反発したのではないか。それに対して、ひとりでも秀吉の方針に根本的な疑問をもつものがいるのは許されなかった。だから、、秀次だけでなく、妻子まで全員が殺害された。
700頁もの大作です。秀吉に関するものは、そのうち200頁にもなりません。前半500頁近くは犬追物(いぬおうもの)や河原ノ者などの実情を解明しています。
 犬追物とは、武士が馬に乗って弓で犬を射る芸のことです。犬は弓で射られると死ななくても傷つきます。二度とその犬は使えません。ですから、大量の犬を捕まえるのが職業として成りたっていたようです。
 そして、傷ついた犬はどうしたのか?みんなで犬を食べていたようです。もちろん、武士もです。かつて、中世の日本では、犬をためらいなく食べていたといいます。今も韓国では(恐らく北朝鮮でも)犬を食べているとのことです。でも、犬って、食べる気にはなりませんよね。
(2012年4月刊。2800円+税)

超「集客力」革命

カテゴリー:社会

著者   蓑  豊 、 出版   角川ワンテーマ21  
 以前に金沢21世紀美術館の館長、そして現在は神所のある兵庫県立美術館の館長をしている著者の人集めの話です。
 私は、幸いにして美術館めぐりも趣味の一つとしています。福岡市の美術館もたまに行きますし、東京・上野にある西洋美術館にもときに行ってみます。もちろん、フランスに行ったときには、昼は美術館めぐりを主としています。美術館に美味しいレストランや小じゃれたカフェがあると最高ですよね。
美術館の楽しみ方。できるだけ白紙の状態で行くこと。予備知識なしのほうが雑念が入らないから。すべての絵をまじまじと見なくてもいい。美術品は、「分かる」必要はない。大切なのは「感じる」こと。疑問をもつのは作品に近づくこと。
美術館で最大の愚問は、「この作品は誰の作品ですか?」という問いだ。
美術館は感性を磨く学校のようなものである。美術館の館長として、出勤してから朝一番にやることは、前日の入場者数が何人かを確認すること。美術館の民営化は失敗している。指定管理者制度によって美術館の魅力が向上したというようになってはいない。民営化は経費をカットするようなマイナス思考へ向かう。営利目的になりがちな指定管理者制度の導入には反対だ。民間がやればすべてがうまく行くというのは単なるイメージ先行にすぎない。
一つの展覧会で有料入場者数が5万人になれば、とんとんになる。
日本では学芸員をキュレーターと呼ぶが、それは本来の意味からはずれている。欧米でキュレーターと名乗れるのは、美術館の部長クラスのみ。キュレーターとは、部門のトップであり、展覧会の企画から予算管理までを任されるプロデューサーを指す。研究員はテクニシャンと呼ばれる。
館長は明るいほうがいい。さまざまな人をつないでいける人。もてなしの心をもつことも大切だ。館長が情熱をもたないと、お客はやって来ない。
オークションの手数料は25%。売る人からも買う人からも同じ率でもらう。高額な手数料にもかかわらず、オークションにかけたい人は引きも切らない。
子どものころに美術館に行ったことがあると、大人になってから100%近い確率で子どもを連れて美術館に行くようになるという統計がある。なーるほどですね。
私は残念ながら、ロンドンの大英博物館にはまだ行ったことがありません。それでも、フランスのルーブル美術館には2度行きましたし、ニューヨークのメトロポリタンの美術館にも行ったことがあります。そして、金沢の21世紀美術館にも行きました。今度、長野にある「ちひろ美術館」とか無言館にもぜひ行ってみたいと思っています。やっぱり美術館っていいですよね。
(2012年4月刊。781円+税)
 東京で映画を日本みました。イラン映画とドイツ映画です。日本の映画をみたくないというより、外国人の生活そして、ものの見方に関心がありますので、つとめて外国映画をみるようにしています。
 イラン映画は、イラン料理をイラン人女性が家庭でつくっていく情景を紹介したものです。とくにストーリーはなく、いくつかの家庭で料理が出来あがっていく様子が紹介されています。女性はスカーフをかぶっていますが、それが料理をつくるときに邪魔になっているのが気になりました。そして、紹介された家庭の二つが、撮影のあとで離婚したと最後に明かされて驚いてしまいました。イスラム教のイラン女性も男性に忍従しているわけではないのです。
 ドイツ映画は、ドイツの学校でサッカーを子どもたちに教えていくとき、苦難の状況をいかに乗り越えていったかというスポーツものでした、いつの世にも大人の偏見があり、貧富の差が厳然とあることが打破すべき壁として提起されていました。
 そして、テレビで山田洋次監督の最新作『東京物語』の撮影進行過程を紹介する番組を偶然みました。80人ほどの山田組が、ワンカットワンカットすごく丁寧につくっていることを知りました。役者のそばで山田監督が、そのときのセリフの意味をじっくり話してきかせるのです。うわあ、こんなに丁寧に教えるのかと感動してしまいました。81歳の山田監督を79歳のフィルム編集者が支えているのにも驚きます。ぜひみにいこうと思いました。

スペインのユダヤ人

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    エリー・ケドゥリー 、 出版    平凡社 
 中世ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害史です。
 1492年、ユダヤ人はスペインから追放された。まもなく、ポルトガルからも追放された。そのころ、ユダヤ人は、イベリアの諸国王の中で卓越した地位を得ていた。資金の提供者として、また徴税官として財政面で中心的な役割を担った。社会生活全般に関与し、都市でも農村でも、追放される直前まで、あらゆる生活の場にユダヤ人はいた。
1492年3月、フェルナンドイザベルによってユダヤ人追放令が出された。
 15世紀のスペインにはコンベルソがいた。コンベルソとは、宗教的理由による迫害と、まさに追放を逃れるために改宗した人々である。
ユダヤ人追放令は、1391年。暴動に始まる一連の事件の最終結末だった。恐怖と迫害のなかで、多くのスペインのユダヤ人がキリスト教に改宗した。
 スペインの異端審問所の判決は大変に厳しかった。有罪であるとされたコンベルソには死刑が言い渡されることがあった。そして、有罪判決は、有罪とされた人物の財産を国益のために没収することを意味した。
 1481年から1488年のあいだに700人以上のコンベルソが火焙りとなり、5000人以上が教会と和解した。スペインの異端審問が廃止されたのは1834年のこと。1808年までに、3万2000人の異端者が火刑になったと推定されている。その大部分がコンベルソであったと思われる。
火刑になると分かっていても、自分の信仰は捨てなかった人が、こんなにいたのですね・・・。驚きます。それにしても25年間で3万2000人の火刑だなんて、1年間にすると1280人。1ヵ月に100人以上だなんて、いくらなんでも大変な火刑ですよね。
ポルトガルの王は、ユダヤ人を一括して強制的に改宗したことにした。だから、ポルトガルのユダヤ人全体が一気に新キリスト教徒になった。こうした緊急避難的な改宗のために、ポルトガルでは、ユダヤ教の知識・伝統・社会的ネットワークが、禁圧と秘密主義の被いの下に生き残った。
16世紀末から、アムステルダムに、ポルトガルのユダヤ人たちが定住し、なんの妨げもなくユダヤ教が許された。ポルトガルからオランダに逃れてきた隠れユダヤ教徒は、新キリスト教徒として1世紀以上も暮らしたあと、真のユダヤ教にもとづくユダヤ人共同体をアムステルダムに再建することができた。
ユダヤ人がスペインの国庫と金融業の大半を支配したというのは誤解である。しかし、その一方、最有力のユダヤ人が他の追随を許さない技術力と才覚をもっていたことも事実である。金融業の才覚のまったくないユダヤ人もいたし、キリスト教徒の金融業者もたしかに存在した。
 ユダヤ人は、生まれながらにしてキリスト教徒以上の金融業者として才覚を有していたわけではなかった。しかし、親族関係に支えられて金融業に携わったので、一度この業務に習熟すると、その才能は代々継承されていった。
 「奴隷」としてのユダヤ人は、しばしば王権の保護下に置かれ、ユダヤ人共同体は内政面での広範な自治権を保障された。
 15世紀初めのスペインのアラゴン王の宮廷にはユダヤ人の用人たち、金融家。占星技術士師、ライオン使い、医者がいた。15世紀のスペインにおいて、都市ではユダヤ人の徴税請免人や医者はごく普通の存在だった。
 1492年以前から、側近にユダヤ人の財務官や医者を抱えていた国王は、1492年以降も改宗したユダヤ人を顧問官に置き、1508年には、行政におけるコンベルソへの信頼を公然と表明している。反ユダヤ主義はイベリア社会で持続した。だが、追放令の目的は、ユダヤ人を排除することではなく、彼らを強制的に教会のメンバーに入れさせることだった。コンベルソの企業家たちは、新世界、アフリカ、そして極東に支店を置き、香料、砂糖、コーヒー、カカオ豆、奴隷プロゲード、刺繍製品その他を輸入し、取引した。
コンベルソは、どこにいっても異端審問所に追いかけられた。異端審問所は、メキシコシティー、リマー(ペルー)、コロンビア、ブラジルそしてゴアに裁判所をもっていた。
イベリア半島からのユダヤ人追放令のもっとも恐るべき結果は、コンベルソの増加にあった。多くのユダヤ人は流涙の民になるより残留を選択した。スペインのキリスト教徒は、異端審問所を介して改宗者を以前の宗教であるユダヤ教から完全に引き離そうと努めた。
 しかし、コンベルソは、このあと3世紀にわたって、常にフダイサンテ、つまり隠れユダヤ教徒として多くの人々から疑惑の目で見られた。
 1494年から1530年にバレンシアで有罪判決を受けた1997人のうち909人(45.5%)は死刑が宣告され、うち754人は実際に処刑された。多数のフダイサンテが現実に存在していた。
 また、貴族のメンバーで、コンベルソの先祖をもたない者はほとんどいなかった。
 キリスト教徒とユダヤ人との意外に微妙な関係を知ることができる本でした。
(1995年12月刊。2816円+税)
 一日ゆっくり神田の書店街を歩いてきました。今回は、古書店はざっと眺めるだけにして、新書を売る大きな店に入りました。福岡にも、もちろんありますが、あまりにも大きな書店に入ると、大量の本に圧倒されて、かえっていい本にめぐりあわないことがあります。神田の裏通りにある本屋は独特の並べ方をしていて、ここには何かいい本に出会える、そんな期待をもたせてくれます。
 いい本は背文字で訴えてきます。それが手積みされていて、表紙まで見れたら、強烈な自己アピールを感じます。そのオーラを感じたらすぐに手を伸ばし、手にとってみます。写真があったら、それを眺め、目次をみて、ぱらぱらと本文をめくってみます。
 感じるときには、もう手放せません。勘定場に直行します。あのとき、買っておけばよかったなんてあとで後悔しないようにするためです。

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