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2012年7月 の投稿

核兵器と日米関係

カテゴリー:社会

著者   黒崎 輝 、 出版   有志舎
 日本の「非核」政策なるものの実質を追及した本です。主として1960年から1976年までの日米関係が対象となっています。
 非核三原則が「国是」として広く国民から支持され、日本の核武装を論じることは長くタブー視されてきた。ところが、このところそのタブーも過去のものとなった感がある。核武装すべきだと公言する国会議員が出てきたのです。そして、マスコミがそのままたれ流しします。
 北朝鮮の核兵器とミサイルの脅威に対抗するためには、日本も核兵器を持つべきだという声もかまびすしい。しかし、日本が核武装するかどうかを決めるとき、アメリカの意向は無視できないという認識が広く存在する。
 日本政府が「非核三原則」を掲げる一方、日米安全保障条約を日本の安全保障・防衛政策基軸と位置づけ、核の脅威に対してはアメリカが提供する核抑止力、いわゆる「核の傘」に日本の安全を依存してきたという厳然たる事実(認識?)がある。
 日本は1970年2月にNPTに署名し、1976年6月に同条約を批准した。これによって、日本は非核兵器政策を一方的に宣言するだけでなく、核兵器を製造・保有しない義務を国際社会に対して負うことになった。中国は1964年10月に最初の原爆実験を成功させた。これは日本の宇宙開発関係者にとって大きな衝撃だった。
1961年10月の国連総会において日本は西側諸国として唯一、核兵器使用禁止決議に賛成した。これは唯一の事例である。この決議は核兵器の使用は、国連憲章に反し、人類に対する犯罪であると宣言している。
1966年2月、日本政府は統一見解を発表した。
 「現在の国際情勢のもとにおいて米国の持っている核報復力が全面戦争の発生を抑止する極めて大きい要素をなしている。日本も、このような一般的な意味における核のカサの下にあることを否定することはできない」
 米国の核抑止力への依存政策は、日米安保条約により日本の安全を確保するという政府見解によって覆い隠され続けてきた。
 佐藤栄作首相が非核三原則を表明したのは1967年末のこと。
佐藤栄作首相は、当初、国会で非核の三原則を表明するつもりはなかった。当初の演説原稿には、「持ち込みも許さない」という言葉は入っていなかった。ところが、非核三原則の表明は、予想以上に大反響を呼び、やがて事態は佐藤の思いもよらない展開となった。
 1971年に起きた二度のニクソン・ショックは、日本の指導者たちを驚かし、米国に対して不信感を増強する原因となった。日本政府内では、米国離れの自立志向まで芽生えていた。
日本政府の「非核三原則」なるものが、いかに内実のないインチキのものであったかが明らかにされています。ところが、日本国民がそれを圧倒的に支持している以上、そこから日本政府は大きくはずれることも出来なかったのです。世の中の弁証法的帰結ということでしょうか。
250頁に歴史の内実がぎっしり詰まっていて、理解するのは容易ではありませんでした。
(2006年3月刊。4800円+税)

弁護士道の実践

カテゴリー:司法

著者   鈴木 繁次 、 出版   民事法研究会
 昔なつかしい大恩ある先輩弁護士の本です。新聞広告で知って、すぐに注文しました。この本の印税は、全額、東日本大震災の義援金として寄付しますと書かれているのを読んで、さすがと思い、昔のまま変わりない先輩の存在を改めて認識しました。
 私が著者にお世話になったのは、弁護士になりたてで、横浜(川崎)にいたころのことです。私はまだ20歳台でしたから、まさに生意気ざかりの年頃でした。裁判官出身で、キリスト教徒の著者は、血気盛んな私たちとともに公害問題の現地調査の出かけ、また、公害裁判に取り組まれたのでした。
 この本にも、横浜弁護士会の公害対策委員会の活動が紹介されています。京浜工業地帯である川崎の大気汚染公害に取り組んだのでした。このころ、横浜弁護士会は全国の公害委員会の活動をリードしていたと書かれていますが、本当にそのとおりであり、私も末席を汚していたのでした。福岡に戻ってきたとき、ひどい落差があるのを実感しました。
 著者が働き盛りのときの一日のスケジュールは次のようなものでした。
 朝9時までに事務所に出勤する。夕方5時ころまでは来客、電話の応対、弁護士会の委員会に出席する。それまでは落ち着いて書類がきはできない。5時以降に書類作成に入り、6時から7時に軽い外食をして、9時から10時まで事務所で書類がきと調べものをして帰宅する。その後、自宅で夜食をとる。だから、どうしても栄養過多になって、太ってしまった。
 うへーっ、夕食と夜食と2回も食べるなんて、それはいけませんね。私は夜8時までは食べずに我慢しています。それでも太ってしまうのですが・・・・(現在の体重66キロ)。
 著者が私と決定的に違うのは、8つもの「学会」に加入していることです。実は、私もそのうちの2つには加入しているので、残る6つが違います。日本私法学会、日本民事訴訟法学会、日本交通法学会、日本土地法学会、日本マンション学会、日本賠償学会です。すごいですね。著者が、いかに勉強熱心なのかがよく分かります。
 さらに私との違いできわめつけは、司法試験委員、それも民法の委員になったということです。私なんか、恐れおおくて、とてもこの委員にはなれません。毎年、5~600通の答案を採点しておられたようで、頭が下がります。
 優良答案が5%、不良答案が10%、あとは内容のあまり変わらない紙一重のものばかり。大変ですよね、公平に採点するって・・・・。
 著者は、昔から毎年合格者を100人ずつ増やしていたらよかったんだという意見です。
これには私もまったく大賛成です。今のように一気に2000人に増やしてしまったから、ひずみが生まれたのです。ですから、逆に合格者を減らせという動きに著者は懐疑的ですし、私も同じ気持ちです。
 裁判官から弁護士になり、法科大学院の教授にもなった著者は、弁護士会の会長にだけはなりそこなったそうです。これもケンカしたくない著者の温和な人柄によるものでした。ますますのご健勝を心より祈念します。
(2012年5月刊。952円+税)

子どもの危機をどう見るか

カテゴリー:社会

著者   尾木 直樹 、 出版   岩波新書
 2000年8月が初版ですので、10年以上たっていますが、ここに書かれている内容は今もそのまま通用するのではないでしょうか。
 学級崩壊現象が1997年以来、一気に全国の小学校に広がりを見せ、現在もなお、教師たちを疲弊させている。
 全国の7~8%の学級で、学級崩壊現象が発生している。引き金となる子どもが主因ではなく、同調圧力(ビア・プレッシャー)を受けて、同じ行動に走るその他の子どもたちの行動こそが問題なのである。学級崩壊の発生プロセスには、
  ①引き金っ子の存在、 ②他の子どもの同調圧力の強さ、 ③崩壊期間の長さという三つの要素がある。
 子どもたちは、反抗したり、無視したり、みんなで担任をいじめることによって、自己の存在を確認している。
 学級崩壊は小学校に限定したほうがよい。それは、その最大の本質が、一人担任制による「学級王国」体制の揺らぎにあるということだから。
 学級崩壊とは、小学校での学級カプセルという名の密室での教育実践が限界に達している現象。
学級崩壊とは、個々の意志を尊重する就学前教育の基本方針と、相変わらず硬直したままの一斉主義的傾向を重視する小学校との間の断絶に原因の一つがある。要するに、小学校低学年における今日の学級崩壊は、幼児教育から小学校の集団的生活化へのソフトランディングが上手にできず、つまづかせている現象である。精神主義的な服従に強い、日常的に圧力を加えているのが、今日の学校の姿だ。
外界の価値観が大きく変化している時代だけに、ここから生じる生徒たちへの内圧が異常に高まったとしても、不思議ではない。暴力行為やパニックを子どもたちが引き起こしたり不登校に陥るのも理解できる。
産業社会への「人材育成」装置としての学校の役割は終わったと考えたほうがよい。工場で労働者がベルトコンベアーの前に5分前に集合し、自分を押し殺して一致「団結」し、整然と作業に従事できる人材を養成するために、学校があるのではない。
いじめによる被害者は、40人学級として、小学校では一学級につき2人、中学校では1人は必ずいじめで苦しんでいる子どもがいるということになる。
 いじめられた子の半数の親しか、わが子のいじめの被害とその苦悩を知らなかった。いじめっ子といじめられっ子が交叉したり、逆転するケースも珍しくない。
いじめの克服に必要なことは、クラスの友人の動向にある。いじめ問題の解決のカギは大多数の傍観者が握っている。いじめられている子どもたちの願いは、この傍観者たちが機敏に動いてくれることにある。
いま(1999年)、不登校の子どもは、小・中あわせて13万人近い。1980年代に不登校の子どもが増えたのは、明らかに学校の抑圧度が強まったことに関係している。
学校は、暴力と管理で生徒を押さえ込んだ。学校での管理が強化されていくなかで、生徒は思春期に抱く葛藤を教師にぶつけたり、友達同士が慰めあう場面がつくりにくくなり、学校自分にとって居心地が悪く、安心できない場所となっていった。
今日の管理主義は、かつての強面(こわおもて)の管理方法とは様相を異にして、比喩的に言えば、優しくほほえみながら進行し、強化されている。
日本でいま急速に進んでいるのは、「子ども期」の喪失状況。これまでの「子ども期」が成り立たなくなったまま、かといって新たな関係性の模索もなされていないという、子どもにとって厳しい状況がある。
 思春期の中・高生は、発達段階の特徴として自立を求めるからこそ、親や大人のコントロールから脱しようと欲する。ただ、そうすればするほど、反対に一人になる不安感は増大していく。皮肉にも、誰かに依存したいという心理が大きくふくらむ。だから、友だちと同じものを持ったり、身につけて安心する。このような友だちへの同調圧力というものがある。
「子ども期」とは、独立した人格の主体である子どもが、本来の主催者になるために、最善の利益を受け、権利行使をする発達保障と解すべきである。
とてもいい本だと思いました。
(2011年9月刊。800円+税)

原発震災

カテゴリー:社会

著者  石橋 克彦  、 出版   七つ森書館
 昨年12月16日に野田首相が福島第一原発について「冷温停止状態になった」として「事故収束宣言」をしました。
 これで、マスコミの流れがまったく沈静化してしまいました。いまでは、メルトダウンの脅威は過ぎ去ったかのような扱いになっています。果たして、そうでしょうか?
 著者は、まったく早計だと断言しています。私もそう思います。炉心が溶融してメルトダウンしたまま、応急的な循還注水でしのいでいるのにすぎません。福島第一原発が、いつまた重大なトラブルや大規模の放射能放出を起こさないか、今もって予断を許さないのです。
とりわけ四号炉は心配ですよね。地震で建屋が倒壊して使用済み核燃料が露出してしまったら、東京をふくむ東日本全体が深刻な放射能汚染に見舞われてしまいます。一刻も早く手を打ってほしいと思います。細野原発相が4号炉の現地視察をしましたが、コンクリートの支えだけで、本当に大丈夫なのでしょうか?
そして、著者は「除染」の効果についても次のように疑問を投げかけています。
 除染事業が政府と自治体によって大々的に進められているが、基本的には、線量の高いところ、再汚染によって効果が疑わしいところは、避難したほうがいい。原発は安全だと国民をだまし続け、今では放射能汚染は除染すれば大丈夫だと偽って、多くの国民の「生」をズタズタにしている。
政府と御用学者は、かつて、日本は米英なんかに絶対に負けないと国民を汚染し、敗色濃厚になったらバケツリレーやら竹槍戦術でも勝てると欺いていたときと何ら変わらない。「ただの発電所」であるべき原子力発電所という施設が、一旦人間の制御から外れると、いかに凶暴に人間を蹂躙するものであるか、白日のものにさらした。
 原発の危機は、一般に短い周期の揺れに弱い。そういう性質をもつ強い揺れが、想定した倍以上の130秒くらい、とくに激しい部分も想定の倍以上の60秒間、原発を襲った。長時間の強い揺れは、くり返し荷重として構造物に厳しく作用し、疲労破壊を引き起こした。
地震研究者として、日本のような地震列島における原発は、技術と経営の両面からみて、実用的などんな対策を施しても、誰一人として安全を保証することなどできないと考えている。
 福島第一原発事故の大きな教訓の一つは、「起こる可能性のあることは、すぐにも起こる」と思うべきだということ。そもそも、大津波は災害を想定しなければならない場所で原発を運転するなどとは、暴風雪が予想されている冬山にツアー登山するようなもので、正気の沙汰ではない。
 これって、けだし名言というべきではないでしょうか。
 日本中のどの原発も、想定外の大地震に襲われる可能性がある。その場合には、多くの機器・配管系が同時に損傷する恐れが強く、多重の安全装置がすべて故障する状況が考えられる。
 原発が地震で大事故を起こす恐れは30年以上も前から指摘されていた。著者は1997年に「原発震災」という概念を提唱した。それは、地震によって、原発の大事故と大量の放射能放出が生じて、通常の震災と放射能災害が複合・増幅しあう人類未体験の破局的災害である。
 日本が多くの原発を建設した1960年代から30年間は、幸か不幸か日本列島の地震活動静穏期であり、地震の洗礼を受けることなく、原発が増殖した。ところが、1995年の阪神・淡路大震災のころから全国的に大地震活動期に入った。大地震の発生を普遍的法則によって一律に予知するのは、当分のあいだ不可能である。
 高名な地震学者による警世の書です。ぜひ手に取ってお読みください。
(2012年2月刊。2800円+税)

ソウルダスト

カテゴリー:人間

著者  ニコラス・ハンフリー  、 出版   紀伊國屋書店
 人間と同じように、わざわざ楽しみを求める動物種は多くある。
 彼らは、おおいに楽しみたがっている。モモイロインコは旋風を探し求める。イルカは船首が立てる波に乗るために船を追いかける。チンパンジーはくすぐってくれるように懇願する。散歩に連れていってもらうためなら、犬はどんな苦労も惜しまない。
 まんまと連れ出してもらえたときのうれしそうな様子。逆に、願いがかなわないのを悟ったときのしょげた顔は、犬を飼った経験のある人なら誰もが知っている。車に乗せられて外出し、広いところで駆けまわると思っていたのに、ペット・ホテルに預けられ、自分の存在が「保留」状態になるのに気付いたときの犬の姿ほど哀れを誘うものは、そうそういない。
死とは、意識のない状態。もう生きていないこと。何も感じないこと。命の匂いを嗅げないこと。意識のない状態を恐れるのは一種の論理的誤りだ。感覚のない状態は合理的に恐れられない。なぜなら、それは存在の一状態ではないからだ。存在しない人間は悲哀を感じない。死んだら、私たちが恐れるものなど、何が残っているというのか。
 意識のない状態は想像できない。心は、心のない状態をシュミレーションできない。
 人間以外の動物は死を恐れるだろうか?
 恐れない、いや恐れることはできないというのが従来の一般的な見方だ。
 それには、三つの理由がある。第一に、まだ自分の身に起こったことがない出来事を思い描けるとはとうてい思えない。死とは、もちろん生まれてからまだ一度も経験したことのない、仮想の出来事にほかならない。
 第二に、人間は死の証拠の積み重ねにさらされているが、人間以外の動物はそういうことはまったくないからだ。人間は自分が死なねばならないことを知っている唯一の種だ。そして、人間は経験を通してのみ、それを知っている。
 第三に、人間以外の動物は、死が最終的なものであることを理解する概念的手段がない。肉体の死が自己の死をもたらすことを、どうして動物が理解しうるだろうか。
 目の前で仲間の一頭が生きていることを永遠にやめたときに、何が起こったのかチンパンジーたちは理解するのに苦しんでいるから、これが自分を受け入れている運命だと想像できるはずがない。そして、想像できないものを恐れるはずはない。なーるほど、そうなんですか・・・・。
 ソウルダスト、すなわち魂の無数のまばゆいかけらを周りじゅうのものに振りまく。現象的特性を外部のものに投影するのは、あなたの心だ。この世界がどのように感じられるかを決めているのは、あなた自身なのだ。
 100年以上前に、オスカー・ワイルドは、次のように書いた。
 「脳の中ですべては起こる。ケシの花が赤いのも、リンゴが芳しいのも、ヒバリが鳴くのも、脳のなかだ」
自分であることの輝かしさに気がついた子どもは、すぐに他の人間の自己についても、大胆な推測をするようになる。もし、自分にしか分からないこの驚くべき現象が自分の存在の中心にあるのなら、他の人々にも同じことが当てはまるのではないか、いやきっとそうだ。
 子どもたちは、社会的相互作用や探究、実験を通して、ゆっくりと習得する。他者も現象的意識をもっていると考えていいことを、子どもは少しずつためらいがちでさえあるかのように理解する。だが、いったんそれを悟ると、人生や宇宙やあらゆるものに対する見方を急激に修正しなくてはならなくなる。というのは、重要度という点では、自分自身が意識をもっているという真実に次ぐ二番目の真実に行きあたったからで、それは意識をもっているのは自分だけではないという真実だ。自分以外の人間も、誰もが自立した意識の中心なのだ。人間が気がつくのは、自分たちが実は自己の集合体としての社会の一部だということにほかならない。
生物にとっての意識というものを考えさせてくれる本でした。
 私って何でしょう。死んだら、その意識はどこに行くのでしょうか。霊魂不滅とは、輪廻転生とは・・・・?
 この世の中は複雑怪奇、そして、すべては泡のように消えていくのでしょうか・・・・。
(2012年5月刊。2400円+税)

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