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2012年7月 の投稿

ピダハン

カテゴリー:アメリカ

著者  ダニエル・L・エヴェレット  、 出版   みすず書房   
 1977年12月、26歳の著者はアマゾンの奥地に住む未開の部族、ピダハンにキリスト教を伝えようとして出かけていったのです。とてつもない奥地にピダハンは住んでいました。
 初めてピダハンに出会ったときに何より印象的だったのは、みんながそれはそれは幸せそうに見えたこと。どの顔も笑みに彩られ、ふくれっつらをしている者や、ふさぎ込んでいる者は一人もいない。
 西洋人の一家がアマゾンの村で暮らすための準備を整えるのは容易ではない。ピダハンの村に行く前には、何百ドルもの薬を用意した。アスピリンやヘビの解毒剤、そしてマラリアの治療薬だ。
 ピダハン語には、多くの言語にみられる要素が欠けている。とりわけ文章のつなげ方が恐ろしく難しい。ピダハン語には比較級がない。色を表す単語もなく、赤だったら、「あれは血みたいだ」といい、緑だったら、「まだ熟していない」という。また、完了した過去を語る言葉もない。ピダハンは、現存するどのような言語にも似ていない。
 ピダハン語には、数も勘定も、名色もない。ピダハンは血縁関係が単純だ。
ピダハン語は、だいたい、非常に単純だ。ピダハンは外国の恩恵や哲学、技術などを取りいれようとはいない。ピダハン語には、心配するというのに対応する言葉がない。今では、ピダハン語を話す人は400人もいない。
 ピダハンが病気になったら、その人物が命を落とす可能性は高い。母親が死んでも、子どもが死んでも、伴侶が死んでも、狩りをし、魚を獲り、食料を集めなければならない。誰も代わってはくれない。ピダハンの生活に、死がのんびりと腰を落ち着ける余地はない。
身内が死にかけているからといって、日課をおろそかにすることは許されない。
ピダハンの家は恐ろしく簡素だ。家はただ、雨や太陽を適度に遮断して眠れる場所であればいい。大人は砂の上に平気で寝るし、照りつける太陽の下で、一日じゅうでも座っていられる。
ピダハンは道具類をほとんど作らない。芸術作品は皆無で、物を加工することもまずない。大型で強力な弓と矢はつくる。加工品を作るにしても長くもたせるようなものは作らない。加工品としてネックレスはある。それは美しいというより、毎日のように見ている悪霊を祓うためのもの。
 ピダハンな、外の世界の知識や習慣が、どんなに役に立つと思っても、易々とはとり入れない。
 ピダハンは狩りや漁をしたら、獲物はすぐに食べきってしまう。自分用に加工してとっておくことはしない。ピダハンは空腹を自分を鍛えるいい方法だと考える。平均的な体格のピダハンは女でも男でも身長150センチから160センチ。体重は45~56キロほど。誰もが痩せて力強いピダハンの人々は、魚やバナナ、森にすむ野生動物、幼虫。ブラジルナッツ、電気ウナギ、カワウソ、ワニ、昆虫、ウナギなど、周囲の環境にあるものを何でも食べる。ただし、爬虫類と両生類は通常、口にしない。
 ジャングルでは熟睡するのは危険だ。だから「寝るなよ。ヘビがいるから」と声をかけあう。ピダハンの家庭には、たいていアルミ鍋とスプーンやナイフなどがあるだけ。
ピダハンは人の性生活をこだわりなく話題にする。結婚していないピダハンは、気持ちのおもむくままに性交する。夫婦であれば、性交するためにただジャングルに入っていけばいい。歌と踊りは、たいてい満月の夜に催され、その間は、結婚していないもの同士はもとより、別の相手と結婚しているもの同士でも、かなり奔放に性交する。いとことの婚姻にも制限がない。
夫婦は、これといった儀式をせずに共同生活を始め、子づくりをする。ピダハンも社会を形成している。しかし、公的な強制力というものは、ピダハン社会には存在しない。
 ピダハンは、どんなことにも笑う。自分の不幸も笑いの種にする。ピダハンは穏やかで平和的な人々だ。
 ピダハンは、一日一日を生き抜く原動力がひとえに自分自身の才覚とたくましさであることを知っている。
 ピダハンの女性は、たいていは自分ひとりで子どもを産む。ピダハンの子育てには、原則として暴力は介在しない。誰に対しても、相手が子どもであれ、大人であれ、ピダハンの社会で暴力は容認されない。
 平均45年は生きるピダハンは、原則として自分が直接に出会える人々で社会を構成している。
ピダハンは、仲間うちでは寛大で平和的だが、自分たちの土地から他者を追い出すとなると、暴力も辞さない。アマゾンでは、身を守り、狩りや食料採取などに互いに協力し合うことが命綱なのである。指導者も法も規則も必要としていない。生き延びる必要、そして追放という仕組みがあれば、社会を律していける。
 30年以上、アマゾンのピダハンの人々と一緒に暮らし、研究してきた元宣教師による観察記です。大変面白く読みました。前に、「ヤノマニ」というアマゾンの人々を観察する本を紹介しましたが、同じようなショックを受けました。
(2012年5月刊。3400円+税)

学校改革の哲学

カテゴリー:社会

著者   佐藤 学 、 出版   東京大学出版会
 現在、マスメディアとは無縁なところで、公立学校の革命的変化が進行している。「学びの共同体」づくりを標榜する学校改革に挑戦している学校は、小学校で1500校、中学校で2000校というように、公立学校の1割に達している。
 「学びの共同体」としての学校は、ひとまとまりの「活動システム」によって組織されている。どの授業においても、①男女混合4人グループによる協同的な学びを組織すること、②教えあう関係ではなく、学びあう関係を築くこと、③ジャンプのある学びを組織すること、この三つが求められる。
 教師においては、授業を子どもの学びへの応答関係によって組織し、①「聴く」「つなぐ」「もどす」の三つの活動を貫くこと、②声のテンションを落とし、話す言葉を精選すること、③即興的対応によって創造的な授業を追求することが求められる。
 教室において子ども一人ひとりの学びの権利を実現する責任は、学級や教科の担任教師が一人で負うのではなく、その教室の子どもたち全員、学年ごとの教師集団、そして校長と保護者が共有する。
 「学びの共同体」づくりを推進した学校では、どんなに荒れた学校でも、1年後には教師と生徒のあいだのトラブルや生徒間の暴力は皆無か皆無に近い状態となり、生徒たちが一人残らず積極的に学びに参加する状態へと変わっている。そして、改革を始めて2年後には、不登校の生徒が3割から1割に激減する。さらに、「学びの共同体」づくりを推進した学校のほとんどにおいて2年後には成績の低い生徒の学力が大幅に向上し、3年後には成績上位者の学力も向上して、市内トップもしくはトップクラスの学校へと再生する。
 新自由主義のイデオロギーと政策において、もっとも深刻な問題の一つは、教師の仕事を責任からサービスへと転換したこと。しかし、教師と親との関係は、サービスの提供者とサービスの享受者なのか。そうではないだろう。教育はサービスではなく、子どもに対する大人の責任である。子どもの教育を中心において、教師と親とが責任を共有することなしには、教師と親との間の信頼と連帯は形成しようがない。教育が責任からサービスへと転換することによって、教師の尊厳と教職の専門性は危機を迎えている。教師の仕事は「誰にでもつとまる仕事」と見なされ、教師に対する信頼も尊敬も崩壊しつつある。深刻なのは、教師の尊厳が傷つけられていることである。
 「数値目標による経営と評価」は、評価を受ける組織の目標が単一であり、単純である場合には積極的な効果をもたらすが、評価を受ける組織の目標が多元的で複雑な場合には否定的な効果しかもたらさない。教育委員会が「数値目標による評価」を学校に導入したことから、教師の仕事は「学力向上」や「いじめ」「不登校」の解決、「進学実績の向上」という単純で目に見えるものに限定され、その達成の証明と評価の資料作成に多大な労力を注ぐ状況に陥っている。
 一般に、人々は学校の改革を安易に考えすぎている。学校は頑固で頑迷な組織である。決して容易に改革しうるものではない。学校改革は容易な事業ではないし、学校改革を行うことが決して教育の質を改善し、教師のモラール(士気)を高めるものでもない。むしろ、逆の効果をもたらすことが多いのが現実である。学校改革は、数年の単位で遂行するような安易な事業ではなく、また、部分的な改革によって達成される事業でもないし、一部の人々によって達成される事業でもない。
 学校改革は、少なくとも10年単位で緩やかに遂行される長い革命であり、部分的改革ではなく、全体的構造的改革でなければならない。短期間の急激な改革や部分的局所的な改革は、その副作用や反作用によって否定的効果をもたらす危険のほうが大きい。
 不公平で非民主的な学校を改革するためには、学校の構成員一人ひとりが主人公として対等に参加し交流する組織へと学校内のコミュニケーションの構造それ自体を変革しなければならない。一人残らず子どもの学びの権利を実現することは、校長の責任の中核といってよい。この責任を自覚した校長は、職務の大半を教室の観察と教師の支援と研修の活性化に充てるはずである。
教師の仕事は高度の教養を基礎として成り立つ知性的な仕事であり、豊かな市民的教養と高度の専門的知識と実践的な見識を必要とされる複雑な仕事である。「学びの共同体」における教師は、「教える専門家」であると同時に、「学びの専門家」として再定義されている。
人が人と交わるというのは、実は危険な行為なのである。交わりの基盤には、他者を信頼して身体をさらして預けるという危険な関わりがある。
 日本の学校を特徴づけている教師の集団的自治の様式は、職員会議における協同の討議による意思決定と、一校あたり30以上に分業化された校務分掌と学年会あるいは教科会という小集団の自治単位によって運営されており、諸外国には見られない「日本型システム」を形成している。
「学級王国」においては、教師が「天皇」として君臨し、子どもの自主性と主体性を「集団自治」によってリモート・コントロールすることによって成立していた。「学級崩壊」が「学級王国」の崩壊であるとするならば、その現象は必然的であり、むしろ好ましい現象である。問題は、崩壊が新しい学校と教室の装置の新生を準備していない点にある。
 人称関係を剥奪された「集団」から固有名と顔をそなえた「個人」に立ち戻ること、そして個性と共同性を相互媒介的に追求すること、交わり響きあう学びの身体の流れを活性化して空間と関係のすべてを編み直すことが、この窒息し閉塞した状況を組み替える出発点となるだろう。
 とても格調高い教育論であり、心がふるえるほどの感動を久方ぶりに覚えました。
(2012年3月刊。3000円+税)

イワンの戦争

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   キャサリン・メリデール 、 出版   白水社
 第二次世界大戦におけるソ連の大祖国戦争で倒れた3000万人もの赤軍兵士の実情を丹念に掘り起こした450頁もの労作です。
 ヒトラーを信用して欺されてしまったスターリンの犯罪的責任はきわめて大きいと改めて思いました。それをどうやってソ連の人々がカバー・克服していったのか、さらに、それをスターリンがどうやって利用したのかも紹介されています。ところどころに当時の写真があるのも、本文の記述を理解するのを助けます。
戦争の全期間を通して、ロシア人はソ連軍の多数派だった。ウクライナ人が2番目に多く、他にもアルメニア人やヤクート人まで多彩な人種がいた。多くの人々が、伝統的な区別を捨て、「ソ連人」という新たな呼称で自分を規定した。
 兵士の年齢はまちまちだったが、1919年から25年までの生まれが多かった。40代が何十万人もいて、年配の兵士も少なくなかった。
 しかし、人員の消耗率が高く、戦死や重傷による移送まで、前線にいる期間は平均3週間。後方からの補充も目まぐるしい。小さな集団の仲間が長く一緒にいるのは、まれだった。
 実に苛酷すぎる戦場だったことがよく分かります。
 ソ連は戦争の申し子だ。この国以上に暴虐と面と向かった国はない。最初は帝政ロシアがドイツに立ち向かった戦争だった。ロシアは欧州のどの国よりも多くの兵士を失った。
 十代の若者がみんなあこがれたのは、プロペラ機の搭乗だった。1940年には、訓練を受けて落下傘で降下できるソ連国民は100万人をこえると推定された。しかし、戦争本番では落下傘部隊の出動はほとんどなかった。
 軍隊には政治委員がいた。ポリトルクという政治将校が中隊以下を担当した。このポリトルクは、プロパガンダ担当、従軍神父、神経科医、監督教官、そしてスパイの役割を担っていた。ポリトルクも、プロパガンダの太鼓を叩きすぎると、抵抗を受けた。ポリトルクは、嫌われ者でもあった。規則に関して全権をもっていたからだ。ポリトルクの教育水準は平均より高く、その多くがユダヤ人だった。
トハチェフスキー赤軍参謀総長が逮捕され、裁判にかかったことは、軍のエリートたちを動揺させた。
 トハチェフスキーの逮捕は、国家によるテロ第一弾だった。軍だけでなく、国防機関のすべてを新たな政治統制の下に置くプロセスが始まった。
 1973年から39年までの3年間で3万5千人余の士官が職を追われた。1940年までに5万人近くが赤軍と海軍から追放された。戦前最後の3年間で、全軍管区の90%の指揮官が降格された。上下関係の転倒は、戦争をまさに目前にして、徴兵・訓練・補給・部隊間の連携を大混乱に陥れた。職業軍人は地位を失うまいと争い、士気も荒廃した。
 1940年までに1万1千人が軍に復職した。しかし、粛清は、士官一人ひとりの仕事をさらに難しくした。誰にも、職はおろか生命の保証さえないという事実が既に明らかだった。
 士官候補生や初級士官の自殺率の高さは目を覆うほどだった。その自殺の原因で、最も多いのは、「責任を問われる恐怖」だった。
 軍は肥大し、1941年夏に500万人を超えていたが、士官の数は絶望的に少なかった。少なくとも3万6千人の士官が足りなかった。戦時動員が始まると、不足数は5万5千人にはねあがった。その結果、兵士は男も女も、実戦経験のない若者の指揮下で戦わねばならなかった。そして、幹部の無能は、すぐに露呈した。士官の力量不足は致命的だった。兵士は初級士官を侮辱し、命令に従わなかった。
 ヒトラー・ドイツ軍が侵略を開始して最初の数週間でソ連赤軍は崩れた。これは兵士個人の責任ではなく、官僚的な規則、無理強い、嘘、恐怖と無統制の末路だった。
 1941年、ドイツ軍の砲火でやられた戦車より、故障で使えなかった戦車のほうが多かった。ドイツ軍1両に対して、ソ連は6両の戦車を失った。
 1941年末まで、ドイツ軍にとって赤軍の捕虜の生命なんかどうでもよかった。戦争初期、赤軍兵士は、簡単に降伏した。1942年、ソ連兵はドイツ軍の捕虜となれば残酷な仕打ちか死を覚悟しなければならないことを確信した。それを知ってから、ソ連軍の戦いぶりは激しくなり、敵への増悪は深まった。ドイツ軍は捕虜を虐待し飢えさせ、殺したことで、結果としてソ連軍を助けた。
 ソ連軍の捕虜のなかで、ポリトルクとユダヤ人は見つかり次第、どこでも射殺された。ドイツ軍の虐待行為がなければ、ソ連国民は再び戦いの持ち場につかなかっただろう。
 スターリン主義のもとでは、個人が目立つことを嫌う傾向が強かった。しかし、今や兵士一人ひとりが奮起して命がけで行動しなければならない局面を迎えていた。
 1941年から45年までに、ソ連軍は1100万個の勲章を授与した。アメリカ軍は140万個だった。軍人は立派な仕事をすれば必ず報酬があると理解した。物資面でも優遇された。
 1942年7月、スターリングラードに50万人をこえる将兵が終結した。このうち30万人をこえる人命が失われた。そして、このとき一定の法則があった。誰でも、10日間はなんとかなる。だが、どんなに頑丈でも、8日目か9日目になると、死ぬか、死ななくても負傷は免れなかった。
 兵士を奮い立たせたのは、言葉を超えた感情だった。愛といっても差し支えのないものに裏うちされた、まっすぐな憤怒だった。生きている限り、略奪者を撃破しなければならないことが分かっていた。
 ドイツ兵に比べて、ソ連兵の要求水準は常に低かった。ソ連兵はクリスマスツリーも、お菓子もケーキも夢に見なかった。そのようなものは、もともと知らなかった。
 1943年1月、赤軍は10万人近いドイツ兵捕虜を得ていた。粗末な食事と飢餓がドイツ兵捕虜の死因の3分の2を占めた。
 1943年7月、クルスクで赤軍とドイツ軍との大戦車戦が始まった。兵器の性能の優劣では、ドイツがソ連より上だった。しかし、数量ではソ連に分があった。しかし、勝敗を分けた最大の要因は技術や兵器ではなく、人間だった。我が身をかえりみない、決死的ともいえる勇気が勝つためには不可欠だった。40万人の赤軍戦車兵のうち31万人が死んだ。戦争は初日で決した。
戦争は若い女性には残酷だった。戦争中は、男性より女性のほうが早く年老いた。とくに戦闘に直接従事した女性はそうだった。
赤軍がドイツに入ったとき、兵士が感じたのは怒りだった。これだけ豊かなドイツ人が、なぜ東隣の国を略奪したのか。こんなに満ち足りているのに、どうしてさらに多くを求めたのか、誰にも理解できなかった。ポーランドでも、赤軍兵は相手の豊かさに同じような衝撃を受けた。怒りこそ、兵士たちの力の源だった。ドイツ人がすべての悪の根源だった。
 兵士は戦争で心労を深め、際限なく寄せ来る悲しみにうちひしがれ、疲労、恐怖、不安、極度の緊張にとられていた。彼らをそそのかすのは容易だった。
 ソ連は大暴れをはじめた。街は焼かれ、公人は殺され、レイプはもっとも広く行われた犯罪だった。モスクワの指導部が指令こそ出さなかったものの、兵隊の行為をそそのかした事実は疑いようもない。
 多くのものが夢うつつの状態だった。酒が一つの理由だった。大多数の兵士が意識を麻痺させるために酒に手を出した。情欲は情欲として、大多数の兵士には女性をうとましく、増悪さえする理由があった。戦争が始まってからというもの、家からの手紙は悲しい内容ばかりだった。飢餓やレイプ、死の知らせも届いたが、多くは別れの手紙だった。家族は崩壊し、個々の生活が別々の世界で生まれつつあった。兵士と家族の間の緊張は、戦場にいるものと民間人の亀裂から生まれた。軍隊が男社会であるのも一因だった。女性は疑いのある対象であり、女性嫌いの世界にあっては邪魔者だった。
赤軍は史上例をみない大掛かりな規模で、ありとあらゆる犯罪に手を染めた。赤軍は他のどの国の軍隊よりも苦渋をなめ、損失も大きかった。今や、その代償を求めていた。
 36万人を超える赤軍兵士たちがベルリンを目ざす作戦において死亡した。
 ドイツ、とりわけベルリンでの赤軍兵士のレイプは悪名高いわけですが、その背景事情をはっきり認識できました。もちろん、だからといってこの大々的な蛮行が正当化できるわけではありません。赤軍兵士イワンの実体をよく知ることのできる画期的な大作です。
(2012年5月刊。4400円+税)

声のなんでも小辞典

カテゴリー:人間

著者   和田 美代子 、 出版   講談社ブルーバックス新書
 どうして女性の声と男性の声は違っているのか、私は昔から不思議でなりませんでした。もちろん、ドラえもんの声が女性声優によるものだったとは知っていましたが、それにしても何が、どう違うのだろうかと謎でした。
 そして、人に近いチンパンジーやオランウータンは話せないのに、まるで人に似ていないオウムや九官鳥が人のモノマネができるのはなぜなのかも知りたいと思っていました。
 この本は、それらの疑問にこたえてくれる本です。
 チンパンジーののどは、ほぼ一直線になっているのと人と違って声帯が頭に近い位置にあるため咽頭がとても狭くなり、呼吸によって声帯で生じた音が鼻腔に入って鼻から外へ出てしまう。その結果、咽頭や口腔で共鳴させることができず、言語音をつくれない。
九官鳥は鳴器(めいき)という軟骨の突起部があり、ほぼ直角に折れ曲がった気道を、伸縮させたり太くしたり細くしたりして音を出す。
赤ちゃんの泣き声が遠くまでよく響いて聞こえてくるのは、声が大きいからだけではなく、人によく聞こえる周波数になっている、人間の耳の感度のいいところを本能にとらえているからだ。
新生児の声帯の長さは、男の子と女の子とで差がないので、声を聞いただけでは男女いずれか見分けがつかない。変声期を迎える7、8歳のころまで、男女の識別はプロでも不可能である。男子の場合、喉頭の上下、左右、前後といった枠組みが急激に成長して、声帯が入っている甲状軟骨の両翼の板が120度から90度くらいに突き出る。声帯の長さや幅、厚みが増していくにつれ、声が低くなっていく。これに対して、女子は男子に比べて変化が少ないために、声変わりしないかのように感じる。
 そして、年をとると声も中性化し、男女の声の差はなくなる。ええーっ、そうなんですか・・・。それは、まったく気がつきませんでした。今度、よく聞いて比べてみましょう。
 赤ちゃんに話しかけるときの声は、赤ちゃんが反応しやすい高い声が自然に使われている。
 アメリカの成人女性の声は日本人女性の声より低い。アメリカでは女性の甲高い声は幼い、あるいは能力が劣るという考えがあり、それに適応して、アメリカ在住の女性は低い声を学習している。
 男性は、おおむね声の高い女性により女性らしさを感じる。女性は低い男性に惹かれる傾向にある。
 喉仏(のどぼとけ)を形作っている甲状軟骨は焼くとなくなってしまう。そのすぐ近くにある第二頸椎の形があたかも座位の仏像のようにも見えることから、喉仏と呼ばれるようになった。
成人男性では、日常会話の声で毎秒100回、女性なら200回、声帯が振動している。歌をうたっているときは5~600回。ソプラノだと1000回をこえる。声帯は、超高速度臓器なのである。
 腹話術では下唇の代わりに舌を使うのがポイント。数え切れないくらい舌をかみながら、舌を前歯の前に出してしゃべる訓練を5年ほども続けた。これは、いっこく堂の話。
 狂言師の野村萬斎が舞台で演じるときの声がよく通るのは、頭から足先までの骨や筋肉の振動をうまく使ってうみ出した、体全体で引き起こされた空気の振動を私たちが受けとっているから。
音痴も、合理的なトレーニングをすれば、生まれつき強度の難聴や事故などで聴覚の機能が損なわれていない限り、ほとんど治る。
 これを知って、音痴の私も少しばかり安心しました。
(2012年3月刊。2800円+税)

父さんの手紙は全部おぼえた

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   タミ・シェム・トヴ 、 出版   岩波書店
 第二次大戦中、オランダでもユダヤ人の迫害がありました。
 いえ、迫害があったというのは正しくありません。戦時中のユダヤ人死亡率はイタリアやフランス、ベルギーでは20%台だったのに、オランダでは、ドイツ、ポーランドに次いで70%と高かったのでした。これは、オランダ政府がナチスの政策を黙認して協力したため、強制収容所に移送されて亡くなった人が多かったという事実を示しています。そう言えば、アンネ・フランクもオランダで隠れていたのでしたよね。もちろん、そんなユダヤ人一家を生命がけで助けたオランダ人もたくさんいたのでした。
 この本のユニークなところは、ユダヤ人の10歳の少女がユダヤ人を秘して隠まわれていた農村地帯にある家に、別のところに隠れ住んでいた父親から絵入りのいくつも手紙が届いていて、その実物が戦後、掘り出されて紹介されているということです。
 絵入りの手紙は、とても素晴らしいものです。残念ながらオランダ語の手紙文の方は読めません(もちろん本文中に日本語訳はあります)。ともかく、手書きで活字体の文字がとても読みやすいのです。愛する10歳の娘に向けてのものだからでしょうね。そして、絵はさらに素晴らしい。医学部教授だった父親には絵心があったのでした。
 そのうえ、なにより素晴らしいのは、戦時中に病死した母親を除いて、家族みんなが無事に戦後になって再会できたことです。
 そんなわけで、この本は今も元気に生きている当時10歳の少女が父親からもらった絵手紙を前にして語ったものなのです。10歳の少女の素直な目から見た社会の矛盾だらけの動きがよく伝わってきます。
父親のユーモアあふれる絵と文章は実に魅力的。本当にそうなんです。この絵手紙に接することのできた日は、一日中、何となくトクした気分でした。
 2010年のドイツ児童文学賞にノミネートされたというのも、なるほどと思いました。この絵手紙の現物はイスラエルのロハメイ・ハゲタオット記念館に展示されているそうです。いちど見てみたいものだと思いました。
(2011年10月刊。2100円+税)

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