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2012年4月 の投稿

3.11と憲法

カテゴリー:司法

著者   森 秀樹・白藤 博行ほか 、 出版   日本評論社
 3.11を契機に、改憲派は、「このような緊急事態・非常事態に対応できない日本国憲法は改正しなければならない」と主張しはじめています。こんな火事場泥棒のような主張がサンケイ新聞の社説(3月22日)にあらわれていて驚くばかりです。
 3.11のあと、福島県民の気持ちは複雑に揺れ動いている。
 放射能の危険については、もう聞きたくないという人々がいる。いつまでも放射能の危険性を口にする人は、神経質な人、うとましい人となっている。それも、政府が大丈夫だと言っているからだ。子どもの疎開についても、もうそんなことは言ってくれるなと耳をふさいでしまう人もいる。ここらあたりは本当に悩ましい現実ですよね。
大災害の発生を奇貨として非常事態規定の欠如をあげつらい、憲法改正を声高に主張する国会議員がいる。彼らは国民の権利を制限することを狙っている。
 「自衛隊は軍隊ではない」という建前(政府解釈)は、結果的に「国民を守る」という面をより前に押し出している。自衛隊では国民に銃を向ける治安出動訓練はほとんどなくなり、災害への日常的態勢が強化されている。
 ところが、「軍」の本質は国家を守ることにあり、個々の国民を守ることではない。自衛隊は、「軍」となるのか、「軍隊ではない」という方向にすすむのか、今、大きな岐路に立たされているように私も思います。
 原発をめぐる裁判について、原発差止を認容する判決を書いたことのある元裁判官の次のような指摘は貴重です。
裁判所が判断するのは、その原発において過酷事態が発生する具体的危険があるか否かであって、原発の存置いかんという政策の相当性について判断するわけではない。差止判決は、十分な安全対策をとらないで原発を運転することを禁止しているのであって、およそその原発を運転することを禁止しているのではない。まるで、裁判官が一国の重要な政策を決するかのような言い方をして裁判官に不必要な精神的負担を与えるべきではない。なーるほど、そうなんですか。でも、ある程度は言わざるをえませんよね、どうしても・・・。
 憲法学の学者を中心とした論稿で、大変勉強になりました。
(2012年3月刊。1800円+税)

世界サイバー戦争

カテゴリー:アメリカ

著者   リチャード・クラーク、ロバート・ネイク 、 出版   徳間書店
 サイバー兵士が、損害や混乱をもたらす目的で、国家が別の国家のコンピューターもしくはコンピューター・ネットワークに侵入する行為が、サイバー戦争である。
 著者はアメリカの安全保障、テロ対策国家調整官などを歴任しています。この本を読んで、もっとも怖いと思ったのは、「敵」国家のコンピューター・ネットワークのすべてを破壊してしまったときには、最前線にいる司令官は孤立し、上官との通信ができず、また生き残った後任の存在を知らずに自分ひとりで決断せざるをえなくなり、それは、えてして戦い続けることを選択しがちだということです。
 つまり、情報を断たれた第一線の現場司令官は上部の停戦命令を知ることなく、戦争続行指令を出し続けるだろうということです。これは、現代世界では最悪の破局を招きかねません。これって、とても恐ろしいことですよね。
 サイバー戦争に関して、5つの教訓がまとめられています。
第一に、サイバー戦争は現実である。第二に、サイバー戦争は光速で展開する。第三に、サイバー戦争は全地球規模で発生する。第四に、サイバー戦争は戦場をとびこえる。第五に、サイバー戦争はすでに始まっている。
 ちなみに、北朝鮮の国内には、アメリカと韓国のサイバー戦士が攻撃するような目標がほとんど存在していない。
 サイバー戦争は、ある種の優位性をアメリカに与える一方、他のどの国よりも深刻な危機にアメリカを陥れる。
 アメリカの情報機関の高官によると、中国はサイバー空間におけるアメリカの最大の脅威ではない。ロシアのほうが絶対に上だ。そして、高度の技能をもつサイバー戦闘部隊は、イスラエルにもフランスにも存在する。
 サイバー犯罪者は、インターネット攻撃の経路をとして利用し、標的の情報を入手したあと、標的にダメージを与える。
 このように、インターネットにたよる国家は「敵」の国家から、そのシステムをスパイさせるだけでなく、破壊されてしまう危険があるのです。
 私のようにインターネットに頼らない生活を送る平凡な市民にとっては何でもありませんが、国家にとっては何でもありませんが、国家にとっては存立の危機につながるものがサイバー攻撃・戦争なのです。
(2011年3月刊。1700円+税)

武蔵成田氏

カテゴリー:日本史(戦国)

著者   黒田 基樹 、 出版   岩田書院
 『のぼうの城』(和田竜。小学館)を面白く読んだものとして、その史実はどうだったのか関心がありました。
関東攻めの秀吉軍の一員として石田三成指揮下の2万人の軍政にわずか2千で立ち向かい、水攻めにもめげず城を守り抜いたなんて本当なんだろうか、半信半疑でした。『のぼうの城』を読んで3年半たち、ようやく史実を知ることができました。まことに小説家の想像力は偉大なものです。史実を知ったからといって、小説の面白さが消えてなくなるわけではありません。
秀吉が北条氏政・氏直親子らの北条一族の守る小田原城攻めに動員した兵力は総勢24万人といわれている。これに対して北条勢は3万余人。
 天正18年(1590年)3月に小田原攻めの緒戦が始まると、秀吉軍は次々に北条方の城を攻略した。6月には、関東で残る北条方の城は小田原城のほかは忍城だけとなった。秀吉は忍城を攻めるため石田三成を指揮官として、佐竹義宣、宇都宮国綱、多賀谷重綱、水谷勝俊、結城晴朝ら関東の諸将をあわせて2万余の大軍を派遣した。ここに、関東の戦国合戦の最後を飾る忍城攻めが始まった。
忍城は周囲を沼と湿地に囲まれた難攻不落の城郭である。城内には、雑兵・百姓・町人・神官・女子供ら3000あまりが立て籠もった。
 秀吉は忍城の攻略方法として、石田三成に水攻めを指示した。三成の築いた堤防は石田堤と呼ばれ、現在も一部が残っている。秀吉の忍城攻めの方針は、周囲を包囲したうえで水攻めの用意を周到にさせて、開城させようというもので、力攻めは想定していなかった。
 7月1日、北条氏直は秀吉へ降伏し、7月5日に小田原城を出た。これにより、北条方で残ったのは忍城ただ一城のみとなった。そして、秀吉は最後に残った忍城攻めの仕上げに取りかかった。しかし、小田原城まで開城したとあっては、忍城も籠城する理由を失った。
秀吉は7月15日に忍城水攻めを見物し、17日には小田原を出陣して会津に向かう予定だったが、水攻めは出来ていなかった。いくら秀吉が忍城水攻めに執心を燃やしても、あと半月かかるか1ヵ月かかるか分からない状態では待ってはいられなかった。奥州平定がそのために遅れたのでは、忍城水攻めどころではない。秀吉は水攻め見物をあきらめ、北条氏直に忍城の開城を命じた。7月16日、忍城に立て籠もっていた成田勢は一同堂々と出城した。
 石田三成の忍城水攻めはなく、忍城総攻撃もなかった。実際にあったのは、5月1日の忍城の皿尾出張の乗取り合戦だけだった。
 ところで忍城攻めのために石田三成が高額の労賃を呈示して近隣から労務者をかき集めたのは事実でした。
昼は永楽銭60文と米1升を支給する。夜は永楽銭100文と米1升とする。
 この労賃の高さに、15歳前後の若衆から60代の老人まで応募した。そして、6ヶ所に区画して、1部隊が1区画を担当して、一斉に工事をすすめた。こうやって水攻め用堤防14キロは1ヵ月ほどの短期間で完成した。人海戦術が成功したわけである。そのうえで利根川の水を入れて、荒川をせき止めなければならない。それにまた大工事を要した。なーるほど、すごい工事だったようです。
 郷土史をここまで調べあげたことに驚嘆しながら、一気に読みすすめました。
(2012年1月刊。3800円+税)
 日曜日の午後、庭の桜の木が半ば枯れているのに気がつきました。根本のところが虫食い状態になっていたのです。道理で今年は花が少ししか咲かなかったのでした。
 そこで残念ですがノコギリで切りはじめました。幹の部分を切って、枝を切っている最中、誤って左手にノコギリの刃を当ててしまいました。
 そこで、指を口にふくんで、30分ほど、チューリップを眺めながらじっとしていました。ケガをしたとき、下手に消毒しないほうがよい、人間の自然治癒力に任せるべきだという記事を読んだばかりでしたので早速実践してみたのです。おかげで、痛みはありますが、まあ、なんとかなりました。

官邸から見た原発事故の真実

カテゴリー:社会

著者   田坂 広志 、 出版   光文社新書
 3.11直後から5ヵ月のあいだ内閣官房参与を務めていた原子力工学の専門家が「緊急事態」において直面したことを率直に語っています。
 著者自身が、「原子力村」にいて原子力の推進に携わってきた。そして、これほどの事故が起こるとは予測していなかった。
 現在の最大のリスクは、根拠のない楽観的空気である。
 「原子炉の冷温停止状態を達成した」という政府の宣言があって以降、あたかも「問題は解決に向かっている」という楽観的な空気が広がっている。しかしながら現状は、決して「冷温停止」と言えるものではない。あくまで、国民を安心させるための政治判断であって、技術的判断ではない。核燃料がメルトダウンを起こし、その形状も状況も分からなくなっている今の状態の原子炉について、「冷温停止」という言葉を使うのは適切ではない。
 最悪の場合には、首都圏3千万人が避難を余儀なくされている可能性があった。アメリカが80キロ圏内のアメリカ人に避難勧告を出し、フランスに至っては飛行機を飛ばして首都圏のフランス人の帰国を支援した。このようなアメリカやフランスの反応は決して過剰反応ではなかった。
 「原発の絶対安全の神話」は、自己睡眠の心理から生まれてきた。「原発は絶対に事故を起こさない施設です」という、技術的には疑問な説明であっても、それを繰り返しているうちに、「原発は絶対安全でなければならない」という責任感が、「原発は絶対安全である」という思い込みになっていた。
放射能は、文字通り「煮ても焼いてもなくならない」ものである。汚染水を浄化装置で処理すると、水の放射能濃度は下がる。しかし、そこで除去された放射能は、浄化装置の「イオン交換樹脂」「スラッジ」「フィルター」などに吸着された状態で残り、結果として、汚染水よりもきわめて放射能濃度の高い「高濃度放射性廃棄物」を大量に発生させてしまう。
 高レベル放射性廃棄物は、10万年以上ものあいだ人間環境から隔離し、その安全を確保しなければならない。ところが「10万年後の安全」を科学と技術で実証することはできない。それは、信じるか、信じないかという世界のレベルになっている。
 四号機の使用済み燃料プールの方が危険だ。それは、何の閉じ込め機能もない、いわば「むき出しの炉心」の状態になってしまうから。そして、燃料プールは、相対的に防御が弱いため、テロリストの標的になりやすい。
 メルトダウン(炉心溶融)を起こした原子炉そのものが、つまり福島原発は「高レベル放射性廃棄物」になってしまっている。その処理には30年以上かかる。
地層処理というのは、この日本が狭い国土であり、人口密度も高く、地震や火山の多い国であることから、きわめて難しい課題である。国内に処分地を選定するのは、ほとんど不可能ではないか。
除染とは、放射能がなくなることではない。除染作業によって膨大な汚染土が発生する。そして、すべての環境を除染できるわけではない。
 これから、将来、被曝によって病気になるのではないかという不安をかかえながら生きていく精神的な健康被害がすでに始まっている。
 自分以外の誰かが、この国を変えてくれるという「依存の病」をこそ克服しなければならない。
 この本はわずか260頁の新書ですが、問いに答えるかたちで物事の本質がズバリ分かりやすく解明されています。全国民必読の書として強く一読をおすすめします。
(2012年2月刊。780円+税)
 日曜日、団地の公園のそばの桜が満々開でした。となりに白いこぶしの花も満開で、ピンク色の桜がぐっとひきたちます。青空をバックとしたソメイヨシノの見事さには感嘆するばかりです。
 わが家のチューリップも一斉に花を咲かせはじめました。今、150本をこえた色とりどりのチューリップが妍を競うように咲いています。
 春らんまんの季節となりました。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか

カテゴリー:社会

著者   増田 俊也  、 出版  新潮社 
 子どものころテレビでプロレス番組を見慣れていた私にとって、すごく衝撃を受けた本でした。
 なにしろ正義の味方、カッコいいヒーローと思っていた力道山が実はとんでもない悪者だったなんて・・・・。しかも、プロレス試合は真剣勝負なんていうものではなく、あらかじめ筋書きの決まったショー番組でしかなかったというのです。うへーっ、そ、そうなんですか・・・・。ちっとも知りませんでした。
 そして、力道山がプロレス試合で勝った木村政彦なる柔道家は実のところ日本柔道史上、最強の柔術家だったというのです。さらには、ブラジルに渡って、ブラジル人と死闘のあげく勝って現地の日系人の威信を高めたということでした。
 戦後の日本で、まったく私の知らない世界がそこにはありました。上下2段組で、700頁に近い大作ですが、丹念な取材で、迫力もあり、読みやすい本でした。といっても、私は、珍しく何日もかけて楽しみながら我を忘れて読みふけりました。みなさんも、アナザーワールドへどうぞ・・・・。
 柔道史上、最強は間違いなく木村政彦。戦前戦中そして戦後を通じて15年間、不敗のまま引退し、木村の前に木村なく、木村の後に木村なしと謳われた。
 いま、日本の柔道人口は激減して、20万人ほど。世界には2000万人とか3000万人。国際柔道連盟には200カ国が加盟している。
 木村政彦は、1日10時間をこえる驚異的な練習量を続けた、強さを希求する精神性だ。
講道館柔道の歴史で化物のように強い選手が4人いた。木村政彦、ヘーシンク、ルスカそして山下康裕。このなかで、もっとも強かったのは木村政彦だ。スピードと技がずば抜けている。誰がやっても相手にならない。
 試合は、木村相手に何分立っていられるのかのタイムを競うだけのものだった。とにかく技が速い。神技だ。全盛時代の木村先輩には誰もかなわない。ヘーシンクもルスカも
3分ともたなかっただろう。
ところが、この木村は30歳のとき(昭和23年)7段になってからは、昇段していない。昭和25年にプロ柔道家になったからだ。
 昭和29年12月22日、37歳の木村は、プロレス選手権試合で力道山の騙まし討ちにあって、不敗の柔道王が全国民の前で血を吐いてKOされた。木村は大恥をかかされた。
 私は当時6歳ですから、もちろんこのテレビ番組は見ていません。だって、我が家に当時、テレビはありませんでしたから。
 このころ、街頭ののテレビでプロレスが中継されるときには、道路が目もくらむほどの大観衆で埋まっていました。その状況が写真で示されています。
プロレスに勝敗はなく、あるのはリングという舞台の上の演技だけ。その舞台で力道山は台本を投げ捨て、台本どおりに演ずる木村を不意打ちで襲った。
 木村は、力道山の背信行為を許せないと思い、短刀を懐にもち力道山を刺し殺そうと付け狙った。しかし、木村は、その怒りを胸に抱えたまま、苦しみながら後半生を75歳まで生きた。その後半生は、まさに生き地獄だった。力道山のつかった有名な空手チョップに実は破壊力はない。手刀で打つように観客に見せ、当たる寸前に手首を返して手の平ないし手の甲で相手の胸を叩き、大きな音を立てる見せ技だ。
 力道山は、客の気持ちをとらえることに、非常に長けていた。
 力道山の身近にいた者は、みな、その人間性を否定する。人間として何一ついいところのない人だった。力道山に可愛がられていたジャイアント馬場はこう言う。
 レスラーになってからの力道山は、肉食魚のように権力者や金づるに食らいつき、あらゆる欲望を満たしていた。
 力道山は、戦争が終わる十両時代までは素直だった。しかし、終戦(日本敗戦)後、解放の日から力道山は内面で変わった。力道山の戦後は、先輩も師匠もなく、周囲の者を踏み台にして、自分の野心だけを満足させていった。
 空手チョップは力道山がうみ出したものではない。木村の方が先だった。
しかし、力道山は、東声会の町井久之(鄭建永)との強力な絆があったし、山口組の田岡一雄の援助も受けていた。大野伴睦、河野一郎、中川一郎、社会党の浅沼稲次郎も支援していた。右翼の大物・児玉誉士夫のバックもあった。
第二次世界大戦が終わるまで、柔道は講道館の他に二つあった。武徳会は古流柔術各流派の大家が集まり、反講道館で結束していた。
もうひとつは、高専柔道。高とは戦前の旧制高校、専は同じく旧制の専門学校をさす。
したがって、現在の高専とは違う。現在の柔道の寝技技術は、そのほとんどが高専柔道で開発され、後に武徳会や講道館の体力がある柔道家たちが真似して吸収し、現在に至っている。
木村政彦は、1917年(大正6年)に熊本市川尻に生まれた。
全盛期の木村の裸は写真でみて分かるようにゴリラそっくり。肩や胸の筋肉は大きく太く、腰が細く引き締まっている。右肩幅は、左肩よりかなり長い。
 腕立て伏せ1000回を日課としていた。握力を測ろうとすると握力計は壊れた。握力は
200キロをこえていた。
木村は、だます柔道からの脱却に必要なものを考えた。達した結論は、強く柔らかい腰だった。強い腰があれば相手のパワーに崩されない。柔らかな腰があれば、相手の思わぬ動きにバランスを崩されない。
 木村は、乱取りだけで90時間やった。睡眠時間は3時間。戦前の全盛時代の木村は、勝つのに2分を要したことがない。
攻撃だけが木村柔道ではない。木村は勝負にこだわった。勝ちに対する執念があった。
 試合前の調整法は細かい。試合の3日前に爪を切る。短すぎるとそこから力が逃げる。爪に及ぼす力といえどムダにはできない。そして入浴しない。湯冷めして体調を崩す恐れがあるし、体から脂肪分が抜け、筋肉がほぐれすぎて気怠くなるからだ。
木村は戦前の天覧試合で優勝し、戦後はアメリカ軍の将兵に柔道を教えた。
木村は拓大で柔道を教えるようになった。そして、1993年4月18日に亡くなった。
 すごい本です。資料収集を始めて、連載が終わるまで18年。4年間にわたっての長期連載が一冊の部厚い本になったのでした。
 少しでも柔道とプロレスに関心のある人には強く一読をおすすめします。感動の大作です。人間って、ここまで自分を鍛えられるのですね・・・・。
(2012年1月刊。2600円+税)

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