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2012年2月 の投稿

西の魔女が死んだ

カテゴリー:社会

著者   梨木 香歩 、 出版   新潮文庫
 わずか20頁あまりの薄い文庫本ですから、旅行の友として持ち歩いてみてはいかがでしょう。読後感も爽やかで、すーっと心が軽くなっていきますよ。
 中学生のころって、大人にはまだなりたくないけれど、もう子どもではないと宣言したくなる自分がいるじゃないですか。でも、やっぱり子どもの時代のままでもいたいし・・・。
 親からは早く自立したい。いろいろ親から言われると、それがたまらなくうっとうしい。でも、そうは言っても中学生が一人で自活できるわけでもない。友だちも深く突っこんで話せるような人はいない。心を許せる友人って、意外にいないもの・・・。
 主人公のまい(女の子)も登校拒否になってしまいます。ずっと優等生できたのに・・・。
 扱いにくい子。生きにくいタイプの子。母親からも、こんなレッテルを貼られてしまうのでした。そこで、まいは、田舎のおばあちゃんが一人住む家にしばらく預けられることになったのです。このおばあちゃんは、なんと日本人と結婚したガイジンさんなのです。自然のなかでゆったり過ごすおばあちゃんの家で生活しているうちにまいもいつのまにか生きていく自信を取り戻すのでした。
私自身は、小学校のころまでは家一番の笑い上戸でした。よく母親から、あんたは箸が転んでも笑う子だねと言われていました。ところが、中学生になると、親とはほとんど口を利かなくなりました。そして、高校生になると、優等生でしたから、親からガミガミ言われることはありませんので、内心、親を小馬鹿にしていました。自分ひとりでこの世に生まれ育ち、大きくなったかのような錯覚にとらわれていたのです。
 大学に入って、いろんな境遇の人と交わるようになって、自分が間違っていたことが少しずつ分かるようになりました。そして、弁護士になって10年ほどして、父親がガンにかかってから、その生い立ちを記録しようと思いたち、聞きとりを始めてその苦労を知ると同時に、親の歩みが実は日本の戦前戦後の歴史そのものだということを知って、大変な衝撃を受けたのでした。父そして母の伝記を本にまとめたのですが、私にとっても感銘深い冊子です。
 自分を見つめるには、なかなか時間がかかるものだということを実感させられる、いい本でした。
(2002年9月刊。400円+税)

とっぴんしゃん(上・下)

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  山 本  一 力 、 出版   講談社
 うまいですね。読ませますね。家族で楽しむ時代小説とオビに書かれていますが、まさにそのとおりです。
 大人の私が読んでも十分に楽しめる内容ですが、小学校の中学年以上だったら、ワクワクしながら読みすすめていくのではないでしょうか。
 町内で子供たちの駆けっこが始まります。町内対抗リレーです。仲町と冬木町が走者をそれぞれ7人ずつ出して競争するのです。大人も応援団として取り巻きます。
 走る直前は食べすぎない。バトンタッチはうまくやる。第一走者で差をつけたほうが精神的に楽になるから走者の順番はそれを考えて選ぶ。いろいろ知恵をしぼりながら本番にのぞみます。
ところが、本番では稽古のときのようにはうまくいかず、足がもつれたり、波乱万丈です。日頃、足の速いのを自慢していても、バトンタッチで失敗したり、世の中、何が起きるか分かりません。そして、最後にゴールインしたのは・・・。
単なるスポーツ根性ものの話ではありません。それにしても、息もつかさず読ませる技は、いつもながら見事なものです。さすがに毎日小学生新聞に連載したものだけはあります。
 子ども時代の心に帰って、ハラハラドキドキしながら上下巻を楽しく読み通しました。
(2011年11月刊。1400円+税)
 この春はじめてウグイスの鳴き声を聞きました。まだ本格的な調子ではなく、目下、練習中という感じで、少しせわしい鳴きかたでした。
 朝の日差しもすっかり春めいてきました。チューリップもぐんぐん芽を伸ばしています。いま庭に咲いているのは、黄水仙です。

新自由主義教育改革

カテゴリー:社会

著者   佐貫 浩・世取山 洋介 、 出版   大月書店
 日本の教育制度が大きく変わってきたことを教えられました。教育の国家統制なんて、私はとんでもないことだと思うのですが、いまや橋下流の教員統制の強化が企てられていて、それをマスコミがもてはやすという恐ろしい事態が進行中です。
文科省が1958年以降、与党と一体となって作りあげてきた公教育制度は、教育が国家統制に服しさえすれば、「情と情け」にもとづいてある程度のお金が配分され、教員の身分も安定化され、教員出身地域の有力者による地域教育委員会支配も許すものとなっていた。
 新自由主義教育改革は、それとは異なり、下のものがいくら「恭順の情」を示しても、成果が出なければお金を配分することはなく、情け容赦のない成果主義を特徴としている。
 それが、文科省のこれまでの支配形態の脅威となることは確かであり、文科省がその権益擁護に懸命になることも了解可能ではある。
 教育における国家のパワーあるいは教育に対する国家の関心は軽減されるどころか、より一層強化されている。
 国家の役割の縮小であったはずの新自由主義が、より強力な国家を生み出している。
 新自由主義教育理論にもとづく教育改革が十分に展開したとき、2つの大きなインパクトを公教育に与える。その一つは、学校体系の多様化。その二は、公教育管理方式の徹底したトップダウン化とアウトプットのコントロール化。中央教育行政から教師に至るまで、徹底的に階層的に再構成される。中央政府の機能の重点は、外的条件に関するナショナル・ミニマムの設定と、それを実現するのに必要な財源の確保と、それの地方政府への移転から、全国的な教育内容標準の設定と、その達成度の評価基準・方法の設定へと移行する。そして、子どものニーズを基礎にして算出される予算は廃止され、実質的には算出根拠をもたない生徒一人あたり予算制度が導入される。
 学区制度は、学校間競争の一形態である学校選択制度が導入されることにより取りはらわれ、学校間競争を実効的に組織するために、学校選択制度のもとにおいて集めることのできた生徒数に応じて予算が配分される。
 地方教育行政はその独自性を失い、地方一般行政の経済発展政策へと吸収される。
 学校は、校長を頂点として重層構造化される。学校評価は中央政府の設定した教育内容標準にもとづいて行われるだけでなく、生徒の高いパフォーマンスを生む制度的条件である、学校組織の階層化と校長への権限の集中の程度にもとづいて行われる。
 教師は中央政府から始まるPA(主人一代理人)関係の連鎖の末端にある代理人として位置づけられ、その職務遂行上の自律性を奪われ、教職の専門職としての性格は消滅する。そして、教師間競争のために能力評価制度が実施される。
 2001年の学校教育法施行規制の改正によって、学校評議員制度が導入された。学校は学校長を法人長とし、学校評議会を法人の管理運営機関とする、法人に疑似する組織として再編成されることになった。
 2007年に改正された学校法は、校長、教頭、教諭のほかに、副校長、主幹教諭、指導教諭の三つの職を新設し、学校の重層構造化を決定づけた。
 本来、平等な公教育サービスを提供してきた小・中学校をも序列的に再編し、上位に来る層に重点的に資源配分していくために改革が進められている。行政は、「教育的効果」をあげることが導入の狙いであるとし、それが東京都に一定数存在する「教育熱心」な中間層を中心とする保護者の支持を得ている。
 2000年から2008年の間に、東京の23区で130校以上の小中学校が廃校となった。大規模な統廃合が短期間に実施された区では、コミュニティーが大きく変質した。学校選択制が導入されて時間がたつ足立区や品川区などでは、地域の教育力の低下、子どもの「荒れ」が目立っている。
 経済格差が教育格差となってあらわれている。就学援助の受給率が7~8割になる学校もある。流出校(子どもが集まらない学校)では、成績上位者が集まらず、授業や生活指導の困難をたくさんかかえる結果となっている。
 親から、選択は自由でも、学校生活は自由ではないとのことが出ている。
保護者とトラブルになると、管理職は教員を守ろうとはしないので、教員個人が弁護士に依頼したり、トラブル用の保険に加入する教職員が増えている。また、業績評価がつきまとうので、困難をかかえている子どもを担任することを避ける傾向が出ている。
 月平均50時間以上の超過勤務の教師が全体の4分の3以上となっていて、教職員の疲れは相当のものとなっている。競争と管理強化のなかで教職員がばらばらにされ、管理職のパワハラや、父母からの突き上げで、自己肯定感や教師としての「誇り」を失い、精神疾患で休職する教師や定年前で退職する教師が増えている。
 ふるい落とされた子どもたちは、成績が悪いのは自分のせいだと自分を責め、もう、放っておいてというほどに絶望している。
 社会には経済格差が生まれ、子どもとかかわる大人たちは、長時間労働や無理な働き方を強いられている。生活に困窮する親は、子どもをありのままで抱える余裕がなくなった。そして、富裕層の親も、子どもと受容的な関係を築きにくくなっている。弱肉強食の社会を勝ち上がってきた親たちの多くは、情緒的なつながりよりも物質的なものに重きをおく。競争によって利益を奪いあうことを是とする新自由主義社会で成功した親たちは、無償の愛を「与える」子育てに喪失感を覚え、暗黙のうちに、「何かを与えてくれる者」となるよう子どもに要求し、勝ち組になるよう迫る。そこでは、子どもの欲求など、おかまいなしだ。
 いやはや、このままの教育が続いたら、一体日本はどうなるんでしょうか。
 もっとゆったり、のんびり、子どもたちが育つような社会環境にすべきですよね。それには老人パワーが必要なんじゃないでしょうか。孫の成長に目を細めてばかりいるのではなくて、孫の通う学校が伸び伸びしたものに変えていくために行動する責務があるのではありませんか。いい本でした。目の覚める思いがしました。
(2009年2月刊。3600円+税)

昭和天皇

カテゴリー:日本史

著者   古川 隆久 、 出版   中公新書
 昭和天皇の実像を探求しようとした意欲的な新書です。
 昭和天皇の思い通りに軍部が動かない。動いてくれない軍部に対して昭和天皇は妥協を重ねるしかなかったというトーンが一貫しています。ということは、天皇を錦の御旗として、軍部が思い通りに日本を牛耳っていたことになります。そして、その軍部も内部を見れば、決して一枚岩ではありませんでした。強大な天皇がいて、その一言ですべてが決まっていたという見方は認識を改める必要があることを痛感しました。
 といっても、戦争中40歳だった昭和天皇の一言は実に大きいものがありました。にもかかわらず、容易に貫徹しなかったというのですから、やはり世の中は単純には割り切れないということです。
 少年時代の昭和天皇は、御学問所で歴史の講義を受けている。その時の講義に出てくる最多登場人物は明治天皇(36回)、2位は徳川家康(25回)、3位は仁徳天皇(24回)だった。さらに、アメリカのワシントン大統領やプロシアのフリードリヒ大王も好ましい指導者として繰り返し登場した。それは、天皇神格化とは無縁の内容だった。歴史の授業を担当したのは白鳥庫吉だった。神代については、あくまで神話であることを明示し、その言動が批判された天皇もいた。
 語学はフランス語が教えられた。ヒロヒト皇太子のヨーロッパ外遊は日本で大きく報道され、一種のスター、アイドル化していた。
 ヒロヒトは摂政時代、東京で発行される新聞全紙と大阪・台湾さらには地方新聞まで読んでいた。パリの新聞も取り寄せ、フランス語の勉強を兼ねて読んでいた。「改造」、「解放」、「中公公論」などの総合雑誌も読んでいた。とくにヨーロッパ旅行のあとは、幅広く読むようになった。
 1928年6月4日の張作霖爆殺事件について、昭和天皇は田中義一首相を叱責した。この点に、著者は、ここで政治に介入しなければ、政党政治を擁護するはずの昭和天皇の政治責任が問われることになる事態になると思ったからだと解説しています。
 「聖断」によって内閣が退陣したのは、これが初めてだった。その後、右翼は昭和天皇の側近を攻撃していたが、それは実質的には昭和天皇そのものを批判する狙いがあった。
 満州事変が勃発するときにも、昭和天皇の権威は揺らいでおり、軍部を抑えることができなかった。西園寺は昭和天皇の威信低下を痛感していた。国際関係の緊張が軍部の発言力を高めたため、昭和天皇が国政を掌握するのはますます困難になっていった。
 昭和天皇は美濃部達吉の天皇機関説を理解していた。しかし、対外的には国体論を認めたかたちになってしまった。その結果、昭和天皇は、国内政治に関する思想・政策に関して、もはや完全に孤立してしまった。
 1936年に2.26事件が起きたとき、昭和天皇は断固鎮圧を決意した。決起グループは皇道派に昭和天皇は同情的であると聞いていて、実は批判的であることが知らされていなかった。だから、決起グループは、あくまで天皇の真意実現を妨げる諸勢力を粉砕することが目的だった。しかし、昭和天皇からすると、大局的見地から工業化路線を優先した自分の判断が暴力的に否定されたと受けとめた。
 事件を即時鎮圧し、陸軍の下克上体質を改めよという意向を昭和天皇は示した。ところが、決起集団に同情的な陸軍は、なかなか鎮圧に動こうとしなかった。天皇と陸軍の意思が異なったとき、天皇の意思が「皇祖皇室の遺訓」に合致していないと陸軍が判断できるなら、最高指揮官たる現天皇の意向に反して問題はない。こういう考え方が陸軍の側にあった。このように、陸軍にとって天皇は絶対的な存在ではなかったわけですね。
2.26事件について、陸軍は天皇から叱責されたという不名誉な事実を組織ぐるみで隠蔽してした。
昭和天皇は、生物学を研究していたが、これについても、陸軍武官がこの非常時に生物学の研究なんてはなはだけしからんと批判していたので、昭和天皇は気兼ねしていた。
 うへーっ、好きな歴史学ではなく生物学を逃げ場としていたのに、それすら軍人から批判されていたとは、昭和天皇も大変です。そんなこんなで、昭和天皇は一時期、大変やつれていたとのことです。
 1938年7月、昭和天皇は次のように語った。
 「元来、陸軍のやり方はけしからん・・・。中央の命令にはまったく服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじきような卑怯な方法を用いるようなこともしばしばある。今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」
 元老西園寺が老衰で政治的影響力を失いつつあった当時、昭和天皇はますます周囲から理解者を失いつつあった。
 結果的に日中戦争の進展を容認し、太平洋戦争開始の決断を下したのは昭和天皇であった。終戦の「聖断」まで時間がかかったのは、少しでも有利な条件で戦争を終わらせたかったため。昭和天皇は、少しでも有利な条件で講和しようと、局地的戦闘の勝利を期待する一撃講和論者だった。
 この本を読んでも、昭和天皇に戦争責任があることは間違いないところだと確信しました。
(2011年11月刊。1000円+税)

原発労働

カテゴリー:社会

著者   日本弁護士連合会 、 出版   岩波ブックレット
 原子力発電所で長く働いてきた労働者の証言が紹介されています。
 ひとつの検査工事に50人の作業員が必要だとすれば、一次下請業者が5,6人いて、残りの作業員は二次以下の下請業者の社員。東電からは作業員の日給が一人10万円出ていても、一次下請の作業員で日給2万5000円以下、一番下の作業員で1万円から1万2000円ほど。
 問題は社会保険。一次下請業者は社会保険を完備していても、二次以下下請業者は入っていないほうが多い。
 以前は、原発作業員の一日の実労働時間は3時間ほどだった。午前中に1時間、午後に2時間。このように、原発作業員は実労働時間が少ない割にお金になる仕事だ。だから原発で働いた人が他の普通の職場で働くのはかなり大変なことになる。
東京電力の社員は現場にはたまに見に来たり、検査のときに立ち会う程度。一次下請の東芝とか日立の社員が現場で指示を出す。
 放射線管理区域に入る人は放射線に関する教育を受ける。3時間の講習を受けたあと、テストがある。しかし、このテストで落ちる人はほとんどいない。
 3月11日の事故直後は、緊急事態なので資格も何も問われなかった。やっと4月になって正常化した。復旧作業は、東電の正社員ではなく、下請の作業員がしている。本当は東電の正社員にやってもらった方がいい。
 遠くで準備して、みんなで一斉に作業現場に出ていって、ヒット・アンド・アウェイで帰ってくる。全面マスクをしての作業は2時間くらいしかできない。照明がないから、暗くなると作業ができない。
 作業員に高年齢者が増えている、50代が圧倒的に多い。30代と20代はいない。
 東電の社員、元請(一次)の社員などは制服を着ているから一日でわかる。しかし、二次以下の下請けの作業員になると、自前の作業着なので、どこの会社の従業員なのか分からない。
 福島原発で働く7千人近い労働者のうち、事故後4ヵ月で6人は被曝量が250ミリシーベルトをこえ、111人は100ミリシーベルトをこえた。また、未検査の人も多い。
福島第一原発について政府が収束宣言して以来、なんとなく溶けた核燃料棒は心配ないムードになっていますが、本当は何も分かっていないというのが実態です。そんな危険な作業現場で働いている作業員の健康はとても心配です。かといって、そんな危険な現場で働く人たちがいるからこそ、その後は今のところ大惨事を招来していないのだと思います。
 そういう原発労働のすさまじい実態を告発してくれるブックレットです。ワンコインで読めますので、どうぞお読みください。
(2012年1月刊。500円+税)

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