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2012年2月 の投稿

バターン、死の行進

カテゴリー:日本史

著者   マイケル・ノーマンほか 、 出版   河出書房新社
 日本軍がフィリピンを占領したとき、アメリカ・フィリピン軍の捕虜7万6000人を中部にある収容所まで炎天下100キロ行進させ、1万人近くが亡くなったというバターン死の行進を日米双方の資料をもとに明らかにしています。
日本軍の最高責任者(司令官)だった本間雅晴中将は戦後、戦犯となって死刑になりました。これは、実はマッカーサー将軍が日本軍によってフィリピンから敗退させられたことへの報復惜置だったのではないかという見方があります。
 この本を読んで、マッカーサーが日本軍が攻めてくる前に根拠のない楽観論を振りまいていて、無策のうちに日本軍のフィリピン上陸そして占領を許してしまったという事実を知りました。マッカーサーって、戦前の日本軍の典型的な将軍と同じような観念論者だったようです。
 1941年7月、ルーズベルト大統領はマッカーサーをアメリカ極東陸軍司令官に任命した。8月、マッカーサーは、フィリピン防衛計画が完成に近づいたと米国戦争省に断言した。10月、まもなく20万人の軍隊が用意できるとマッカーサーは報告した。これによって、アメリカ政府はマニラの軍隊がいかなる事態にも対応できると信じた。
 実際に7週間後に戦争が始まったとき、マッカーサーは約束した兵力の半分しかもっていなかった。アメリカ兵1万2000人は、その実戦部隊は実際に敵と戦ったことはなかった。フィリピン兵6万8000人は、テニスシューズをはき、ココナツの殻のヘルメットをかぶって戦うことになった。
 マッカーサーは、開戦前に次のような命令を発した。
 「敵は海岸で迎え撃つ。何があろうと食い止める。撤退はしない」
 ところが、日本軍は12日間でマニラを攻略した。あとは奥地の残敵を掃討するだけだった。米比軍の大半はバターン半島に退却した。バターン半島は、戦場としてはきわめて苛酷な場所だった。
日本軍は敵の兵力について見誤っていた。日本軍の兵力は、米比軍の3分の1にすぎなかった。日本軍の第一次バターン攻略作戦はうまくいかなかった。50日でフィリピンを占領することはできなかった。
本間中将は、戦場だけでなく、祖国日本でも政敵に攻め立てられ窮地におちいっていた。東条英機首相兼陸軍大臣(大将)は本間の古くからの敵対者だった。
 本間は指揮下の兵力の半分2万4000人以上を失っていた。アメリカは、マッカーサーを脱出させる方法を話し合っていた。陸軍最高位の将軍であるマッカーサー大将が敵に捕まえられでもしたら、そのニュースがアメリカに大打撃をもたらすという考えによる。
 1942年3月10日、闇夜にマッカーサーは家族と身近な参謀の数人でフィリピンを脱出した。このときのマッカーサーの言葉は有名です。
「私は戻ってくる」(アイ シャル リターン)
 これは、我々は必ず戻ってくるというのではありません。普通なら、ウィー シャル リターン)ですよね。そこを我々ではなく、私というところが、いかにも独善的です。
 1942年3月、本間中将は3万9000人の将兵で第二次バターン攻撃に移った。
 4月9日、バターン半島の米比軍は日本軍に降伏した。7万6000人をかかえるアメリカ軍の部隊が降伏したのは歴史上初めてのことだった。捕虜の人数は日本軍司令部の推定の2倍以上になった。将兵7万6000人、民間人2万6000人である。
 日本軍の兵卒は捕虜をひどく残忍に殴りつけた。だが、日本軍では、上官の軍曹や少尉にしても、部下の兵卒を殴る際には同じように残忍だった。
 日本兵にとって捕虜を殴ることは義務だったが、一部のものには娯楽だった。故国で教練所を虐待所に変えたサディストたちが、いまや何の力もない捕虜の列の間を歩き回り、彼らに日本語で罵声を浴びせ、命令し、理解できなければ馬鹿だと言って殴り飛ばした。
 4月10日、米比軍の降伏の翌日、日本軍は徒歩による捕虜の移送を開始した。
 日によって15キロすすむ日もあれば、20キロ、あるいは30キロ以上進む日もあった。
 年間でもっとも乾燥する時期だった。太陽が容赦なく照りつけ、地上のあらゆるものを焼き焦がした。昼すぐには大気が熱せられてオーブンのような状態になった。地盤は焼き上がったばかりの煉瓦のようだった。監視兵は、捕虜を常に前進させるよう命じられていた。
 捕虜の中には脱水症状がひどくなり、脳の神経伝達物質がうまく機能しなくなるものもいた。脱水症状の一つの機能障害に陥ったのだ。幻覚をみる者もあらわれた。日本人にしてみれば、捕虜は「敵国人」であり、憎むべき対象だった。フィリピン軍の志願斥候兵は日本軍を手こずらせていたのでとりわけつらくあたった。
 米国兵ばかりの隊列には、40代、50代の士官が何人もいた。参謀をつとめていた、ふっくらと肉づきのいい佐官は、途中で倒れたり、徐々に遅れをとったりして、後方で待ちかまえるハゲタカ部隊の標的になった。
 慢性的な物資不足と常習的な準備不足のせいで、不倶戴点の敵である捕虜を困窮させても、日本兵は何とも思わなかった。捕虜に満足に食べさせる余裕もなければ、そうする意思もなかった。
 行進して5日間、日本軍は当初の計画を捨て、場当たり的なことをはじめた。監視兵の多くは混乱していた。なんといっても捕虜の数が多すぎた。
赤痢にかかっている者は非常に多く、座ったり横になったりする待機所には糞尿、分泌物、血液がそのまま垂れ流された。多くの待機所では死体が放置され、やがて腐敗しはじめた。次の捕虜の集団がそれぞれの待機所に着くころには、腐った死体の悪臭と、汚物のあふれる便所の悪臭とが合わさって、耐えがたいものになっていた。
 捕虜たちは常に北を目ざした。時間や場所の感覚も、目的意識もなかった。行進中に大事なのは歩き続けることだった。道中、日本軍はだいたいにおいて避難民にかまわなかった。
 降伏から一日もたたないうちに、ルソン島の各地に噂が広まった。さまざまな州からフィリピン兵の家族や親類がバターンに集まり、身内の姿を一目見るよう、機会があれば言葉をかわそうと、国道ぞいに並んで待ちかまえた。
 オドネル収容所は、もともとフィリピン軍の兵員2万の師団用の兵舎だった。その狭苦しい敷地に、4月1日以降日本軍はアメリカ兵9270人、フィリピン兵4万7000人、計5万
6000人を詰めこんだ。
 1942年5月5日、本間中将はコレヒドール島を攻撃し、5月6日、守備していた米比軍1万1000人は降伏した。
 1942年9月、フィリピンからアメリカ人捕虜500人が日本に輸送された。日本の国内労働不足をカバーするためである。連合軍捕虜と現地労働者12万6000人が日本への船旅をしたが、そのうち2万1000人は船とともに死んだ。
 この本には、筑豊の炭鉱で働かされた人の体験が紹介されています。そして、戦後、本間中将は戦犯として裁判にかけられ死刑に処されるのでした。日本軍のバターン攻略により、一次フィリピンを脱出してオーストラリアに逃れざるをえなかったマッカーサーは、自分の輝かしい軍歴を傷つけた本間中将が許せなかった。
 悲惨な戦争の実情がよく伝わってくる本です。
(2011年4月刊。3800円+税)

原発推進者の無念

カテゴリー:社会

著者   北村 俊郎 、 出版   平凡社新書
 原子力をやってきた人間が原発の立地地域に棲まないでどうするんだという気持ちから、福島第一原発から7キロの富岡町に住んでいた著者の避難体験記です。本当に悲惨な体験で、読んでいて、その無念さが伝わってきて涙が出そうになりました。
 3.11によって、著者は人生観、世界観を変えられた。今まで原子力を推進してきた者として、無念さを感じるとともに、大いなる反省をせざるをえなかった。
 著者は技術者ではありません。経済学部を卒業して、日本原子力発電に入社し、管理部門を歴任してきたのです。
 7月に著者は一時帰宅したのですが、このとき、被曝線量は1時間あたり4マイクロシーベルト。もし、そのまま居住していたとすると、1年間に44ミリシーベルトの被曝を覚悟しなければならない。これは一般人の年間許容線量である1ミリシーベルトの44倍である。原発作業員の許容線量年間50ミリシーベルトと同じくらいになる。恐ろしいほどの線量ですね、これって・・・。
 富岡町と内村の人口をあわせると2万人。避難所に入っている人は、その2割程度。あとの8割は、親戚・知人を頼って各地に移り住んでいるということになる。
日本の原子力界は「原子カムラ」と呼ばれ、閉鎖的だとされているが、世界の原子力界も閉鎖的な傾向がある。30年間も原発を建設していないアメリカでは、多くの企業が原子力から撤退した結果、人材が枯渇し、原子力界は最盛期から何十年も原子力に関わってきた一部の人たちにより維持されている。どの国も原子力にかかわるメンバーが固定化する傾向にある。
 今回の原子力災害は、著者をいきなり避難者の立場にした。その立場で考えると原子力関係者が、いかに視野が狭く、現実的な視点が欠けていて、形式主義だったことが分かった。これが事故原因にも、避難の際の混乱にもつながる。異端を排除し、事なかれ主義が横行していては、原子力の安全は覚束ない。
 原発の是非には対する世論は原発のメリットと危険性を天秤にかけるという終わりのない論議から、安心して暮らせる社会はいかにあるべきかの方向に移行しつつある。世間に「原発は時代遅れのものだ」と烙印を押されることが、原発廃止の最大の決め手になる可能性がある。
 私は、九州でいうと玄海原発そして川内原発を直ちに廃炉にすべきだと考えています。といっても、運転停止をしても放射性物質をいったいどこへ持っていくのかという厄介な問題があります。九電は安全だと主張しているわけですから、九電本社のある電気ビルの地下に収納してもらえるのなら、それが一番いいと思うのですが、周囲がそれを許さないでしょう。では、いったいどこへ持っていったらいいのでしょうか・・・。九電の首脳部に答えてほしい問題です。
(2011年10月刊。780円+税)

平清盛の闘い

カテゴリー:日本史(平安)

著者  元木 泰雄 、 出版   角川ソフィア文庫
 平安末期の貴族と武士たちの動きをダイナミックに描いている本です。なるほど、そういうことだったのかと思わず唸ってしまいました。小説以上に面白い歴史の本です。
 平清盛は幸運に恵まれましたが、そのうえ実力を思う存分に発揮して情勢を切り拓いていったのでした。中国との貿易も積極的にすすめ、福原遷都もそれを念頭に置いていたというのです。平清盛がもっと長生きしていれば、強大な平氏政権が誕生していたのではないでしょうか。
 私は中学生のころより、なんとなく平清盛に魅力を感じていました。源頼朝には、いささか距離感があったのです。その理由は自分でもよく分かりません。
 この本に市川雷蔵が若き日の平清盛を演じる映画(『新平家物語』)のあったことが紹介されています。一度見てみたいと思いました。
 平治の乱のあと、13歳の源頼朝のみは池禅尼(いけのぜんに)の嘆願で助命され、伊豆に配流された。自力枚済が貫かれていた武士の社会では、少年とはいえ戦闘員である以上、仇討ち(あだうち)などの報復を防ぐために処刑するのが当然とされた。ところが、平清盛は、その原則を破ってしまった。しかし、頼朝の助命は単なる池禅尼の仏心と、平清盛の油断の所産ではなかった。
 まず、池禅尼は家長として強い発言力をもっていた。さらに、池禅尼の助命要請の背景には、院近臣家出身の池禅尼を通した、後白河上皇や女院からの働きかけが存在したものと考えられる。
 永治元年(1165年)、新政をはじめていた二条天皇が23歳の若さで死去した。
 当時の王権は、王家の家長である治天の君と天皇が一体となって構成されていた。正当な天皇とは、治天の君が即位を希望した天皇にほかならない。その意味で正統に位置した二条が死去し、逆に治天の君となった後白河自身が、偶発的に即位し、正当性に疑問を抱かれる存在であったことから、皇統をめぐる対立は混迷を深めた。平清盛と後白河上皇とは、高倉天皇の即位という共通の目的に向かって提携した。
 仁安元年(1166年)、平清盛は内大臣に昇進を遂げた。権大納言に昇進してからわずか1年あまり、公郷の仲間入りをしてから6年しかたたないうちに、居並ぶ上臈公卿を超越してしまった。院近臣伊勢平氏出身の平清盛の内大臣昇進は、破格の人事であった。
 当時の人々に、平清盛は皇胤と信じられていた。それ以外に大政大臣まで上り詰めることのできた理由は考えられない。しかし、平清盛は、わずか3ヵ月後に辞任した。短期間で辞任した原因は、高い権威をもつ反面で、大政大臣が名誉職だったためと考えられる。そして、平清盛は、院やかつての信西らと同じように、自由な立場で政治的な活動をしようと考えていたのではないか。
 中国(宋)との日宋貿易は、平清盛と後白河上皇という、王朝の制法や因習を無視する大胆な個性の結合によって軌道に乗っていた。
 平清盛は、仁安3年(1168年)に出家して福原に引退するまで、除目(じもく)に大きな発言力をもっていた。平清盛は後白河院の中心的権限である人事権を規制し、その専制を阻止していた。表面では二人は協調関係にあったが、その裏側では後白河院政が確立したあと、当初から両者は常に緊張関係にあり、平清盛は後白河院や院近臣に反発していた。
 天皇こそが正統な君主であり、天皇と対立すれば父院といえども政治的に後退を余儀なくされた。このため、嘉承2年(1107年)に堀河天皇が死去して後白河院政が確立したあとは、原則として天皇が成人を迎えると退位させることが原則化していた。
 うひゃあ、20歳になったら即位して天皇でなくなるなんて、信じられませんよね。
治天の君は、王家の家長として自身が擁立した天皇に対する人事権を有しており、それを行使することで譲位を強制できた。意のままになる幼主を擁立した院は、院近臣とともに専制政治を行った。
院政というのは、こんなシステムだったのですね。ちっとも知りませんでした。
 後白河院を停止したとき、その代わりとなる院がいないという問題があった。当時の王権は、院と天皇の二元権力によって構成されており、治天の君である父院の皇位に対する保障が必要だった。強い不信感によって後白河院の退位を目ざす平清盛と王権の確立を目ざす後白河院の対立はきわめて鋭く、間に立つはずの平重盛の立場は厳しいものとなった。
 治承3年(1179年)、平清盛は数千騎にのぼる軍勢を率いて福原から京都に入った。平清盛は、直ちに基房と師家を解職した。いかに摂関家が優勢にあるとはいえ、摂関の解任は前代未聞の大事件であった。そして、治天の君が臣家によって院政を停止され幽閉されるという重大な事態となった。
福原遷都の直接的な理由は、軍事的見地から求められる。興福寺、圓城寺や延暦寺の一部など、権門寺院の悪僧の多くが以仁王(もちひとおう)挙兵に与同しており、彼らに包囲された平安京はきわめて危険な宮都となっていた。それと対照的に、福原周辺は平氏の勢力に固められていた。すなわち、平清盛は、桓武天皇の例にならって新王朝の宮都の新規造営を目ざした。平清盛の長年の根拠地として、そして、軍事拠点であるとともに、日宋貿易の舞台として宋にもつながる国際都市福原以外には考えられない。
平清盛は発病から1週間で急死した(64歳)。インフルエンザからの肺炎の可能性もあるが、あまりに繁忙で重圧を受けた生活を送っていたことが健康を害したことは疑いない。
 平清盛は生涯たたかう人であったようです。
(2011年11月刊。667円+税)

「決着!恐竜絶滅論争」

カテゴリー:恐竜

著者   後藤 和久 、 出版   岩波科学ライブラリー
 この本を読んで明確に認識したことが二つあります。その一は、鳥は恐竜の一部だということです。ジュラ紀後期に出現した鳥を加えて恐竜と呼ぶ。だから、恐竜絶滅論争はあくまで、非鳥型恐竜のみを扱っている。
 その二は、恐竜が絶滅したのは6550万年前の白亜紀末にメキシコ・ユカタン半島に小惑星が衝突したことによるものだというのは、30年来の論争の末に決着がついているということです。もちろん、反対説を唱えている人は今もいますが、それは実証的な反対論ではないということなのです。
衝突説にとって決定的な証拠は、1991年に、チチュルブでクレーターを発見したこと。これは直径180キロメートルの円形構造のクレーターであり、地下1キロに埋没している。
 小惑星は、地球表面に対して30度の角度で南南東の角度から現在のメキシコ・ユカタン半島に迫ってきた。その直径は10~15キロ、衝突速度は秒速20キロ、そして放出エネルギーは広島型原爆の10億倍。衝突地点では、時速1000キロをこえる爆風が吹き、衝突地点から立ち上る柱状の噴流(ブルーム)の温度は1万度。大気や地表が過熱され、地球上のいたるところが灼熱状態になった。地表面温度にして260度。
 衝突地点付近はマグニチュード11以上の地震に襲われた。メキシコ湾岸を襲った津波の高さは最大300メートルに達した。衝突によってダスト(塵)が舞いあがり、火炎にともなうスス、そして衝突地点に厚く堆積していた硫酸塩岩が蒸発することで放出された硫黄が塩酸エアロゾルとして大気に長期間の滞留し、太陽光を数ヶ月から数年にわたって遮った。これによって寒冷化が起きる。いわゆる「衝突の冬」である。最大10度は温度が下がる。硫黄が大気中に大量に放出されたことから、硫酸の酸性雨が地球上に降り注いだ。
 恐竜って、何億年も生きていたのですよね。それが一回の小惑星との衝突によって絶滅させられなんて、世の中はミステリーだらけですね。
(2011年11月刊。1200円+税)

春告げ坂

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   安住 洋子 、 出版   新潮社
 小石川養生所を舞台とする物語です。読んでいる途中から心からじわーんと温まっていきます。読後感は小春日和のように穏やかな暖かさです。日だまりのぬくもりを感じます。うまいですねー、いいですねー・・・。ストーリーといい情景描写といい、えも言われない筋立ての運びで、胸にしっくり迫ります。
 小石川養生所で医師として働いている高橋淳之祐が主人公です。淳之祐自身が複雑な事情をかかえる家庭の出身です。幼いころに両親と死(離)別して、養子に入り、いまは医師となっています。養家では大切に育てられたのですが、心にわだかまりをもちながら成人しています。
小石川養生所には町医者にかかれない貧しい人や身寄りのない老人など、弱い立場に置かれている人々が入所しています。
 ところが、病人を世話する看護人の質はよくなく、看護中間(ちゅうげん)たちは看護に手を抜いては博打に遊び呆けているのです。そして、病人が無料で入所できるというのは建て前で、看護中間にいくらかの干肴(ほしざかな)と称する挨拶金をしはらわなければいけません。そして、小石川養生所には、次々にわけありの病人が運び込まれてくるのです。
 医師が終末医療センターのように看病すると、病人を死なせてしまったとして成績が悪くなります。治らない病人を、さっさと退所させてしまうと医師の成績は上がるのです。そんな矛盾をかかえて主人公は医師として悶々としてしまいます。
 ところが、救いもあります。この小石川養生所のなかで黙々と患者に寄り添い看護に精を出す人々もいるのです。
 人間はお互い弱い身なので、できることから助け合い支えあっていく必要があるし、それをしていると心も豊かになる。
それをじんわりと実感させてくれる時代小説なのです。
(2011年11月刊。1700円+税)

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