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2012年1月 の投稿

アフリカで誕生した人類が日本人になるまで

カテゴリー:人間

著者   溝口 優司 、 出版   ソフトバンク新書
 ヒトが誕生したのはアフリカだというのは動かない事実です。
 200万年前よりも古い人類の化石はアフリカでしか発見されていない。現代日本人の最古の祖先は2001年に中央アフリカのチャドで発見された猿人・サヘラントロプスだ。700万年前に棲息していた。
 ヨーロッパ人は歯が小さい。そのため、顎の力を受けとめるため、カラベリとういう補強構造を発達させている。
 日本人を含む現代の人類は、世界中のどこでも、どんなに外見の異なる人同士でも子ができ、孫が生まれる。完全交配が可能な同じ種なのである。つまり黒人だから、黄色人種だから、白人と種が違うというものではないのですよね。
 ネアンデルタール人とホモ・サピエンスとは、交配することで次第にホモ・サピエンス集団に吸収されていって、消滅していったと考えられる。
 類人猿などにある体毛がホモ・サピエンスでは極端に薄いのは、人類の祖先が森林を出て、草原で直立二足歩行するようになったことと関連している。というのは、暑い昼間、長時間走り続けるには、効率的に体温を下げる必要がある。体毛があって汗腺が発達していないときは、それは不可能だった。しかし、突然変異で体毛が薄くなり、汗腺が発達して大量の汗をかけるようになった。昼間の狩りで獲物をしとめるようになったヒトだけが子孫を残すことができた。
 四つん這いやナックル・ウォーキングのときにはよく見えていた生殖器が直立したことで見えなくなったことをカバーするため、粘膜で出来た唇があり、女性の胸がふくらんだ。
 唇は生殖器の、乳房はおしりの擬態である。
 アジア大陸をいったん北上した人々が、寒冷地適応をし、農耕技術を身につけたあと再び南下して、もとからいた人々と混血し、東南アジアの現代人になった。
 縄文人の祖先は、オーストラリア先住民(アボリジニー)などの祖先と同様、氷期にはスンダランドにいた人々。
 琉球人はアイヌと同型統ではない。むしろ本土日本人に近い。
 弥生人が寒冷地適応をした北方系の特徴をもつのは、もともとバイカル湖近辺の人々が祖先であったため。そして、弥生人が水稲栽培の技術を持っていたのは、日本に渡来する前に暮らしていた朝鮮半島で身につけたから。
 このように、日本列島には、南方期限の縄文人が先にきて北方起源の弥生人が後からやって来たのは、ほぼ確実だ。そして、大陸から渡来した弥生人が、もともと日本に住んでいた縄文人と混血しながら広がっていき、かなり置き換わったのに近い状態になった。
 なーるほど、そういうことなんですね。なんだかネアンデルタール人と縄文人って、置かれている状況が似ていますよね。
(2011年9月刊。730円+税)

蠅の帝国

カテゴリー:日本史

著者   帚木 蓮生 、 出版   新潮社
 軍医として戦争に従事した人たちの手記が丹念に掘り起こされ、その悲惨で苛酷な戦場の状況を追体験することができます。
 戦争の不条理さには息を呑むばかりです。
 ハエは瀕死とはいえ、まだ生きている人間に卵を生みつける。ハエは、いずれ死にゆく人間の見分けをつけている。
 ええーっ、そんな・・・。むごいことです。病人はウジがはいまわるので、かゆいかゆいと苦しみながら死んでゆくのです。
 終戦後、満州から引き揚げてくる列車のなかで、牡丹江から鉄嶺に着くまでに、恐怖と心配から13人もの妊婦が出産した。幸い早産であっても、死産はなかった。でも、出産した赤ん坊はどうなったのでしょうか。みな、無事に日本へ帰国できたとは思えません。残留孤児になってしまった赤ん坊もいたことでしょうね。
 軍馬についての統計がされています。
 日清戦争での出征人馬数は、日本が兵員24万人に対して馬数は5万8000。清国は兵員35万人、馬数7万3000。
 日露戦争では、日本の兵員は100万9000、馬数は17万2000。ロシアは兵員129万、馬数29万9000。兵員100に対して馬数は2割前後。
馬は倒れるまで全力をふりしぼって動く。従って、疲労を早めに発見して休ませ、水を飲ませなければならない。
 うひゃあ、そうなんですか・・・。ちっとも知りませんでした。
騎兵連隊では、人より馬を大切にする。
 「馬がなくては騎兵ではない」
 ええっ、うむむ、なんだか違う気が・・・。
馬は暑さに弱く、熱地作戦には向かない。
寒さには耐えられるのでしょうか・・・?
さすが現役の精神科医であるだけに、専門用語も駆使されていて、軍医の手記が見事に今によみがえっています。
(2011年7月刊。1800円+税)

織田信長のマネー改革

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  武田知弘 、 出版  ソフトバンク新書 
織田信長のやったことを経済学的に解釈していて、なるほど、そういうことだったのかと感嘆させられました。
織田信長は石山本願寺と戦っているとき、鉄甲船をくり出した。新兵器だった。鉄は、当時、貴重品だった。その貴重品を船の全面に貼りつけたのだから、費用は莫大だった。そんなお金を信長は、どこで手に入れていたのか。
信長公は、金、銀、米、銭に不足することがなかった。
寺、城、港が信長を富貴にした。信長は多くの寺社の利権を奪った。
信長は4回も居城を変えたが、そのたびに富貴になった。なぜか?
信長の城は、敵に対しての牽制でもあり、領民に対して威圧と安心を与えるものだった。逆にいうと、安土城は、巨大な税務署でもあった。
信長は、かなり細かい検地を実施した。信長の城つくりは、すなわち街づくりでもあった。街が発展すると、信長にとって戦略物資を調達しやすくなる。そして、市をたてさせ、地子銭はとらないけれど冥加金はとって、収入を増やしていた。
 信長は港を欲した。港によって莫大な関税収入が保障された。
 信長は、中央政権として、日本史上初めて通貨として金銀の使用を促し、金銀と銅銭の価値比率を制定し、体系化した通貨制度をつくった。また、物を量る単位として、「枡」を統一させた。
 信長は道路網整備のために大がかりな掘削工事も行っている。両端には側溝があり、土手もある本格的な道路である。
信長の時代には、人々は安全に、夏は夜間でも安全に旅ができた。
信長は、庶民には減税し、金をもっているものから果敢に税金をとろうとした。それが楽市楽座であり、地子銭の免除、比叡山焼き打ちなのである。
なるほど、なるほど、と思いながら車内で一気に読み終えました。
(2011年7月刊。730円+税)

国旗・国歌と「こころの自由」

カテゴリー:社会

著者   大川 隆司 、 出版   高文研
 卒業式のとき「君が代」を全員起立して歌わせる、歌わせないと処分する。これって、やっぱり異常だと私は思います。
 厳粛な式でなければいけないから、強制するのはやむをえないという考えがあります。
 でも、生徒が卒業式を企画し運営していくというのがあっていいでしょ。泣いたり、笑ったり、あまり型にはめない卒業式のほうがよほど楽しいし、あとで良い思い出になるんじゃないですか。じっと黙ってありがたい祝辞を聞いているだけ。歌いたくないから、口パクだけして時を過ごす。そんなの、いやですよね。私も、実際、口パク組の一人だったように思います。「君が代」って、暗いし、ぴんと来ない歌ですからね。どうせなら、もっと明るい歌にしたらどうなんでしょうか?
 かつての卒業式は、在校生が卒業生の卒業を祝って送り出し、卒業生が在校生を激励する。いわば、生徒のための式典だった。同じく、入学式は在校生が新入生の入学を祝って迎え入れる、やはり生徒のための式典だった。そうですよね。これが本来の姿でしょう・・・。
 日本政府は日の丸掲揚にについて、1920年代まで、まったく熱意をもたなかった。
 「君が代」について、政府の見解は、「天皇を象徴とするわが国」のことだとする。しかし、政府は英語では、はっきり「天皇の治世」としている。今の天皇は、国旗・国歌について、「やはり、強制になるということでないことが望ましい」と発言しました。これこそ日本人の健全な常識合致しているものだと私も思います。
 「日の丸に対する敬意の強制が、思想および両親の自由を損害する強制とならぬよう、慎重な配慮が望まれる」
 これは大阪高裁判決(1998年1月20日)の判決ですが、まさしくそのとおりです。
 反対意見を強制的に排除しはじめると、やがて、それは反対者を根絶することへとつながってしまう。意見の統一を強制することは、ただ墓場という同一化をもたらすだけである。これは、アメリカ連邦最高裁の判決(1943年)です。本当にいいことを言っていますよね。
 子どもたちが学校で伸びのびと学びあうためには、教職員にも自由闊達さを保障しなければいけません。橋下徹のように、上から何でもがんじがらめに統制してしまえば、教職員は萎縮してしまい、子どもたちはおどおど、おろおろするばかりです。橋下徹の教育は一部エリート養成には都合がいいかもしれませんが、日本全体が底無し沼に沈み込んでしまうだけです。
 それにしても、そんな橋下流の「改革」に「底辺」であえぐ若者の多くが同調しているのですから、世の中はまさに矛盾だらけです。
 著者は、私にとって学生セツルメントの大先輩にあたります。
(2006年2月刊。1100円+税)

民法改正

カテゴリー:司法

著者   内田 貴 、 出版   ちくま新書
 40年近く弁護士をやっていて、法律が変わると、ついていないと悲鳴をあげてしまいます。脳が新しいものを受けつけないのです。商法は今では完全に投げています。まるで分かりません。有限会社がなくなってしまって、私の時代は過ぎたという気がします。
 最後の頼みの綱である民法までも変わってしまったら、もう弁護士廃業するしかありません。トホホ・・・。
 日本民法は明治31年(1898年)7月に施行されています。公布(1896年)から、すでに115年が経過しています。現在、拘束力を持っている法律で民法より古いものは5つしかない。ええーっ、5つもあるのですか・・・。何でしょう?
 爆発物取締罰則、決闘罪に関する件などです。なーるほどですね。
 法律の学習は外国語の習得と似ている。日本語で書いてあるから読めば分かるだろうなどと思ってはいけない。日常語などと思ってはいけない。日常語とは違う言葉であり、日常とは違う文法があるのだ。
 なるほど、なるほど、そうなんですね。英語ができるからといって、アメリカですぐ弁護士になれるわけではないのですよね。
 日本民法の成り立ちを改めて勉強しました。
 日本民法は、内容的には、フランスとドイツの影響を半々程度に受けた法典である。イギリスやベルギーの影響を受けた規定もある。したがって、フランスとドイツをともに母法とする法典と言える。
 日本民法は条文の数が極端に少ないという特色がある。フランスは2486条、ドイツは
2385条なのに、日本は半分以下の1044条しかない。これは、細かな条文を全部落として、原則だけ、それも非常にシンプルに書くという方針が採用されたことによる。
 日本の民法をつくるとき、法典の名宛人から、一般国民は完全に抜け落ちた。西洋式の民法はできても、その条文だけでは裁判ができない。あるいは行動の具体的な指針を民法から導くことができないことになった。
 初期の段階から、条文に書いてあることと解釈論が乖離していた。条文はフランスからきているが、解釈論は異なる条文を前提としたドイツからきているということが珍しくなかった。解釈といいながら条文の解釈などしていないというのが日本の解釈論の難しさの原因だということが分かりました。
 いま、国際的に、消滅時効期間の短縮化が大きな流れになっている。ドイツでは時効
30年から3年に短縮した。フランスも30年を5年にした。
 日本でも20年を除斥期間ではなく、時効と解する動きが出ている。
 約款は19世紀の末にできた日本民法典の知らない現象である。
 ええーっ、なんということでしょうか・・・?読んでもいない約款条件が、なぜ契約内容になっている当事者を拘束するのか、というのは難問である。
 ふむふむ、そう言えば、そうでしょうね・・・。
 民法改正の必要性を実に分かりやすく解説した本として、感心しながら読みすすめました。まだまだ、いろいろ難所はたくさんあるようですが・・・。
(2011年11月刊。760円+税)

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