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2011年10月 の投稿

ヒトラーの最期

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  エレーナ・ルジェフスカヤ  、 出版  白水社   
 ソ連軍の若き女性通訳がソ連軍とともにベルリンに攻め入り、そこでヒトラーの遺骨を手にするまでの過程が詳細に記述されている貴重な大作です。ヒトラーの遺骨を入手しながらも、スターリンはヒトラー逃亡説を発表させたり、ヒトラーの遺骨を入手していたことを隠していたというのですから、不思議な話です。
 著者はモスクワの大学生から通訳になったユダヤ人女性です。よくぞスターリン圧制の犠牲になることなく、生きのびたものです。
 ドイツ軍兵士を捕虜としたとき、士官だったらドイツ軍側から見たソ連軍の長所を尋ねることが義務づけられていた。その答えは、T-34戦車、兵士の頑強さ、ジューコフだった。ソ連軍兵士が粘り強く戦うのには、ナチス・ドイツ軍の将兵も驚嘆していたようです。
ドイツ軍のバルバロッサ作戦を狂わせた原因の一つに、小国ギリシャが意外に抵抗したことがある。うひゃあ、そういうこともあったんですね。
著者は前線で入手したドイツ軍将校の日誌を引用して、戦闘の悲惨さを語らせています。
 ドイツ軍兵士の心得。きみには心、神経がない。戦争ではそれらは無用である。すべてのロシア人を殺せ。きみの前に老人、女性、子どもがいても止まるな、殺せ・・・・。
 ポーランドではワルシャワの手前でソ連軍は留まり、ワルシャワ蜂起が目の前でナチスドイツによって無惨にも鎮圧・虐殺されているのを座視します。スターリンの冷酷な計算による行動です。
 敵の手紙は前線では常に重視された。それらの手紙には何か重要なこと、ときには予想外に重要なことが含まれていることが珍しくなく、これをもとに諜報資料が作り上げられた。手紙には、気分、事実、雰囲気、出来事、希望、状況、不安、脅威、苦境、変化が含まれている。
 ドイツ軍は敗色濃いなかで、新型兵器にいちるの望みをかけていた。しかし、それを信じていない兵士もまた多かった。ロンドンを空襲したV・ロケットのようなものをヒトラーは匂わせていたのでしょうね。
 ヒトラーには影武者はいなかった。5月4日、ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンの遺体は一度発見されたが、そのときは識別されなかった。そして、あとで、同じ穴の中に2匹の死んだ犬が発見されたが、このこともヒトラーの遺体だと判明するのに役立った。ヒトラーは青酸カリの効用を試すために、先に愛犬に使ってみたのでした。
 5月6日、総帥官邸の庭からヒトラーとエヴァ・ブラウンの焼けこげの遺体をシーツにくるんで運び出した。
 ヒトラーは4月29日深夜、エヴァ・ブラウンとの結婚式を行った。ところが、そのときヒトラー自らが取り決めた結婚にあたっての必要書類は無視された。ヒトラーは、戦争に敗れたとき、ドイツ人は生きるには値しないとしていた。
 ゲッペルスは浮気者であり、妻は離婚したがっていた。しかし、ヒトラーは離婚を許さなかった。そこで、彼らはドイツ国民の前では模範的な子沢山の家庭を演じていた。
ヒトラーは最期にこう言った。
私の死後、私の遺体は焼却されねばならない。私は自分の遺体が後に見世物にされるのを望まない。
これは、ムッソリーニがパルチザンに銃殺され、ミラノの広場で逆さ吊りにされたことをヒトラーが知っていたからの言葉である。
ヒトラーの遺骸には、顎骨と歯がそのまま残っていた。そして、著者は、ヒトラーの歯の入った小箱を預けられた。そして、この小箱に入った歯をヒトラーが生前にかかっていた歯科医(助手)にみてもらって確認した。
 ヒトラーの死(自殺)の状況が確認される状況は信頼できると思いました。
(2011年6月刊。4000円+税)

原発を終わらせる

カテゴリー:社会

著者   石橋 克彦 、 出版   岩波新書
 スロッシング現象というのをはじめて知りました。地震のとき、本震や余震によって、サプレッション・プール(水)が激しく揺れ動くことのようです。それによって、大量の蒸気を水の中まで誘導するためのダウンカマーの先端が水面から上に出てしまい、そこから蒸気が圧力抑制室上部に噴出して滞留し、その結果、格納容器の圧力が異常に高くなったのではないか。
 要するに、津波ではなく、地震そのものによって、配管破断が起きて原子炉の水素爆発が起きたということです。
炉心溶融(メルトダウン)とは、核燃料および炉内構造物が溶け落ちること。熔解デブリというそうです。
この熔解デブリは、今後、何年も冷やし続けなければならないが、問題は、それがまだ圧力容器内にあるのが格納容器内にどれだけ出ているのか、あるいは格納容器の底をすでに抜けているのかなどの状況が依然としてつかめていないこと。
 圧力の数値からみると、圧力容器に穴が空いていて炉心の放射性物質は格納容器内に出ている可能性が高い。格納容器自体も漏れているため、炉心は外界と直接つながっていて、現在も放射性物質を出し続けているのは間違いない。とても危険な状況が続いている。
 ここに今直面する最大の問題がありますよね。にもかかわらず、日本の首相がアメリカに行って国連総会の場で原発輸出はやめないと宣言するなど、まさに狂気の沙汰としか思えません。
 発電所全体ですでに10万トンもの汚染水がタービン建屋の地下にたまっている。年内にさらに10万トンもの汚染水が出る。事故後、少なくとも2回、高濃度の汚染水が海に流出している。事故プラントを廃炉にするには、最大15兆円かかる。
 格納容器が閉じ込め機能を失っている以上、放射性物質の確実な漏洩防止は望むべくもない。
 原発の経済性を評価するときには、事故による補償金のほか、廃炉にともなう費用も計算しなければならない。
 原発において、これまで過酷事故への対策は法的に義務化されておらず、電力会社や民間企業が自主的にやることが推奨されているのみ。
 福島第一原発で大規模な水蒸気爆発が起こらなかったのは偶然にすぎず、首都圏が強制避難地域になったとき、日本は破滅する。
 そうなんですよね。菅首相も「日本破滅」を一時は覚悟したようですね。
 一刻も早く、原発に頼らない日本につくりかえましょうよ。
(2011年8月25日刊。800円+税)

ノルマンディー上陸作戦(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  アントニー・ビーヴァー  、 出版  白水社   
 1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦を多角的に描いた大部の労作です。連合軍内部の葛藤にみちた内情、迎えうつドイツ軍のあたふたぶりとヒトラーの狂信的指示の内幕が活写されていて、果たして上陸作戦はうまくいくのか、上陸したあとナチス・どいつ軍によってダンケルク戦のように海へ押し戻されてしまうのか、ずっと予断を許されない厳しい戦闘行動が続いていたことを知りました。
 連合軍の最高司令官であるアイゼンハワーに対して、イギリス軍のトップは高い評価を与えていなかった。モントゴメリー(モンティ)は、上官であるアイクにたいして経緯のかけらすら見せなかった。
 有力な将軍・提督たちの政治的ライバル関係や個人的な対抗意識をアイゼンハワーは常に意識し、そのバランスに配慮しなければならなかった。
 モントゴメリー将軍は、演出のコツを非常に心得た軍人だった。そして、軍事のプロとして高い能力をもち、また部隊の訓練にあたって第一級の仕事をこなしてきたが、「際限なきうぬぼれ」という欠点も抱えていた。
 アメリカ陸軍は、第一歩兵師団を除いて、ほとんどすべての部隊が「要求基準に合致せず」と評価されていた。
アイゼンハワーは上陸作戦が失敗に終わったときに発表する短い声明文も用意した。そこには、「この試みに、もしなんらかの問題もしくは欠点があったとすれば、ひとえに私ひとりの責任である」と書かれていた。
 アメリカのルーズベルト大統領はド・ゴール将軍を不信の目で見ていた。ド・ゴールという男はへたすると独裁者になりかねない人物である。連合軍はなにもド・ゴールを権力の座につけるためにフランスへ侵攻するわけではないとした。
 アイゼンハワーの声明文には、ド・ゴール将軍による臨時政府の権威をどんな形にしろ認めていなかった。
ヒトラーは、連合軍の侵攻作戦はヒトラーが築いた「大西洋の壁」によって必ず粉砕されると信じていた。ヒトラーは、ロンメル将軍の提案を却下した。空軍のゲーリング海軍のデーニッツの強い働きかけもあって、ヒトラーは本能的に今の現状を維持するのが望ましいと判断した。ライバル関係にある、それぞれの軍組織を互いに競い合わせることで、その上位に君臨する自分が全てをコントロールできると考えていた。
 フランス国内のレジスタンス組織の大半はド・ゴール将軍と共闘していたが、必ずしもド・ゴール主義者ではなかった。
 ノルマンディー上陸作戦に参加した艦船は5000隻ほど。全体で13万人の兵士が参加した。6隻の戦艦、23隻の巡洋艦、104隻の駆逐艦、152隻の護衛艦、277隻の掃海艇が出動していた。
 誰もがみな、もっとも知りたいのは、果たしてドイツ軍が、現在進行形のこの事態をすでに把握し、手ぐすね引いてまっているのかどうか、ということだった。
 午前1時アメリカ海軍は、上陸作戦に参加する兵士に朝食を出した。常軌を逸する大盤振る舞いだった。ありったけのステーキポーク、チキン、アイスクリーム、キャンディーが供された。ソーセージ、豆料理、コーヒー、ドーナツが食べ放題となった。そして、大揺れの船のなかで、兵士たちはゲロを吐き、豪華な食事を後悔するに至った。
 ノルマンディーの戦いにおける連合軍、ドイツ軍双方の損耗率はひどかった。それは、東部戦線における同時期のをはるかに上回っていた。
東部戦線意おいてソ連赤軍の苛烈きわまる砲撃を相手したため、ドイツ軍は守勢に回ったとき、損失をいかにして最小限どにおさえるか、さまざまな対処法を実地に学んでいた。その教訓がノルマンディーの戦いで十分に生かされた。そして、ドイツ軍は戦機をとらえるのがうまい。
 アメリカ軍の兵士の損耗度は高く、やがて本国から補充兵がやってきた。補充兵は、しばしばもっとも危険な任務を割り当てられた。どの小隊も、経験を積んだベテラン兵士をムダにしたくはなかった。
イギリス空軍が北部の町カーンを空爆したがこれは2重の意味で失態だった。第一に、カーン 北部にあるドイツ軍陣地を叩けなかった。第二に、都市部に大打撃を与えてしまった。
戦争の現場がきれいごとではいかないことを知り、改めて衝撃を受けました。
映画『史上最大の作戦』は私が高校生のころに映画館で上映されているのを見に行った記憶があります。映画でも連合軍が苦労していたように描かれていましたが、現実はもっと悲惨で、どうしようもない状態だったようです。
(2011年8月刊。3000円+税)

人間はなぜ眠れないのか

カテゴリー:人間

著者   岡田 尊司 、 出版   幻冬舎新書
 世の中には、不眠症で悩んでいる人が意外に多いですよね。一日に4時間とか5時間しか寝ていないという人もいますが、夜ぐっすり眠れない、だから昼近くまで寝ていて、頭がずっと冴えないと嘆いている人が少なくありません。幸い、私は寝つきが良いのですが、たまに悶々とするときがあります。間違って夜7時以降にコーヒーとか緑茶を口にしてしまったときです。どうしてかなと振り返ってみて、はっと思いあたるのです。
 この本は眠ることの大切さとあわせて、ぐっすり眠るための秘訣を公開していて、とても実践的に役に立ちます。
 日本人の5人に1人は不眠症。3人に1人が何らかの睡眠障害をかかえている。短期の不眠では、一方で神経疲労の影響があり、もう一方でストレスホルモンの作用がある。
 眠れなくても、目を閉じて横になって休養しておくのは大切なこと。
神経システムが休みなく活動を続けると、一つには神経伝達物質を放出し尽くして貯蔵庫が払底してしまうことになる。また、受け手の受容体が神経伝達物質にさらされ続けた結果、一過性に反応しなくなる状態(脱感作)を引き起こす。これらが、神経疲労である。
 睡眠は健康な精神の維持に大切なものである。睡眠障害は、まず注意力(とくに注意の持続)記憶力などの機能を低下させる。高度な情報の統合を必要とする判断力や抽象的思考、想像力が、とくに影響を受けやすい。
 老化を防ぐためにも、中年以降はいっそう質の良い睡眠を十分にとることが大切だ。睡眠不足は攻撃的な行動を引き起こしやすいし、他者に対する関心が乏しくなって、ひきこもりの原因ともなる。
 ノンレム睡眠、ことに徐波睡眠は、免疫力を維持するうえで、非常に重要である。睡眠不足は、免疫力を低下させ、感染症、そしてがんにかかりやすくなる。
 レム睡眠は長期記憶の形成に関与している。
 よく眠るためには、ベッドで仕事をしたり、テレビを見ることはしない。夜眠るときは、必ず決まった寝室やベッドで眠るようにする。寝る直前に入浴するより、少し早目に入浴し、火照りが落ち着いてから床に入るほうがいい。
 夜、メラトニンの分泌が活発になると体温が下がる。このタイミングとあわせると、眠りに入りやすい。そして、午後のコーヒー、午後3時以降の昼寝は避ける。
 ぐっすり眠れたら、朝の目覚めがすっきりして、今日も一日がんばろうという気になれますよね。
(2011年6月刊。760円+税)
 日曜日に近くの小学校で運動会があっているようで、風に乗って号令をかける子どもの声などが聞こえてきました。もう久しく運動会には行っていません。
 先日、原発問題の学習会で今の福島市内の放射能量は学童疎開されるべきレベルなのに、政府は何もしないのはおかしい、人体実験をしているようなもので、許されないことではないかという指摘がありました。目に見えないだけに、放射能の恐ろしさを実感することは出来ませんが、妊婦さんや子どもたちの疎開はもっとすすめられるべきだと思いました。
 いま、わが家の庭にはピンクと白の芙蓉、酔芙蓉の花ざかりです。百舌鳥のかん高い鳴き声を聞きながら、せっせとチューリップの球根を植え、その準備をすすめています。来春が楽しみです。
 周囲の田んぼの稲穂は黄金色となり、刈り取りを待つばかりです。

三池炭鉱・「月の記憶」

カテゴリー:社会

著者  井上 佳子  、 出版  石風社   
炭鉱節で有名な福岡県大牟田市には与論島出身の子孫が今もたくさん住んでいます。
戦前、明治31年(1898年)に与論島が台風に襲われ、人々が島で生きていけなくなったため、長崎県口之津(島原半島)に移住していった。当時、口之津は日本最大の石炭積出港で、そこで働いていた。ところが、1910年、大牟田の三池港が開港、石炭は口之津港から積み出されなくなった。そこで、与論島の人々は、73人が口之津に残り、623人が与論島に帰り、428人が三池に移った。
与論の民のことをユンヌンチュという。タビンチュとは本土の人間のこと。
大牟田市の中心部、延命動物園のすぐ横に与論島出身者共同の納骨堂があり、「奥都城」(おくつき)と書かれている。これは日本の古語で「お墓」のこと。与論島には、日本古来の言葉が残っている。
与論島には、面積20平方キロメートル、周囲23キロメートルの小さな島だ。人口6000人。かつては観光地として栄え、年に15万人もの観光客がやって来た。しかし、今はブームも去り、年間7万人がマリンスポーツを目的にやってくるのみ。島民は漁業とさとうきび栽培を生業としている。
 与論島出身者は、大牟田市内の海岸に近い新港町社宅に住んだ。
1997年、三池炭鉱は閉山した。官営時代から124年間、三井の経営になって109年間の歴史に幕を下ろした。
三池炭鉱の歴史を支えた労働者集団の一翼としての与論島出身者の人々に焦点をあてた貴重な労作です。熊本放送がテレビで2009年2月に全国放送したものをもとにした本です。
(2011年7月刊。1800円+税)

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