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2011年8月 の投稿

トランクの中の日本

カテゴリー:日本史

著者   ジョー・オダネル 、 出版   小学館
 日本の敗戦直後、進駐してきたアメリカ軍の若き従軍カメラマン(23歳・軍曹)が日本各地を撮影してまわりました。そのとき、彼は自分個人のカメラでも撮影していて、それをトランクに入れてアメリカに持ち帰ったのでした。7ヵ月間にとった300枚の写真のネガです。そのトランクを45年後に開けて公表したのでした。
 アメリカ軍が日本に上陸する直前の写真から始まります。佐世保の高いビルの屋上にのぼり、廃墟となった佐世保市内にカメラを向けている状況写真もあります。まさに、今回の東日本大震災と同じ、まるで何もありません。ところどころにコンクリートビルの残骸があるだけです。
 武装解除された日本軍の将兵が馬車に荷物を積み、歩いて市内を行進していきます。
子どもたちが、チョコレート欲しさにアメリカ兵に群がっています。
 死体を焼く悪臭のため、鼻を着物のそでで押さえながら若い娘たちが歩いて通り過ぎていきます。
アメリカ兵の宿舎となった旅館で風呂に入り、食事をし、仲居さんたちと談笑している状況もあります。
 福岡の町並みは、さすがに木造ばかり、パン屋の前には長い行列ができています。
 驚くべきことに小さな小学校で運動会があっています。障害物競走の様子がうつっています。子どもたちは皆、元気いっぱい。手伝いをして働いている子どもたちもいます。
 広島にも空から行って写真をとりました。佐世保以上に何もない光景が遠くまで広がり続いています。
 長崎の爆心地にも立ちました。瓦礫の山です。そして瓦礫の中に人骨が散らばっています。被曝者は、顔が真っ黒、着ている衣服もボロボロ。背中にひどい火傷を負った少年の写真もあります。
 同時に、小学校では既に授業が始まっています。ところが、机の上には、まだ教科書がありません。
 死んだ弟を背負って焼場に来た少年の健気な様子の写真には心を打たれます。
 カメラ片手に広島・長崎をさまよって放射能を浴びたことで、後年、若者は体調をくずしてしまいました。放射能は、随分たってから影響を及ぼすものなのですね。
1995年夏にスミソニアン博物館で展示が企画されたものの、アメリカ国内の在郷軍人などの反対で中止に追い込まれてしまいました。この大判の写真集はそこで展示されるはずの写真からなっています。少し高価(2500円)な写真集ですが、ぜひ手にとってじっくり眺めてください。つくづく戦争は嫌だという気になります。
(2008年8月刊。2500円+税)

囁きと密告(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  オーランド・ファイジズ     、 出版  白水社 
 スターリンの大テロルの直接の犠牲者は大人たちですが、当然のことながら子どもたちも犠牲となりました。大量の親なし子が生まれたのです。
 大テロルは家庭を押しつぶし、家族をバラバラに引き離したが、生き残りのメンバーを再び結び合わせる努力の中心には、いつも祖母たちの働きがあった。ロシアのおばあちゃんも、たくましいのです。当局を前にして一歩も引かずに孫たちを守り通していったのでした。
両親の無実を一瞬たりとも疑ったことはなかった。両親への信頼を維持することができたのは祖母のおかげだった。祖母はソヴィエト権力の本質を理解しており、何を言われても負けなかった。革命が起こったとき、祖母は既に40歳に近かったからだ。
多くの場合、親が逮捕されると、残された子どもは一夜にして大人になった。
 両親が逮捕されたとき、頼る先をもたない子どもの数は数百万人を下らなかった。多くは孤児院に収容されたが、中には浮浪児となって街をうろつく子どももいた。少年ギャング団が出来た。
 孤児たちは、自分たちが世界で一番幸福な孤児だと思い込んでいた。なぜなら、すべての子どもを愛する国父スターリンに率いられる国家が孤児たちにすべてを与えてくれるからだ。なんという皮肉でしょうか・・・・。
10代後半の年齢を迎えた「人民の敵」の子供たちにとって、「ソヴィエト市民」としての社会復帰を象徴する最大の出来事はコムソモール(青年共産同盟)への加盟だった。流刑地や特殊居住地で育った「クラーク」の子どもたちにとって、出征の汚点を克服する唯一の道は、ソヴィエト社会の価値観を全面的に受け入れることだった。
 1938年終わりころから政策が変更された。「クラーク」の子どもたちの「鍛え直し」と社会復帰が強調され始めた。
1939年8月、スターリンは英仏両国への期待を維持できなくなった。スターリンは欧州戦争が勃発することを確信していたが、同時に現状ではナチス・ドイツに抵抗する軍事力がソ連にないことも理解していた。とくにかなりの兵力を満州国境に配置しなければならないという条件が対独戦争を困難にしていた。そこで、スターリンはヒトラーと協定を結ぶ以外に選択肢はないという結論に達した。独ソ不可侵条約を結んだのは、長期的な計算からではなく、目の前に発生していた事態への対応策だった。
独ソ戦が始まったときのソ連の壊滅的敗北は、スターリンが情勢の把握に失敗して防衛体制の準備を怠ったというだけでなく、それまでのスターリンのテロル支配が恐怖と不信を生み、その結果、国家の有機的な防衛能力が事実上の機能不全に陥っていたことによる。
 赤軍の指導部に対して発動されたテロルは指揮官たちの権威を失墜させ、彼らを萎縮させていた。指揮官たちは処罰されることを恐れ、彼らの一挙手一投足を監視しているコッミサールなどの政治将校たちによって告発されることをひたすら避けようとしていた。そのような指揮官が適切な軍事的判断を下し、主導権を発揮することは不可能だった。指揮官たちは、いきおい消極的になり、上部からの命令を待つだけになった。しかし、命令は常に遅きに失し、現場の軍事情勢に能動的に対処するには、何の役にも立たなかった。
 1942年9月、スターリングラードの戦いのとき、優勢なドイツ軍に圧倒されながらも、廃墟となった街路とビルを守ろうとして必死に戦うソヴィエト軍兵士の異常なほど高い士気は記者を驚かせた。厳しい軍規によっても、イデオロギーによっても説明のつかないこの戦意こそがスターリングラード戦の帰趨を左右し、ひいては戦争全体の命運を決した。
 テロルより効果的だったのは、ソヴィエト国民の愛国的心情に訴えるというやり方だった。兵士の圧倒的多数は農民の息子だった。彼らには農村を破壊したスターリンや共産党に対する忠誠心はなかった。彼らが愛していたのは、家族と故郷であり、イメージのなかの「祖国」だった。政府は国民の愛国的心情に訴えかけようとして、そのプロパガンダから、次第にソヴィエト的なシンボルを引っ込め、古い「母なるロシア」のイメージを全面に押し出した。
 国民が自己犠牲の精神に慣れ親しんでいたことこそがソ連邦の最大の武器だった。とりわけ1941年夏の開戦から1年後、ソ連が全面的な敗北をこうむりつつもなんとかして生き延びようと悪戦苦闘していた時期に、国民の自己犠牲の精神は決定的に重要な役割を果たした。軍事指導部の度重なる失策と政府機能のほぼ全面的な麻痺状態を埋め合わせたのは、膨大な数の兵士と一般市民の自己犠牲だった。自己犠牲の精神がなかでも強かったのは、1910年代から20年代前半にかけて生まれた人々だった。つまり、国家のために自己を捨てたソヴィエトの英雄たちの神話を常に聞かされて育った世代だった。
 兵士がその開戦能力を最大限に発揮するのは、何のために戦うのかを知っているときであり、自分自身の運命と戦争の目標を一体のものとして意識するときである。
 1943年からソヴィエト軍に勝利をもたらした要因は、兵士の勇敢さと粘り強い抵抗力に加えて、赤軍内部の指揮系統が変更されたことも重要だった。スターリンは開戦後1年間のみじめな敗北を経験して、軍事指導権に対する党の介入が(最高司令官としての自分自身をふくめて)戦闘能力を引き下げていること、軍人たちを信頼して一任するほうが有効であることを認めざるをえなくなった。
 1942年8月、スターリンはジューコフ将軍を最高司令官代理に任命して、自分は軍事指導から一歩引き下がった。戦略計画と戦争努力遂行の責任は、次第に政治家の手から参謀本部の軍事評議会の手に移り、主導権を握った参謀本部は党指導部に情報を伝えるだけとなった。コミッサールらの政治将校が軍事的な意思決定に関与する機会は大幅に減少した。党による監視と管理から解放された軍事司令部は新たな自信を獲得した。自立性が勇気ある発意につながり、安定した軍事専門家集団を生み出した。
 戦時経済の発展には、グラーグ管理下の収容所の労働力が大きく貢献した。ソヴィエト軍の全弾薬の15%、軍服の大部分、軍の糧食のかなりの部分が労働収容所の囚人労働によって生産されていた。収容者人数は1941年から43年にかけて減少した。50万人の囚人が「罪をあがなうために」前線に送られた。
 戦争中、党は党員数でこそ倍増したが、戦前の党の特徴だった自発的精神は大幅に失われた。党の中核を形成していたボリシェビキの多くが1941~42年に戦場で消えていった。1945年になると、600万人の党員の半数以上が軍人であり、3分の2は戦争中に入党した党員だった。党の気風は1930年代とは大きく変わった。
 テロルによって労働収容所に入っていた母親と、孤児院育ちの子どもが再会しても、それまでの人生で受けた傷が深すぎて、互いに心を開くことができず、親密な関係になれなかった。
 戦後スターリンは、すばやく手を打って、政治改革を求めるあらゆる動きを抑制した。終戦直後の最初の粛清の標的としてスターリンが選んだのは、赤軍幹部と党指導部だった。まず、赤軍幹部が狙われた。ジューコフ元帥は改革を求める国民の希望の星だった。そのジューコフは降格され、左遷された。レニングラードの指導者たちも狙われた。
終戦と同時に、国家が無給で利用できる労働力は膨大な規模に増大した。既に存在していたグラーグ管理下の囚人と労働軍に徴用された労働者に加えて、200万人のドイツ軍捕虜とその他の枢軸国軍の捕虜100万人が手に入った。戦後のソ連経済はグラーグ経済と通常の民生経済とが分かち難くからみあう形で発展した。
ソヴィエト・ロシアで生き残るためには、どの 時代であれ、自己を隠して偽装する技術が必要だった。しかし、仮面をかぶって自己を偽る技術が完成の域に達したのは戦後期になってからだった。人々は人前での演技があまりにもうまくなったので、ついには自分が演技をしているのか、それとも、それが本来の自分の姿なのかの区別がつかなくなる有り様だった。ソヴィエト国民の典型的な心理状態は自己分裂だった。
新しいソヴィエト官僚は、必ずしも党と党の理想の信奉者ではなかった。ただし、党の命令に忠実に従うという意味で従順な出世主義者だったことは間違いない。スターリン体制は大小の権力者を通じて機能していた。
スターリンの死が何を意味するにせよ、大多数のソ連国民にとって、それは恐怖からの解放ではなかった。むしろ、恐怖が強まった。次に何が起きるのか分からないという恐怖だった。
囚人たちがスターリンの牢獄から帰還しはじめると、彼らを収容所に送り込んだ側の人々は、当然ながら、恐怖におののいた。
自分たちの運命を左右する力が何であるかを知らないソヴィエト国民の大多数は、依然として混乱したまま、自制心を発揮し、過去についての沈黙を維持していた。
この本で描かれていることの多くは、決してスターリン体制下のソ連だけのものではないと思いながら最後まで興味深く一心に読みふけりました。おかげで、上下2巻の紹介がこんなにも長くなりました。それほど、刺激的な本なのです。この労作を書き、また翻訳した人たちに心から拍手を送ります。
(2011年5月刊。4600円+税)

白土三平伝-カムイ伝の真実

カテゴリー:社会

著者   毛利  甚八 、 出版   小学館
 私が大学に入ったのは1967年のことですから、もう40年以上も前のことになります。6人部屋の学生寮での生活は天国のように快適でした。完全な自治寮で、寮費は月1000円、三度の食事付きです。夜になると、夕食の残りものを残食(ざんしょく)と称して寮委員会がマイク放送して売り出します。すると、育ち盛り、食べ盛りの寮生が走り出し、またたく間に長蛇の行列が出来あがりました。私にとってお昼に百円定食を食べるのはちょっとしたぜいたくでした。なにしろ寮定食なら60円で食べられたのです。ただ、一般学生用の学生会館のランチ定食は120円くらいのがありました。私には高値の花でした(たまには食べましたけど・・・)。
 その寮の部屋には毎月の『ガロ』があり、白土三平の「カムイ伝」が連載されていたのです。目を見張るような衝撃的な絵とストーリー展開でした。文字からのイメージしかなかった百姓一揆が視覚的に生き生きと描かれていて、なーるほど、そうだったのか・・・と、頭をひねってしまいました。
 当時、大学生だった人のかなりは「カムイ伝」を一度は読んだことがあるのではないでしょうか。それだけ話題性がありました。それは、「少年サンデー」や「少年マガジン」といった子ども向けとは違った、大人向けのマンガであり、ストーリー展開でした。
 この本は、『家栽の人』の原作者が、白土三平をずっとずっとインタビューして、本人の了解をもとに刊行したものです。白土三平の生い立ち、生活の様子、マンガ作成の過程が実に細かく紹介されています。
 白土三平、本名は岡本登。その父親は戦前プロレタリア画家として活躍し、特高から拷問も受けた経歴の持ち主です。だから、戦前・戦後を通じて白土三平は貧窮生活を強いられています。そして、その中で山野をたくましく生き抜いてきた情景がマンガに結実しているのです。
 それにしても「カムイ伝」は長大なマンガ絵巻です。1964年(昭和39年)に始まり、2000年まで37年がかりで描き継がれたのは38巻。そして、いまなお未完というのです。その息の長さには恐れいります。
 白土三平は1932年(昭和7年)の生まれ、今、79歳。まだまだ大いに活躍してほしいマンガ家です。
(2011年7月刊。1500円+税)

トキワ荘、最後の住人の記録

カテゴリー:社会

著者    山内  ジョージ  、 出版    東京書籍
 楽しい本です。私にとっては、イヤミだの、シェーだの、思い出深いマンガがつくられた舞台裏の話が満載なので、面白く読みふけってしまいました。
 トキワ荘というと手塚治虫を連想しますが、著者は少し後の世代なので、残念ながら住人としては手塚治虫は登場してきません。トキワ荘の住人として登場してくるのは、石ノ森章太郎と赤塚不二夫です。
 著者はトキワ荘の住人としてアシスタント稼業にいそしんでいました。惜しいことにトキワ荘は今はありません。目白駅近くの目白通りにあったオンボロアパートにそうそうたるマンガ家たちが、みんな卵だったころ、ひしめきあって住んでいたのです。一度は現地に行ってみたいなと思います。
 著者が宮城県から上京したのは昭和33年の夏のことです。中学校のときの修学旅行以来2度目に東京でした。トキワ荘を一路目ざし、高校の先輩である石ノ森章太郎をたずねていったのです。
 著者のマンガもなかなかのもので、私なんかうまいと思いますが、やはり世の中には上には上がいるものです。石ノ森章太郎にはとてもかないません。アシスタントは辛いものです。3日間で合計6時間しか眠れず、仕事が終わったらふらふらしていた。こんなんじゃ長生きはできないだろうなあとしみじみ思った。漫画家はタフじゃなければつとまらない。と言いつつ、著者は70歳の今も元気なのです。
 赤塚不二夫のアシスタントをしていたとき、原稿が遅れに遅れ、とうとう印刷所に連れていかれた赤塚さんについていった。印刷現場に隣接する校正室で執筆し、描き上げるそばから一枚ずつ印刷現場に持っていく。赤塚さんを手伝い、仕上げの消しゴムを当てる。その消しゴムを当てないうちに、時間がないと言って持っていかれた・・・。それにしても漫画家というのは、まことに心臓によろしくないと、つくづく身にしみて思った。というのです。弁護士の仕事でも、そんなことがありそうな状況です。はい、時間に追われ、時間との戦いになることは弁護士だってあるのですよ・・・。
 シェーという振り付けが流行したのは昭和40年。ゴジラもシェーをする。長嶋茂雄もシェーをし、果ては昭和41年に来日したビートルズまでシェーをしたという。本当かいな・・・?
九州には、東日本漫画研究会九州支部ができたというのです。なんと変てこな名称でしょうか。松本零士や内山安二(私は知りません)が会員だったとのこと。
 昔なつかしいマンガの舞台裏をひととき味わい、楽しみました。
(2011年6月刊。1600円+税)

僕は、そして僕たちはどう生きるか

カテゴリー:社会

著者   梨木 香歩 、 出版   理論社
 不思議な小説です。
 子ども向けの本のようだと思いながら読みすすめていくと、突然ゴチック体で場違いのような状況が描かれています。その場面だけはどうしても子ども向けではありません。そして、それに関わる人物はとうとう最後まで登場してこないのです。
 自然と人間の関わりがいろんな角度から焦点をあてて考察されています。主人公の一人は長らく登校拒否で引きこもりでした。
 兵役を忌避して山中にこもっていたという老人も登場します。その代わり、山の中のことには滅法詳しいのです。
 私も自然に近い環境の中で生活しています。ホタルは5分も歩いていけば見れます。ところが自然に近いということは、大変な面もあります。昨日も、明け方になって頭上のところで、小鳥が飛び立つ音のあとガタガタ音がしました。少し前に見た光景から推測するに、ヘビがスズメの巣を襲ったのではないかと思われます。2階までヘビがどうやって柱をのぼってくるのか不思議でなりません。しかし、その不思議さは現実のものなのです。そして、虫によく刺されます。ヤモリも部屋の隅をチョロチョロしますし、クモも大小さまざま畳の上を闊歩するのは日常茶飯事です。ですから、虫さされ、かゆみ止めの薬はすぐ手の届くところに置いてあります。ヘビもマムシだったら、咬まれたらすぐに病院に駆け込むしかありません。身近に家人がいなくて、ケータイもなかったら、どうしましょう。手遅れにはなりたくありませんが・・・。
 ずっと一つのことを考えてたんだ。僕は、そして僕たちは、どう生きるかについて。
 主人公のセリフです。なかなか口に出しては言えない言葉です。
僕も集団から、群れから離れて考える必要があった。しみじみそう思って決行したのは、しばらく経ってからだった。それが、学校に行かなくなった理由なんて、誰も分からなかったと思う。誰もまた、分かりたくなかっただろうし・・・。
 人間の心の微妙な動きをよく描いていると思いました。
(2011年6月刊。1600円+税)

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