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2011年7月 の投稿

ユダヤ人大虐殺の証人 ヤン・カルスキ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ヤニック・エネル  、 出版   河出書房新社
 重たい本です。いえ、220頁ほどの軽い本なのですが、読み終えると、ずっしり心に重くのしかかったものを感じます。強制収容所に忍び込んでユダヤ人大虐殺の現場をみて、ワルシャワ・ゲットーにまで立ち入っています。そして、自分の見た事実をイギリスで、アメリカで、つぶさに報告したのに、誰も動いてくれないのです。アメリカの大統領にいたっては報告の最中、何度もあくびをかみ殺していたのでした。ええーっ、嘘でしょと叫びたくなります。でも、アウシュビッツなどの強制収容所を、少なくともその周辺を爆撃すれば良かったのに、連合軍は近くの工場を攻撃目標としても、収容所やそれに至る線路などを爆撃することはありませんでした。その理由は、ユダヤ人が逃げ出してきて、自分の国にやってこられたら困るということだったようです。そして、ソ連のスターリンへの配慮でもありました。なんということでしょうか。そこで、著者は絶望感に陥り、長く口を閉ざすことになります。大学の教員として、学生たちには少し話していたようですが・・・。
 著者はポーランド人です。カトリックを信じるユダヤ人だとも自称していたようです。なぜ何百万人ものユダヤ人が殺されてしまったのか、その問いかけに対する答えは、実に重いものがあります。
 レジスタンス運動の捕まったメンバーに対して、次の言葉とともに青酸カリの錠剤が2つ送られてきた。
 「きみは勇敢勲章を授けられた。青酸カリを添える。また会おう。同胞」
それでも著者はナチス・ドイツの魔の手から脱出することができたのでした。もちろん、多くの人の援助がそこにありました。
 ユダヤ人の組織(ブンド)のリーダーは言った。連合軍に理解させなくてはいけないことは、ユダヤ人には防御手段がないという点だ。ポーランドでは誰にも、この絶滅政策を妨げることができない。レジスタンス運動だけでは、少数のユダヤ人しか救えない。連合国の列強が彼らを救いに来なくてはならない。外からの援助が必要だ。ナチスは、ポーランド人のように、ユダヤ人を奴隷にしようとしているのではない。彼らは、ユダヤ人を絶滅させたいのだ。この両者はまったく違う。世界は、まさにこのことを理解できない。説明しようとしても、このことが説明できない。
 ヤン・カルスキは正確な事実を確かめようと、ブンドのリーダーに質問した。ゲットーのユダヤ人のうち、既に何人死んだか。収容所に移送された人数分が死者だというのが答えだった。ヤン・カルスキは驚く。強制移送されたもの全員が殺されたのか?そうだ、全員だ。リーダーは断言した。心が寒くなる回答です。
 連合国は恐らく、1年か2年あとには戦争に勝つだろう。しかし、ユダヤ人にとっては遅すぎる。そのときには存在していないのだから。西洋の民主主義国家は、いったいどうして、ユダヤ人がこのように死んでいくのを見殺しにできるのか・・・?
ヤン・カルスキは、1942年11月、イギリスに到着し、ポーランド亡命政府に報告することができた。ロンドンからみると、ポーランドの存在など、たいした問題ではなかった。この戦争の機構と、その経済規模があまりに大きいため、ポーランドの状況などあと回しにされてしまう。
 ヤン・カルスキはニューヨークに行き、ユダヤ人のフランクファーター最高裁判事にも訴えた。
 「そんなこと、信じられません」
 「私が嘘を言っているとお考えですか?」
 「あなたが嘘をついたといったのではありません。私にはそんなことは信じられないと言ったのです」
 1943年にはヨーロッパのユダヤ人が絶滅させられつつある事実を信じるのが不可能だったことから、「世界の良心」は揺り動かされなかった。同じくルーズヴェルト大統領にも直接話して訴えた。しかし、誰もヤン・カルスキの話を信じなかった。信じたくなかったからだ。何百万人もの人間を抹殺するなんて、不可能だと言い返した。ルーズヴェルトは驚いてみせたが、その驚きは偽りにすぎなかった。彼らは全員知っていたのに、知らないふりをしていた。無知を装った。知らないほうが、自分たちに有利だったから。そして、知らないと思い込ませることが利益になった。
 しかし、諜報機関はちゃんと働き、だから彼らは知っていた。イギリスは情報を得ていたし、アメリカも情報を得ていた。事実を十分に知りながら、ヨーロッパはユダヤ人絶滅政策を止めさせようとはしなかった。イギリスとアメリカの消極的加担を得て、ヨーロッパのユダヤ人はナチスに絶滅させられつつあり、続々と死んでいった。
 ポーランド人とは、レジスタンス運動を意味する。ポーランド人であるとは、すべての圧制に反対することなのだ。ポーランド人は、ヒトラーに対してだけでなく、スターリンとも闘った人だ。ポーランド人は、いつの世でもロシア人に対してたたかった人だ。ポーランド人とは、何よりもまず、共産主義の嘘にだまされなかった人のこと。そしてもう一つの嘘、アメリカによる支配の嘘、民主主義を自称する国に特有の罪深い無関心にもだまされない人のことだ。うむむ、こんな言い方が出来るのですね。重たい指摘です。
 ヨーロッパのユダヤ人を救済することが誰の利益にもならなかったら、行動しなかった。イギリス人もアメリカ人も、ヨーロッパのユダヤ人を救えば、自分たちの国に受け入れなくてはいけなくなるのを怖れた。パレスチナをユダヤ人に開放しなければならなくなるのを、イギリスは嫌がった。
 アメリカによって巧みに組織されたニュルンベルク裁判は、ヨーロッパのユダヤ人絶滅政策に対する連合国の加担を言及しないための隠れ蓑でしかなかった。もちろん、罪を犯したのは、ナチスである。ガス室を設置したのはナチスであり、ヨーロッパのユダヤ人数百万人を強制移住し、飢えさせ、辱め、拷問し、ガスで殺し、焼いたのもナチスだ。だが、ナチスに罪があることは、ヨーロッパとアメリカを無罪にするものではない。
 初めは、なんだか読みにくいなと思っていましたが、途中からは一気呵成に読了しました。
(2011年3月刊。2200円+税)

チョウはなぜ飛ぶか

カテゴリー:生物

著者    日高 敏隆・海野 和男  、 出版   朝日出版社
 チョウの楽しい写真が満載の素敵な本です。
 チョウは、はね(翅)の根元ではなく、どうたいに背中と腹をつなぐ筋肉があり、この筋肉が伸びたり縮んだりすると、背中と腹が動く。それにくっついてはねも動くから飛べる。
 チョウとガは、ともに鱗翅類という、羽に鱗粉がついた昆虫の仲間である。昼間に飛ぶのがチョウ、夜に活動することにした仲間がガと呼ばれる。
チョウは紫外線を光として感じる。モンシロチョウは、紫外線をふくめた色の違いでオスとメスを見分けている。
 人間には紫外線は見えない。というのも、紫外線の作用はとても強く、もし目の奥まで入ってくると、目の奥が日焼けしたようになって、見えなくなってしまう。それでは困るので、紫外線を吸収するレンズのようなものが入っていて、紫外線がそこでとまり、奥まで入ってこないようになっている。モンシロチョウは紫外線が見えるけれど、赤色は見えない。
チョウの飛ぶ道(チョウ道)は一定だが、それは地形によるのではなく、光と温度による。だから、春と夏ではチョウは道は異なる。季節によって、天候によって、一日のうちの時間によって、そして気温によってさまざまに変わる。しかし、個々のチョウによって変わるのではないチョウ道が存在する。だから、チョウ道は確実に予言できる。しかし、チョウ道があるのは、アゲハチョウの仲間だけでモンシロチョウにはチョウ道はない。
 チョウは花を見るとき、姿、形、大きさによって判断していない。モンシロチョウは、赤、黒、緑には寄ってこない。チョウは、すぐ近くからしか見えないから、いつも一生懸命はねをヒラヒラさせて、自分の近くを探している。
 こんな見事なチョウの写真集が1900円で手に入るなんて、申し訳ない気がするほどでした。
(2011年6月刊。1900円+税)

フェルメールの光とラ・トゥールの焔

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    宮下  規久朗   、 出版   小学館ビジュアル新書
 フェルメールの光の粒も、ラ・トゥールの静謐な焔も、レンブラントの輝く黄金も、ダ・ヴィンチの天上の光も、美しい光は美しい闇がなければ描けない。
 これは、この本のオビにあるセリフです。まことにもってそのとおりです。この本を読むと、けだし至言である、とつい言いたくなってしまいます。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵は、光はどこから差しているのかわからないが、人物たちは影の中から浮かび上がってくる。レオナルドは、背景を漆黒の闇に塗りつぶすこともあった。
16世紀のイタリアに来たギリシャ人、エル・グレコの「ロウソクの火を吹く少年」は、燃えさしの火種と、それが照らし出した少年の顔や手の明暗を、実際に観察したようにとらえている。宗教的テーマではなく、光と影の迫真的な描写がそこに認められている。
カラヴァッジョは、光と影による空間の描出、そしてドラマの演出に重点を移し、その技術を高めた。その絵「聖マタイの召命」は、見事です。
 17世紀はじめのヴェネツィアで活躍したドイツのエルスハイマーは夜景表現を得意とした。彼の「エジプト逃避」には、満天の星、天の川、そして星座が正確に描かれている。これって、すごいことですよね。天体望遠鏡の精度はそれほどのものではない時代に・・・。
 17世紀はオランダが美術史上類を見ないほど濃密で高度な美術の黄金時代を迎え、科学や哲学も発展したため、オランダの世紀と呼ぶこともある。
 オランダ絵画の黄金時代を代表する三代巨匠ハルス、レンブラント、フェルメールは、いずれもイタリアには行っていないが、みな深くカラヴァッジョ様式の影響を受けている。
 レンブラントの絵「夜警」っていいですよね。ぜひ、一度現地に行って現物を拝みたいと思います。
 ゴッホの「聖月夜」も最後のところで紹介されています。夜の闇のなかに、くっきり光かがやくように描くのって、希望があっていいですね・・・。素敵な新書でした。
(2011年4月刊。1100円+税)

兼好さんの遺言

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者  清川 妙    、 出版  小学館
 いま90歳、現役の講師として活躍中の著者による、読んで元気の出る本です。
 たったひとり、灯火の下に書物をひろげて、自分が見たこともない、遠い昔の人を心の友とすることは、このうえもなく楽しくて、心が慰められることだよ。
 人、死を憎まば、生を愛すべし。
 存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
 人の命は、雨の晴れ間をも待つものかは。
 明日をも予測できない生命。死は背後からそっとしのび寄り、無警戒の人をつき落とす。雨がやむまでも待っておれない。いま、この瞬間、一刹那が大事。
 以上、いずれも兼好の言葉です。いいですね。
 著者は40歳のときに物書きとなりました。
 緊張と集中と、強い意思を求められる日々。だけど、原稿を書き終えたあとの達成感と充実感は、何ものにも換えがたい。生きているという実感が心身にみなぎる。
 そうなんですよね。私も目下自分の体験をもとにした小説に挑戦中なんですが、これを書いて考えているときには、生きている、60数年を生きてきたという実感があります。
 カルチャーセンターで講義を受けるとき、講師とは一対一だと思うべし。他の人は意識から消し去ること。自分ひとりが講師と向きあう、個人レッスンだと思わないといけない。そして、頭に浮かんだことを、素直に言葉にして講師と対話すること。
 なーるほど、ですね。そうなんですか。今度、私も、フランス人の講師とそんなつもりで話してみましょう。
 生きている、そのこと自体が、魔法のように不思議なこと。
 死という、目には見えない、しかも動かぬ定めを、創造力という心の目でしかと見定め、覚悟をもとう。そして、この世にある間は、いのちを大切にして、ひたすら生をいとしみ、この世の日々を充実させて生きようではないか。
 花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは・・・・。
 年を重ねてくると、その智恵は若いときよりまさる。それは、若いときには、その容貌が老人にくらべてまさっているのと同じことなのだ。
 むむむ、なるほど、まったくそのとおりです。これも私が年を取ったから同感できる言葉です。
 物事には、確かに潮時がある。しかし、本当にやりたいことがあるのなら、潮時なんて考えるな。やりたいと思ったときこそ、潮時なのだ。人生はたった一度しかないのだから・・・。
 「徒然草」の原文を読み返してみたくなりました。本当にいい本でした。90歳になっても、こんな本を書けるなんて、実に素晴らしいことです。心から拍手を送ります。
(2011年6月刊。1300円+税)

世界史をつくった海賊

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  竹田 いさみ    、 出版   ちくま新書
 イギリス、昔の大英帝国は海賊と深いつながりがあったどころか、そのおかげで世界を支配してきたことがよく分かる本です。
世界経済を長く牛耳ってきたイギリスの金融街ザ・シティは、そもそも海賊出身者が金融を動かしてきたもので、海賊ビジネスの元祖である。
 フランシス・ドレークはイギリスを代表する超大物の海賊であり、スペインやポルトガルを相手に略奪の限りを尽くした略奪王にほかならない。このドレークは女王エリザベスⅠ世からないとの称号を与えられたが、それは略奪した財宝によってイギリスに多大の富をもたらしたことによる。
 スペイン支配下のカリブ海へ大量のアフリカ系黒人を密輸したのもイギリスの貿易商人だった。そのとき、エリザベス女王が権力者、黒幕、投資家として常に登場してくる。これらの出来事に深く関与し、先兵として働いていたのが海賊である。現在、保険会社として世界に君臨するロイズ、高級紅茶として知られるトワイニングも、かつては海賊と切っても切れない関係にあった。
 海賊はエリザベス女王時代の経済的基盤を支えただけでなく、いざ戦争となると特殊部隊として参加し、イギリスを戦争の勝利者へと導いた。海賊は国家権力と一体化していて、海賊の存在なくしてイギリスが世界史に残る偉業を遂げることはなかった。
 エリザベス女王にとって、海賊は利用価値の高い集金マシーンと認識されていた。エリザベス女王がドレークをひいきにした最大の理由は、ドレークが巨額の利益をもたらしたからである。少なくともイギリスに60万ポンドをもたらし、エリザベス女王は半分の30万ポンドを懐に入れた。当時の国家予算は20万ポンドだったから、実に3年分の国家予算に匹敵する海賊マネーをイギリスに持ち帰ったことになる。
ドレークは単なる探検家ではなく、海賊としての能力と実績がある。献上品の大半は盗品、主として、スペイン船から略奪した金と銀である。
 ドレーク海賊船団の生還率は高く、乗組員164人のうち100人が生還している。ドレークの略奪対象は、金と銀のコインや延べ棒が中心で、これに加えて大量の砂糖やワインを含んでいた。
 イギリスの海賊船団といえども、スペイン護送船団を襲うだけの力量はなく、護送船団の枠外で航行しているスペイン船を待ち伏せしてゲリラ的に襲撃していた。ドレークたちは、そのため綿密な情報収集を行っていた。イギリス側は、スペインのスパイが常駐していることを十分知り尽くしたうえで、策を講じていた。
 エリザベス女王が海賊に関与している証拠を残さないよう最新の注意が払われていた。ドレーク船団のなかでも、ドレークのみが航海の目的とルートを知っていて、情報管理に心がけていた。たとえ海賊シンジケートが失敗に終わっても、女王に責任が及ぶことのないよう、闇に葬られた。
 ドレーク海賊船団には、女王を筆頭に側近グループがこぞって出資しており、まさに国家を総動員した一大プロジェクトであった。
イギリスがスペインの無敵艦隊に勝利したのも、ゲリラ戦、スパイ戦、そして海賊作戦という三つの戦術をたくみに組み合わせることが出来たからである。ドレークたち海賊とイギリス王室海軍は一体化していた。
 西アフリカで調達した黒人奴隷をカリブ海のスペイン植民地にこっそりと、しかも組織的に密輸するルートを開発した主人公には大物海賊のジョン・ホーキンズだった。そして、ホーキンズの奴隷貿易計画を主導していたのは、ほかならぬエリザベス女王だった。イギリスが奴隷貿易に関与したのは1560年代であり、イギリス議会が奴隷貿易を廃止したのは1807年。奴隷の密輸は、そのあともしばらく続き、最終的に廃止したのは1833年だった。つまり、イギリスは16~19世紀、270年間にわたって奴隷労働を延々と行ってきた。この間、1000万人以上の黒人奴隷がカリブ海や南北アメリカ大陸に売却され、イギリス、ポルトガル、フランスなどは奴隷労働で潤った。貧しい二流国家であったイギリスが豊かな一流国家へと変貌する過程で奴隷貿易による利益が大きな役割を演じたことは疑いのないところだ。
 うひょう、イギリスって紳士の国というイメージがありましたが、実は海賊の国であり、奴隷商人の国だったのですね・・・・。
(2011年3月刊。760円+税)

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