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2011年4月 の投稿

後水尾天皇

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  熊倉  功夫     、 出版  中公文庫   
 
 徳川家康に立てつきながら長生きした天皇(上皇)についての本です。ゴミズノオテンノウとゴミノオテンノウの二通りの読み方があります。この本は、宮内庁にならって、ゴミズノオとよびます。
 生まれたのは、秀吉時代。千利休の切腹は、「下克上の精神」を凍結するための冷酷な宣言だった。秀吉が利休に切腹を命じたのは秀吉の心に利休がつくった茶の湯を否定しようとする気持ちがあったから。秀吉にとって、利休の茶の湯は魅力と危険をふくんだ数寄(すき)であった。利休は、茶の湯において下克上の精神をつらぬこうとする。その自由なふるまいは、「天下人」として秀吉の立場からすると許容しがたいものであった。
 徳川家康は、公家と武家を分離し、武家の官位は朝廷とは別に幕府において定めることを禁裏へ申し入れた。当時、権力の座から離れた天皇への権限といっても、もはや実質的な意味をもつものではなかった。権威の象徴としての官名、位階、称号授与の権限と年号制定権が主たるものだった。
 1615年(元和元年)7月、徳川家康は、大阪夏の陣の直後、対朝廷政策の仕上げとして禁中ならびに公家中諸法度を発した。これは禁裏に対して法制を発布した画期的なものだった。公家方は政治介入を禁じられ、幕府の公家支配を明文化した。そして、そのなかで天皇のつとめは芸能であるとされた。そのなかでも、学問を第一とせよ、とされていた。
 和歌の道こそ、天皇のもっともたしなむべき道である。天皇のつとめとしての芸能とは、現在の芸能とかいうのとは根本的に違っていると言えた。芸能とは、教養として心得ておくべき知識の総体をさす言葉である。天皇が文化面での最高権威であり、文化そのものの体現者である。そして、後水尾天皇こそ、歴代の天皇のなかで、この禁中ならびに公家中諸法度の規定をもっともよく体現した天皇であった。
 徳川家康の願いは、武家の娘が皇后となり、その皇子が天皇となって外戚の地位につくというものだった。徳川氏の女を入内(じゅだい)させるのは家康の悲願だった。
後水尾天皇の二条城行幸は記念すべきものだった。将軍私邸への行幸は、このあと江戸時代を通じて、ついに行われることがなかった。次に天皇が禁中を出たのは江戸幕府が崩壊したときだった。中世以来、幕府が天皇の権威を行幸というかたちで受けとめ、支配のテコとするパターンは、この後水尾天皇の行幸をもって終わった。それ以後、幕府は天皇の権威を必要としないほどの強大な権力をつくりあげていく。
行幸は、天皇の権威を広めるよりも、幕府への権力を誇示するところに目的があった。目を驚かす玉座など諸々の装束の金銀のデザインは、文字どおり黄金の世の現出を象徴するものだった。天皇の膳具はすべて黄金で彩られた。
 この寛永行幸をとおして、人々は、新しい時代の見事さ、そして、その頂点にある幕府の重さを思い知ったのだ。
 天皇は、鍼や灸のような身体を傷つける治療を受けることは古来できないことになっていた。後水尾天皇に腫れ物があっても、在位中は治療を受けられない。だから灸治を施すためには譲位させざるをえない。しかし、実は、まれに天皇に灸治が許される先例はあった。そこで、譲位やむないというのが公家衆の大勢だった。ただ、女帝への譲位は幕府は歓迎しなかった。当然のことながら、女帝は一代でその血統が絶える。徳川氏の血が皇統に入らない。
家光の乳母である江戸の局(つぼね、お福)を天皇に面会をさせようとした。このため天皇は不快だった。朝儀復興という天皇の念願が無位無官の女性の参内によって破られることになるからだ。結局、面会できたこの女性は、後に春日の局と称した。
 江戸時代の中期以降、朝廷から諸方面への貸付金は巨額にのぼり、その利子収入は朝廷の重要な収入源となっていた。
後水尾天皇は譲位したあと歌の道に精進した。2千首の歌が伝わっている。83歳で亡くなるまで、後水尾院は37人にのぼる子どもの父親となった。
学問と花を愛した天皇(上皇)の様子がうかがえる本です。ただ、冒頭に石田三成が家康の邸へ逃げ込んだと記述されていますが、これは現在では否定されていると思います。それというのも、この本は1982年に刊行されたものの復刊ですので、仕方ないことでしょう。江戸時代初期の天皇の実態が分かる本として紹介します。
(2010年10月刊。933円+税)

暗殺国家ロシア

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    福田 ますみ 、 出版   新潮社
 
 この本を読むと、アメリカと同じように、ロシアっていう国も人が簡単に殺されてしまう恐ろしい国だとつくづく思います。
 ロシアのテレビは報道統制がすすんで、犯罪を通してロシア社会の病巣を抉り出す報道は、今のテレビ界ではほとんど出来なくなっている。テレビで批判できない組織や人物のリストがどんどん増えていっている。
 ロシアでは、今、ジャーナリストたちが次々に襲われている。ロシアでは、ジャーナリストの身辺を脅かす襲撃事件が年間80~90件起こっている。プーチンが大統領に就任した2000年から2009年までに、120人のジャーナリストが不慮の死を遂げた。このうち70%、84人が殺害された。自分のジャーナリスト活動が原因で、殺されたと推測できるのは、さらにそのうちの48人。この48人の殺害のほとんどは、嘱在殺人と思われるが、首謀者も実行犯も逮捕されたのはほとんどない。
 ソ連時代、いわゆる反体制派は厳しい弾圧に晒された。投獄され、精神病院に放り込まれ、国内流刑や国外追放された。とはいえ、スターリン独裁下は別として、その後、処刑された者はいない。ところが、現代の体制批判者は裁判によらず、白昼の街頭でいきなり射殺される。うひゃあ、こ、こわいですね。
 エリツィンを民主主義者だと信じたのは、どこのどいつだったのだと自己嫌悪に陥るというのか、現在のロシア人の大方の心理である。あの流血騒ぎは、単なる権力闘争でしかなかったことを疑う者もいない。
 地方のローカル紙や全国紙の地方支局のジャーナリストの方が、より危険だ。地方の権力者を批判すれば、狭い限られた地域の中で反響が大きいから、それだけダイレクトにリアクションが返ってくる。ロシアでは、地方の権力者のなかには、自身がマフィアの親玉だったり、そうでなくとも犯罪者集団と密接につながりを持つ人物がうようよいる。彼らは法に訴えるなどという、まどろっこしいことはしない。殺し屋を雇い、記事を書いたジャーナリストの殺害を企てる。
ロシアでは、有力者は政権内部や治安機関に大きなコネクションを持ち、莫大な賄賂を払っているため、めったなことでは逮捕されない。これは公然の秘密だ。
 また、有力なギャング団も、治安機関や有力者と内通していることが多く、組織を一網打尽にするのは至難の業だ。
 ロシアでは、白昼、首都のど真ん中で政治家や実業家などが、車に仕掛けられた爆弾で爆殺されたり、銃弾で体を蜂の巣のように射抜かれて殺されるなどの凄惨な事件が四六時中起きている。莫大な身代金を要求する誘拐団も暗躍しており、不可解な失踪を遂げる者も珍しくない。
そして、社会を覆う、無差別テロに対する恐怖がある。地下鉄を利用するとき、プラスチック爆弾を身につけた自爆テロ犯が一緒に乗り込んでこないかと、常に怯えるような社会において、チェチェン人が一人ぐらい行方不明になったところで、「それがどうした?」という反応しか呼び起こさない。
 ロシアの新聞「ノーバヤガゼータ」は1993年の創刊以来、17年間に2人の記者が殺害され、記者1人が不審死を遂げ、契約記者2人そして顧問弁護士まで殺されている。歴史の浅く、小規模なメディアで起きた、これだけの犠牲は世界的にみても例がない。
 ソ連が崩壊して3年たった1994年のロシアの日刊新聞は17種、3930万部に減った。人口千人あたり267部、4人に1人が購読していた。2004年の日刊新聞は250種、1328万部とさらに大幅にダウンした。人口千人あたり551部、2人に1人は購読している。
 現在のロシアのあまたあるメディアの中で、政権による報道規制がもっとも進んでいるのはテレビである。
 警察官をふくめたロシアの公務員の汚職・贈収賄は今に始まったことではない。プーチン時代に入ると、汚職はもちろんとして、ギャング団顔負けの悪質な犯罪が警察官のあいだに蔓延した。
 ロシアのインターネットは、政権による厳しい報道統制を免れている、ほとんど唯一のメディアである。
 現在のロシアにおいて、リベラル派は圧倒的に少数である。それは、エリツィン時代にリベラル派を自称した政治家たちに国民が煮え湯を飲まされたからだ。自由で平等な社会の実現を約束した彼らが国民にもたらしたものは、混乱と無秩序、そして貧困だった。
 プーチンはこうしたエリツィン流自由主義に懲りた国民の心理を巧みにつかんで国内を引き締め、資源価格の高騰を追い風に経済を立て直し、強いロシアを取り戻した。いま、プーチン・メドべージェフ政権の支持率は70%を下まわらない。
 ロシアの怖い、恐ろしい実情を読んでいて嫌になるほど暴露した本です。私にはアメリカは、同じことをもっとスマートにやっているだけとしか思えません。どうでしょうか・・・。アメリカによるイラク、アフガニスタン侵攻、そしてアメリカ国内の貧困・死亡率の高さは問題ですよね。
(2010年2月刊。1600円+税)

鯨人

カテゴリー:生物

著者   石川 梵、 出版   集英社新書
 
 銛(もり)一本で、鯨(くじら)に挑むインドネシアの島民を現地に溶け込んで取材した日々を生き生きと再現した衝撃的な本です。その漁のすさまじさは手に汗を握ります。が、それに至るまでのなんと気の長い日々でしょう・・・。ひたすら鯨の来るのを待つのです。じっとじっと海の上でそして地上で見張るのです。その悠長さには、とてもつきあってはおれません。
 インドネシアは赤道をまたぎ、1万7500ほどの大小さまざまな島からなる人口2億人をこえる海の大国である。沖縄本島ほどの大きさのレンバタ島の南端にラマレラ村がある。ラマは土地、レラは太陽という意味。つまり、太陽の土地だ。ラマレラは人口2000人足らずの小さな鯨漁の村。水道もなければガスもない。調理には山で集めた薪の火を使い、夜になると、村は鯨の脂でランプを灯す。といっても、これは現在のことではありません。著者が泊まり込んでいた1997年当時の話です。
 ジンベイザメを仕留める。ジンベイザメは、プランクを食すおとなしいサメ。天敵もいないので、水面でいつものんびり泳いでいる。全長10メートルをこえるジンベイザメは、船体を水中に引き込む力がある。鯨とちがって水上で呼吸する必要のないサメは、銛を打ち込まれると、どこまでも深く船を海中に引き込む。うへーっ、怖いですね。
 マンタ漁には、鯨漁に匹敵するほどの危険がともなう。マンタの振り回す巨大な翼は危険で、直撃すると人を即死させる破壊力がある。うひゃうひゃ、これまた怖い話です。
 鯨の漁期は、毎年5月から8月。捕れて年に10頭。捕れるときは3、4頭まとめてということもあるので、チャンスは少ない。
長く海を眺めていると、時間の感覚が麻痺していく。鯨人にとっては、それが一生続く。
ラマレラの人々は、海の上で1キロ先のマンタの飛翔も見逃さない。目は、鯨漁に従事するラマファの命だ。鯨の急所は尾ビレの付け根の30センチほどの狭い範囲で、そこに動脈がある。揺れる船の上から最高のタイミングで狭い急所に銛を打ち込まなければいけない。
大型のマッコウクジラの巨大な頭には、2000リットルもの脳油が詰まっている。脳油の融点は29度と低い。この脳油を冷やしたり温めたりして身体の比重を変え、浮上や潜水をする。浮かぶときは、深海の水で冷やされ、固く、高密度になっている脳油を温めるため、脳油器官をめぐる毛細血管に大量の血液を流し込む。鯨の体温は33度なので、脳油は溶け、密度が薄くなる。頭の比重が軽くなったマッコウクジラは、頭を上にするだけで浮上する。海面に出たマッコウクジラは、そこで30分ほど呼吸する。血液により温められた脳油は、このとき液体状だ。潜るときには海水を鼻孔から脳油器官に導く鼻道へ吸い込み、脳油を急速に冷やす。冷たい海水により脳油は固形状になり、密度が上昇する。今度は比重が重くなった頭を下げれば自然に潜水していくという仕組みだ。うむむ、なるほど、うまい仕組みです。
マッコウクジラは、肺や血液だけでなく、筋肉のなかに多量の酸素を貯えられる。だから潜水中でも筋肉に貯えた酸素を体内に供給できるわけだ。しかし、どうして深海3000メートルの水深に鯨の体が耐えられるのか、実はまだ謎だ。
銛を打ち込まれたマッコウクジラは、SOSを発し、必死に仲間を呼んで助けを求める。
鯨一頭捕れたら、村民が2ヶ月しのいでいける。手に入れた肉は、干し肉にして、女たちが市に持っていき、野菜や生活必需品と交換する。残りの肉も乾燥させて保存し、交換する。鯨の解体は時間がかかる。血の一滴、脊髄や歯に至るまで村民に分配される。血は鯨を煮込むときのソースとして、歯は指輪などの装飾品に用いられ、脂身を干したときに出る油は家庭の灯火として利用される。鯨の油はマイナス40度になっても凍らないので、ロケットの潤滑油として今も利用されている。骨を除く鯨のすべてが、くまなく利用される。ところが、ラマレラの民の胃袋に鯨肉はほとんど入らない。たんぱく源というより通貨のようにラマレラの民の生活を支える。
圧巻は、鯨を打ち込まれた鯨の目を写真に撮ろうというシーンです。
鯨の目は赤く血走り、食われてたまるかというように、いきり立っている。鯨の眼から発する炎のような怒りが全身に伝わってきた。すごいですね。同じ哺乳類ですからね・・・。
鯨は本来やさしい動物で、遊泳中にダイバーが視界に入ると、尾ビレがぶつからないように避けてくれる。それなのに、なぜ非情にも殺すのだと怒っているのです。
自分たちは、食うために必死に鯨と戦う。鯨も生きるために必死に抵抗する。どちらが勝つか、それは神様の決めること。鯨は友人なのだ。
今では、このラマレラもかなり変貌したことが「あとがき」で紹介されています。そうなんでしょうね・・・。
(2011年2月刊。780円+税)

胃の病気とピロリ菌

カテゴリー:人間

著者  浅香 正博 、  出版  中公新書 
 
 日本は、先進国のなかでは異例に胃がん発生の多い国である。日本における胃がんの発生件数は男女とも、今も増え続けている。そのなかで、胃がんの発生件数は男性が5万人から7万人へと急激に増えている。2020年ころには、男性の胃がん患者は10万人に達するだろう。日本における胃がんの生存率は著しく改善したが、発生件数は以前とあまり変わっていない。ピロリ菌陰性の人は、ほとんど胃がんを発生しない。
胃における消化作用の主役は、塩酸ではなく、プペシンと呼ばれる消化酵素だ。胃を摘出して自分の胃液に漬けると、他の食物と同じように、見事に消化される。
もはや、胃の病気のほとんどは、ピロリ菌なしには記載できない。ピロリ菌は新しい細菌ではなく、何十万年も前からヒトの胃に住み着き、病気を起こしてきた。ところが、胃の中は塩酸が充満し、細菌が住み着けないという「常識」に支配されてきた。
ピロリ菌は、極端に酸素の少ない環境を好むので、普通の食べ物から感染することは、まずありえない。ピロリ菌がヒトにもっとも感染しやすい時期は、乳幼児期と言われている。そして、ピロリ菌は、いったん感染すると、通常一生の間、ヒトの胃の中に留まっている。
ピロリ菌に感染すると、白血球やリンパ球などが胃粘膜に誘導され、その細胞から活性酸素やサイトカインなど種々の細胞障害物質が放出されて、細胞障害を引き起こす。現在、一種類のみでピロリ菌を完全に除箇できる薬剤は存在しない。中途半端な服薬は除菌を失敗に導くのみでなく、耐性菌の出現頻症を上昇させる。
ピロリ菌は、東アジアのものがもっとも毒性が多い。
 日本では、団塊の世代やそれ以前の世代のピロリ菌の感染率は80%を超えている。そのため、食塩のとりすぎが胃がんの発生を促進する可能性がもっとも大きい。
 胃のなかに胃を入れると溶けてしまう。それほど強力な塩酸を放出しているのに、胃は健全である。その秘密は胃内部の表面粘膜にある。そんな胃のなかに細菌(ピロリ菌)が棲みついて、人間に悪さをしているのです・・・・。
(2010年10月刊。740円+税)

うなドン

カテゴリー:生物

著者  青山 潤、    出版  講談社
 
 『アフリカにょろり旅』の著者がウナギを求めて歩いた苦難の旅を面白おかしく書きつづっていて、とても読ませます。これでも学者なのか、それともルポライター(旅行作家)なのかと疑ってしまうほど抱腹絶倒のウナギ探訪体験記です。すごいものです。若さでしょうね。タヒチ島のジャングルの中まで踏み分け、イタリアのマフィアの別宅に侵入してしまうのですから・・・。苦労、苦難、苦闘の連続の日々なのです。
 ウナギは全世界に18種類しかいない。それを全部集めることが出来たら、それだけで博士号がとれる。そんな話で勇躍、まずはインドネシアに乗り込みます。しかし英語もまともに話せず、ましてやインドネシアの言葉なんかもちろんダメ。そんな日本人青年が、よくぞインドネシアでウナギを探そうと思ったものです。
 現地の若者たちに取り囲まれて絶体絶命の大ピンチになります。そんなときは、カタコト英語ではダメ。威勢よく日本語でタンカを切るのです。
必死の思いで確保した貴重なウナギをどうするか。生のままでは税関ではねられる。やがて思いついたのは塩漬け。5キロの塩を買い込んで塩の中に放り込んだ。なーるほど、ですね。
イスラム教徒のなかで生活しているうちにラマダン期に突入。昼間は水も食料もダメ。著者は夜までダメだと思いこんでついに栄養失調で倒れる寸前となって、その家を脱走。そして、あとになって人々は夜にちゃんと食べているのを知ったのでした。
世界のウナギ18種類のうち、ほとんどは赤道熱帯域に生息し、日本やヨーロッパのような温帯域に棲むのは5種類のみ。熱帯のウナギについては、ほとんど何も分かっていない実情である。
インド洋のウナギを探し出かけるときには海賊に襲われる心配もあったのでした。
いやはや、熱帯のウナギの生まれる場所を突きとめた学者グループの苦労を平和な日本にいながら偲ぶことができる興味深い本です。
(2011年2月刊。1600円+税)

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