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2010年10月 の投稿

溥儀の忠臣、工藤忠

カテゴリー:中国

著者:山田勝芳、出版社:朝日新聞出版
 満州国の侍衛処長・工藤忠。ラストエンペラーから「忠」の字をもらった日本人。中国裏社会にも精通、張作霖爆殺事件の真相を握り、陸軍に疎まれながらも、溥儀に影のように付き添った男。中国と皇帝に生涯をささげた人物を通して新たな溥儀像、満州国像、昭和史に迫る。
 これは、この本のオビにある文句です。一人の中国人に最後まで誠心誠意を尽くし、決して裏切ることなかった日本人が紹介されています。客観的に見て、彼の果たした役割がどういう意味をもったのかはさておき、さわやかな読後感の残る日本人です。あの満州国で、駆け引き、打算で動く日本人ばかりではなかったことを知るのは、うれしいものです。
 工藤忠は明治15年(1882年)青森に生まれた。弘前にあった東奥義塾に入り、四年生、16歳のとき中退している。
 上京して中学に入り、剣道を学んだ。そして、朝鮮さらには中国大陸を旅行した。
 工藤は中国で生活するうちに秘密結社・哥老会の会員となった。日本人でこの秘密結社に入会できた人は珍しい。
 そして、1917年、34歳のとき、11歳の溥儀と出会った。運命の出会いである。
 このころ工藤は、陸軍の機密費から活動資金を得ていた。今の内閣機密費よりさらに巨額の機密費を軍部はもち、運用していたのです。お金こそ権力の強さの源泉です。
 1931年9月、満州事変が発生した。このころ、恐慌に苦しんでいた多くの日本人は、これで新たな利権先、就職先、入植先ができたと喜んでいた。軍が満州を制圧したころから、日本人が大挙して満州に押し寄せた。
 1931年11月、溥儀は工藤とともに天津を脱出した。このとき、溥儀は車のトランクに隠れてイギリス租界の港に行き、陸軍の船に乗り込んだ。ところが、この船には、ガソリンを入れた石油缶が一つ、ひそかに積み込まれていた。中国側に捕まったときは、火を放って船ごと溥儀を始末してしまう計画だったのだ。そのことを、工藤は後になって知らされた。
 こうして溥儀は満州に入った。このとき25歳。工藤は49歳だった。ちなみに、張学良は30歳、蒋介石は44歳であり、東條英機は47歳、満州に逃げ込んでいた甘粕正彦(大杉栄を殺した主犯)は41歳、近衛文麿は40歳だった。
 このころ、工藤は、日本陸軍にとって、むしろ煙たい存在であった。しかし、溥儀を動かす切り札として使わざるをえなかった。満州国で工藤が侍従武官・中将に任命されたことについて、陸軍は不満たらたらだった。工藤に軍歴がなかったからである。しかし、溥儀は、工藤に「忠」という名前を与えて、不満を封じた。
 満州国がつくられたとき、関東軍司令官(本庄中将)は、自ら傀儡政権(パペット・ガバーメント)をつくったと書いた本を出版していた。
 満州国皇帝に溥儀が即位したとき28歳、工藤は51歳であった。
 満州国の運営には、中国側(満)と日本側とで認識の違いがあった。外の国務院を内面指導しただけではうまくいかない。内の宮内府にも日本人をふやして、そこも完全な指導下に置こうとした。 溥儀は、常に毒殺されることを恐れていたが、工藤のもってくる食べ物については、まったく疑っていなかった。
 満州国には、国籍法がなかった。「王族協和」と言いながら、日本人が満州国籍をとるのに消極的だった。さらに、満州国内の朝鮮人の位置づけが難問だった。結局、1940年に「満州国暫行民籍法」が制定され、満州にいる日本人は日本戸籍法の適用を受けた。これが満州在住日本人の徴兵の根拠となった。
 1945年8月、溥儀39歳、工藤62歳だった。4月に日本に来て、満州に帰れないまま、工藤は日本で敗戦を迎えた。溥儀も終戦直後、飛行機で日本に来るはずが、ソ連兵に拘束されてしまった。
 戦後も、工藤は溥儀に忠誠を尽くし続けた。満州国は完全に関東軍が支配し、日本のほうが溥儀を裏切ったという思いが工藤には強かった。
 こんなに中国人に忠節をつくした日本人がいたのですね・・・。
(2010年6月刊。1500円+税)
 平泉の中尊寺そして毛越寺を見学してきました。20年ぶりのような気がします。藤原三代のミイラが保存されているというのは驚きですよね。戦国時代など、よくぞ戦火の中で滅失しなかったものです。なんといっても金箔ですからね。荒らされなかったのは奇跡ではないでしょうか。
 毛越寺(もうつうじ)は庭の復元が進んでいて、大宰府の曲水の宴ができるような水路まで再現されていました。
 小高い義経の館跡に昇って、遠くの山の大文字焼の跡を見、かつて人口10万人もいたという、今は水田になっている広大な平地を眺めました。
 国破れて、山河あり……の地に立ち、感慨深いものがありました。

となりのツキノワグマ

カテゴリー:生物

 著者 宮崎 学、 出版 新樹社 
 
 動物写真家が長野の山で、たくさんのクマを発見。ツキノワグマって、こんなにもフツーに山にいるのですね。九州にだっていないはずはない。著者がそう言っているのを知った何日かあと、宮崎の森の奥深くでクマを目撃したという記事を新聞で見つけました。九州のクマは絶滅したと言われて久しいのですが、どうやら、そうでもないようです。
 無人カメラをクマの通り道に仕掛けておいて写真を撮るのです。クマたちがフラッシュを浴びてびっくりした様子も面白いですよ。
 両耳に赤と黄色のタグをつけたクマが、その年に生まれた子ぐまを連れて里にやってきた。タグをつけているということは、親グマは、お仕置きされて里にはおりてこないはずだったのです。それなのに、相変わらず里の近くに定住しているのです。クマの通り道にカメラを設置しておくと、好奇心旺盛なクマからカメラは倒されていた。そこで、その様子を別のカメラで撮ることにした。これが面白いのです。まるでカメラを構えたカメラマンのようなクマの立ち姿まであります。
クマの好みも十人十色。蜂蜜が大好きなクマがいれば、そうでないクマもいる。ニジマスの養殖場で弱ったニジマスを獲っていくクマもいる。
クマ同士は、お互いに無駄な接触を避けるため、人の耳には聞こえない超音波を出して交信している。そして、弱い方は危険を察知し、立ち去るなり、木に登るなりする。クマが移動中に口を細くあけているのは、低周波を出しながら自分の存在を知らせているのだ。
 クマの個体としての寿命は、野生下では20年ほど。しかし、えさの面でもすみか(洞窟)の面でも強く木に依存しているクマは、種のレベルでは木や森の時間軸にあわせて動かなければ、生きていけない。クマが冬期穴に利用する樹洞は、できるまでに100年以上の期間を要する。そこで、クマは本能的に、未来の子孫に向けて、樹洞づくりを始める。
少なくとも長野県では、20年前に比べて、ツキノワグマは著しく増えている。近い将来にクマが絶滅する心配はない。
 中央アルプスの全景を写した写真があります。そこに無数といえるほどにクマが出没した地点が表示されています。長野県はクマだけでなく、人間だって、大いに住みたい地域です。そこにたくさんのクマが棲みついているというのです。びっくりしてしまいます。
 私にとってクマは動物園で会うことがあるくらいの生き物なのですが、これほど人里近くに居住しているというのですから、すっかり認識を改めました。
 クマの写真が生きいきと、躍動感にあふれています。
(2010年7月刊。2200円+税)
 宮崎県の西都市に出張してきました。西都原古墳群で有名なところです。今回は残念ながら古墳群の見学はできませんでしたが、すごい数の大きな古墳群が密集しています。これを見ると、なるほど、日向(ひむか)の土地こそ天孫降臨したところ、日本文明発祥の地だと確信させられます。まだ見ていない人は是非一度出かけてみてください。
 西都に日弁連のひまわり公設事務所がオープンし、その開所式に参加しました。実は、6月に予定されていたのですが、例の口蹄疫騒動で延期されてしまったのです。
 所長の水田弁護士は、福岡のあさかぜ事務所で1年半のキャリアを積んでいます。温厚かつ熱心な弁護士ですので、弁護士の少ない地元の要請に必ずこたえてくれるものと確信しています。

甦る五重塔

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:鹿野貴司、出版社:平凡社
 江戸時代に建立された五重塔が見事、現代によみがえったのです。ところは身延山久遠寺です。もちろん、言わずと知れた日蓮宗の本山です。
 その五重塔が竣工するまでが見事な写真で刻明に紹介されています。さすが圧倒的存在感のある建物です。
 初代の五重塔は1619年(元和5年)に建てられた。加賀藩主・前田利常の生母(寿福院) が寄進・建立した。ところが、江戸時代の末期に焼失し、そのあと再建された塔も明治8年、再び大火にあって焼失。それを再建したのです。
 使用する木材は国産にこだわり、高知・四万十川上流で切り出した檜を用いた。それを組み立てるのは、世界最古の企業として名高い、大阪の(株)金剛組の宮大工。
 法華経の根本道場たる身延山に133年ぶりによみがえった七堂伽藍。その一角にひときわ空高くそびえ立つ123尺(37メートル)の五重塔は、身延山からお題目の輪を広めるための発信基地。
 五重塔がつくり始められるときから竣工するまでの2年間、東京(千葉)から通いつめた若手カメラマンによる素敵な写真集です。さすがに8万枚の写真から選び抜かれたというだけあります。見るものにぐいぐいと迫ってきます。
 五重塔を拝むありがたさが違ってくること、うけあいです。
(2010年4月刊。3800円+税)

ライオンの咆哮のとどろく夜の炉辺で

カテゴリー:アフリカ

 著者 ジェイコブ・J・アコル、青娥書房 出版 
 
 アフリカは南スーダンの民話です。紛争が絶えず、大虐殺の続くスーダンに、このようなすばらしい民話があったとは・・・・、驚きました。
 人類発祥の地であればこその民話の数々です。
 取り囲んでいるのは暗闇ばかり。雨が降って、雷が鳴り響き、稲妻が走る、そんな夜。すぐ近くの森からは、襲いかかるヒョウを迎え討つ雄のヒヒがフーフーと荒い息を吐きかけ、それに応戦するヒョウが喉をしぼった脅し声を立てるのが聞こえてくる。あたりでは、ハイエナがまるで人のように笑い声を立てる。ライオンが吼え、草葺き屋根の天井では、白蟻たちが恐れおののいてチリンチリンと鈴の音のような音を立てはじめ、そして思わず小屋の床にポトポト落ちてくるのだ。蛙やコオロギなどの虫たちのうたう声が、その背景に天然のオーケストラのごとく満ち満ちている。
 このように語られると、昔話の語られる情景が眼に浮かんできますよね・・・・。
ロンガール・ジェルの子孫は、ゴンの人びと、あるいはパゴン氏族として知られるようになった。パゴン氏族の人びとは、今日でも、ゴン、つまりヤマアラシを温かく自分たちの家に迎え入れる。そして、ヤブに戻す前に、ヤマアラシに牛乳とバターをご馳走してやる。アチュイエル(鳶の人びと)として知られるパイィー氏族がいて、彼らは鳶(とび)を殺さない。ミイル(キリン)の人びとと呼ばれるパディアンバール氏族はキリンを殺さないし、その肉も食べない。コオル(ライオン)の人びと、つまりバドルムオト氏族は、ライオンに獣を与えたやることはあっても、ライオンを殺すことはない。
人間がライオンになり、ライオンが人間になるという前提で語られる民話があります。動物の世界と人間の世界は紙一重で、自由に行き来できるのです。
 デインカの知恵の類ないふところの深さを直に本書は伝えてくれる。そこは、人生の真実を語るがゆえに、悪夢がその中に居すわるという、魅せられたる魂の物語をつむぎ出し、ライオンの咆哮ととどろく夜の炉辺で心静かに耳を傾ける人びとの住む土地なのである。
 スーダンという国を知るうえで欠かせない本だと思いました。
(2010年6月刊。1500円+税)

だいじょうぶ3組

カテゴリー:社会

 著者 乙武 洋匡、  講談社 出版 
 
 あの乙武さんが小説を書いたのです。正直言って、まったく期待せず、いつものように軽く読み飛ばすつもりでした。270頁ほどの本なら、30分もあれば楽勝だと見込んでいたのです。実際、その程度で読んでいる本は多いのです。また、そうでもないと、年間500冊を読むのは無理なんです。どうして、そんなに無理してまで速く読むのかって・・・・。それは、次に読みたい、知りたいことの書いてある本が待っているからなのです。世の中って、不思議なことだらけじゃありませんか。私は、それを少しでも知りたいし、その本を手がかりにして、いろいろ考えてみたいのです。
 それはともかく、この本は、30分どころじゃありません。予想以上に手こずり、その3倍もかかってしまいました。なぜか・・・・。要するに、一言でいうと面白かったからです。すごく面白くて、じっくり味読したいと私の脳が要求したのです。すると、途端に頁をめくるスピードが落ちてしまいます。30分を過ぎたところで、この本の3分の1も読んでいないのに気がついて、思わず焦ってしまいました。
乙武さんの初めての小説とは思えないほどよく出来た情景描写、心理描写があり、ぐいぐいと教室内に引きずり込まれていったのでした。私も子どものころに戻り、小学生になった気分に浸ることができました。
乙武さんは、現実にも、小学校の教師として3年間つとめました。この本は、その体験をもとにしていますし、乙武さんそのものの赤尾先生が登場します。ちなみに、赤尾っていうと、豆単、英語の小さい単語集を思い出しますよね・・・・。
 -何かで一番になろうと思ったら、当然、努力が必要になってくる。でも、努力してがんばって、それでも一番になれなかったら、子どもは傷つく。自分は、ここまでの人間なんだって、天井が、自分の限界が見えてしまう。だったら、初めから一等賞なんて目ざさないと考える子がいても不思議じゃない。もちろん、そこに成長はない。でも、成長しないぶん、傷つくこともない。自分は本気を出していないだけなんだ。本気さえ出せば、いつかは何とかなる、そんな夢を見続けることができる。
 -そんなの、夢って言わねえよ。ただ逃げているだけじゃん。
 -一番になろうと努力することは大事なんじゃないかな。その努力が自分の能力を伸ばすだろうし、逆に、努力しても報われない経験を通して、挫折を知ることができる。
 挫折って、大事だと思う。傷つくのはしんどいけれど、人間は挫折をくり返すことで学んでいくんじゃないのかな。自分がどんな人間なのか。どんなことに向いていて、どんなことに向いていないのか、なんてことを・・・・。
いやあ、これって、本当に大切な指摘ですよね。でも、あまりに重たい指摘でもありますね・・・・。
赤尾先生には、手も足もないけれど、私たちには最高の先生だったよ。
 これは終業式の日、黒板に大きく書かれていたメッセージです。受け持った28人の子どもたちの一人ひとりに目を配りながら、みんな違って、みんないいという温かい目で見守り通してくれる教師の存在は偉大です。
とても心温まる、いい本でした。あなたもぜひお読みください。最近、ちょっと疲れてるな。そんな気分の人には最適ですよ。
 
(2010年9月刊。1400円+税)

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