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2010年3月 の投稿

世事見聞録 その2

カテゴリー:司法

 江戸時代でも借金取立は苛酷なものがありました。武士はこの点でも泣かされていたのです。
「借り手は右体の不始末にて返すべき手段なきに、様々利口弁舌虚偽計略を尽し、借りる時は神仏の如く敬ひ、返す時は仇敵の如く悪(にく)むなり。借りたるものは貰ひたるものの如く心得、返すべき心底更になく、もし返す時は奪ひとらるゝ如く、呉れて遣はす如く心得るなり。また貸し手は猶更心底悪しく、いさゝか心切にて人の難儀を見継ぐにあらで、利足を奪はん為の強欲にて、少しも誣げとるべき目当てあるものへは、困窮ものまた不実ものをも恐れず、相手の見嫌ひなく、高利を貪り、もし元利の返済方違ふ時は、強催促、途中催促など、悪口雑言に及び、又は頭支配などへ訴へ出で、種々の事を申し懸けて恥を与へ、或は奉行所へ願ひ出で難儀を懸け、真に双方不実同志の所業、敵同志の掛引きに似たり。」
「体家士の困窮を付け込みて、金銭を貸す業体のもの余多ありて、座頭或は高利貸・日成(ひなし)貸などと唱ふる者も入り込むなり。然るに今日を凌ぎ兼ぬるに任せて、幸ひに右の高利なる金銭を借り、後の難儀ども見かへりなく急場を凌ぐなり。さてその利倍に責められて、終に勤め向きも出来兼ぬる仕合せになり、或いは虚病を構へて引籠り、又は返済滞りの筋にて留守居役・目付役などへ届け出られ、表向きの沙汰になりて押し込められ、また品により永の暇にもなり、或いは門前払ひなどになり、またその身に堪へ兼ねて出奔などいたす族もあり」
 「依つて右体借金の筋を奉行所へ訴へるなどいへば、何より以て恐れて、たとひ今日の食料を欠きても利足などを入れ詫言いたし、甚しきにいたりては老父母及び妻子の衣類を剥ぎても済ます事なり。その償ひ出来兼ぬる時は大体身分に過失を得るなり。その行跡を見込んで、貸付業のもの諸家中へ入り込むなり。借金の筋にて侍の身分に拘るなどは、余りとやいたましき事どもなり」
 「金貸しの流行するは、世に非道の起る基、貧人を拵(こしら)ふる基なり。また月なし銭・日なし銭・損料貸し・烏金(からすがね)などの貸し方あり。これは身薄なる貧人に貸して、殊のほか高利なる者なり。烏金といふは、朝烏の鳴く頃貸し出して、夕晩烏の塒に帰る頃取り返すをいふ。わづか一日の融通に1ヶ月に当る高利を取るなり。損料貸しといふは、衣類・夜具・蒲団・蚊帳など、一日何程といふ損料を極めて貸すなり。貧人はこれを借りて、それを又質に入れ、日々の損料と利の二重に費すなり。当世悪人は右体世に逢ひて金貸しとなり、わづかの金銭を忽ち大金に育て上げ、遣り上げ、善人は時世に後れて金銭を借り、利に利を奪はれて、忽ち貧人となり行くなり」
 「当世、貸借の筋にて、世の中の混雑大方ならず。公事訴訟も十に八九はこの筋の事なり。くれぐれも貸借は貧福の偏る媒(なかだち)にて、悪人は貸し手となりて身を労せず、結構に過ぎ行く者多く出来て、人情鬼の如くにして、恩がましく毒を与へて利を貪り、善人は借り主となりて餓鬼道に堕ちたる如く、折角金銭を借りて一時を凌がんとすれば、忽ち炎々となりて、高利を取られ身を焦がすなり。右体鬼の如く行勢をなしても、もし滞りたる時は、或は家蔵を取り立て、又は家財・雑具・衣類・鍋・釜など押し取りにいたし、また妻娘などを売らせても取る。なほ届かざる時は、公辺へ訴ふるなり。借りては奉行所の詮議に逢ひ、身上のありたけを責め取られ、手鎖または牢獄の苦患に及び、親類または証人等までも困難に陥るなり。これまた吟味役人は、鬼の如くになりて、取り立てるなり」
 「今の座頭は、先づ官金と唱へて、貧人に金銭を貸し附け、高利を貪り、或は利足一割二割を取る。また礼金と号して、これまた一割二割を取る。右の礼金・利息とも、貸し附ける時、本金の内にて引き取るなり。また証文は無利足にて、預り金の積りなどにて、もし返済滞りたる時は、右の預かり金の威にて取り立てるなり。その上僅か三ヶ月四か月の期月にて貸し附け、その期月に返済出来兼ぬる時は、また証文を書き替へ、新しき貸金に直し、その度毎に最初の如く礼金を取り、利足・月踊りなどいうて、一箇月を二三箇月となし、また月なし・日なしなどの極めにて、強欲非道に貪るなり。よって借りたる者は、利金・礼金・月踊りに引き落され、一箇年の内には本金の倍増しにも費えるなり。右体強欲非道を行つて、官職に有り付く事を今の風俗となり、当時の座頭の仲間に入り、初め半折懸(はんおりか)けとなるに、金拾両といふ」
 「貸金の滞りたる時、先づ武士ならば、玄関の真中へ上り、声高に口上を述べ、居催促・強催促など云ひて、外聞・外見を構はず、また町家ならば、いかにも近所合壁へ聞ゆるやうに、悪口を並べ罵るなり。さればとて、全体借りたる筋が不義理になりたる上なれば、何程の事にも言葉返しも出来ず、もし云ひ返す時は猶更募り立つ故、何も尤もと会釈するの外なく、たとひ騒ぎたりとも、縛りもならぬもの故、それを見込みて強気に構へ、もしまた少しにても手を付くれば、大騒に申立、身体を傷つけしなど申し懸け、又は身の官職など唱へて、難渋を申し懸くるなり。尤も盲人にも限らず、当世流行の高利貸、日成貸の類はみな右似寄りたる流儀にて、やゝともすれば、人々の持て余すやうに仕懸くるものなり。そのうち目明きは少しは人情にて持ち合ひし所もあるゆゑ、左様にはなく、勘弁の品もあるなり。盲人はいはゆる無面目に仕懸くるなり。借り手は右の外聞外見を厭ひて、或は今日の食糧を欠きても調進いたし、或は老人小児などの衣類を脱ぎとりても返済する事になれり」
(続)

世事見聞録(その1)

カテゴリー:司法

著者 武陽 隠士、 出版 青蛙房
 武陽隠士(ぶよういんし)が文化13年(1816年)に江戸時代の社会風俗の実情を、大いなる怒りをこめて書き上げた大著です。ときの将軍は徳川11代家斉です。寛政の改革を断行した松平定信は、4年前に老中を辞して風流三昧の日々を過ごしていました。
この本は、青蛙房(せいあぼう)が昭和41年(1966年)に新装版として出版しました。この本は3500円もしますが、江戸時代を知るためには必読の本だと私は確信しています。20年ほども前にこの本を読んで、大いなる衝撃を受けました。日本人が昔から裁判を好んでいなかったなんて嘘っぱち、大きな嘘だと言うことを確信しただけでも意味がありました。
 江戸時代に裁判が多かったことを著者は次のように嘆いています。
「当世、公事訴訟の数の多き事、元禄享保の頃より競ぶる時は、十倍ともなりしか。往昔板倉伊賀守は、茶臼を挽きながら、公事を聴きしといふ。閑暇(のどか)なる事なり。そのころは奉行所に出ることを止めしと見ゆ。そのころより見競ぶる時は、元禄享保のころは定めて十倍程にもあらん。それより今はその十倍などにもなりなん。これ世の中に曲がり犯したるもの繁多なるゆゑに、下々上を凌ぐ悪知恵増長して、聴所へ出る事を心安く覚えたるが故なり……
 さてまた公事出入りの訳も、百年ほど以前とは趣意違ひて、昔は義理の筋違ひたるを強く争ひしが、今の人は道理に構はず、損益利欲の事のみ争ふなり。然るに今の人は前にいふごとく、邪悪の智恵深きゆゑに、己が欲情を二重にも三重にも隠して工み謀りし事ども多く、善悪正邪正急に見分け難く、吟味逸々(いちいち)に手間取るなり。享保の頃は、奉行職大岡越前守は聡明の人にていまにその名高く、これが公事を取り捌く趣向を聞くに、そのころは世の中の人いまだ欲情薄く、近来欲情の沙汰の始まりし程の時ゆゑ、義理の筋が重(おも)になりたる事にて、裁判も致し安く、たとひ利欲謀計の事とても、その工み浅はかにて、善悪の筋分ち安く、また人々欲情の意地も薄き故、大なる声を発して叱れば、黒白忽ちに顕はれしと見ゆ」
 武士と町人の間の裁判もありました。このとき、もちろん武士のほうが強かっただろうと思うのは現代人の思い込み違いで、実は町人が裁判に勝っていたというのです。
 「義理を表にし、利勘を憎む武士は大いに損多く、また利勘を表にし、恥辱を厭はざる下人には、大いに徳多き世の中なり。依つて武士を相手取りて公事訴訟に及ぶことは、昔はなきことなり。今も国々にては絶えて無き事といふ。もし武士が町人百姓を非道にせし事あれば、上から僉議(せんぎ)すれば格別の事、下から訴へる事はならずといふ。尤もの事なり。御当地は武士を相手取りて訴訟すること容易に出来る故、少しのことも大騒に申立て出づる事なり」
「双方五分づつの失なる時は、先づ武士が負け、町人が勝つなり。勿論武士は十の内九ツまで利屈宜しくとも、後の一ツに利欲の筋あれば、その一ツにして負くる事なり。依つて少しばかりの利欲拘りたる事にて、従来の大恩を請けし武士を、町人が取つて落す事あり。武士は兼ねて恩をあたへ置きしとても、その恩を余りて過失の供入りにもならずして、負けて仕廻ふなり」
「江戸・京・大坂そのほか繁花の地の町人遊人等は、居ながら公事出入りを致し、いさゝかの事をも奉行所へ持ち出して埒を明くるなり。殊に手代など遣ふ程の身上なるものは、己れは病気と称して手代を出し、又は公事師(くじし)などいへるものを雇ひて名代(みょうだい)を出し、公事の懸引を打ち任せ置き、己れ病気と奉行所を偽りながら、その日一日家内に慎み居るにもあらず、私用または遊興の事に他出いたし、公儀を恐るゝ気色少しもなし。また公事師などといへるものは、奉行所の懸引き功者にて、この事を申し立つればこれに響き、彼れを押す時はこれに落著するなど、上を謀り相手を犯し、吟味役人に怖ぢ恐るゝ真似方の気にて、さも実明に見せ、その容体よくよく役人の気に入り、進退押し引きその図に当り、方便虚偽をはかるなれど、通して遺し置く程の事になりて、終には白きを黒きといひ紛らして勝をとる事にするなり。また関東の国々、別けて江戸近辺の百姓、公事に出ることを心安く覚え、また常に江戸に馴れ居て奉行所をも恐れず、役人をも見透し、殊になにかの序に兎角江戸へ出たがる曲ありて、やゝともすれば出入りを拵(こしら)へ、即時に江戸へ持ち出し、また道理の前後も落著の詰りもよくよく弁へて、心強く構へたるものなれども、遠国の百姓は中々左様のことにあらず」
 江戸時代に裁判を起こすときには、今のように印紙をはる必要もなく、タダでした。支配者の権限行使を促すということだったからです。
(続)

軍艦島(上)(下)

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 韓 水山、 出版 作品社
 崎戸島(三菱崎戸炭鉱)は幽霊島、高島(三菱高島炭鉱)は白骨島、端島(三菱端島炭鉱)は地獄島と呼ばれた。端島はその形格好から軍艦島とも呼ばれた。
 朝鮮人の皇民化教育を推進するなかで、朝鮮人を半島に居住する日本国民と定め、朝鮮人を半島人と呼ぶようになった。
 三白一黒一青という言葉があった。日本が朝鮮から持っていこうとしたものである。三つの白いものは、朝鮮の米と絹、綿花だ。黒いものは海苔、青いものは竹である。日本は朝鮮からこの 三白一黒一青を全て奪い、持ち去った。
 端島には、9階建てアパートが65棟も建っていた。この地獄島と言われる端島から逃亡した朝鮮人がいました。もちろん失敗して亡くなり、あるいは刑務所に入れられた人も少なくありません。逃亡しても、言葉の壁があるため、日本で自由に生活できるわけもありません。逃亡者の一人が長崎の造船所で働けるようになったのは、偶然といってよいほどの幸運でした。
 軍艦島では、売春宿まで三菱が直営していた。小さな島でしかないため、鉱夫が孤立して生活せざるをえない。ほかの炭鉱なら周辺の民間人が金もうけにやっている娯楽福祉も、ここでは会社が整えてやるしかなかった。その一つが売春と賭博だった。会社は娼婦を雇用し、売春事業の遊郭を直営にした。森田屋、本田屋、そして朝鮮人が経営をまかされていたこともある吉田屋という三軒の店があった。働いていた女性は1軒に9人、全部で27人だった。
 長崎に原爆が落とされた瞬間を目撃した人もいます。
目を開けると、あたり一面、火の海だった。燃え上がる炎は、太陽の下で黄金色に光っていた。周りには人影すらなかった。ピカッと光った瞬間、周囲は燃えあがる炎と化し、その炎がうねり、あらゆるものが狂ったように揺さぶられた。そして、どこからか地鳴りのような音が響いてきた。
 長崎には、昭和20年7月までに375人の捕虜がいた。彼らは朝6時から夜7時まで工場で働かされた。暖房のないバラックは、耐えられないほど寒い。冬の終わるころには、捕虜の4分の1にあたる、125人が肺炎で亡くなっていた。
原爆にあった朝鮮人は母国語で泣き、うめいた。
 救護隊の日本人は、アイゴー、オモニーと泣き叫ぶ朝鮮人は決して病院に運ばなかった。朝鮮語を話す者には水も食料も与えなかった。防空壕からでさえ、追い出された。そして、遺棄された朝鮮人たちは、崩壊した建物のガレキの下で死んでいった。最後まで取り残された死体も朝鮮人だった。一見、日本人と見まごうが、千切れた服から朝鮮服だと分かったり、アイゴー、オモニーという呻き声を聞いたりして救護隊は区別していた。
端島炭鉱に朝鮮で「募集」された朝鮮人労働者が働くようになったのは1918年(大正7年)5月からである。このとき、端島炭鉱に70人が就労した。1939年(昭和14年)には総動員体制の確立ともに、朝鮮人労働者の「募集」は微用となり、強制連行に等しくなった。
端島炭鉱をふくむ炭鉱に4000人の朝鮮労働者が微用されていた。
軍艦島が観光ブームで脚光を浴びていますが、このような過去はもっと知られるべきではないでしょうか。
(2010年1月刊。(2400円+税)×2)

ライオンのクリスチャン

カテゴリー:生物

著者 アンソニー・バーグ、ジョン・レンダル、 出版 早川書房
 ユーチューブでライオンと若者たちの感動の再会シーンが話題になったことから、古い本が再生したのです。ともかく、感動の本でした。ライオンの子どもの頭の良さに感心しているうちに、1時間足らずの電車があっという間に目的地についてしまっていました。まさしく至福のときに浸って、時のたつのを忘れていたのです。
 オーストラリアの若者たちがイギリスに旅して、ロンドンのデパートで買ったライオンの子を育てたあげく、アフリカの地へ連れて行って野生へ戻すという話です。といっても、話は40年前のこと。この若者たちは、私と同じ団塊世代です。ロンドンのデパート(ハロッズ)でライオンの子が売られていた、それを20代の青年が買い受けてロンドン市内の住宅街で育てたなんて、とんでもないことですよね。今では考えられないことでしょう……。
 映画『野生のエルザ』を見た記憶はないのですが、本のほうは読んで感動したことをしっかり覚えています。それにしても、ロンドンのデパートって、ライオンの子どもまで売っていたんですね。信じられません。それって、はっきり言って怖いことですよね。
 売られていたライオンの子どもは、生後4カ月でした。若者たちが飼う(買う)ことを決意したのは、周囲の人たちが皆、反対したからだったというのは、笑わせます。親から結婚に反対されると、無謀にも駆け落ちするようなものですよね。
 生後4カ月で、体長は60センチ、体重も15キロしかありませんでした。
 ライオンはネコほど冷めた感じではなく、むしろイヌのように愛想よかった。だっこされたり、抱き締められたりするのが大好きで、そのたびにヒトの首に前足を巻き付け、舌で顔を舐めてくる。性格も明るく、穏やかだった。ライオンサイズのトイレを置いた。それを汚くするたびに注意すると、そのうちにきちんと使えるようになった。自分の名前もすぐに覚え、やってはいけないことも、すぐに理解した。
 どんどん大きくなって、体力的にヒトより強くなったが、それを意識させないように努めた。
 ライオンの子は、人間に従属しているという素振りは一切見せなかった。
 ライオンは、ほかの動物よりも人間とうまくコミュニケーションをとることができる。何かにつまずいたりして気まり悪いときには、何もなかったふりをしてごまかす。
 ライオンは大家族の群れで暮らすため、とても社交的な動物である。
 人間にちょっかいを出すのが大好きで、見知らぬ人がどんなリアクションをするか、いつも試していた。ある人が動物を苦手にしているかどうかはすぐに分かり、それを逆手にとってイタズラを仕掛けた。
 ライオンは口を使ってコミュニケーションをとる。ヒトの顔を舐めて愛情を表現した。
 ライオンは不機嫌なときはすぐに態度に現れる。歯をむき出しにしたり、爪を立てたりして、とても危険である。
 生後8カ月になったときには、体重60キロあった。
 ライオンは動物園で暮らすと、平均18~20年は生きる。ところが、野生では12~15年に縮まる。それだけ、自然界は厳しい。
 ライオンの子どもを僅かな間ですが育てて、アフリカの地の野生に放したあと、再会して旧交をあたためた実話です。たくさんの写真がほのぼのとした雰囲気をよく伝えてくれます。
 それにしても、アフリカの大草原で、昔馴染みとはいえ、ライオンと人間が久しぶりに再会して抱き合ったというんですよ。もちろん、人間は丸腰です。大人のライオンに顔中を舐めまわされるなんて、どうでしょうか。私には、とてもそんな勇気はありません。一度、ユーチューブで動く映像を見たいと思いました。
 
(2009年12月刊。1400円+税)
 日曜日の朝、おだやかな春の日差しを浴びて、チューリップがそれはそれはみずみずしく輝いていました。そっと近付いてカメラを構えます。私のブログに写真をアップしていますので、ぜひのぞいてみてください。春はやっぱりチューリップです。数えたら180本咲いていました。まだまだ全開ではありません。もう少しです。

夜明けの橋

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 北 重人、 出版 新潮社
 江戸の町人生活の哀歓を見事に描いた短編小説集です。
 藤沢周平というより、山本一力の作風を思わせますが、またどこか違います。
 日照雨は、そばえと読む。狐雨ともいうのでしょうか。降りそうもない空から、ふいに雨が降るという言葉が続いています。
 縹組、縹渺。はなだぐみ、ひょうびょう。どちらも読めない漢字です。虚空の心を持つという意味のようです。したがって、縹色とは空色をさします。うへーっ……。
 江戸で旗本奴(はたもとやっこ)が武士の男伊達(おとこだて)を競っていたころ、武士を捨てて町人へ降りかかった災難。我慢に我慢を重ねますが、それにも限界があり、ついに切れてしまうのです。
 隅田川に端をいくつか架ける工事が進んでいます。競争なので、ねたんだ連中が嫌がらせを仕掛けてくるのです。それにもめげずに橋を作り上げます。今も名前の残るお江戸日本橋です。
 江戸の街並みができあがってまもないころの武士や町人たちの日常生活が実感をもって伝わってきます。山田洋次監督の映画『武士の一分』を思い出しました。
 著者は山形県酒田市の生まれだそうです。となりの鶴岡市は藤沢周平の故郷です。私も、弁護士になりたてのころ、鶴岡市には何回となく通いました。灯油裁判の弁護団の末席を汚していたのです。恥ずかしながら何の働きもしませんでしたが、大変勉強にはなりました。
 ところが、山本周五郎賞の候補になったものの、61歳の若さで急逝してしまったのでした。胃がんだったようです。本人もどんなに残念だったことでしょう……。
 がんの再発を聞かされ、ベッドのなかで深刻な症状を感じていたはずの状況で、これらのしっとりした短編を書いたというのは、すごいことです。本当に残念です。ご冥福を祈るばかりです。
 
(2009年12月刊。1500円+税)

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