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2010年2月 の投稿

チェチェン

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 オスネ・セイエルスタッド、 出版 白水社
 ロシアでチェチェン人というと、いかにもテロリスト集団というイメージです。
 1989年のチェチェン人は人口100万人。戦争が始まって5年間に10万人のチェチェン人が殺された。
 1991年12月にソ連が崩壊したとき、チェチェンは自治共和国としてロシアからの離脱が認められなかった。ドゥダーエフ大統領はかつてソ連軍でただ一人のチェチェン人の将校だった。ところがエリツィンとドゥダーエフは憎い敵同士となった。
 ロシアからの財政支援が大きく削減されたため、チェチェン国内には混沌と腐敗がはびこった。チェチェンの犯罪者集団はモスクワ銀行を襲撃し、10億ドルを強奪してチェチェンに持ち去った。チェチェンの首都であるグローズヌイは、密輸・詐欺・マネーロンダリングのセンターとなり、共和国における政府の権威は失墜していった。
 ドゥダーエフはモスクワに衛星電話をかけていたところ、その信号をキャッチされ、対地ミサイルによって襲撃・暗殺された。ロシア政府が殺したわけです。
 やがて紛争はチェチェン化した。粛清する側もされる側も、ともにチェチェン人なのである。ただし、チェチェンで誰が権力を握るのかを決めるのは、クレムリンだ。クレムリンの忠実な僕(しもべ)たちが暗躍している。白昼堂々、活動することもある。
 2002年10月、モスクワの劇場で、覆面姿の男女40人がステージに飛び乗り、天井に向けて実弾を打った。この犯人グループに共通していたのは、全員が戦争で身内を亡くしていたこと。16歳の少女も2人いた。劇場には観客として800人がいた。3日目の明け方、ロシア軍がテロリスト制圧のためガスを噴射した。占拠犯は全員殺されたが、200人の人質も、銃撃戦に巻き込まれて死んだ。まさしく凄惨なテロでしたね。
 チェチェンのカディロフ大統領は、スタジアムの自分の席で爆殺された。そのスタジアムは、式典のためにつくられたもので、治安部隊が人員と資材のすべてを監視し、エックス線検査もしていた。爆発物は、当日、カディロフが座るはずの席にコンクリートづけされていた。それが出来るのは、防犯手続きを迂回できる人間だけ。つまり、権力当局が容認しなければありえない爆破だった。
 ロシアでは、毎年、人種的な動機による襲撃が5万件も発生している。しかし、襲撃された側が通報するケースは少ない。警察が、被害者より襲った側に同情することがよくあるからだ。記録に残るのは、毎年わずか300件ほどで、人種的動機による殺人事件は50件。加害者はめったに起訴されないし、有罪判決が出るのはもっとまれだ。襲撃の大半は若い男性による。外国人嫌悪に関連する事件の2分の1は、被告が18歳未満のため密室審理となっている。
 コーカサス出身者は全体としてそうなのだが、とりわけチェチェン人は一般のロシア人の憎悪と軽蔑の対象にされている。チェチェン人は、ロシアの年に住民登録したり、子どもを学校に入れたり、仕事を見つけたり、住居を探すのが難しい。
 チェチェン紛争の現地に入りこんでの報告です。まさに憎悪の果てしない連鎖がそこにあります。ぞっとする事態です。チェチェンとロシアの正常化を願うばかりです。
 
(2009年9月刊。2800円+税)

思考する豚

カテゴリー:生物

著者 ライアル・ワトソン、 出版 木楽舎
 つい先日も豚シャブを食べたばかりです。豚肉でも、ときには牛肉のようにシャブシャブで食べられるのですよね……。この本を読んで、そんな身近な豚について、認識を改めました。
 豚は根っからの楽天家で、ただ生きているというだけで自らわくわくできる生きものだ。
 猫は人を見下し、犬は人を尊敬する。しかし、豚は自分と同等のものとして人の目を見つめる。
 豚は独特だ。考え、働き、囲いの外で遊ぶ。この4000万年のあいだ、豚の姿形や基本的な構造はほとんど変わっていない。
 豚はとても社会的な動物である。楽しげに寄り集まり、身体にふれあいながら、家族集団で暮らしている。若いオス豚たちは、成熟すると自発的に群れを離れるか、群れから追い出される。
 オス豚は年をとると、いつしか自分から群れを離れていく。一方、年老いたメス豚が一頭だけで暮らすことは決してなく、いつまでも社会集団のなかに留まり、女家長的存在になる。集団がどこで食糧をあさり、いつ移動するのかは、しばしばこの女家長に合わせて決定される。ちょうど象の社会集団のようである。
 豚は恐ろしいほどよく眠る。一日の半分はゆったりと身体を横たえて静かに動かずに過ごす。そのうち半分は、時々いびきもかく深いノンレム睡眠だ。
 豚は本来、昼行性である。
 豚の行動圏において欠かせない目印は、糞をする場所である。
 豚の鼻がユニークなのは、鼻で地を掘る習慣に負うところが大きい。鼻先は平たくなっていて、軟骨組織の丈夫なパッドが詰められているため、かなり硬い地面でも掘ることができる。
 野生の豚は、トカゲ、ヘビ、ヒナドリ、小型の哺乳動物など、捕まえられるものならほとんどんなんでも殺して食べる。
 豚は、あらゆる意味できれい好き、かつ、繊細である。どの豚も匂いに対する鋭い感覚を持っている。豚は匂いを嗅ぎ分けるのに最適な身体をしている。鼻は同時に腕、手、鋤(すき)、主要な感覚器官でもある。
 豚の社会は匂いにしばられている。豚の行動はおおむね匂いによって決定される。
 豚は決して縄張りに固執する動物ではなく、季節に合わせて移動できる行動圏を持っている。
 豚の新生児は数分で母親の声を認識しこれに反応する。生まれて1時間もたたないうちに、子どもたちは母親の声とそれ以外のメス豚の声を聞き分けられる。
 豚は人間の指図を受けるのがあまり得意ではない。そうなるには頭が良すぎるのだ。だから、同じことを繰り返す退屈な作業を快く感じない。
 いま、何千頭もの豚が生物医学の研究に従事している。いくつかの解剖学的構造において、豚はどの動物よりも人間に近い。
 週に何回も食べている豚が、こんな動物だったとは……。
 
(2009年11月刊。2500円+税)

タイガとココア

カテゴリー:生物

著者 林 るみ、 出版 朝日新聞出版
 釧路市動物園で産まれた、後ろ脚に障がいをもつアムールトラ2頭の生育日誌です。残念なことに、そのうちの1頭は1年あまりで死んでしまいました。でも、動物園の飼育員の皆さんの懸命な飼育状況がたくさんの写真とともによく伝わってきます。
 私も、今や日本一有名な旭山動物園に見学に行ったことがあります。広々とした大自然のなかで、アザラシやペンギンなど、たくさんの動物たちが生き生きと生育しているのを見て、心を打たれました。この釧路市動物園には行ったことがありませんが、釧路には3回ほど行きました。今度行くときには、この動物園に立ち寄ってココアちゃんを拝んでこようと思います。
 アムールトラの赤ちゃんは、3頭生まれましたが、1頭は間もなく死んでしまいました。残る2頭も、後ろ脚に障がいがあり、ちゃんと立てません。その2頭が生まれてから大きくなるまで、飼育員の皆さんが手塩にかけて育てる様子が伝えられます。
 ともかく、この本のいいところは、産まれ落ちたところ(母アムールトラは産みっ放しで、赤ちゃんの面倒を見なかったのです)から、2頭が徐々に大きくなっていき、飼育員が抱えきれなくなるまでの様子が克明に写真で紹介されていることです。大きくなったら怖いばかりのトラも、小さいときには子猫そのもので、ともかく可愛いのです。
 生後まもなくのとき、授乳は1日6回、2時間ごと。そのたびに排便の世話をし、足のマッサージもする。排便させるためには、ミルクを飲んだあと、必ず濡らした紙でお尻をふき、うんちをさせる。本当は母トラが赤ちゃんトラのお尻を舐めてやる。
 ミルクを誤って飲み込まないように注意深くしないといけないし、感染症にかからせないように、授乳時は飼育員も手の消毒を念入りにする。
 大きくなって、毛が抜け変わるときには、抜けた毛を飲みこみ、毛玉が胃の中にたまらないよう排出させるために、ネコ草を与える。
 ええっ、ネコ草って何ですか?知りません。どなたか、教えてくださいな。
 毛は内臓の鏡。動物は毛並みに体調が出る。うひゃあ、これも知りませんでした。そうなんですか……。
 100年前は10万頭いたと言われる野生のトラは、現在では多く見積もっても6000頭しかいない。アムールトラは絶滅の危機に瀕している。これも人間のせいですよね……。
 とても可愛らしいトラの赤ちゃんの写真が満載の本です。どうぞ手にとって眺めてみてください。心が癒されますよ。
 
(2009年11月刊。1400円+税)

エレーヌ・ベールの日記

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 エレーヌ・ベール、 出版 岩波書店
『アンネの日記』のフランス版ともいうべき本です。アンネ・フランクと同じころにアウシュヴィッツ強制収容所に入れられ、終戦によって収容所が解放される直前(5日前)に殺されてしまった若いユダヤ人女性の書き遺した日記です。24歳でした。顔写真を見ると、いかにも知的な美人です。日記の内容も実によく考え抜かれていて、驚嘆するばかりでした。
 訳者あとがきに、戦争を引き起こし、「愛国心」やら「勇敢」の名のもとに踊らされる人間の愚かさに絶望しつつも、「公正」を求め続ける。身の危険が迫るなか、文学を糧にして哲学的な思索を深めていく精神性の高さに、読者は深い感銘を受けるだろう、と書かれています。まさにそのとおりですが、フランスでは、以外にもかなりのユダヤ人が生き残ったことを知りました。
 1940年にフランスに住んでいたユダヤ人35万人のうち、75%が大虐殺のなか生き延びた。ポーランドは8%でしかなく、オランダの生存率は25%だった。
 このフランスにおける高い生存率は、国内でユダヤ人をかくまい助けたフランス人(「正義の人」と呼ばれた)のおかげである。そして、ユダヤ人の子どもの85%が生き延びることができた。有名な歌手であるセルジュ・ゲンズブールも、子ども時代にユダヤ人であることを隠して生き延びた。ええっ、そうだったんですか……。ちっとも知りませんでした。
ああ、でも、私はまだ若いのに、自分の生活の透明さが乱れるなんて不当だ。私は「経験豊か」になんてなりたくない。しらけて幻想なんか捨てた年寄りなんかなりたくない。何が私を救ってくれるのだろうか。
 私は忘れないために急いで事実を急いで記している。忘れてはならないから。
 人々に逃げるように警告した何人かの警官は、銃殺されたという。警官たちは、従わなければ収容所送りだと脅された。
 勇気を持って行動すると、生命を失う危険のある日々だったわけです。
 結局のところ、書物とは、平凡なものだと理解した。つまり、書物の中にあるのは、現実以外のなにものでもない。書くために人々に欠けているのは、観察眼と広い視野だ。
 私が書くことを妨げ、今も心を迷わせている理由は山ほどある。まず、無気力のようなものがあって、これに打ち勝つのはとても大変だ。徹底的に誠実に書くこと、自分の姿勢を曲げないために、他の人が読むなどとは絶対に考えずに、私たちが生きている現実のすべてと悲劇的な事柄を言葉で歪めずに、その赤裸々な重大さのすべてを込めながら書くこと。それは、たえまない努力を要する、とても難しい任務だ。
 要するに、この時代がどうであったか、あとで人々に示せるように、私は書かなければならない。もっと重要な教訓、さらに恐ろしい事実を明るみに出す人がたくさん出てくることは分かっている。
 私は臆病であってはならない。それぞれ自分の小さな範囲内で、何かできるはず。そして、もし何かできるなら、それをしなくてはならない。私にできることは、ここに事実を記すこと。あとで語ろうとか書こうとか思ったときに、記憶の手掛かりとなる事実を書きとめることだけだ。
 人生はあまりに短く、そしてあまりに貴重だ。それなのに今、まわりでは犯罪的に、あるいはムダに、人生が不当に浪費されているのを私は見ている。何をよりどころにしたらいいのだろうか。絶えず死に直面していると、すべては意味を失う。
 今、私は、砂漠の中にいる。「ユダヤ人」と書くとき、それは私の考えを表してはいない。私にとって、そんな区別は存在しない。自分が他の人間と違うとは感じない。分離された人間集団に自分が属しているなんて、絶対に考えられない。
 人間の悪を見るのは苦しい。人間に悪が降りかかるのがつらい。でも、自分が何かの人種や宗教、あるいは人間集団に属しているとは感じないために、自分の考えを主張するときに、私は自分の議論と反応、そして良心しか持たない。
 シオニズムの理想は偏狭すぎると私には思える。
 きのう(1944年1月31日)は、ヒトラー政権が出現して11年目の日だった。今では、この体制を支えている主要な装置が強制収容所とゲッシュタポであることが良くわかった。それが11年も…。一体誰が、そんなことを賞賛できるのだろうか。
 エレーヌ・ベールの知性のほとばしりを受け止め、私の心の中にある邪心が少しばかり洗い清められる気がしました。一読をおすすめします。
 フランス語を勉強している私としては、原書に挑戦しようという気になりましたが……。
 
(2009年10月刊。2800円+税)

回想の松川弁護

カテゴリー:司法

著者 大塚 一男、 出版 日本評論社 
 松川事件が起きたのは、1949年8月17日のこと。私は生まれたばかりで、まだ1歳にもなっていませんでした。今では完全な冤罪事件であり、被告人とされた人々が無実であることは明らかなのですが、警察は事件直後から共産党の犯行だと大々的に宣伝したのでした。これによって、当時の国鉄や東芝の組合運動、当時は今と違って労働運動に力があったのです、は大打撃を受けてしまいました。
 そのデマ宣伝をした新井裕・福島警察隊長(今で言う県警本部長)は、その後、左遷されるどころか、ついには警察庁長官にまで上り詰めた。もう一人。被告人からデタラメな「自白」調書をとった辻辰三郎検事も、検事総長にまでなった。
 これって実に恐ろしいことですよね。これでは警察も検察も反省するはずはありませんね。シロをクロと言いくるめた人間が、それが明るみになっても出世していくという組織では、自浄作用を期待するのが無理でしょう。問題は、それが60年も前のことであって、今では考えられもしないことだと言いきれるかどうかです。私は言いきれないように見えます。最近のマンションへのビラ配布をした人を捕まえて23日間も勾留したというのも恐ろしいことではありませんか。
 松川事件について、警察庁(当時の国警本部)は、盗聴器を警察署内の弁護人接見室にすえつけたが、弁護人らに警戒されてはっきり聞き取れず効果がなかった、と反省する報告書を部外秘で作成した。
 ええーっ、と思いました。今でも、警察の面会室において、否認事件のときには立ち聞きされているんじゃないかと心配することがあります。留置所は弁護人にとって夜でも面会できるし、被疑者も煙草を吸わせてもらえるなど便宜の良い半面、こんな怖さがあるんですよね。
 最近でも、全国刑事裁判官会同をやっているのか知りませんが、かつてはよく開かれていて、法曹会出版として公刊もされていました。
 1954年に松川裁判で第二審・有罪判決を出した鈴木禎次郎裁判長が丸一日、裁判官合同で報告したということです。この鈴木裁判長は、有罪判決を言い渡すとき、「本日の判決は確信をもって言い渡す」との前口上を述べたことでも有名です。ところが、被告団が猛烈に抗議すると、たちまち、「真実は神様にしか分かりません」と逃げたのでした。実のところ、主任裁判官は無罪の心証を持っていて、もう一人の裁判官と鈴木裁判長も、有罪とする被告人の数が異なっていたというのです。ここまで評議内容が外部に漏れるのもどうかと思いますが、それはともかく、当時のマスコミは鈴木裁判長をあらん限りにほめたたえたそうです。マスコミもひどいとしか言いようがありません。権力迎合のマスコミほど、情けないものはないですよね……。
 被告・弁護団が不当な有罪判決に対して即日上告したのに対して、当時のマスコミが「望みなきもの」と非難し、松川裁判を批判していた広津和郎氏などを揶揄していたというのも許せません。マスコミの事大主義的な態度は、今もときどき露見しますよね。
 無実の人々が14年間も戦い続けて、やっと無罪判決を勝ち取った事件を弁護人として担当した著者が振り返っていますが、今日なお大いに学ぶべきものがあると思いました。
(2009年10月刊。2500円+税)

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