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2010年2月 の投稿

歴史と花を巡る旅

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 福山 孔市良、 出版 清風堂書店
 大阪の先輩弁護士による旅行エッセーですが、なんと『弁護士の散歩道』シリーズの第5弾なのです。実は、私も同じようなものを書いていますが、最近は文章より写真を主体にしています。ちなみに、私の方は、『スイスでバカンスを』(1999年2月)、『北京西安そしてシルクロード』(2004年8月)、『サンテミリオンの風に吹かれて』(2005年12月)、『南フランスの夏』(2008年11月)、『ちょこっとスイス』(2009年12月)です。いずれも16頁の大判で写真を主体とする旅行記です。その前は文章を主体とする新書版の旅行記でしたが、写真で知ってほしいという思いが強くなったのと、文章を短くしたいという手抜き発想から変えています。
 著者の福山弁護士は、遺跡をいくつも歩いているようです。私もこのなかの三内円山遺跡(青森)と、菜畑遺跡(佐賀)だけは行ってきました。そして、遠野には花巻に行ったときに出かけたのです。途中で時間がなくなって引き返してしまいました。残念です。日本にも、まだまだ生きたいところはたくさんあります。それにしても、弁護士はその気になれば、いくらでもあちこち全国どこへでも行けるので、本当にいい職業です。ありがたいことです。
 著者はスペインの旅に何回も挑戦しています。私はスペインは行ったことがありません。やっぱり少しだけ話せるフランス語を頼りにフランスに行きたいと思います。なんといっても言葉が通じるというのは安心なのです。
 奥付を見ると、ちょうど私より10歳だけ年長だと言うことがわかりました。まだまだ大変お元気のようです。今後とも大いに旅行して下さい。
 花の名前を実によく知っておられるのにも感心しました。山を歩いていて、咲いている花を見て、ただきれいだねというだけでなく、花の名前を言えて、少しくらい花について開設できること。これが旅行の楽しみを深めるものです。
 著者はアルコールを卒業されたようです。私はまだ卒業はしていませんが、美味しい赤ワインを少々飲めればうれしいというところです。ビールのほうは私も卒業しました。ビールはもう2年ほど飲んでいません。
(2010年1月刊。1429円+税)

カメムシはなぜ群れる?

カテゴリー:生物

著者 藤崎 憲治、 出版 京都大学学術出版会
 ホオズキカメムシは成虫が体長1センチほどの黒褐色をした地味な色合いのカメムシ。ホオズキという植物の語源は、ホウがつく植物のこと。ホウというのは、カメムシをさす古語。私の家の庭にもホズキがありますが、それがカメムシ由来の名前だと言うのには驚きました。
 ホオズキカメムシは、幼虫のとき、強い集合性を持っている。寄り集まって、みな外側を向いた円陣隊形をとる。
 ホオズキカメムシが襲われたとき、その個体が警報フェロモンを発するため、他の個体は速やかに逃避する。自らが犠牲になることによって兄弟が助かると、遺伝子は兄弟経由で次世代に受け継がれていく。利他的な行動のように見えて、実は利己的な行動なのである。
 ホオズキカメムシは成虫になっても初めのうちは幼虫のときと同じく、オスもメスも一緒に仲良く集合して吸汁している。ところが、性的に成熟し、繁殖期が始まると様相が一変する。オス同士が互いに排斥しあうようになる。
 ホオズキカメムシのオスはハレムをつくり、10匹のメスを占有する。
 カメムシたちが群れることには意味があることを、実証的に明らかにした面白い本です。学者って本当に偉いですね。こんなことをじっとじっと見つめていて、その違いを掘り下げて研究し、論文を書いていくわけなんですからね。たいしたものですよ。
 
(2009年10月刊。1800円+税

江戸の本屋さん

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 今田 洋三、 出版 平凡社ライブラリー
 江戸時代には、大量の本が出版されていて、本の買えない庶民には貸本屋があって、大繁盛していたのでした。
 そうなんです。日本人は、昔から本大好き人間が多かったのです。今の日本と同じです。
 江戸時代に出版業者は刊行物の目録を作るようになった。1670年の目録には3900点の書物が登録されており、1692年には7200点にも達している。元禄時代の日本に刊行されていた書物は、1万点にものぼる。流通していた冊数は1千万冊にも及ぶものとみられる。
 うへーっ、す、すごいですよね。私も読書家の一人ですが、蔵書は1万冊あるでしょうか。年間500冊以上の本を読み、購読して読んでいない人も相当ありますので……。
 江戸時代、書物の読者が増え、劇場の観客が激増したのは、都市の発達と関連していた。京都も大阪も30万都市であり、江戸には武士と町人あわせると100万人に達した。この時代に人口100万人を超える都市は、世界中探しても他に見つからない。
 文化・文政期は三都がかつてなく繁栄した。江戸では文化の享受層が、田沼時代の上層町人中心から、中下層の町人・職人層に拡大し、文化の大衆化が進行した。都市における読書人口は、かつてなく増大した。毎年40種近く発刊される合巻は、それぞれ5千部から8千部も売れた。近世前期に、上方中心であった出版界は、完全に江戸中心となった。
江戸時代には、どの地方にも貸本屋があった。大坂には300人の貸本屋がいて、江戸の貸本屋は800軒と言われていた。江戸だけで10万軒に及ぶ貸本読者がいた。こうなると、有料図書館とでもいうべき存在である。
 貸本屋は出版統制・言論統制のまことに厳しい江戸時代にあって、とくに政治批判や政治の実態を曝露する文献を、読者にひそかに貸し出す人々でもあった。
 江戸の講釈師・馬場文耕は、金森氏が藩政不行届のかどで改易されたのを講談にしたところ、浅草で獄門に処された(1758年)。
 日本人の読書好きには歴史があり、権力への反骨精神も太々としたものがあったことが、よくわかる面白い本です。
 
(2009年11月刊。1300円+税)

戦場の哲学者

カテゴリー:アメリカ

著者 J・グレン・グレイ、 出版 PHP研究所
 第二次大戦にアメリカ軍の少尉として従軍した著者が、戦場体験をふまえて、戦争で人がなぜ平気で人を殺せるのかを考察した本です。
 無数の兵士たちが程度の差はあれ進んで命を投げ出してきたのは、国、名誉、信仰、あるいはそのほかの抽象的な善のためではなく、持ち場を捨てて己が助かろうとすれば、仲間をより大きな危険にさらすはめになるのをよくよく心得ていたからである。
 まとまりのない大集団内にいる者は、小規模ながらも組織化された集団に対しては自分たちの分が非常に悪いことに、常々気づいているものである。捕虜からなる巨大な群集がいくつも、ライフルを背中に下げた数名の監視員によって捕虜収容所へと移動させられている光景は、哀感に満ちている。これらの捕虜たちが監視員を前にして無力なのは、武器を携帯していないせいではない。共有の意思が欠如しているため、すなわち、ほかの者も自分と協同して征服者に対するはずだとの確信を持てないためである。
 戦闘中にともに奮闘する経験は、条件の変化した近代戦においてさえ、兵士たちの生涯で最高のときである。恐怖や疲労、汚れ、憎悪などがあるにもかかわらず、ほかの者とともに戦闘の危険に加わることには忘れがたいものがあり、その機会を逃したことはなかったはずである。
 自由をわくわくするような現実、つまり真剣だが喜びに満ちたものとして経験できるのは何か具体的な目標に向かって他者と一致して行動しており、しかも、その目標は絶対的な犠牲を払わねば達成できないような場合に限られる。男たちが真の仲間となるのは、互いが相手のために熟考することも個人的な損失を考えることもなく、自らの命を投げ出す覚悟がある場合のみである。自分の命を仲間と共有している者にとって、死はいくぶん非現実的で信じがたいものとなる。
 破壊の喜びには、ほかの二つと同様に人を有頂天にさせる性質がある。人間は破壊行為に圧倒され、外部から羽交い絞めにされ、これを変えたり支配することなどとてもできないと感じる。これは一体化なしの忘我状態なのである。
 これが軍隊仲間の戦友会(同窓会)の盛んな理由なのですね。初めて分かりました。
 戦時下には性愛が優先時となる。多くの女性が偶然出会った兵士への激しい思いに突如として駆られる。性的な表現に対する抑制が弱まるのみならず、互いのなかに相手の性への強烈な興味が存在し、それは平時の場合よりはるかに激しいものがある。通常なら他の関心事に心を奪われている男女が、気がつくと性愛の渦に巻き込まれていて、この愛が現下の優先事となる。戦時中は婚姻数が増加し、出生率が上昇する。
 兵士は故郷の精神的なよりどころや、地域社会といった背景から引き離されて、どこにも所属しなくなり、心配、脅威、孤独、寂しさにさらされる。男ばかりの敵意に満ちた環境にあって、兵士が切望するのは、自分を保護してくれる穏やかな存在であり、その象徴が女性であり、家庭なのである。兵士が性行動にのめりこむのは、失ったものに対するある種の埋め合わせとなる。いうなれば、不適応状態の表れである。戦争でぞっとするような、あるいはなにもこれと言って特徴のない昼夜を何日も過ごした後で、従順でやさしく愛撫してくれる女性を腕に抱くことは、報いのないことに慣れきっていた兵士にとっては途方もなく素晴らしいことだった。
 女性は、自分の親兄弟と戦いを交えて殺戮していた敵(連合軍)の兵士を愛することができた。もっとも自明なのは、基本的本能と言われている自己保存の本能や、利己心、自己本位の動機すべてに反して、人間は行動できるということである。
 死に直面して臆病になるものと、生来の臆病者を区別しなければならない。ほぼ誰にでも、ときには臆病者になる自分が潜在している。臆病者は戦闘中に何度も死ぬ思いをする。そのたびに計り知れないほどの精神的な辛さを味わう。
 戦争は人間を人間でない存在にするのですね。体験にもとづいての考察ですので、言いたいことがよく伝わってきます。
 
(2009年9月刊。1700円+税)

朝鮮戦争(下)

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 デイヴィッド・ハルバースタム、 出版 文芸春秋
 アメリカからすると、ソ連と中国は一枚岩のように見えた。しかし、スターリンは実際には、毛沢東を信用していなかった。それで、中国とアメリカとの緊張が最大限になることを願った。両者が敵対しあう戦争はスターリンに有利に働くはずだった。
 1948年末、毛沢東は何回にもわたって、モスクワでの会談を求めたが、スターリンはその都度ためらいを見せた。毛沢東はスターリンが自分に疑いを抱いていることを十分承知していた。1949年12月、毛沢東はついにモスクワを訪れた。スターリンはすぐに毛沢東と会おうとせず、何日も待たせた。毛沢東の訪問によって得られたソ連からの経済・軍事援助は、わずかなものでしかなかった。
 毛沢東は、あとで「虎の口から肉を取るようなものだった」と言った。ソ連の対応は、本質的には侮辱にほかならなかった。
 1950年10月、毛沢東は朝鮮戦争への参戦を決めた。中国軍部隊を義勇軍としたのは、アメリカとの全面戦争を防ぐための選択だった。中国軍部隊が派遣されるのは、単に 朝鮮を救うためだけではなく、より大きな世界革命、とりわけアジアの革命を促すためだった。
 金日成は、中国が中国軍の指揮を自分に任せるものと思っていた。しかし、中国が軽蔑しきっている金日成に中国軍部隊を任せることなど、ありえなかった。むしろ金日成には再教育が必要だと考えていた。冒険主義以外の何物でもない。軍の統制も子ども並み。このように中国軍を指揮する彭徳懐は言った。
 20世紀のアメリカ軍の誤算の中で突出しているのは、マッカーサーが鴨緑江にまでアメリカ軍部隊を北上させたこと。中国軍は高い山の中にこもって、アメリカ軍の北上を見守っていた。このあと、アメリカ軍を徹底的に叩いた。不意打ちだった。
マッカーサーの職業的な罪の中の最大のものは、敵を完全に過小評価したこと。
 マッカーサーは、アジアを知らず、敵について驚くほど無関心だった。
ウィロビーは陰謀好きだった。ウィロビーは総司令部内のニューディール系リベラルを共産党シンパないし共産党員そのものだと見なして一掃しようとした。
 現場で戦うものたちにとって、ウィロビーの存在は危険なまでに悪に近いものだった。ウィロビーは、戦闘部隊レベルの情報機関がきわめて重要な最高の情報を在韓司令部に送るのを阻止しただけでなく、他の情報源も封鎖した。ウィロビーは共産主義と中国の危険について喚き散らしながら、最後には国連軍部隊が大規模な待ち伏せ攻撃のえじきになるように仕組んでやり、共産主義者たちの仕事をずっと簡単にしてやったのである。
 司令官の至上任務は、兵士の恐怖を抑えることである。偉大な司令官は恐怖を逆手にとり、それが常にあると言う認識を強みに変えることもできる。弱い司令官は兵士の恐怖を昂じさせる。ある司令官の下で勇敢に戦う兵士が、自分の恐怖を投影するような司令官の下では逃げ出してしまう。
 偉大な司令官とは、賢明な戦術的動きが出来るだけでなく、兵士に自信をあたえ、それをやることができる。その日に戦うのは、自分たちの義務であり、特権であると感じさせるような人物である。
 中国軍においては、普通の兵士でも、政治委員の講義を通じて戦闘命令について非常に多くのことを知っている。
 中国軍が初期にえたアメリカ軍との戦闘における異例の成功は、彭徳懐の重荷になった。毛沢東の決めた目標が中国軍の能力を上回りがちとなった。毛沢東が勝利に酔ってしまった。中国軍の重火器用弾薬が明らかに不足していた。
 中国軍の命令構造の硬直性は大きな弱点だった。上から下に伝わるだけで、下の水準にはほとんど融通性がなく、個人的な創意の余地も皆無に近かった。それは勇敢かつ頑丈で、信じられないほど責任感の強い歩兵を生み出した。だが、彼らを統率する中間レベルの指揮官は、戦闘の最中に戦場の変化に応じて重要な決定を下すべき権限も通信能力ももっていなかった。
 これはアメリカ軍とは対照的な違いだった。アメリカ軍では有能な下士官の創意が評価され、戦闘の展開に応じて調整していく能力が重要な長所となった。
 中国軍はせいぜい3日間は強烈に戦うことができた。しかし、弾薬、食糧、医療支援、そして純然たる肉体的持久力の限界、それに巨大なアメリカ空軍力のために、有利な条件や局面突破があっても、有効に活用できず、挫折や敗北が増幅された。どの戦闘でも、3日目になると、すべてのものが不足し、はじめ、敵との接触を断つことが必要になってしまう。
 マッカーサーが解任されてアメリカに帰国したとき、アメリカ市民は熱狂的に迎えた。しかしその熱狂はマッカーサーの政策に対する支持を意味するものではなかった。つまり、アジアでの戦争拡大を支持するものではなかった。マッカーサーへの熱狂的な歓迎は、その政策への支持とは、まったく別物だった。
 マッカーサーに長年接してきた人たちを苦しめた大きな問題の一つは、マッカーサーが必ずしも真実を語らないことだった。自分に都合のよいときには真実を利用したが、邪魔になると、すぐに真実から離れた。
マッカーサーは、議会の演説で恥知らずな嘘をついた。
 マッカーサーは、ペンタゴン(国防総省)で、ほとんど支持を得ていなかった。マッカーサーの命令無視、中国軍参戦についての責任を認めないこと、軍に対する文民統制を故意に無視したことにペンタゴンの士官たちは激怒していた。朝鮮戦争の前線で死傷したのは、多くの場合に、若手士官の同期生や友人たちだった。マッカーサーは、ペンタゴンのいたるところで多くの若手士官たちから嫌われ、憎まれていた。彼らは、上院議員たちにマッカーサー攻撃の論拠を与えていた。
 朝鮮戦争を中国軍の内情、そしてアメリカ内の政治状況と結びつけながらとらえた、最新の研究を踏まえた傑作です。
(2009年12月刊。1900円+税)

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