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2009年1月 の投稿

魔法のどうぶつえん

カテゴリー:生物

著者:岩合 光昭、 発行:阪急コミュニケーションズ
 高名な動物写真家による旭山動物園のどうぶつたちの傑作写真集です。どうぶつが実に生き生きしていて、目の前で挨拶してくれているかのようです。私も一度だけ噂に名高い旭山動物園を見ておこうと思い、北海道に出張したとき、札幌からJRに乗って出かけました。札幌駅でJRの切符とのセット券を売っていました。
旭川駅からはバスに乗ります。市内から20分以上も離れた高い丘に動物園はあります。行った日はよく晴れていましたが、観光バスから続々とお客さんが降りてきました。
どうぶつの生態を間近でよく観察できる仕掛けがあちこちにあり、さすがに工夫が行き届いていると感心したことでした。
 ホッキョクグマの巨体が水中を軽やかに泳ぐ姿には圧倒されました。最近、新しくオオカミの森が出来たそうですが、私が行った時にはありませんでした。オオカミのいかにも野性的な目つきに、目が合うとたじたじとなりそうです。また、オランウータンの空中散歩も残念ながら見ることはできませんでした。これも運不運があるようです。
それでも、アザラシが円筒形の水槽を上から下から通過していくのは幸いにも見ることができました。アザラシの方でも見物している人間を意識しているとのことです。
 もちろんペンギンたちにもお目にかかりました。でも、冬ではありませんでしたので、あの有名なペンギンのお散歩というのは、見ることができずに残念でした。
 今や日本一有名な動物園です。今度は映画にもなりましたよね。また行ってみたい動物園です。この写真集は、行く前に見ておいたら良いと思いますよ。
(2008年12月刊。1500円+税)

江戸子ども百景

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:小林 忠・中城 正堯、 発行:河出書房新社
 いやあ、実にカワユーイ。江戸時代に子どもを描いた浮世絵があったなんて、ちっとも知りませんでした。それがまた実に愛らしいのです。江戸時代の子どもたちが実に伸びのびと生きていたことを実感させてくれる絵のオンパレードです。そしてまた、子どもたちの遊びが少なくとも私たちの子どものころとあまり変わらないのにも驚きです。どうなんでしょうか、今の子どもたちも、こんな遊びをしているのでしょうか。少子化、ケータイ、ネットの時代には、もうなくなった遊びも多いのではないかと、ちょっぴり心配もしました。
幕末から明治はじめに日本にやってきた外国人は一様に、日本は「子どもたちの楽園」のようだと賛嘆を惜しまなかった。モース(日本考古学の父)は、「世界中で日本ほど、子どもが親切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」と、目を細めた。
 グリフィス(化学の教師として福井や東京で教えた)は、「日本ほど、子どもの喜ぶ物を売るオモチャ屋や縁日の多い国はない」と、驚きを隠さなかった。
親は、西洋の親のように体罰を加えてまでしつけを強制することはなかったが、それでいて子どもたちは、みな聞き分けが良く、利発で、礼儀正しかった。
 浮世絵の一ジャンルである「子ども絵」は、江戸の社会にあっては、かなり需要の高い商品であった。
 江戸の子どもたちの遊びは、第一に季節感に富んでいた。正月は追い羽根、2月は凧あげ、3月はおままごと。4月は花見や金魚遊び・・・。第二に、子どもの遊びとオモチャの種類の豊富さに驚かされる。第三に、大人たちの周囲でのイタズラだったり、大人たちの姿の巧みな真似であったりした。
 江戸時代は、子どもをかけがえのない後継者として大切に育てようとする社会であり、子どもは「子宝」とされた。
銀も 黄金も花も なにせんに まされる宝 子にしかめやも(万葉集。山上憶良)
 浮世絵に描かれている子どもたちって、どれもこれも丸々と太って、いかにも大切に育てられているという、幸せ一杯の笑顔を見せています。
カラー図版がたくさんありますので、本当に実感できます。「子をとろ子とろ」「芋虫ころころ」「鬼ごっこ」「めんない千鳥」などのゲーム的な遊技は、仲間との競争や助け合いなど、仲間遊びであった。
 「子をとろ子とろ」は、子をとる鬼から親が子を守る遊びとされるが、本来は、地蔵菩薩が子を守る姿で、地蔵信仰に由来する。私も幼いころ、「こーとろ、こーとろ」というかけ声で遊んだような気がします。
 輪回しという絵が描かれていますが、私も、自転車のタイヤを外した輪に棒をあて立てて転がす遊びをしていた覚えがあります。江戸時代の子どもたちは竹製の輪をどうやってまわしていたのでしょうか・・・。
 江戸時代には職人がつくるおもちゃが豊富で、子どもにとって歴史はじまって以来の「玩具天国」となった。黒田日出男は「子どものおもちゃや遊びどうぐをつくる職人の登場は近世社会の文化現象」とみなしている。
 わずか90項ほどの大判の浮世絵による子どもの百景なのですが、眺めているうちに何やら童心に返って、ほんわか心があったまりました。
(2008年5月刊。2800円+税)

プロが語る企業再生ドラマ

カテゴリー:司法

著者:清水 直、 発行:銀行研修社
 多くの倒産企業の再建を手がけた超ベテラン弁護士の本ですので、大変味わい深いものがある本です。なるほどなあ・・・と、何度も感心させられたことでした。
 オーナー型経営者は、おしなべて自信過剰であり、猜疑心も強く、まわりの者の意見を素直に聞かない。七転び八起きしながら、一代で企業を創業し、発展させて来ただけに、「まだ、やれる」「なんとかなる」と思い込み、差押、競売などの窮迫な状態に追い込まれても、なお、自分の企業は自分のものだと執着し、容易に企業再生ないし清算などの法的手段をとることを決断しない。
 企業再建事件の処理にあたっては、法律論を振りかざす弁護士は有害無益である。
 会社が立派な本社ビルを建てたとき、社長が豪華な自宅を建てたときは要注意である。なぜなら、本社も自宅もお金を生まない代物だから。財を創出しない本社や自宅は、急いで建てるものではない。ところが、経営者は、ちょっと調子がよくなると、本社をきれいにしたがる。
 ペット同居型マンションをつくった経営者は、利用申込者の面接にペットの同伴も義務づけている。そのオーナーは次のように語った。
「人間を見てもダメ。ペットを見なければいけない。ペットと二言、三言、話すと、そのペットが日頃どんなしつけを受けているか、たちどころに分かる。面接してこれはしつけがダメだと分かれば断る」
 なーるほど、そうですよね。人間の子どもを見たら、親も分かりますからね。
 企業の再生を担う者は、法律家としての倫理観と法的知識を有することが最低の必要条件である。いかにして企業を再生するかについて経営的、会計的教養も必要とされるが、何より大切なことは、企業再生に対する熱意と創意工夫する姿勢。そして関係者を喜んで協力させるシステムをいかに構築するかについて、人間味をもって日々考えることである。
 再建途上の会社は、ともすれば、暗い雰囲気になりがちだ。そこで、管理人補佐には40代後半から50代後半のおおらかな明るい性格の方が適任である。
マスコミの報道が、再生手段にプラスの方向で作用してくれることは、まずない。だから、企業再生にあたっては、できるだけ「そっとしておいてくれ」と言いたくなる。
 倒産事件は、どんなに小さな事件でも、関係者の忿懣を真摯に受けとめ、その人々のはけ口を見出すべきだ。
 債務者に関する情報は可能な限り開示する、債権者には「知らしむべし」、「寄らしむべし」である。
 企業再生と弁護士の果たすべき役割について、大いに役に立つ本です。
 先週の土曜日の午後、はげしく雪の降るなか、司法修習生の就職面接を担当しました。弁護士過疎解消のための弁護士会の取り組みに共鳴した人たちのなかから選定するための面接です。応募してきた人たちは、いずれも熱意あふれていて、面接の受け答えも素晴らしいもので、どうやってしぼるか悩まされました。ちなみに面接方法は集団面接で、一度に4人の人に対して質問し、こたえてもらうやり方をとりました。法律知識のテストではなく、人柄を知るためのものです。
 山田洋次監督のスーパー歌舞伎(映画)を見ました。中村勘三郎など、役者の熱演をアップで見ることができ、感嘆感激してしまいました。フランス語の口頭試問のあまりの不出来に気落ちしていた気分を『らくだ』のみごとなカンカン踊りに爆笑して吹き飛ばし、すっきりした気分で家路に着くことができたのです。いやあ、映画って最高ですよね。
(2008年10月刊。3000円+税)

骨から見る生物の進化

カテゴリー:生物

著者:ジャン・バティスト・ド・パナフィユー、 発行:河出書房新社
 フランス国立自然史博物館にある骨格標本を見事な写真で紹介した大判の写真集です。生物の身体のあまりに精巧な出来栄えをしっかり堪能することが出来ます。いやあ、これの全部を神様がつくったのだとしたら、全知全能という以上のものです。なにしろ、時代とともに少しずつ形を変え、性能を変えていくというわけなのですからね。なんで、神様がそんな面倒なことをしたのでしょうか・・・。
 ダーウィンの進化論を、現代アメリカでは、今も学校できちんと教えない州があるそうです。信じられませんよね。
 種が変化するという考えそのものが、動物と人間はすべて神が創造したとする創世記の記述に反するからだ。アメリカのキリスト教原理主義者たちは、宇宙の年齢を6000年とし、すべての動物と人間は創造されたときのままの姿であり、化石はノアの洪水でおぼれた動物の名残であるとする。うへーっ、たまりませんね。ありえませんよ、そんなことって……。
 魚とは、ひれと内骨格をもち、水中で生きる動物である。陸生の魚はいない。魚の種類は2万5000種以上いる。
 シーラカンスは、本物の脊柱ではなく、軟骨のチューブである脊索をもつ。このチューブの中は液体で満たされていて、かなりの柔軟性がある。シーラカンスの泳ぐときの動きは、魚より四肢動物の歩き方に近い。生態学的に見て、シーラカンスとサメはまぎれもなく魚であるが、動物学的に見ると魚類ではない。
 生物の世界は、昔からずっと今のように多様だったわけではない。8億年ほど前に登場してきたときは、ほとんど違いがなかった。ところが、5億4000万年前ころに、突然、種類が増加した。
鳥では、スズメのグループ(スズメ目)が5300種もいて、世界の鳥類全体の半数以上を占める。スズメ類は、ひとつの祖先から多数の種が生まれる「進化的放散」の実例を示している。
人の骨格を見て男女の性を決めるのに役立つのは、頭骨と骨盤である。頭骨については、男の下顎骨(かがくこつ)はより頑丈で、より突き出ていて、角張ったあごになる。骨盤については、出産のため女の骨盤腔は男より広い。
  7500万年前、鳥は恐竜と共存していた。現代の鳥の祖先は、強力な武器を備えた顎を持つ、肉食の小型恐竜だった。初期の鳥は歯をもっていた。しかし、歯は密度が高くて重いため、飛行するには邪魔だった。歯をなくすことによって、体重をかなり節約できた。
 哺乳類が現れたのは2億2000万年前。このころ、まだ恐竜がいた。恐竜がいなくなるまで1億5000万年以上も待たなければならなかった。哺乳類は、体の小さい地味な動物であり、夜行性であって、昼は地下のトンネルに潜み、夜になると植物の種や昆虫を探しに外へ出た。
 鳥とコウモリと人間は、実際に空の世界を征服した唯一の脊椎動物である。
ヘビは全世界のあらゆる大陸の、あらゆる環境に2500種もいて、その形態は進化の成功の例なのである。ヘビの祖先は、小さい肢を持つ地中生の爬虫類であった。人間がヘビを見て感じるのは恐怖心だけではない。四肢を完全に失ってしまうことは想像するのも難しいことだ。
 アリやシロアリを食べるアリクイやアルマジロなどは、尽きることのない食糧資源をターゲットに出来る。というのも、地球上には1億の1000万倍ものアリがいる。一つのアリのコロニーに2000万匹のアリがいるのだ。
 こんにち、5000種の脊椎動物が絶滅の危機にさらされている。両生類の3分の1、カメ類の半数、哺乳類の4分の1、鳥類の8分の1。うひゃあ、これは大変なことです。
人間が自分だけが地球上の絶対至高の存在とうそぶいているとき、足下の土台が揺らいでいるわけです。人間が自分だけで生きのびることが出来ると考えてはいけません。すべての生物は相互に連関し、関係し、依存しあっているのですから・・・。
 名実ともに、ずっしり重たい大判の写真集です。一見の価値があります。
我が家の近くの電柱にカササギの巣が作られています。せっせと小枝を口にくわえて運んでいます。少し離れた電柱に2個の巣が同時に建設中なのです。うまいこと組み合わせて巣が出来上がっていくのを見るのは楽しいものです。でも、九電が邪魔だといっていずれ取り払ってしまうと思います。
(2008年2月刊。8800円+税)

満州国とは何だったのか

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:植民地文化学会、 発行:小学館
 虚偽の口実をもうけて、アメリカはイラクへ攻め込んだ。それと同じことを戦前の日本は中国でした。自作自演の事件を捏造(ねつぞう)して、中国東北部で戦争を起こし、次いで「満州国」という傀儡(かいらい)国家を建て、14年間に及ぶ苛酷な植民地支配を行った。日本人がそのことを忘れると、田母神という男が日本は侵略戦争なんてしたことはないと嘘ぶき、一部からもてはやされるのです。
 「満州国」の行政組織の特徴は、総務庁中心主義をとったこと。政府のおいての実権は日本人の総務庁長官の手に操られ、この総務庁長官は関東軍に操られていた。関東軍こそ、「満州国」の事実上の支配者であった。
 1932年9月、関東軍司令官(武満信義)は、国務総理(鄭孝胥)と日満議定書に調印した。この日満議定書の主文はわずか2条のみ。第1条で、満州国は日本の中国東北におけるすべての特権を承認し、第2条で、日本の中国東北における駐軍権と占領権を承認した。これによって、中国東北部は完全に日本の植民地となった。そして、この日満議定書には、4つの秘密文書が付属していた。
1936年に作成された「満州国の根本理念と協和会の本質」という文書によると、満州国皇帝は、天皇の大御心にもとづいたものであるから、天皇に仕えるのが在位の条件であった。そして、関東軍司令官は、天皇の名代として満州国皇帝の後見者であった。
 「満州国」警察のうち、日本人1万3000人、12%を占めていた。「満州国」に抵抗する抗日義勇軍と戦うため、関東軍は集中居住区、集団部落を強制的に作り上げた。これを人圏(人小屋)といい、2500ヶ所以上の集団部落(総人口140万人)がつくられた。
 満鉄は社員2万3000人以上を擁していた。国内にはりめぐらした情報網によって領事館や陸軍・警察署などの最新情報をつかむことができていた。満鉄の資産は11億円ほどだったのが、終戦直後には50億円をはるかに超えていた。
 万人坑とは、東北に住んでいた中国人が大量に殺害されて集中して埋められた場所のことをさす。
 内地の貧しい農民にとって、「満州に行けば、20町歩もの農地を与えらえて自作農になれる」というキャッチフレーズは、とても魅力的だった。敗戦直前に、東北在住の日本人農民の移民は、成人16万7000人、青少年6万人ほどであった。そして、東北に在住する朝鮮人の総人口は、1945年の時点で150万人と推定された。
 戦後、日本人戦犯を裁く法廷が中国各地につくられた(10ヶ所)。605件、883人が被告として裁かれた。東北部では撫順の戦犯管理所に収容されたが、6年間、きちんと処遇された。判決は禁固20年から12年までで、死刑は1人もいなかった。1964年に残りの日本人が日本へ帰国した。
 「満州国」 での日本人死者は、対ソ連戦で6万人。8月15日以前で18万5000人。1964年の引き揚げを前に「留用」された人々もいた。残留したのは1万人とその家族1万数千人。その多くは八路軍に入り、残りの一部は国民軍に徴用され、内戦の戦力となった。
 「満州国」の実態について、日中両国の学者が共同して調査し、議論してまとめた本です。日本人は、この本を読んで満州国の実体を美化することなく、よく理解すべきだと思いました。
(2008年8月刊。3400円+税)

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