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2008年11月 の投稿

コンビニのレジから見た日本人

カテゴリー:社会

著者:竹内 稔、 発行:商業界
 コンビニでは、日本人は一切の緊張から解放される。緊張しながらコンビニに入ってくる客などいない。コンビニは、お客の「もっと便利に」というわがままに応える形で成長してきた業態だから、お客はリラックスして、自由気ままにふるまい、本音が出る。
 今、日本全国にあるコンビニは4万店舗を越す。客は、コンビニの従業員を人間として見ていない。客は、売り場に並んでいるもの以外は、すべてタダでもらえる物と認識している。コンビニで働いてみると、お客から受けるストレスですぐにこの商売に嫌気がさすだろう。
 コンビニの従業員は仕事に誇りをもてない。こんなひどい客にしたのは、実はコンビニ側だ。今、コンビニを訪れる客に常識はない。多くの経営者がコンビニのレジに立ち、客の相手をすることに嫌気がさし、コンビニをやめていく。
コンビニがトイレを無料で開放したころから、何かがおかしくなった。コンビニのトイレを利用した客の7割は、商品を購入せず、レジを素通りし、お礼の一言も発せず、しかも汚すだけ汚して出ていく。そこで、きれいなトイレを維持するためには、コンビニは最低でも1時間に1回はトイレを清掃する必要がある。
 いやあ、こう言われると、私も切羽詰まってコンビニのトイレを利用したことがありますので、申し訳ないとしか言いようがありません。それでも、私は、そのあと、別にほしくはなかったのですが、お菓子を買って一応、客にはなりました。
 現在、客の行動や言葉は限度を超えている。コンビニには、どんなことでも要求してかまわないと思いこんでいるし、その要求が叶えられて当然だとも思いこんでいる。つまり、コンビニは下僕(しもべ)だと認識している。当然、発する言葉も命令口調だ。命令が実行されないと、口汚く罵倒する。そして、下僕なのだから、無償で労働すべきであって、何かしてくれたから余計に買い物をしてあげようなどといった気遣いをする必要もない。
 挨拶のないコンビニ店舗では、お客がコンビニに対する緊張感を失い、それこそ「何でもアリ」の状況となっていく。万引きが蔓延し、備品は手荒く扱われる。これに対して、コンビニ店員が大きな声で挨拶すると、それだけで自信があると思わせる効果がある。
コンビニで雑誌を立ち読みしている客は、ほとんど商品を購入しない。そこで、雑誌をビニールひもでしばってみた。すると、完売するようになった。というのも、漫画雑誌を立ち読みする人は、その雑誌を購入しない。購入する人はできるだけ状態の良い雑誌をほしがる。
 横柄な態度をとる客、想像力が欠如しているとしか思えない客は決して若者ではない。その多くが、人生の酸いも甘いもかみ分けたはずの熟年世代なのである。コンビニで支払うとき客がお金を投げつける。そんな人が増えている。そして、そんな人の持っているお金(お札)はクチャクチャになっている。そのうえ、お金を大事に扱わない人は、コンビニで募金する確率が非常に高い。いやあ、そうなんですか……。
 コンビニの店内で、ケータイで話しつつ徘徊する客が増えた。そのため、コンビニ店員は身動きが取れなくなった。1時間や2時間程度は、平気で店内を徘徊する。
 コンビニが襲われることがある。しかし、警察は全くあてにならない。自らの仕事に命をかけているのは、警察官よりコンビニ経営者なのではないか。
私の知人も、午前3時から5時までの魔のゴールデンタイムは他人に任せられないし、かといって自分もおっかなビックリなので、ストレスがたまるという話をしてくれました。日本人とコンビニという切っても切れない関係にあるところに存在する大きな問題の一端が鋭く提起されています。私のような、月1回コンビニを利用するかどうかというのと、日本人の状況はまるで違うようです。私は出張したとき、ミネラルウォーターと朝食用の野菜ジュースをコンビニで買い求めますが、コンビニに入るのはそれだけです。コンビニは日本社会を破壊する存在だと考えているので、なるべく利用したくないのですが、このときばかりは仕方がありません。ホテルの近くに昔ながらのパパ・ママ・ストアーなんて絶対にありませんからね。
ピアノとフルートの生演奏を聴く機会がありました。久しぶりのことです。ビゼー作曲の「アルルの女」のメヌエットも演奏されました。この曲は私が小学生のとき、昼休みに流す校内放送を担当していて、1年間、毎日のように流していましたので、私の身体にすっかりなじんだ曲なのです。一度、昼休みの前、中休みのときにかけて先生に叱られるという失敗もしました。すばらしい演奏を聴いていると、身体が自然に揺れ、陶然とし、陶酔感から脱力して深い睡眠モードの心地になっていました。
 知人の女性にもフルートを習っている人がいますので、一度、彼女の演奏も聞いてみたいと思ったことでした。
(2008年9月刊。933円+税)

トゥイーの日記

カテゴリー:アジア

著者:ダン・トゥイー・チャム、 発行:経済界
 私は始めから終わりまで涙なくして読み続けることができませんでした。だって、あのベトナム戦争を戦っていた英雄的なベトナム青年による命がけの日記なのですよ。心が震えるほどの感動を久しぶりに味わいました。
 私の大学生のころ、「ベトナム侵略戦争、反対!」という叫びを何度あげたか、数え切れません。いくつもの大小さまざまの集会に参加し、デモ行進をしました。夜の銀座通りいっぱいに広がったフランスデモをしたときは感動に胸が震えました。アメリカ帝国のベトナム侵略戦争に反対しようという呼びかけは私の心を奮い立たせるものでした。
 ベトナム戦争が終わったのは、私が弁護士になった年か、その翌年4月のことでした。メーデーの会場で先輩弁護士たちと喜んだことを思い出します。
 この本は、北ベトナムに生まれ育った若い女性が、医師として南ベトナムへ志願して出かけ、ついにアメリカ軍に殺されてしまうのですが、その若き女医さんが毎日書いていた日記を、敵のアメリカ兵がこっそりアメリカに持ち帰って大切に保存していて、35年後にベトナムの親へ送ったことから、ついに活字になったという経緯で作られたものです。
若き女医さんは、森の中の診療所がアメリカ軍に発見されようとしたとき、1人で120人のアメリカ兵を相手にして戦い、額に銃撃されて死んでしまいました。でも、そのおかげで診療所の人々は助かったのでした。そんな勇ましい女医さんが、実はこまやかな感情とともに生活していたことが本当によく分かります。
 日記は、1968年4月に始まります。私が東京で大学2年生になった時期です。トゥイーは、このとき25歳ですから、私より6歳うえになります。トゥイーは、2年前の1966年12月にハノイを出発し、ホーチミンルートと呼ばれていた山道を3か月のあいだ歩き続けて、南のクァンガイに着きました。
 生きていくうえで、謙虚な気持ちは大切だけれど、自信や自主性も備えていなければ。正しいことをしているのなら、自分自身に誇りを持つこと。
戦争は依然として続いている。毎日、毎時、毎分、手のひらを返すように、いとも簡単に人が死んでゆく。誰かに愛されて生きてきた大切な命がいとも簡単に失われていく。
 みんな、今のこの光景を思い出してほしい。この解放事業のために血を流し、犠牲になった人たちのことを記憶にとどめてほしい。私たちの国土に悪魔が住み続ける以上……。
 そしてトゥイーは、アメリカ軍と戦う味方の陣営にもさまざまの弱点があることも書いています。解放後のベトナムで幹部の汚職が絶えないようですが、それは壮烈な解放闘争の中でも同じようなことは起きていたというわけです。
 人の心臓は赤い血ばかりではなく、半分はどす黒い血で満たされているらしい。だから、人の頭の中も、快活で聡明な面と暗く卑怯な面があるのだろう。
 何より悲しいのは、こんなひどい日常の中で、公平な行為がなされないこと。党員の名誉を汚し、診療所のみんなの意欲を損なわせる卑劣な行いがあるのに、誰も対抗できないでいる。
 トゥイーは、戦場で長年の恋人と別れてしまいます。しかし、心の中ではずっと割り切れない思いを引きずるのです。日記にそのことが何度となく書かれます。それがまたトゥイーの人柄に親しみを感じさせます。
 「さよなら。いつかキミはキミにふさわしい恋人が現れるだろう。でも、これだけは言える。この世でボクほどキミを愛した人はいない、と」
 おそらく、この言葉は本当だろう。でも、私は後悔していない。だって、あなたを愛していないのに、あなたの高尚な愛を受け入れることなんてできないから。でも、今では私はあなたを大切に思っている。あなたと、もう一度やり直したい。
 ここには、トゥイーの揺れ動く心が如実に表れています。
 戦争は、あまりにも残酷だ。今朝、リン爆弾で全身を焼かれた患者が運ばれてきた。患者の身体はまだくすぶって、煙がたちのぼっている。20歳の少年だ。かつての愛らしい少年の面影は残っておらず、いつも楽しそうに笑っていた真っ黒な目は、ただの小さな二つの穴にすぎない。その姿は、まるで、オーブンから出されたばかりのこんがり焼いた肉塊のようであった。
 この3ヶ月で診療所はアメリカ軍から4回の襲撃を受けた。
 大雨の中、壕にもぐって1時間あまりたった。雨水がだんだん増えて、水面は胸元に届くまでになった。寒さに震え、ついに耐えきれなくなって外に出た。
 このとき、トゥイーは、これは、まるでパリの下水溝の中を進んでいるマリウス(『レ・ミゼラブル』)のような気になった、と書いています。
 私の青春は、戦火の中で過ぎた。戦争は、若さと愛でいっぱいだったはずの私の幸福を奪っていった。20代なら誰だって青春を謳歌したい、輝いた瞳とつややかな唇でありたいと思う。しかし、今の20代は、幸せになりたいという当たり前の願いさえ捨て去らなければいけないのだ。
 私の青春は、大勢の人たちの血と汗と涙がしみている。
 私の青春は、厳しい試練の中で鋼のように鍛えられている。
 私の青春は、日ごとにつのる怨恨の炎の中で熱く激しく燃えている。
 私の青春は、それでも私の青春は、私を見ていてくれる誰かがいれば、夢と愛の色に染め上げられる。
 トゥイーがこのような壮絶な心の叫びを日記に書き付けたとき、私は20歳になっていました。申し訳ないことに、平和のうちに夢と愛の色に染め上げられていました。
 トゥイーがアメリカ軍に殺されたのは、日記の最終日(1970年6月20日)の2日後のことでした。母と妹が、額の真ん中にぽっかりとあいた銃跡を確認しています。
 そして、この日記は、アメリカ軍の情報部に届けられ、点検された結果、軍事的価値はない不用品として危うくドラム缶に投げ込まれようとしたのです。そのとき、ベトナム人通訳がそれを止めました。「それは焼くな。それ自体が炎を出している」と言って……。
 アメリカに持ち帰ったホワイトハースはFBIで働くようになり、FBIを内部告発して退職しました。そして、ベトナム女性と結婚した弟に日記を渡して、この日記の価値を理解したのです。35年ぶりにはるか南の地で戦死したわが娘の日記に対面した母親の驚き、悲しみ、また喜びはどれほどのものだったでしょうか。
 ベトナムで本になって出版されると、43万部を売り上げる大ヒットになりました。ベトナム戦争の真実を、ベトナムの若者が知ることができたのです。
 日本語に翻訳し、出版してくれたことに心から感謝します。かつてベトナム戦争に反対した多くの日本人に読まれることを願います。
 私は、布団の中に入ってからも、この本を思い出して涙が止まりませんでした。2年分の日記を読んで、すっかりトゥイーに感情移入していたからです。アメリカ軍に殺されてしまった夢多き若き女医さんの悔しさが、自分のものであるかのような思いに駆られたのです。
(2008年8月刊。1524円+税)

ジェローム・ロビンスが死んだ

カテゴリー:アメリカ

著者:津野 海太郎、 発行:平凡社
 アメリカのアカ狩りの様子が分かる本です。
 映画「ウェスト・サイド・ストーリー」が上映されたのは、私が中学生の時でした。おそらく3年生だったと思います。新しい友人だった古田君が、「オレはもう3回見た」と言ったのを聞いて驚きました。私も1回は見たのですが、同じ映画を3回も見るなんて、私には考えられもしないことでした。そして、古田君は、ジェスチャー入りで歌をうたいはじめるのです。このシーンは、なぜか今でもよく覚えています。
 この本は、その『ウェストサイド物語』 の監督兼振付家だった人が、アカ狩りのとき密告者になった状況を描いています。「密告者」という点では、エリア・カザンが有名です。『波止場』や『エデンの東』の名監督として有名なのですが、密告者として、よぼよぼの老人になって死ぬまで非難を浴びていました。
 ロビンスは、1953年2月にワシントンの非米活動委員会室で証言し、5月にニューヨーク連邦裁判所の法廷で証言した。
「あなたが共産党員だったという情報は正しいですか?」
「正しいです」
「党員だった期間は?」
「入党申請したのは1943年のクリスマスのころ。初めて会合に出席したのは1944年春。最後に出席したのは1947年春です」
「グループにいた人の名前をあげてください」
 ロビンスは、その問いに答えて、次々と人の名前をあげていきます。これでは密告者と呼ばれても仕方がありません。
 非米活動委員会は、すべてのアメリカ人に、のっぴきならない場に追い込まれた左翼やリベラル派のぶざまなふるまいをリアルタイムで見せつけるのが狙いだった。
 アカ狩りの背景として、1948年6月にベルリン封鎖、1949年8月にソ連が原爆実験に成功、1949年10月に中華人民共和国の成立、1950年6月に朝鮮戦争の勃発があげられる。それまで戦勝気分もあって未来に対して楽観的だったアメリカ社会の空気が一変し、ソ連による原爆攻撃と共産主義による世界制覇への恐怖が広がった。機を逃さず、非米活動委員会は、共産主義者はソ連のスパイとみなし、すべて死刑ないし終身刑に処すべし、という法案を提出した。この脅迫に、ハリウッドの世論は屈してしまった。
 エリア・カザンは、アメリカでもっとも有名な監督だった。誰もが、彼こそはその影響力で非米活動委員会と戦えるだろうと思っていた。なのに、カザンは屈してしまった。
 ロビンスに対して、質問した下院議員は次のように問いかけた。
 「ここで証言して、ほかの人びとの名前を挙げた人をイヌとか密告者と呼んだ者がいる。もちろん、あなたは、他の人の名前をあげた以上、その部類に入れられることは覚悟していますよね?」
「はい」
 非米活動委員会は、彼らを地獄の底に突き落とすこと、その裏切りと自滅の現場をマスメディアを通じてアメリカ国民にしつこく見せ続けること、みせしめと宣伝と愛国イデオロギー教育、これが目的だった。
 ロビンスが若いころ、ナチスの反ユダヤ主義を恐れるアメリカのユダヤ人の多くが、スターリンのソ連に親愛感を抱き、そのうちの少なくない若者がアメリカ共産党に入党した。
1919年の結成当初から、アメリカ共産主義の中心にロシア系のユダヤ人移民がいた。
 1930年代のアメリカ社会で、ユダヤ人差別が比較的少ない場が2つあった。芸能界と共産党である。そして、ロビンスは同性愛者(ゲイ)だった。それこそがロビンスにとって最大の問題だった。ロビンスに対する脅迫の核心は、ゲイであることを暴露するということだったのだ。その当時、公然とゲイだと名指しされるのは、今考えるよりずっと致命的なことであった。
 非米活動委員会によるアカ狩りは、単なる反共キャンペーンというだけでなく、ニューディールの申し子世代に対する集団的リンチであった。それはニューディール時代に冷や飯を食わされた共和党や右派勢力による報復という性格をもっていた。いやあ、そんなこととはちっとも知りませんでした。そうだったんですか……。
 いまさらアカ狩りでもあるまいという気がする。しかし、9.11同時多発テロ以来のアメリカ社会の空気は、急速に変化し、自分と異なる人間の在り方に対して、またたく間に不寛容になっていった。これでは、とうていアカ狩りが過去のものになったとは言えない。
 なるほど、なるほど、そうなんですよね。「自由・平等の国」というイメージのアメリカですが、実際にはひどく民主主義に反することをたくさんやっています。日本にも乗り移ってきましたが、毛色の変わった人をすぐ異端視して排除しようとする不寛容な社会になりつつありますよね。日本で死刑賛成の人が増えているというのも、そのあらわれだと私は考えています。困ったことです。つい最近、国連は日本政府に対して、世論の動向にとらわれず死刑廃止に向かって行動するように、また、国民に対して死刑廃止の意義をよく普及するよう勧告しました。私も、まったく同感です。
(2008年6月刊。2800円+税)

手塚治虫

カテゴリー:社会

著者:竹内 オサム、 発行:ミネルヴァ書房
 手塚治虫は、代々、医者の家系である。手塚治虫の曾祖父にあたる手塚良仙は、江戸末期から明治にかけての開業医で、高名な蘭学医であった緒方洪庵のもとで学び、天然痘から多くの人を救うのに功があった。
 祖父にあたる手塚太郎は、医者にならずに法律家の道に進む。大阪控訴院、大阪始審判事としてつとめたあと、大津と函館・大阪地裁の検事正、仙台地裁所長、名古屋控訴院検事長、長崎控訴院院長を歴任した。ということは、当時の福岡の弁護士もお世話になっていたわけですね。そのころ福岡の弁護士が長崎控訴院に行く時は当然泊まりです。丸山でドンチャン騒ぎしていたという大先輩弁護士の話が記録として残っています。
 手塚治虫は、母に対して限りない感謝と愛情を表明しているのに対して、父に対しては嫌悪感を抱いていた。いやあ、そうだったんですか。父と息子って難しい関係ですよね。
 治虫は、小学校では初め目立たない子どもだったが、次第にその才能が知られていった。家庭において、治虫は泣き虫でないどころか、ふだんはかなり強気で、頑固で、意地っ張りだった。目立ちたがり屋だった。人一倍自己顕示欲が強いが、そのくせ、心の底に鋭敏な感性に根差した弱さをかかえていた。
 手塚家は裕福であったうえに、父親がマンガ好きだった。ドストエフスキーの「罪と罰」は治虫にとって素晴らしい教科書になった。
 治虫は医学部を卒業して医師になったと思っていましたが、少し違うようです。治虫が入ったのは、医学部ではなく、医学専門部でした。卒業までは兵役が免除されるし、兵隊にとられても前線に出されることはないという理由からだった。医専は戦時下で急きょ戦地に赴く軍医を育成するため、にわかに作られた医者養成課程である。医学部と医専とでは、大きな開きがあった。医専は兵役逃れの駆け込み寺といえた。
 手塚は流行に敏感で、子どもの感性を重視する。こうした態度は終生、過敏なまでに手塚の心を支配していった。売れっ子になった手塚は、1日の平均睡眠時間は1〜2時間でしかなかった。眠りながら筆を動かした。
 ストレスと疲労が極限に達すると、手塚は無理難題を原稿取りにやってきた編集者にふっかける。それによって休息するためであった。いやあ、超人的ですね。
 手塚は、ほぼ2,3年ごとにアシスタントの交代を促した。もちろん独立するようにという親心からだが、もう一方には、手塚自身が若い人の感性を吸収するためでもあった。
 手塚は1961年1月に医学博士の学位を取得した。
 手塚は流行を取り入れ、劇画風の画風やテーマを取り入れた。これには大きな苦痛が伴った。体が覚えている、それまでの表現スタイルをスイッチしなければいけないからだ。
 手塚は少しでも自分の人気が下がると落ち込み、もうオレはダメではないかと頭を抱え込んだ。病気で何週間も休むと、読者から忘れ去られてしまうと本気で思い悩んだ。
 手塚治虫全集は、なんと、今400巻。これを総計1900万部売りつくした。手塚の歴史ものは、教科書に出てくるような偉人に焦点を合わせるのではなく、歴史に翻弄される名もなき人々に光を当てる点に特徴がある。
 手塚治虫には、私も大変お世話になりました。「鉄腕アトム」なんて、いま見ても、おそらく最高傑作ではないでしょうか。
(2008年9月刊。2400円+税)

少年院のかたち

カテゴリー:司法

著者:毛利 甚八、 発行:現代人文社
 マンガ『家栽の人』は本当によくできています。これが裁判官を取材せずに、まったく想像でつくられた本だなんて、驚きの一語に尽きます。
 僕は小説を書くために雑誌の世界に入った。大学(日大芸術学部文芸科)時代に数編の小説を書いた経緯から、取材する力がなければ職業として数多くの小説を書くことはできないと考えた。
 『家栽の人』は、『家裁少年審判部』(全司法労働組合。大月書店)と少年法を頼りに、前15巻のうちの最初の3巻は、まったく想像によって書いた。僕は主人公の桑田判事に「家族が大切」「子どもの気持ちが大事」という、ひどく古臭いメッセージを、さまざまな言葉に変奏して語らせ続けた。いま振り返ってみると、裁判所を何も知らない人間が描いたにしては、意外によくできていると思う。そして、現実の裁判官などに会って話を聞くと、自分が描いているような裁判官など、どこにも存在しないことがわかった。
 いやあ、そうでもないんじゃないでしょうか・・・。そして、著者は大分の少年院の篤志面接委員になったのです。ウクレレを教えたりしているそうです。すごいですね。
 少年院にいる子どもは、総じて成功体験が少ない。挑戦して失敗するところを他人(ひと)に見られるのが恐ろしい。少年院に来る子どもは隠し事をしてきた。こっそり悪いことをしているので、嘘をつくことから始まる。そこで、この業界の人間は、その点の嗅覚は発達している。
子どもたちは、もともと甘えたいという気持ちが蓄積されている。誰に対しても甘えが出てくる子どもがいる。
 この本の後半は、小説『法務教官・深瀬幸介の件』というものです。財団法人・矯正協会の『刑政』に連載されたそうですが、なかなか良くできています。法務教官の悩み、失敗、そして生き甲斐が語られ、ホロリとし、また考えさせられます。
亡くなった義父は久里浜少年院につとめていました。特別少年院だったので、大変だったようです。事務畑ですが、とても真面目な人でした。そんなこともあって、私は、法務教官とか矯正現場の人たちの日頃の大変な労苦に思わず親近感を覚えます。
 なんでも処罰してしまえばいいという風潮が日本で強まっていますが、本当に困ったことです。もっと社会が温かい心をもって犯罪に走った人に接しないと、日本はますますギスギスした国になってしまいます。
 先日、見知らぬ男性とたまたま路上で論争する機会がありました。その男性は、今の子どもたちはなっとらん。道徳教育が必要だと盛んに息巻いていました。これに対して、私は、子どもは大人社会の反映なんです。もっと大人がゆとりを持って、ゆっくり子どもと接することができるようにならないとダメでしょう。年寄りを差別したり、若者に不安定雇用を押しつけて人生の展望を奪っておきながら、子どもばかりに道徳教育なんかしたって意味はないと反論しました。その男性は、まず大人を変えないといけないということですか……と絶句し、なるほど、そうかもしれないと言って、首をかしげながら帰って行きました。はじめは会話が成り立つか不安でしたが、なんとか成り立ちました。路上といえども、やっぱり話し込むのは大切なんだと実感したことでした。
(2008年7月刊。1700円+税)

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