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2008年9月 の投稿

天皇制の侵略責任と戦後責任

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:千本 秀樹、 発行:青木書店
 明治天皇は日本軍の朝鮮半島出兵には積極的だった(1894年)が、清国が乗り出してくると聞いて急に不安になった。そして、日清戦争の始まりは不本意であり、ストライキもやった。ところが、勝った勝ったとの報告が相次ぐと、最後の決戦を行って清国軍主力をたたくため、自ら中国大陸へ乗り込もうとする。大本営を旅順半島、さらには洋河口へ進めようとまでした。これは、さすがに政府・軍首脳部が反対して思いとどまらせた。
 うひゃあ、こ、これは知りませんでした。なんと、大本営を天皇自身が中国大陸へ持っていこうとしたなんて…。そりゃ、身の程知らず、無謀でしょ。
 日露開戦のとき、明治天皇はロシアを恐れていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
2.26事件(1936年)のとき、昭和天皇は侍従武官長、軍事参議官会議、東京警備司令官という統帥の要に当たる組織や人物、さらに川島陸相らが反乱軍側に肩入れするなか、孤立しながらも強い意思を持って統帥大権をもつ者として鎮圧の命令を発し続けた。それこそが将軍たちの思惑を排し、2.26事件を4日間で解決する力となった。
張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略事件であるが、この陰謀を昭和天皇は承認した。むしろ真相の徹底究明・軍紀粛清を目指した田中義一首相を罷免したことから、侵略的体質の強い関東軍を大いに力づけることになった。昭和天皇は政治に強い関心をもっており、田中義一首相に対して「辞表を出したらよい」とまで言った可能性がある。
 うひょお、そういうこともあり、なんですか…。
 1941年9月に開かれた御前会議で、日本開戦が正式に決まった。このときの昭和天皇の関心は、あくまでも戦争に勝てるかどうかであって、政治的に、あるいは思想的に平和外交を主張するものではなかった。いわば、「勝てるなら戦争、負けそうなら外交」というものであった。つまり、昭和天皇が日米開戦に消極的であったというわけではない。そうなんです。昭和天皇が開戦に消極的で平和主義者だったというのではないのです。
 終戦のときの「聖断」神話は間違いである。昭和天皇は、支配層の中では陸軍に次いでもっとも遅くまで本土決戦論にしがみついていた一人だった。ただし、それを放棄してからは、積極的に終戦の指導にあたった。そして、その結果、さらに多くの沖縄県民が犠牲になったわけです。
 1945年3月に始まった沖縄の地上戦について、昭和天皇に「もう一度、戦果を」という頭があったため、激戦が長引いてしまった。ポツダム宣言が日本に届いてからも、昭和天皇は、大本営の長野県松代への移転と本土決戦を覚悟していた。
 終戦後、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、次のように語った。
 日本人の教養はまだ低く、かつ宗教心の足らない現在、アメリカに行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うようなものも少なくない…。
 昭和天皇から宗教心が足りないと言われたくはありませんよね。だって戦前の日本では、それこそ日本人は靖国神社にこぞってお参りしていた(させられていた)のではありませんか。
 この本は著者のゼミで学んだ学生(永江さん)が私の事務所で働いていますので、勧められて読みました。私の知らなかったことも多く、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2004年9月刊。2200円+税)

ハンドシェイク回路

カテゴリー:社会

著者:田島 一、 発行:新日本出版社
 いやあ、すごいすごい。ぐいぐい読ませる小説でした。現代の最先端企業の中で、何が起きているのか。エリート社員たちが過労死・過労自殺するのはなぜなのか。派遣社員ではない正社員がボロボロになるまで企業にこき使われている実態が克明に紹介されています。まさしく息詰まる展開です。ですから、ここには『蟹工船』のような悪臭のするドロドロした職場と暴力支配はありませんが、清潔で超近代的な職場の中でも企業の暴力的かつ非人間的な専制支配が貫いていることには変わりないことが分かります。
 問題は、そのような状況に労働者たちが唯々諾々と従うだけなのか、反抗し起ち上がる可能性がまったくないのか、ということです。この本には、長年、大企業の中で思想差別を受けてきた団塊世代の労働者も登場します。いえ、実は、その人が主人公なのです。
 大企業は、思想差別したことを裁判で認めて、差別撤廃を実行しました。だから主人公はプロジェクトチームに組み込まれ、過酷な労働現場に投げ込まれてしまったのです。定年間際なのに、納期に間に合わせるためには徹夜作業もこなさなくてはいけません。主人公の体調がおかしくなり、ついに休職・配置転換の申し出を決意します。
 ところが、エリート社員の方も異変が起きていました。取締役間近の責任者は過労のために入院するし、現場の中心となっている東大卒の技術社員も心身に変調をきたし、一時は自殺願望まで持っていたというのです…。
 電機メーカーの職場を克明に取材した小説です。迫真の描写にただただ圧倒されました。なにしろ、すごいんです。ぜひ、あなたも読んでみてください。職場の大変な状況がひしひしと伝わってきます。
 差別是正のあとに、このような形で仕事の負担となって現れるとは、思ってもみなかった。というより、それは見えなかったというのが正しいのかもしれない。
 タイムスケジュールで管理される開発の最先端の部隊に組み込まれると、個人としては時間がままならなくなってしまう。プロジェクトチームに入るというのはそういうことなのだ。
 このような業務に無縁の扱いを受けてきた者にとって、年齢を経てから就いた第一線の場はかなり厳しいものがあった。
 周囲の労働者が、ここまで働いているとは知らなかった。これまで、過酷な労働が牙をむいて襲い掛かってくることは決してなかったし、ある意味で差別という環境下で、自分は安全地帯にいたと言えるのかもしれない。だから、若者たちがこれほどまでに働かされ、仕事に絡めとられているという実態が十分に把握できていなかった。それが現実のものとして実感できたのは、プロジェクトチームの一員となって、責任を共有してからだった。
 長い間、職場から排除されて、若者との接触が絶たれていた。それは、支配層には都合がよかった。だけど今、やっと若者たちと力をあわせてやれるときが来たんだ。がんばらなくっちゃ。
 うん、うん、そうなんです。まったく同感です。団塊世代の私たちは、今こそ20代、30代の若者たちに声をかけ、一緒に行動していくべきなんだと思います。
 現場の若者たちの心の闇は深い。だいたい何かを一緒にやって、それを実現させたという経験がないんだから、何をやっても燃えないんだよね。
 この状況を変革しないことには、日本はいつまでたっても変わりません。アメリカにならってルールなき資本主義化に狂奔している日本ですが、せめてEU諸国のように節度ある人間尊重の資本主義国でありたいものです。今の大企業(メーカー)の最先端の職場の状況を知りたいみなさんに一読をおすすめします。 
 フランスで切手を買うのに苦労した話です。私は外国旅行に出かけたとき、ほとんど買い物はしません。なによりスーツケースが重くなるのが厭なのです。その例外は絵葉書です。これも貯まると重たくなりますので、切手を買って日本へ送るようにします。すると、日本に帰ってから、絵葉書を眺めながら、ああ、こういうことがあったな、これを見たねと思い出せる楽しみがあります。パリで切手を買おうとしたときのことです。自動販売機がありました。窓口には行列ができています。この自動販売機は送るものの重量を測らないといくらの切手なのか分からない仕組みです。それでマゴついてしまいました。そして一度に何枚も買えません。同じ操作を繰り返さないといけないのです。ところで、郵便局の出入り口には変なおじさんが待ち構えています。この人、誰なの。不思議に思いました。あとで、要するに物乞いの男性だったことが分かりました。誰か来ると、さっとドアを開けてくれるのです。来た人が、チップを素早く手渡す光景を見て、やっと思い当たったのです。
(2008年7月刊。2000円+税)

江戸の武家名鑑

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:藤實 久美子、 発行:吉川弘文館
 江戸時代の人々がどんな生活をしていたのか、何に関心を持っていたのか、また、人々が裁判好きだったことがよく分かる本でした。実は、著者には失礼ながら、期待もせずに読んでいたのです。ところが、意外や意外、面白くて興味深くて、ついつい頁をどんどんめくっていたのでした。
 武鑑(ぶかん)はプロ野球選手名鑑のようなものだそうです。といっても、プロ野球にまったく関心のない私には、プロ野球名鑑といわれてもピンときませんし、手に取ったことも(手に取るつもりも)ありません。
 この武鑑は、江戸時代に生きていた大名家や旗本家の当主・その家族(隠居した父親・妻・嫡子)、その家臣、幕府の役人をほぼ一覧できる。しかも、文字ばかりではなく、陣幕や着物や駕籠(かご)などに付けられていた紋所や、江戸市中を行きかうときの行列道具などが分かりやすく絵入りで描かれている。
武鑑は、眺めていて楽しい。江戸の雰囲気、香りがする。
 武鑑は17世紀中ごろに出版されはじめ、大政奉還(1867年)まで200年以上出版され続けた。武鑑は実用書であり、ロングセラーブックであった。武鑑は社会の需要にこたえて、年を追うごとに厚くなり、その改訂の頻度は年に数回から月に数回にまで増えた。
 武鑑は、19世紀には総丁数は500丁、600丁となり、厚さも10センチを超えた。だから、簡略化した略武鑑も出版された。こちらは懐や袂に入れて携行できるような1.5センチ以下の厚さだった。
 武鑑出版の老舗は須原屋(すはらや)茂兵衛と出雲寺(いずもでら)万次郎だった。いずれも民間の本屋が情報を収集して編集し、武鑑を出版した。須原屋と出雲寺は、武鑑の出版をめぐって、100年以上の攻防戦を展開した。
 江戸時代に本を出版するには、仲間株のみでは不十分で、さらに板株(はんかぶ)を取得する必要があった。板株とは、書籍を出版する権利のこと。単独で所有する丸株と、数人でもちあう相合株とがあり、いずれも板木を所有することを基本条件とした。
 須原屋と出雲寺のあいだの民事裁判(出版差止を求める訴え)は、何回となくたたかわされた。
 江戸時代の人々が文章をよく書き、裁判も辞さず、うえからの押し付け和解を拒むこともあったこと、裁判は証拠(書証)のない方が不利になったことなども分かります。
 日本人は昔から裁判が嫌いだった、というのは、まったく根拠のない嘘なのです。
 私も一度は武鑑の現物を手にとって見てみたいと思います。といっても、崩し字や草書体では、さっぱり意味が分かりません。ここが素人のつらいところです。 
(2008年6月刊。1700円+税)

源氏物語を読む

カテゴリー:日本史(平安)

著者:瀧浪 貞子、 発行:吉川弘文館
 紫式部が「源氏物語」を書き始めたのは、11世紀はじめ、一条天皇のころ(1007〜12年)というのは間違いない。
 いやあ、なんと今からちょうど1000年前のことなんですね。驚きました。
当時は、摂関時代の全盛期で、藤原道長が左大臣・内覧として権勢をふるっていた。摂関家全盛の時代であるにも関わらず、「源氏物語」の主人公は藤原氏ではなく、賜姓源氏であり、しかも、その物語はその源氏の栄華を賛美した内容である。不可解だ。
 紫式部が「源氏物語」を書くうえでもっとも意識したのは、清少納言の書いた「枕草子」であった。宮仕えについていうと、清少納言のほうが先輩であり、二人が宮中で顔をあわせたとは考えられない。清少納言の仕えた定子は、1000年に亡くなり、その後まもなく清少納言は宮廷を退いている。紫式部が出仕したのは、それから5,6年後のことだった。
 「枕草子」に一貫するのは、定子を中心とする宮廷サロンや中関白家(なかのかんぱくけ)の賛美で、不幸や悲しみはほとんど書かないという姿勢である。現実に起きた中関白家の没落のさまは「枕草子」ではまったく排除されている。ひたすら中関白家の栄華に終始している。
 これに対して、紫式部は事実を追究しようという強い姿勢を貫いた。藤壺や光源氏の人物造形は、紫式部の正確な歴史認識の上に立ってなされている。
 源氏は、いかに器量の持ち主であっても、皇位とは無縁の存在であった。源氏は世間から「更衣腹」と蔑まれ、差別された(「薄雲」の巻)ことが親王になれず、臣下とされた理由となっている。
 摂政とは、もともと上皇の権能に他ならなかった。上皇不在のとき、それに代わりその立場を踏襲する形で登場したのが摂政ないし関白だった。
 紫式部は、摂関制を否定したのでもなければ、道長を批判したのでもない。事実はその逆で、摂関制が登場した道理を解き、むしろその栄耀を喝采したのが「源氏物語」であった。
 ふむふむ、なるほど、そういうことだったのですね。
 「源氏物語」の朱雀は、実在の朱雀天皇をモデルにしたものではない。
 在位中は「帝」と呼び、譲位後は「院」と称して、それぞれの立場の使い分けをしている。
 中宮は、慣習的に天皇の生母=国母の愛称とされ、皇后よりも重い扱いを受けてきた。『源氏物語』は、政治・社会・文化など、あらゆる分野にわたって史実が書かれている。
 うひゃあ、そ、そうなんですか。単なるフィクションの宮中恋愛物語ではないのですね。
 物語の享受者は女性であった。この時代の女性たちは、おおむね物語とともに育っていった。
 当時の政治は、天皇を中心として父方の父院・皇部・源氏、母方の母后・摂関・外戚などといった、天皇の血縁・婚戚関係にある人々、つまり天皇のミウチが共同で行うものだった。ミウチ政治のもうひとつの特色は、公卿など高位高官の座を天皇のミウチが独占したこと。
 摂関家の王家に対する外戚関係が断絶して外戚・母后が権威を失った結果、ミウチ政治は書いた医師、父院が天皇に対する父権を背景に権威を権力を独占する体制が生まれた。院は成人天皇を幼主に交代させることで、唯一の政治主体の地位を保った。その院の権威の源泉は天皇の父権にほかならない。天皇がわが子でないとすれば、院の権威は崩壊する恐れがあった。
 上流貴族は、元服時かそれに近く、親の決めた相手と結婚する。だから男が自分で恋をしたいと思うころにはすでに「妻」(さい。嫡妻、正妻)がいる。だから、恋の相手はおのずから妻以外の女性である。しかし、親と親とが決めた結婚だから、容易に離婚はできない。妻とは原則として同居する。「通い婚」という婚姻形態があるのではない。妻以外の女性には「通う」以外に逢う手段がないだけのこと。愛人の女性とは、もともと「結婚」していないのだから、別れても離婚ではない。法的結婚以外の関係は、はじまるのも終わるのも現在と同じで、当人次第なのだ。
 平安時代には一夫多妻が認められていたのではない。平安時代も一夫一妻制である。妻と妾とには、明確な区別がある。妻には法的な保護があるが、妾にはない。
 ひえーっ、そ、そうだったんですか。初めて知りました。
 恋愛物語としての「源氏物語」を動かす中心点は、嫡妻(正妻)の座にある。他に「妻」がいては、どんなに男から愛されていても、幸せとはいえない、というのが当時の一般的な考えだった。それほどに、「妻」の座は平安時代の女性にとって重い存在だった。
 むむむ、な、なるほど、これはまったく私の認識不足でした。これでは、現代日本と大いに共通するところがあるではありませんか…。こんな衝撃的事実を認識できるから、やっぱり、速読はやめられません。 
(2008年5月刊。740円+税)

NGOの選択

カテゴリー:アメリカ

著者:日本国際ボランティアセンター、 発行:めこん
 日本国際ボランティアセンター(JVC)が発足したのは、1980年のこと。インドシナ難民の支援に始まり、カンボジア、アフガニスタン、イラクなど、さまざまな紛争地で活動してきた。JVCの特徴のひとつは、紛争状態にある地域での人道的支援活動と併せて、長期的な開発協力をもうひとつの柱としている。
 アメリカ軍はアフガニスタンで、PRTと呼ばれる軍による人道的支援活動を展開している。アメリカ軍によるPRTは、対テロ軍事作戦と一体となっている。そのため、PRTが活動する地域では、NGOが軍事衝突に巻き込まれやすい。危険な地域だからアメリカ軍が人道支援をするのではなく、アメリカ軍が人道支援をするためにNGOが危険にさらされている。
 テロリストから攻撃される危険のあるところで、丸腰のNGOは活動できない。だから、武装した軍が復興支援を担うしかないというのがPRTの論理だ。しかし、アメリカ軍は、アメリカ軍自身による援助が必要だとされる治安の悪化を自ら作り出しているのが現実の姿である。そして、PRTの援助自体が復興開発支援で不可欠の住民参加、公平性と持続性という原則からかけ離れているために、一時的に住民の歓心を買うことができても、長期的に住民の自立を促すことには繋がらない。
先日、JVC代表理事の谷山博史氏の講演を聞く機会がありました。ペシャワール会の伊藤さんがアフガニスタンで殺害された直後でしたので、その点にも触れた講演でした。以下、谷山氏の講演要旨を紹介します。
 第一に、アフガニスタンの情勢は最近になって急に悪くなったのではない。
 第二に、地元の人に信頼されてペシャワール会は守られてきた。それでも今度のような事件が起きた。地元の長老が犯人と交渉中だという報道があったので、地元の論理で解決されるものと期待した。ところが、警察が犯人を追い詰め、アメリカ軍がヘリコプターで追跡している報道があったので、これは危ないと思った。
 第三に、日本のメディアの動きを注目していたが、先の「自己責任論」大合唱のようなバッシングは幸いにも起きなかった。それでも、アメリカ軍が支援をやめたらタリバン以前に後戻りしてしまうという論法が一部で声高に出ている。しかし、これは国際社会への不信を駆り立てるものでしかない。
軍隊による人道支援というのは、とても危険なもの。NGOの活動と軍事行動との境界があいまいになってしまう。軍隊を派遣していないからこそ、日本の援助はアフガニスタンの人々から高く評価されてきた。日本は、軍事的な支援に固執することなく、周辺国を含む紛争当事者の包括的な和平に向けた協議を主導して進めてほしい。
 これらの指摘に、私はまったく同感でした。 
(2008年5月刊。740円+税)

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