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2008年7月 の投稿

裁判員制度が始まる

カテゴリー:司法

著者:土屋美明、出版社:花伝社
 もともと社会の病理を映し出すのが犯罪なのだから、新しい制度に変わったからといって、刑事裁判が、突然、夢のようなバラ色になるはずもない。日本国憲法との整合性に疑問をなげかける違憲論、刑事手続の重大な欠陥を指摘する反対論が根強く聞かれるのも、ある意味では当然だ。制度の行く末には、大きな期待とともに、懸念も抱かざるをえない。
 法学部出身で共同通信の論説委員をつとめる著者の指摘は、なるほどと思います。
 今なぜ、一般国民を引っぱり出す面倒な新しい司法制度を始めることになったのか。それは日本国憲法に主権が国民に存すると明記し、立法・行政・司法という国家の三つの権力のうち、司法だけには主権者であるはずの国民の本格的な参加がなかった。司法が国民参加と縁遠くて、果たして国民主権の国家と言えるだろうか。主権者であるはずの国民が、実は、ほとんど主権者らしくふるまえない状況がこれからも続いていって良いのか。日本の社会に、自分の住む社会のあり方を他人まかせにすることなく、自らすすんで公共の利益のために奉仕する精神がもっと育ってほしいものだ。
 刑事裁判への国民参加は、世界80ヶ国で行われている。日本の裁判はイタリアの重罪院と同じ構成。つまり、裁判官3人と裁判員(市民)6人。フランスの重罪院は裁判官3人に参審員9人だ。そうなんです。市民の司法参加は欧米ではあたりまえのことなんです。 裁判員裁判の対象事件は、強盗致傷(1110件)、殺人、放火、強姦致死傷、危険運転致死などで全体の3%、3629件になる(現在におきかえると)。
 市民が裁判員にあたる割合は、毎年2800人に1人程度。
 戦前の日本でも欧米のような陪審裁判があっていた。1923年に成立した陪審法によって、1928年から1943年に停止されるまで、全国で484件、年平均30件の陪審裁判があっていた。このように刑事司法への国民参加は、既に日本でも戦前の陪審裁判の経験がある。昭和の人々にできたことが、今の日本人にできないわけがない。日本人は、思慮深く、遠慮がちだが、まじめで優しい国民性だ。裁判員制度もきっとうまくいくはずである。
 市民が裁判員に選ばれると、その法的地位は公務員になるので、職務に関して金品を受けとると、収賄罪が成立する。
 日本では控訴審には裁判員が関与することはない。フランスでは重罪院の判決に対する控訴審については、別の重罪院が参審員を9人から3人ふやして12人とする。
 著者は裁判員裁判に反対する意見について、次のように批判しています。
 裁判員裁判を延期あるいは廃止して残るものは何か。それは、これまで多くの法曹関係者と市民が批判してきた従来の刑事裁判そのものではないか。議論の出発点として、これまでの刑事司法があまりに技巧的で精緻にすぎ、どこの国でも、こんな裁判はしていないという事実があった。
 私は著者の真面目な人柄と豊かな見識を高く評価しています。なるほど、と思わせる指摘です。少しダブリがあったり、市民向けの本だとしたら不要ではないかと思われる記述もありました。それでも、全体としては裁判員裁判をとても分かりやすく解説した本です。
(2008年6月刊。2000円+税)

負け組の戦国史

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:鈴木眞哉、出版社:平凡社新書
 戦国時代がいつ始まり、いつ終わったとみるべきか。
 著者は、応仁の乱の始まった1467年から、大坂落城の元和(げんな)元年(1615年)までとみるべきだと主張します。江戸時代から、元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれていたのは理由のあることで、戦国時代は150年以上も続いた。
 応仁の乱は、日本全体の身代の入れ替わりであり、その以前にあった多くの家がことごとく潰れて、それ以後、今日まで継続している家は、ことごとく新しく起こった家だ。このような説があるそうです。なーるほど、ですね。
 著者は、今川義元の死について、天下に手をかけようとして敗死したのではなく、つまり上洛の途上で死んだのではなく、単に隣国との国境紛争の過程で起きたことに過ぎないと主張します。織田信長が謀略で殺されたという説も著者は否定しています。足利義昭黒幕説というものもあるそうですが、それは完全な誤りだと強調しています。
 足利義昭は、豊臣秀吉の天下統一が確実になったころ、ようやくあきらめ、秀吉の傘下に入って出家し、1万石の捨て扶持を受けることになった。もっとも、その前、秀吉が征夷大将軍になりたくて猶子(義子)にして欲しいと頼んできたときには、さすがに拒否した。その程度の誇りは残っていた。
 義昭と秀吉は同年齢だが、義昭のほうが1年早く病死した。
 織田信長には、分かっているだけでも11人の息子がいた。長男・信忠は信長と同じ日に二条御所で明智勢と戦って死んだ。次男信雄(のぶかつ)と三男信孝が成人していた。三男の信孝は柴田勝家と結んで抵抗し、敗れた翌年、再び挙兵したが、自殺に追いこまれた。信雄の方は、秀吉が小田原攻めで天下統一をなしたあと、突然、追放されてしまった。
 信長のあとの子どもたちは、豊臣家に仕えたが、病死したり、関ヶ原で戦死したりした。
 結局、信長の息子の血統としては、信雄の子孫が徳川大名として幕末まで続き、最終的には出羽天童2万石の身代だった。ほかに、七男信高、九男信貞の系統が江戸幕府の旗本として残った。
 秀吉は信忠の遺児である3歳の幼児(後の秀信)を家督に押し通し、信孝を後見役とした。そうなると、兄の信雄がおさまらない。無能な人間であったが、野心だけは人並み以上にもちあわせていた。なんとか信孝に対抗したい信雄と、本音では信孝よりも丸めこみやすい信雄と組みたい秀吉の利害が一致して、二人は提携した。秀吉はなにごとも信雄を表面に押し立てて、自分の野心の隠れみのにしていた。
 戦闘では、たしかに信雄・家康側が勝利した場面もあったが、戦争としては秀吉側が完全に押していた。信雄・家康側は、次第に追い詰められていった。
 秀吉は徹底して西に目を向けていた。当時、海外との通商拠点の多くは九州にあった。したがって、九州全土を支配する者は大変な力をもつことになる。信長は、それを阻止するとともに、自らが巨大な利権を手中にするつもりだった。
 信雄については、健在なうちから、阿呆かと罵られている。彼に対する周囲の評価は、そういうものだった。
 この戦国時代の一般の武士には、二君に仕えずという観念は、そもそもない。
 著者の本は、いくつも読みましたが、そのたびに、目を開かされる思いでした。ところが、今でも、武田軍団(騎馬隊)は織田・徳川軍からも千挺の鉄砲を3段撃ちするなかを無理矢理に突撃して全滅したという「通説」がまかり通っています。恐るべきは「思いこみ」ですよね。
 歴史を見る目が変わる貴重な一冊です。
(2007年9月刊。760円+税)

子どもの貧困

カテゴリー:社会

著者:浅井春夫ほか、出版社:明石書店
 日本政府は1965年(昭和40年)に公的な貧困の測定を打ち切った。私が大学に入ったのは1967年でした。そのころは、まだ絶対的貧困と相対的貧困との異同が多少は問題となっていました。でも、それは、はっきり言ってかなりマニアックなテーマでしかありませんでした。
 現代の日本では、貧困というと、「飢え死にするかどうか」という基準でしか見ない、つまりホームレスとして路上生活をしている人々は貧困とは考えない人々が多い。私は、駅や公園に生活している人々こそ、現代の貧困を体現している人と思います。でも、今日の日本人の多くは、そうは思っていません。実に不思議です。
 相対的貧困とは、その社会の構成員として、あたりまえの生活を営むのに必要な水準を欠くということである。人とのつながりを保てる。職業や活動に参加できる、みじめな思いをすることのない、自らの可能性を大きく奪われることのない、子どもを安心して育てることのできる生活、つまり、ぜいたくではないが望ましい生活を営むには、一定の物的。制度的な基盤が必要なのである。
 貧困のもたらすものは、可能性の制限である。子どもの貧困の本質は、それによる発達権の侵害である。家族の経済的「ゆとりのなさ」は、子どもの活動と経験を制限する方向に作用し、同時に、親の社会的な孤立を招いている。
 子どもには、「負の経験」を回復するためにも、支えられる環境での「失敗する自由」が必要である。社会的な自立の困難は、それが奪われているところにある。
 「失敗する自由」とは、さまざまな可能性を試みること、自己の選択と決定を尊重できること、試行錯誤のなかで育つ時間を準備できること、それらの試みを支える人と制度が存在すること、などが含まれている。
 いやあ、この私的には目がさめる思いでした。子ども時代に、たくさんの失敗をして、それが許されるって、すごく大切なことなのですね。子どもの失敗をあたたかく大人が見守るという雰囲気が今の日本では薄れている気がしてなりません。ギスギスしてますよね、なんだか。
 貧困が問題なのは、単に欲しいものが買えないというのではなく、人生の機会と可能性を狭め、活動への参加を制限し、人を社会的に孤立させるからである。将来への見通しを奪い、誇りをもった人生を奪う。
 貧困は、個々の人生としあわせを壊す。そして、貧困が壊すものは個人の人生だけではない。貧困は、家族形成と子育ての困難を招き、少子化の要因となる。また、貧困は、人の可能性を制限する。子育て家族の貧困は、子どもの育ちの不利を招き、結果として貧困が世代をこえる固定的なものになる。世代にまたがる可能性の制限は社会を分断し、社会をすさませる。社会的公正を欠いた社会は、もろい。貧困は個人の自由と尊厳を奪うだけではなく、長期的にみれば社会の持続性も損ねる。
 児童虐待は、1990年に比べると、34倍の3万7000件である。これは2000年に比べても2倍だ。
 日本は、欧米に比べて大学の授業料が高い。日本で大学生活を送るためには、年に  200万円かかる。このうち170万円を学生本人が負担する。スウェーデンでは、学生の本人負担は6万円でしかない。
 日本は授業料が高いのに、奨学金は安い。日本の自公内閣は、「子どもの貧困」を減少、緩和するものではなく、むしろ増加させるものとなっている。
 大学の入学金・授業料についてみると、フランスやドイツは、ほぼ無償となっている。アメリカでも年に47万円ほど。
 奨学金が貸与だけだというのは日本のみ。EUでは無償ないし給付制をとっている。
 いま、東大をはじめ、いくつかの大学で低収入世帯の授業料を免除する動きが出ているようですが、大学に入るのときの入学金も授業料もタダにする、そして学生の生活費も親に頼らなくてもいいくらいに大幅な補助をするべきだと思います。日本人の知的レベルを上げたら、日本の産業も発展していくわけですから、税金の有効なつかいかただと私は思います。いかがでしょうか。
 子どもを大切にする国にするためには、思い切った財政の転換が必要です。道路や新幹線という大きな目に見えるものではなく、地道な人材育成にこそ税金はつかわれるべきだと、つくづく思ったことでした。
 論文集ですので、決して読みやすい本ではありませんが、この本に指摘されていることはすごく大切なことだと思います。多くの人に一読をおすすめします。
(2008年4月刊。2300円+税)

君の星は輝いているか

カテゴリー:アメリカ

著者:伊藤千尋、出版社:シネ・フロント社
 星よ、おまえは知っているね。
 これは、福岡県の生んだ偉大な作曲家・荒木栄のつくった歌です。私も、これをタイトルとする本を書きました(花伝社)が、残念なことにさっぱり売れませんでした。私が大学生時代に没頭した学生セツルメント活動の楽しく切ない思い出を書きつづった本です。まだ売っています。良かったら、買って読んでみてください。
 この本は、もっとストレートに君の星は輝いているか、と問いかけます。思わず、ドキリとさせられます。著者は私とほとんど同世代の朝日新聞記者です。でも、海外滞在がすごく長いので、九州の片隅でうごめいている私なんかとは比べものにならないほどの、まさに文字どおりの国際派ジャーナリストです。その記者が見た映画について、それこそ縦横無尽に語り尽くされています。私も、ここで紹介される映画の多くはみていましたが、ここまで背景を掘り下げされると、とてもかなわないと頭を垂れるばかりです。
 この本で取りあげられ、私がみた(と思う)映画のタイトルをまず紹介します。
 『華氏911』『チョムスキー9.11』『フリーダ』『JSA』『二重スパイ』『ボウリング・フォー・コロンバイン』『蝶の舌』『レセ・パセ』『戦場のピアニスト』『この素晴らしき世界』
 9.11テロ事件のあとにアメリカで起きた現象は興味深いものです。たとえば、サンフランシスコの金門橋(ゴールデンゲイト・ブリッジ)が爆破されるという噂が広がり、完全武装した州兵が出動した。街中がアメリカ国旗の洪水となったので、交差点に立って数えてみた。すると、1割でしかないのに10割という錯覚に陥っていたことが分かった。
 刑務所では、囚人に食べさせる食事代がなくなったので、刑期の軽い囚人を大量に釈放した。いやあ、すごいことですね、これって・・・。
 アメリカのチョムスキー教授は次のように指摘する。
 アメリカは、自分が被害を受けると悲しむが、自分は他人にどんな迷惑をかけてもいいと思っている。同じように、アメリカはイスラエルかレバノンで2万人を殺しても何にも言わないが、イスラエルがちょっとでも被害を受けると、残虐だと言ってパレスチナを非難する。
 ブッシュ政権がなぜ「悪の枢軸」という言葉をつかうのか。それは、国民を服従させるのに一番いいのは、恐怖を利用することだからだ。
 そして、エジプトの監督は次のように言う。
 アメリカは他の文明を破壊している。代償を払うのは、いつも他の国民だ。アメリカ以外の国の人々なら死んでもかまわないのか。そうなんですよね。この地球上で大切にされるべきなのはアメリカ人だけなんていうことは絶対にありませんよね。
 ブラジルのカーニバルが、実は日本でいうデモ隊のようなものだということを初めて知りました。一つのサンバチームだけで2千人から4千人いるが、カーニバルは単なる乱痴気騒ぎではない。それぞれのチームが、その年のテーマを決めて、テーマに沿って衣裳も曲もつくる。たとえば、テーマは「民主化の喜び」「黒人奴隷解放」「報道に自由を」「対外債務の重圧」などの硬派のテーマも目立つ。単に、お遊びだけで踊っているのではない。カーニバルは、それ自体がデモ行進なのだ。政治的、社会的な主張を踊りという形で訴えるのだ。「報道に自由を」のチームは、ペンの格好をした帽子をかぶるなど、それなりの工夫をしていた。
 観客席には5万人がいる。その人々も、ただ黙って見ているのではない。観客もリズムにあわせて踊りながら見る。同じリズムで踊るから、コンクリートの観客席がユサユサ揺れる。踊りの幕開けは土曜の夜8時で、翌日曜日の昼前まで延々と続く。
 うひゃあ、す、すごーいエネルギー、ですね。かないません。単に裸体を売りものにしたエロチックな祭りかと思っていました。まったく違っているようです。そういえば、ブラジルのルラ大統領も反米左派政権の一角を占めていますね。いつまでたってもアメリカのいいなりになっている日本人も、そろそろ目を覚ますべきときだと思います。アメリカ本国で「黒人」大統領が誕生しそうなほどの地殻変動が起きているのですからね・・・。
 久しぶりに雨の降らない日曜日になりましたので、庭に出て手入れしました。雑草が伸び放題でしたので、徒長枝も切ったりスッキリさせて見通しよくしました。今、黄色い花が庭に目立ちます。ヘメロカリス、カンナそしてフェンスのノウゼンカズラです。グラジオラスの花が何本も倒れていましたので、切り花にして玄関を飾りました。ピンクや赤そして白色の花で一気に華やかな雰囲気の玄関となりました。
(2005年11月刊。1600円+税)

光州の五月

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:宋 基淑、出版社:藤原書店
 映画『光州5.18』が上映中です。先に紹介しましたように、私は東京で見てきたのですが、韓国で大ヒットしたこの映画が日本では観客が少ないということです。残念です。いい映画ですので、決して楽しい映画ではありませんが、ぜひ映画館まで足を運んでみてください。それだけの価値は十分にあります。
 本のオビには、こう書かれています。
 「あの光州事件は、まだ終わっていない。1980年5月に起きた現代韓国の惨劇、光州民主化抗争(光州事件)。凄惨な現場を身を以て体験し、抗争後、数百名にのぼる証言の収集・整理作業に従事した韓国の大作家が、事件の意味を渾身の刀で描いた長編小説」
 まさしく、そのとおりです。光州事件は、まったく終わってなんかいません。私は日本にいて、日々、手に汗を握る思いで、軍隊に向かって立ち上がった勇敢な市民や学生に声援(だけですが)を送っていました。
 この本は現代韓国の日々に生きながら、1980年5月の光州事件をフラッシュバック形式でふり返るという体裁をとっています。それだけ、現代韓国人にとっても光州事件は思い意味があるのです。
 M16を担いでいた者は光州市民軍の中でも特殊な存在だった。それを手にする方法は戒厳軍(攻守団)から奪う以外なかった。一般市民は、予備軍や警察の武器庫を襲撃して武装したから、銃はすべてM1かカービン銃だった。M16は、当時、現役軍人だけに支給されたもの。光州市民軍に6000丁に及ぶ銃が出まわっていたが、M16は少なかった。
 攻守団は、路地に逃げた者をとことん追いかけ、家の中まで、しらみつぶしに探した。一帯の商店はほとんど閉めていたので、喫茶店や旅館、民家をあさり、人を見つけ次第、こん棒でたたき、銃剣の先で突き刺した。はじめは光州出身の軍人が配置されたが、彼らは市民に対して銃を向けることを拒んだ。そこで、韓国でもっとも暴力的な空挺部隊の全斗煥司令官が、自分の部隊を投入した。全斗煥は、1ヶ月間、厳しい訓練を課した。共産主義者を殺せ、アカを殺せ、と来る日も来る日も洗脳した。この兵士たちはもはや人間ではなく、ロボット、いや虐殺ロボットだった。
 「市民のみなさん、後退は止めましょう。一歩たりとも退いてはダメです。私たちの兄弟や息子が何の罪もないのに無惨に殺されました。光州市民のみなさん、私たち市民の偉大な力を見せましょう。私たちも、この場で、死をともにしましょう。あの殺人鬼どもを、私たちの手で追い出しましょう」
 すみわたる女性の声が市内に鳴り響いた。聞く者の身体を奮いたたせた。アパートの窓から目だけ向けていた傍観派市民も、布団の中に潜って縮こまっている人々も、この声を聞いたら、飛びださずにはおれなかった。
 朝9時、MBC放送局が燃やされた。根拠のない戒厳令発布だけを繰り返し放送したからだ。昼には税務署にも火が放たれた。国民の税金で食っている軍人に、国民をここまで虐殺させるのかという叫びとともに火がつけられた。
 デモ隊の市民に向かって銃口が向けられた。それでも、はじめは、銃口は空中に向いていた。
 我々は大韓民国の国民だ。お前らは、どこの国の軍隊なのか?
 そのような疑問の叫びが軍隊に向かって発せられたが、銃口の前に若者たちは倒れていった。
 光州市民の中に、抗戦派と退去派が生まれた。やがて、抗戦派が退去派を追い出して決着した。
 市民軍の総数は600人。道庁に250人。光州公園に100人。ハク洞に200人など。機動打撃隊は志願者30人にしぼられた。道庁にいた指導部は戒厳軍に全員虐殺された。そして、捕まった者は、焼き鳥、水攻め、爪に錐刺しなど、ありとあらゆる拷問で夜が明け、日が暮れた。拷問時の唯一の望みは、このまま息絶えることだった。
 攻守団にいた軍幹部は、次のように言って開き直った。
 光州事態は、証拠をあげられなかっただけで、北韓のスパイと政府にたてつく不順分子の衝突が原因で起こった事件だとはっきりしている。
 すさまじい映画でしたが、真実はさらにすごい惨劇だったようです。何の罪もない市民を全斗煥の軍隊が10日間にわたって何千人も虐殺したのです。目をそむけるわけにはいきません。日本人だって同じです。
(2008年5月刊。3600円+税)

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