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2008年7月 の投稿

そろそろ旅に

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:松井今朝子、出版社:講談社
 やじさん、きたさんで有名な『東海道中膝栗毛』の作者が十返舎一九というのは江戸時代や日本史に詳しくなくても、誰だって知っていることでしょう。初めの題は『浮世道中膝栗毛』というものでした。主人公は神田八丁堀あたりに住む独身男の弥次郎兵衛と居候の北八。ところが、シリーズの最後には、やじさんは弥二郎兵衛、きたさんは喜多八と表記が変わり、この二人はかつて男色の契りをかわしていたという設定になってしまった。
 ひえーっ、驚きですね。
 それはともかく、このコンビは、江戸を発って東海道を上りながら、出会った女を手あたりしだいにくどいてまわり、隙あらば他人に悪さを仕掛け、あげく失敗を重ねて箱根までの滑稽な珍道中をくり広げた。
 街道のかごかき、馬士(まご)のおかしな言葉づかいに、旅籠(はたご)の様子、名物の食べ物などにはやたらに詳しい本である。駅々風土の佳勝、山川の秀異なるは諸家の道中記に詳しいので、ここでは省略する、こんな宣言をし、風景描写は皆無にひとしい。実に特異な旅行記であった。ところが、思いのほか好評のうちに迎えられ、翌年の第2編で大井川まで、さらに第3編、第4編と延びてゆき、ついには、第6、7編で京都、第8編で大坂の町を書きあげた。これで終わりかと思うと、出版元が許さない。なんと、20年にも及ぶ長旅になってしまった。
 すごい、すごい。すごーい、ですよね。私も写真入りの旅行記を自費出版でたくさん出していますが、残念なことに、これほどの反響はありませんでした。
 十返舎一九は、もともとは武士の身。同じように、武士出身で当時、活躍していたのが、山東京伝、滝沢馬琴、式亭三馬(浮世風呂)。そして、この本は、江戸時代の文化を支えていた、これらの文人たちの生きざまを彷彿とさせる楽しい読み物です。
 実は、初めのころはあまり面白くないなあと思って読み飛ばしていたのです。ところが、中盤あたりから急に面白く思い、あとは一気呵成に読みすすめていきました。
 十返舎一九が作家になるまでの苦労といいますか、遊里通いで放蕩する場面、そして、その心境が、ちょっとあまりにもデカダンス(頽廃)すぎて、ついていけなかったということもあります。
 先日、チャップリンについて書かれた本を読んでいますと、「女たらし」とか「女性の敵」とか批判されているときのチャップリンのほうが芸術的には優れたものを生み出している。逆に、品行方正になったときのチャップリンの作品には面白みに欠けるという評価がなされていました。人間の才能というのは、ことほどさように評価が難しいものなのですね。
 それにしても、この本は、江戸の文化、文政時代の雰囲気、つまりは、田沼時代のあと、松平定信の寛政の改革と、その後の社会の様子をよくぞ再現していると感心しながら、後半は一気に読了しました。さすがはプロの物書きです。
(2008年3月刊。1800円+税)

中堅崩壊

カテゴリー:社会

著者:野田 稔、出版社:ダイヤモンド社
 日本の中堅というべき階層が育っていないというのは重大な問題です。著者は次のように指摘します。
 バブルミドルといわれるミドル層の弱体化を嘆く経営陣が、実は、その弱体化を招いた一連の政策変更の企画者であり、実行者であった。経営陣は、10年以上もしっかりした教育を受けさせず、目先の利益だけを追求することを求め、一つの場所に塩漬けにしてきた。ミドル層を責める資格はない。ふむふむ、そうなんですか。ということは団塊以上の世代に大きな責任があるというわけです。
 評価制度には限界がある。評価制度に頼ると、評価する人間が無責任になる。できるだけ運用は柔軟にして、時間と人手をかけてアナログに評価するのが正しい。なるほど、そうなんですね。
 部下を働かせないようにしようと思えば、次の3つを徹底すればいい。無視する。任せない。ほめない。これをしたら、人間は病気になるか、辞めてしまう。逆に、認めて、任せて、ほめるをやったら、みんな、一所懸命に働くだろう。
 なーるほど、ですね。いいことを教わりました。
 好奇心、こだわり、信念、柔軟性、楽観性そしてリスクをとる気概が必要だ。とにかく努力し続ければ、必ずチャンスは向こうからやって来る。没頭してやり続けていないと、そのチャンスは見えない。没頭する喜び、没入体験の醍醐味を一度でも経験したら、また没頭しようとするので、そこに努力のスパイラルが起こってくる。ところが、その体験のない人は、没入することを恐れてしまうし、労を惜しむ。だから、できるだけ早い段階で仕事への没入体験を与えてあげることが必要だ。いやあ、そういうことなんですか。私も実践してみます。
 失敗してもいいからやってみろ、責任は私がとる。これを本気で言えるかどうか。これが、キーポイントだ。こうなると、やってみるしかありません。
 今はそもそも負けん気の強い人が少ない。仕事は仕事と割り切り、言われたことはやるが、言われないことまではやらない。そこまでやっても何の得もないと考える。そういう人材を放っておいても伸びず、停滞してしまう。
 コミュニケーション能力というか、姿勢が大切だ。自分から歩み寄り、関係する。いろんな関係者と話をする。聞く姿勢があって初めて、折衝能力とか調整力が生まれ、危機を察知することもできるようになる。
 いろいろ参考になることの多い本でした。
 私の法律事務所でも、既に3人の希望者をお断りしました。コミュニケーション能力にとても不安を感じたからです。忙しい私たちは、どうしても即戦力を求めたいのです。すみませんが・・・。
(2008年3月刊。1700円+税)

アフリカ、子どもたちの日々

カテゴリー:アフリカ

著者:田沼武能、出版社:ネット武蔵野
 著者が世界の子どもの写真を生涯のテーマーに決めたのは、今から40年以上も前の 1966年、37歳のとき。初めてアフリカの大地を踏んだのは1972年。
 黒柳徹子はユニセフの親善大使となって毎年アフリカを訪問している。そのとき著者は必ず同行し、写真をとる。写真家は大変だ。撮影日時、難民キャンプの呼び名、キャンプの人口、子どもの名前、年齢、親の名前などなど。夜遅くまで撮ったフィルムと一緒にデータをきちんと整理し、次の朝を迎える。うひゃー、すごいんですね。
 アフリカでは6000万人の子どもが貧困のために学校へ行けない。アフリカでは内戦と同じくらいにエイズが重大問題だ。世界の人口65億人のうち11%がサハラ以南に暮らす。その63%がエイズウィルスの感染者、エイズ孤児の80%がアフリカに集中している。
 そんなアフリカに住み、生活している子どもたちですが、写真に登場しているアフリカの子どもたちの目はキラキラと輝いています。弟妹の守りをし、みんなと楽しそうに遊んでいます。
 手製のギターを弾きながらコーラスに興じる子どもたちもいます。娯楽の少ない村では、著者の乗る車を子どもたちはどこまでも走って追いかけてきます。
 サッカーで遊ぶ子供たちの写真もありますが、よく見ると、普通のサッカーボールではありません。古新聞を丸めて、ぼろ布で包み、ひもで巻いただけのものです。でも、そんなサッカーボールで一日中遊んで飽きません。女の子たちは民族衣装で踊ります。
 水運び、市場での物売り、畑づくり。子どもたちはたくましく生きていきます。家造りだって手伝います。
 学校で勉強もしたいのです。コーランを朗唱します。青空教室のこともあります。内戦犠牲者のカロン君は政府軍の少年兵となり、ゲリラに両腕を鉈(なた)で切り落とされてしまいました。栄養失調で死んでいく子どもも大勢います。その前にガリガリにやせ細ってしまいます。
 1年間に世界の子どもの22%がアフリカで生まれ、5歳未満の子どもの死の49%がアフリカの子ども。50万人の女性が妊娠と出産に関連して亡くなるが、その大多数がアフリカでのこと。世界にいる1520万人のエイズ孤児の80%がアフリカの子ども。アフリカではHIV感染者の61%が女性。マラリアによる犠牲者100万人のうち、95%がアフリカの人々で、その大多数が5歳未満の子ども。
 いやあ、アフリカを見殺しにはできませんよね。日本という国はいったいアフリカのために何をしているのでしょうか・・・。
(2008年5月刊。1900円+税)

ダラエ・ヌールへの道

カテゴリー:未分類

著者:中村 哲、出版社:石風社
 15年以上前に発刊された本ですから、少し古くはなりましたが、アフガニスタンのことを少しでも知るためには決して古すぎることはありません。福岡出身の中村哲医師がアフガニスタンで、どんな活動をしているのか、それにどんな意義があるのかを知るうえで今も貴重な本です。なにしろ、日本の一般マスコミの報道があまりにも少な過ぎます。
 アフガニスタンに住むほとんどの人々にとって、西欧的な国民国家や民主主義など、想像もつかないしろものだ。それは、あたかも日本の源平時代や戦国時代の日本人に「近代国家」を強制しようとするに等しい夢物語でしかない。アフガニスタンの多くの人々には、もともと「国家」など頭の中にない。
 これは、イスラム原理主義者についても同じことが言える。アメリカは、後になって手を焼くことになる「イスラム原理主義」に対し、軍事的に肥大させるよう援助した。アメリカは、「生かさず、殺さず」式の戦争を継続させ、ソ連の国力を消耗させる戦略をとった。
 ダラエ・ヌール渓谷一帯は、いわゆるパシャイー族というヌーリスタン族の一部族が占め、戦争中もほぼ完全な自治体制をとって政治的利害から自由な地域だった。
 ここの山人は、ほとんど自給自足なので、絶対的な必需品はマッチと岩塩くらいである。石油ランプをもつ家庭が多いので、灯油も取引品として大切であった。緑の畑が広がっている。よく見ると、ケシ畑だった。
 中村医師は次のように断言します。
 現地では、非武装がもっとも安価で強力な武器である。だから、診療所内での武器携行を一切禁止した。自分自身が丸腰であることを示したうえ、敵を恐れて武器を携える者を説得し、門衛に預けさせてから中に入る許可を与える。無用な過剰防衛は、さらに敵の過剰防衛を生み、果てしなく敵意・対立がエスカレートしていく。
 私心のない医療活動は、地元民の警戒心を解き、彼らが著者たちを防衛してくれるようになった。渓谷のあらゆる住民が我々を必要として、その方針に協力するようになったのだ。アフガニスタンの膨大な水面下の人々にアピールしようとするなら、何も特別の宣伝はいらない。ひたすら黙々と誠実に仕事をしていたらいい。
 日本国憲法9条2項がアフガニスタンで生きていることを実感させられます。
 日本人の特性は、そのチームワークと勤勉さ、緻密さにある。だが、ペシャワールのようなところでは、これが裏目に出る。日本人は、一人で衝突をくり返しながら、現地の人々とのつきあいを切り開いていくたくましさに乏しい。
 うむむ、なるほど、なーるほど、そうなんでしょうね。
 アフガニスタンで今も医療活動を地道に続けている中村医師をはじめとするペシャワール会の活動に対して、日本人はもっともっと注目し、大きな声援を送るべきなのではないでしょうか。大喰いタレントやおバカキャラを笑いながらもてはやす前に、もっと真剣に考えるべき世界の現実があると私は思いました。
(1993年11月刊。2000円+税)

甘粕正彦 乱心の曠野

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:佐野眞一、出版社:新潮社
 いやあ面白くて、ぐいぐいと引きこまれてしまいました。よくもここまで調べ上げたと感嘆するほど、「主義者殺し」の烙印を負った甘粕憲兵大尉の事件との関わり、そして満州での暗躍ぶりと自殺に至るまでが迫真にみちみちて描かれています。
 甘粕は、大杉栄一家3人虐殺の主犯として軍法会議で懲役10年の判決を受け、千葉刑務所に服役した。ところが昭和天皇の結婚による恩赦を受け、大正15年(1926年) 10月、わずか2年10ヶ月で極秘のうちに仮出獄した。そして翌1927年(昭和2年)7月にはフランスに渡った。さらに、1929年秋に満州に移住した。
 甘粕正彦の長男は三菱電機の副社長を経て、現在は顧問。考古学者の甘粕健、社会学者の見田宗介、服飾デザイナーの森南海子は、みな近い親戚である。いやあ、有名人ぞろいですね。私も見田宗介の本は大学生のころ読みました。見田石介の本もです。
 甘粕正彦は名古屋の陸軍幼年学校に入ったが、そこは6年前に大杉栄が入学し、あまりの不良少年ぶりに2年で放校処分を受けたところだった。
 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の当日、渋谷憲兵分隊長の甘粕正彦は麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。首相官邸などを警護対象とする麹町憲兵分隊は、文字どおり、憲兵あこがれのエリート中のエリートコースだった。
 甘粕は帝都の治安を攪乱する不穏分子を摘発するエースだった。皇族の安寧を願い、帝都の治安維持に尽力してきた甘粕の目ざましい働きに対する論功行賞でもあった。
 甘粕に対する軍法会議が始まると、減刑嘆願運動が在郷軍人会を中心として全国に広がり、65万人もの署名を集めた。しかし、これも、軍法会議が始まると、甘粕に対する同情の声はおさまり、むしろ非難する声が高まった。
 大杉栄の虐殺が露見したのは、軍と警察の反目にあった。そして、その裏には、内務省と陸軍省のドロドロした暗躍劇がからんでいた。
 死因鑑定書が発見された今、甘粕は殺害された宗一(子ども)ばかりか、大杉栄ら3人の死体が菰包みになったのを見て初めて殺害の事実を知ったという可能性も否定できない。いやあ、そういうことなんですか。驚きました。
 軍法会議は、宗一少年を殺したとして自首してきた東京憲兵隊の3人を無罪にしたことに象徴される。この軍法会議は第1回が10月8日、6回の審理を経て、結審したのが11月24日。そして、判決は12月8日。審理に費やした期間は、わずか2ヶ月。しかも、甘粕に対する追及が厳しかった判士の小川法務官は途中で突然に解任された。
 そもそも、甘粕には麹町憲兵分隊に所属する4人を指揮命令する権限はなく、そんな立場にもなかった。
 赤坂憲兵分隊長の服部が麹町憲兵分隊に行ってみると、屋上に大杉栄が両手両脚を厳重にしばられ、コンクリートの上に筵(むしろ)を敷いて座らされていた。そばには、大杉の妻・野枝と子どももいた。こんな目撃談を部下が書いています。
 死因鑑定書には次のように書かれている。「男女二屍の前胸部の受傷はすこぶる強大なる外力(蹴る、踏みつけるなど)によるものとなることは明白。・・・これは絶命前の受傷にして・・・」
 つまり、大杉栄も野枝も明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けた。虫の息になったところを一気に絞殺された。すなわち、集団暴行によるなぶり殺しが実態である。
 おお、なんとむごいことでしょうか。許せません。そして、実行犯は、みな無罪放免となり、甘粕一人がわずか2年あまりで出所したなんて・・・。まさしく軍隊の犯罪としか言いようがありません。
 甘粕が出所してすぐにフランスに渡ったのは、甘粕をスケープゴートとして自らの責任を逃れた憲兵司令部の後ろめたさと、口封じを感じざるをえない。そして、甘粕正彦は満州に渡り、満映の理事長となり、終戦直後に青酸カリを飲んで服毒自殺した。そのとき、今をときめく有名作家の赤川次郎の父親が甘粕の側で働いていた。
 これは伝記ものの傑作の一つだと思います。なにしろ、歴史的事実を一つ発掘したのですからね。私は、東京行きの飛行機のなかで、一心に読みふけり、飛行の怖さを忘れてしまいました。あっという間に東京に着いてしまったのです。
(2008年5月刊。1500円+税)

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