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2008年7月 の投稿

ぼくは少年兵だった

カテゴリー:アフリカ

著者:イシメール・ベア、出版社:河出書房新社
 初めて戦争の巻き添えをくったとき、ぼくは12歳だった。
 激しい内乱の起きていた西アフリカのシェラレオネで12歳から15歳まで少年兵士として戦闘に従事し、生き抜いた著者の体験記です。この本は「戦場から生きのびて」というのがメイン・タイトルになっていますが、この本を読むと、まさしく実感させられます。よくぞ戦火のなかを生きのびられたものです。大勢の友人・仲間が次々に銃弾で倒れていくなか家族をみんな失い、著者ひとり生きのびました。それだけ運が強かったのです。
 戦争を賛美する人がいるが、戦争にロマンなどはなく、あるのは悲惨さだけ。人間を殺すことは、相手を非人間化させる行為だが、それは同時に自分の人間性もうしなわせてしまう。
 シェラレオネでなぜ内乱が起きたのかは、この本を読んでもさっぱり理解できません。ルワンダのツチ族とフツ族のような争いという明確なものはなかったようです。政府軍と反乱軍との戦いとしか書かれていません。そして、反乱軍はデビル(悪魔)というべき存在でしかありません。
 反乱軍に捕まった少年はすぐに兵士にされ、熱した銃剣で身体のどこかに反乱軍を意味するRUFを刻みつけられる。これは一生消えない傷痕になるばかりか反乱軍から絶対に逃げられないことを意味した。反逆者のイニシャルの刻印をつけて逃げるのは、殺してくださいと言っているようなもの。政府軍の兵士はそれを見たら一も二もなく殺すだろうし、好戦的な民間人だってそうするだろう。
 歌と踊りが大好きだった著者たち6人の少年は、戦争から逃げようとジャングルの中をさまよったあげく、政府軍に組み込まれてしまいます。そして、わずかの訓練を受けると、たちまち本物の戦場へ駆り出されていきます。
 戦闘行為の前に白いカプセルが渡される。それをのむと夜じゅう目がさえて眠れないのが一週間も続いた。そのうち、平気で銃をうてるようになった。
 火薬とコカインを混ぜたブラウン・ブラウニと呼ぶものを吸引し、白いカプセルを大量に飲む。それがたっぷりのエネルギーをくれる。汗びっしょりになり、着ている服をすべて脱いでしまった。身体がふるえ、目はかすみ、耳も聞こえない。あてもなく村を歩きまわる。そわそわした気分になった。何に対しても無感覚になる。何週間も眠れなくなるほどの莫大なエネルギーを感じた。夜にはみんなで戦争映画をみる。『ランボー』や『コマンドー』だ。
 ぼくらは獰猛になった。死という考えは頭をよぎりもしなかった。人を殺すのが、水を飲むのと同じくらい簡単になった。ぼくの頭は、初めて殺しの最中にぷつんと切れた。良心の呵責に耐えられないことを記憶するのをやめた。
 ぼくらは2年あまり戦い続け、殺人が日常茶飯事になっていた。誰にも同情しなかった。
 そんな元少年兵の社会復帰訓練センターに収容されます。収容所のなかで、元少年兵たちは元いた政府軍と反乱軍の2派に分かれて殺しあいもしてしまいます。
 薬の助けを借りずに眠れるようになるまでに数ヶ月かかった。ようやく寝入ることができるようになっても、1時間とたたないうちに目が覚めてしまう。夢のなかで、顔のない武装兵がぼくをしばりあげ、銃剣ののこぎり刃でぼくの喉を切り裂きはじめる。ぼくはそのナイフが与える痛みを感じる。汗びっしょりなって目を覚まし、虚空にパンチをくり出す。それから外に飛び出し、サッカー場の真ん中まで走って行って、膝をかかえこんで身体を前後に揺らす。子どものころのことを必死で思い出そうとしても、できなかった。戦争の記憶が邪魔をするのだ。
 樹皮に赤い樹液がこびりついている木のそばに行くと、捕虜を木にしばりつけて撃つという、何度も実行した処刑の光景を思い出す。彼らの血は木々を染め、雨期の最中でさえ、決して洗い落とされなかった。
 著者は社会復帰訓練センターを経て、おじさんの家庭にあたたかく迎えいれてもらって社会復帰できました。ところが、シェラレオネそのものがまた内乱の危機におそわれ、ついに国外へ脱出することになるのです。
 少年兵士たちのおかれている厳しい現実、そして少年兵士を社会復帰させることがいかに大変な事業であるかを理解させてくれる本です。
 表紙にうつっている、いかにも聡明そうで、明るい笑顔からはとても想像できない過去をもつ元少年兵士です。
 庭にある小さな合歓(ねむ)の木が花を咲かせています。紅い、ぽよぽよとした可愛らしい花です。
(2008年2月刊。1600円+税)

大量虐殺の社会史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:松村高夫・矢野 久、出版社:ミネルヴァ書房
 アメリカのカーター大統領は、1976年にはバンコクのアメリカ大使館を通じてカンボジアの虐殺の事実をつかんでいながら、ポル・ポトのクメール・ルージュを支持し、ポル・ポト政権崩壊後も10年間にわたって国連代表権を認めた。
 南米のチリ、アルゼンチン、グアテマラでの虐殺は軍事政権下で起こったが、これらも背後でアメリカのCIAや軍部が関与していた。
 1984年のルワンダにおける80万人のツチ虐殺は、100日間にわたって1日あたり8000人のツチが虐殺されたことになるが、アメリカのクリントン大統領は、国連安保理への影響力を行使して、国連平和維持軍をルワンダから引き上げさせた。その結果、100日間にわたってアメリカをはじめとする外国からの干渉をまったく受けず、文字どおり自由自在にフツに虐殺させた。
 これってルワンダで起きた大虐殺にアメリカは直接的に手を貸したと同じですよね。映画『ホテル・ルワンダ』には、国連軍としてフランス軍が頼りにならないけれど少しは頼れる存在として登場していました。アメリカは自分にとって利権のない国は見向きもしないわけです。日本はアメリカにとって大変な利権をうむ国ですから、やすやすと手放すことはしないでしょうが・・・。
 この本を読むと、世界が人権意識に目覚めた20世紀のはずが、実は大量殺りくの絶えない「戦慄の20世紀」であったことがよく分かります。まったく、うんざりするほど、殺し合いにみちみちた世の中です。
 でも、こうやってこの本を紹介しようとしているのは、お互いに現実から目をそらさないようにしようということです。だって、それが現実の人間社会なのですから。私の、日本国憲法9条2項には世界に広めるべき今日的意義があるという確信は、こんな本を読むとますます深まります。
 1915年4月。トルコはアルメニア人80万人を虐殺した。これは自然発生的な行動ではなく、周到に準備され明白な計画的国家犯罪だった。
 ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺は、ここでは紹介を割愛します。別の本で紹介することにします。
 朝鮮戦争のさなか、1950年7月、アメリカ軍が避難民を老斤里で虐殺した事件が紹介されています。避難民に前線を越えさせるな、前線を越えようとする者は誰でも殺せ、という命令が出ていたのです。アメリカ軍は空爆で300人の避難民を殺した。これは、避難民のなかに朝鮮人民の兵士がまぎれこんでいるという情報にもとづいた行動でもあった。アメリカ軍は、直接的な虐殺を韓国でもしていたのです。
 インドネシアでは9.30事件というものがありました。1965年9月からインドネシア共産党とその支持者が軍隊によって大量虐殺された事件です。その時点までインドネシア共産党は250万人の党員をかかえ、得票率16.4%で、国会に39議席を占めていました。その共産党が殺害者リストをもっているというデマ宣伝があり、殺される前に殺せといって、共産党とシンパ層が非合法に殺されていったのです。1968年6月までに殺された被害者は50〜100万人とみられ、正確なデータは今も不明のままとなっています。
 事件に深く関与していたインドネシア国軍のなかには、真相究明に対して根強い抵抗があり、軍やイスラム勢力との強調を重視する政府は、思い切った政策がとれない。ともあれ、この大虐殺事件とその恐怖がインドシナ社会に与えた影響はとてつもなく深刻なものだった。
 私もインドネシアの作家がこの9.30事件にふれて書いた本を2冊ほど読んだ記憶がありますが、深く重く沈んだテーマだと思いました。
 この本は最後に次のように書いています。
 21世紀に生きる我々に課せられたもっとも重要でかつ緊要な課題は、戦争と虐殺のない世界を創出することである。それは、20世紀に戦争と虐殺の被害を受け、犠牲となった人たちが現代に生きる者に発したであろうメッセージである。このメッセージを真摯に受けとめ、戦争と虐殺のない世界を構築するためには、国民和解をふくむ歴史和解が必要であろう。しかし、歴史和解はいかに達成されうるのか、その道筋は明確になっているわけではないし、また容易でもない。歴史和解を達成するためには、真相究明が必要不可欠であることについても疑いの余地はないであろう。
 そうなんです。私たちは、もっともっと現実を知り、真相を探るべきだと思います。そして、軍事的報復に走る前に何をなすべきなのかを考えるべきだと思うのです。
 ずっしり重たい本ですが、心ある人は読むべき本だと思いました。
 7月の半ばに沖縄へ行ってきました。泊まったホテルがモノレール「おもろまち駅」から歩いたところにありましたが、あれっ、この地形はなんだか見たような気がすると思いました。前に紹介した『沖縄シュガーローフの戦い』(光文社)に写真つきで紹介されています。この「おもろまち駅」周辺は、まさに沖縄戦の最激戦地だったのです。
 1945年5月12日から18日の1週間、この丘をめぐる争奪戦でアメリカ第6海兵師団は2000人をこえる戦死傷者を出した。日本軍は首里防衛戦にいた5万人の将兵のうち、無事に撤退できたのは3万人。残る1万5000人がアメリカ軍によって戦死させられた。今は平和で、のどかな沖縄市街地ですが、63年前は猛火に包まれて、人々は殺されていったのでした。無惨です。
 残念なことに、当時をしのぶ説明板は駅周辺に見あたりませんでした。どこかにあって、私が見落としただけでしたら、すみません。
(2007年12月刊。4500円+税)

イラクは食べる

カテゴリー:未分類

著者:酒井啓子、出版社:岩波新書
 タイトルからすると、イラクの人々の食べ物を解説した本のようなイメージがあります。でも、読んでみると、イラクの社会と人々の生活、そしてアメリカによるイラク戦争の現実を知ることのできる本です。
 2003年のイラク攻撃から、シリアに年20万人以上ものイラク人が流れこみ、シリア国内のイラク人は、100万人から170万人にものぼるとみられている。
 ヨルダンに住むイラク人は75万人。これはヨルダン人口の1割になる。エジプトに 10万人、レバノンに4万人のイラク人がいる。国連の発表によると、国外へ脱出したイラク人は250万人にものぼる。毎月5万人のイラク人が国外へ流出している。250万人というと、イラク人口の1割だ。
 イラクの中間層の40%が既に国外へ脱出した。だから、頭脳流出とも言える。バグダッドからの流出は100万人のうち8割にもなる。それは、主として治安上の理由から。2003年からの4年間に2000人もの医師と看護婦が殺され、同じ数が誘拐された。国内難民も220万人いる。毎月5万人が国内難民になっている。2006年に正式政権が成立してからのイラク国内の治安悪化は、シーア派政党同士の対立、民兵の扱いをめぐるイラク政府の対応の不十分さによる。そして、民兵をもった政党に権力を与える「民主化」をすすめたものこそ、アメリカのブッシュ政権なのである。
 2500万人のイラク人口のなかの4割が日々1ドル以下で生活しており、3分の1が貧困層に分類され、100万人が最悪の貧困状態にあるとされている。インフレ率は60%、失業率は5割以上。国内、国外あわせてイラク人難民は450万人以上。その半数が身の危険を感じて故郷を離れた。
 アメリカは2003年から2007年までに、わずか500人のイラク人しか受け入れていない。スウェーデンが2006年の1年間で8000人も受け入れたのと、対照的だ。
 イラクの料理はイラン料理との共通点が多い。ご飯をよく食べるし、どちらも酸っぱい料理が好き。大鍋でご飯をたいて、鍋底のオコゲに、トマト味のシチューをかけるのが庶民の大好物。
 フセイン元大統領が死刑判決のあと絞首刑にされる様子が映像で流れた。フセイン処刑の映像は、2005年以降のイラク政権が、まがうことなきイスラーム政権であり、イスラーム革命を志向する「革命政権」であることを、そして、そこで施行されている司法システムが「革命裁判所」であることを、これ以上ないほどに露呈した。
 サドル潮流が与党内のゲームに加わったことで、統一同盟内の政党間関係は複雑な内部対立を生んでいる。移行政府の成立から現在に至るまで、サドル潮流が与党連合のなかでキャスティングボードを握ることになった。
 マリキ政権において、サドル潮流は、6つの閣僚ポストを得て、最大派閥となった。
 ファルージャは、イラク人にとってカバーブの美味しい街として有名だった。ところが今や、反米抵抗運動のシンボルとみられている。そこでのアメリカ兵の死者は1300人。全体の3分の1を占めている。
 イラクでは、そもそも宗派で政党を形成するという歴史をもっていない。右も左も、欧米式のリベラル派もナショナリストも、党員がどちらかの宗派に偏ることはあっても、はじめからどちらかの宗派のみに支持基盤を限定して政党を結成したことはなかった。
 スンナ派だから、シーア派だからといった理由でイラク人同士が殺しあうという状況は、建国以来なかった。
 イラクの治安は、2006年に2月に宗派対立に火がつき、悪化の一途をたどっている。それは、ちょうど、スンナ派政治家の国政参加のすすむ時期でもあった。
 外国から反米ムスリム義勇兵がイラク国内に入っているのは事実で、1年間にイラクでアメリカ軍が把握した反米義勇兵606人のうち41%がサウジアラビア人だった。
 イラク復興のために開かれたマドリード(スペイン)で決まった330億ドルのうち、アメリカ200億ドルの次に日本の50億ドルが来る。破格の金額だ。
 つかわれた復興資金の半分が警備や保険料などの治安費につかわれ、実際にイラク人の手に届くのは3割以下。世界の腐敗ワーストで、イラクは3番目にひどい。先日は88億ドルという使途不明金が発覚した。
 イラクを軍事支配しようとすることがうまくいくはずもありません。アメリカにいつもいつも追随して、イラクに自衛隊を派遣するなんて、愚の骨頂です。
 先日、新聞のコラムに、アメリカ人だったと思いますが、日本はアメリカにいつも追随しているので、まったく存在感がないという指摘がありました。本当に情けない状況です。フランスみたいに、もっと日本政府はアメリカにモノ申すべきだと、心底から私は思いますよ。
 先日、名古屋高裁は、きわめてまっとうな判決を出しました。久しぶりに胸のすく思いがしました。福岡高裁にも熊本のイラク派遣阻止訴訟がかかっています。たった1回で結審したそうですが、その判決を注目しているところです。
 淡いピンクの朝顔が咲いています。朝、雨戸を明けるとまっ先に目に飛びこんできます。心が洗われる思いのするほど、すがすがしいピンクの朝顔です。やはり夏の朝は朝顔です。
(2008年4月刊。780円+税)

チャップリンを観る

カテゴリー:社会

著者:吉村英夫、出版社:草の根出版会
 読んでいるあいだにも、読み終わってからも幸せな気分に浸ることのできる本です。だって、あのチャップリンの映画をみたときの感動がまざまざとよみがえってくるのですよ。私は、この本を読んで、またまたチャップリンの映画をみたくなりました。何度みても、いいものはいいのです。とりわけチャップリンの映画って、見飽きることがありません。
 『キッド』『街の灯』『ライムライト』こう並んだら、どれもこれも、すぐにまたみてみたいものばかりです。
 私の尊敬する故諫山博弁護士は、現役を引退したあと、DVD三昧の日々を過ごしておられました。私も、ぜひそれにあやかりたいと思いますが、そのなかでも、チャップリンの映画は絶対に欠かせません。
 私は30年近くも市民向けの法律講座を毎年開いてきましたが、はじめのころ、チャップリンの短編映画を客寄せパンダがわりに上映していました。短編映画をみてもチャップリンの笑わせ方は天才的だと思います。
 でも、これらの長編映画は、レベルがまったく違います。比較になりません。言葉でいいようがないほどです。そして、この本は、そんなチャップリンの映画を今どきの大学生に授業としてみせたときの反応が紹介されているのですから、面白さが2倍にもなります。チャップリンの映画を大学の授業でみせられるなんて、そんな学生は幸せですよね。
 私も大学生のとき、『男はつらいよ』第1作を大学の教室でみました。学園祭(五月祭)のときのことです。窓ぎわまで学生がすずなりになった教室で、みんなで大笑いしながらみたことを覚えています。ですから、チャップリンの映画だったら、拍手してほしいところなんですが、授業だというので、誰も拍手しなかったそうです。残念です。やっぱり、思ったことは少しでも行動にあらわすべきなんですよね。
 学生の反応のなかには否定的なものや消極的なものもあります。やはり、そこが個性なんでしょうね。私だったら、特AとかスーパーAという評価を与える映画であっても、CとかDをつける学生もいますから、やはり世の中はさまざまです。
 『キッド』も『街の灯』も泣かせますよね。もちろん、私も泣きました。すごいですよね。これも、チャップリンの不幸な生い立ちと無縁ではありません。
 1889年4月16日生まれ。イギリスはロンドンの貧しい労働者街で生まれました。両親はミュージックホールに勤めていた芸人です。ヒトラーの生まれはチャップリンとほんと同じで、わずか4日後の4月20日生まれでした。
 夫と離婚したチャップリンの母は必死に子育てしながらも、ついに精神病院に入った。母34歳、チャップリン12歳のときのことである。チャップリンは、母が亡くなるまで愛し、感謝の気持ちをもって母に接した。
 チャップリンは、左利きのバイオリン演奏などもできる器用な人物だった。作曲もできた。チャップリンの映画は、ほとんどチャップリンが作曲している。
 『モダン・タイムス』のラストシーンにミスがあるかどうかが問題になっています。ラストに2人が夜明けの道を朝日に向かって歩いていくと、はじめのうち著者は解説していました。しかし、現地まで出かけて実見してみた人によると、これは、夕陽になってもまだたどり着かずに歩いている2人を示しているのだというのです。希望への道のりはとてつもなく長く厳しいというわけです。
 いやあ、これには、さすがの私もまいりました。映画のロケ地まで実際に行ってみて(今も、ほとんど変わらずに残っているそうです)、その時間差を考えたというのです。世の中、さすがに偉い人はいるものです。
 チャップリンは、日本にも4回来ているそうです。その秘書は日本人で、高野(こうの)虎市という人だということは知っていました。5.15事件と同じときに、チャップリン暗殺計画まであったそうです。
 アメリカ政府はヒトラー・ドイツとたたかうチャップリンを「アカ」だと決めつけ、事実上、アメリカから追放してしまったのでした。そんな馬鹿げたアメリカも、あとになって反省し、1972年にアカデミー特別名誉賞をチャップリンに授与しています。
 さあ、みんなでチャップリンの映画をみましょうね。三重大学と愛媛淑徳大学の映画サークルのみなさん、これからも元気にがんばってください。
 炎暑の夏日が続いていますが、サボテンがまたまた純白の花を咲かせてくれました。速く手入れしてやって、サボテンの子どもたちをきちんと地面におろして植えてやるべきなのですが、ともかく、この暑さでは手入れする気にもなれません。サボテンには申し訳ないのですが・・・。
(2008年1月刊。2200円+税)

死刑

カテゴリー:司法

著者:森 達也、出版社:朝日出版社
 死刑判決が急増している。2006年の1年間に出た死刑判決は、44件。地裁13人、高裁15人、最高裁16人。1980年以降、もっとも多い。地裁での死刑判決は3倍にも増加している。
 アメリカでは死刑の執行は、通常、金曜日の午前2時。その週の火曜日に死刑囚は執行室隣の監房に移される。区画内は自由に出入りできるし、外部への電話も自由。処刑の日時は死刑囚の家族にも連絡され、最後の面会がある。
 処刑の立会人は16人。公的立会人4人に加え、被害者遺族や死刑囚の親族の立会も可能。メディア関係者5人の枠もある。
 日本では死刑存置の声が急増している。死刑廃止6%に比べて、81%。「どんな場合でも死刑廃止という意見に賛成か!」と問われると、賛成は16%弱で、反対は66%強である。日本は少し異常としか言いようがない。
 すでに世界では死刑廃止が大勢である。死刑廃止国133ヶ国に対して死刑を実施する国は半数以下の64ヶ国。アジアと中東とアフリカの一部でしかない。ヨーロッパはみな死刑を廃止した。EU加盟の前提になっている。
 カナダでは1975年に死刑を廃止してから、殺人事件が大幅に減少したというデータを政府が発表した。私も、この説です。死刑がなくなれば、かえって治安は良くなるのです。死刑を存続させているアメリカなんて治安が悪化する一方なのです。
 死刑になりたいから人を殺す。犯罪大国でもあるアメリカでは、そんな実例がいくつもある。そうなんです。先日の秋葉原の連続殺傷事件もそうだったと思います。
 私は誰がなんといっても死刑廃止派です。国家が人間を殺すなんて許されません。もちろん、人が人を殺すのを許すつもりはありません。でも、単純な報復主義がはびこる社会は悪い方向にすすむだけだと確信しています。カナダの実例があるわけです。
 死刑について考えさせてくれるいい本だと思います。
 今の法務大臣は私とまったく同世代です。これまで既に13人の死刑囚を処刑してしまいました。私は、せめて死刑執行を停止して、もっと真剣にそもそも犯罪をなくすにはどうしたらよいのか、報復主義を横行させていいのか、被害感情優先でいいのか、正面から社会全体で議論すべきだと考えています。目には目を、歯には歯を、では決して安心して生活できる社会を築いていけない、これは35年間の弁護士生活を通じた実感です。
(2008年1月刊。1600円+税)

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