法律相談センター検索 弁護士検索
2008年6月 の投稿

ゴールデンスランバー

カテゴリー:社会

著者:伊坂幸太郎、出版社:新潮社
 いま、アメリカの大統領選挙が激しくたたかわれていますが、史上初のアフリカ系アメリカ人(黒人)大統領が誕生する可能性も強まっています。しかし、そのとき、古くはリンカーン、そして私の中学時代に起きたケネディ大統領の暗殺事件のようなことが再び起きるのではないかという不気味な観測記事が、ときどき掲載されています。まことにアメリカっていう国は底知れぬ恐ろしさを秘めた国です。キュー・クラックス・クラウンという陰謀団体、白人至上主義、キリスト教原理主義が、今もはびこる野蛮な国だとつくづく思います。民主主義の仮面をかぶった、世界支配の野望を隠さない、まさに帝国主義国家としか言いようのない実態がありますよね、まったく・・・。
 この本は、ケネディ大統領を暗殺した「犯人」オズワルドがその逮捕直後に消されたことをヒントとして、日本の首相がラジコン・ヘリで爆殺されたと仮定し、その背景を想像をふくらませて描かれた推理小説(?)です。
 したがって、その筋を紹介することはできません。ただ、オズワルドが本当に犯人なのかどうかは、私の知る限りアメリカ国内でも疑われているし、その疑いには一定の合理的根拠があるということです。
 キューバの反革命輸出の失敗などから、アメリカ軍部やマフィアなどが邪魔者となったケネディの抹殺を企図したということでもあります。
 そこで、ケネディ暗殺犯とされ、その「犯行」直後にジャック・ルビーなる怪し気な男に消されてしまったオズワルドのような立場に立たされたとしたら、一体どうなるだろうか、逃げ場はあるか、逃げ切る可能性は果たしてあるのか。それを小説に仮構して描いた本です。少々無理じゃないのかな、と思える状況設定もありますが、最後まで魅きつけるものがありました。
 私は大阪での弁護士会総会に出席した帰りの新幹線のなかで一気に読み上げました。
 国家権力が、その総力をあげて一市民を「犯人」に仕立てあげようとしたとき、マスコミをふくめて全社会を敵にまわすことになります。ほとんど逃げる勝算はありません。ところが、生理的に警察や権力を嫌う人々もいますので、その人々の力をかりることができたら、いくらかの可能性は得られます。
 でも、Nシステムのようなものがさらに発達したときには、どうでしょうか。とりわけ、自分の名前で登録した携帯電話をもっているだけで、自分の居所を捕捉されるという、Nシステム以上の個人探知システムが完成したときには、どうにも逃げ切れるはずがありません。まことに恐ろしい世の中になってしまったものです。
 雨のなか、アガパンサスの花が開きはじめました。ご存知ですか。雨の中に大輪の花火が空に打ちあがった趣きのある花です。私の大好きな花の一つです。グラジオラスや大きな百合の花も咲いています。ヒマワリはぐんぐん伸びていますが、花はまだです。田植えの準備もすすんでいます。
(2007年11月刊。1600円+税)

アメリカを売ったFBI捜査官

カテゴリー:アメリカ

著者:デイヴィッド・A・ヴァイス、出版社:早川書房
 最近、映画『アメリカを売った男』をみましたので、その原作本として読みました。ところが、書店にはなく(絶版のようです)、古本屋にもありませんでした。それで、やむなく近くの図書館で取り寄せてもらった本です。さすがに、映画より詳しい事情が分かりました。まさに、事実は小説より奇なり、です。
 2001年2月18日、FBI特別捜査官のボブ・ハンセンは公園を出たところで武装したFBI捜査官の一団に取り囲まれて逮捕された。スパイ容疑である。
 そのとき、ハンセンが発した言葉は、「なんで、こんなに時間がかかったんだ?」
 ボブ・ハンセンは、警察官の息子として育った。父親は息子のボブを精神的に虐待した。父親は、息子に対して大学にすすみ、高級学位をとって医師になってほしいと願っていた。ところが、息子をほめて育てるのではなく、あらを捜し、くりかえし息子を叱った。男になれと諭(さと)しつつ、息子が自信をもてないようにいじめ続けた。だから、息子は父親を内心、大いに憎みながら大きくなった。
 息子が結婚するとき、父親は、妻となろうとする女性に対して、「なにがよくて、こんな男と結婚するんだ?」と問いかけた。ええーっ、うそでしょ。信じられないほどのバカげた父親の言動です。
 ボブ・ハンセンは1970年代はじめにシカゴ警察に入った。そこでは、警察官の非行を摘発する仕事についた。そして、1976年、FBIに移った。
 やる気にみちたボブ・ハンセンだったが、周囲のFBI捜査官にやる気のなさを感じ、幻滅した。しょせんFBIはソ連との戦いには勝てないというあきらめを感じた。そして、自分より劣る捜査官からのけものにされていると感じて、父親を恨みに思ったのと同じようにFBIを恨みはじめた。その恨みはだんだん強くなっていった。だから、FBIには本当に親密な友人はできなかった。
 ボブ・ハンセンはカトリック教徒として洗礼を受け、オプス・デイというカトリック団体に入った。
 ボブ・ハンセンはFBIでソ連の情報関連の仕事をしていたため、KGBに秘密情報を売る行為は、大きな危険を冒すときの高揚感に飢えていたハンセンを満足させた。
 ワシントンのKGBのナンバーツーのチェルカシンにボブ・ハンセンは秘密の手紙を送った。ひゃあ、すごいですね。自らスパイに志願したというのです。それも、個人的な動機から・・・。
 ハンセンは、いつもと何かが違うと疑われないように、家族の面倒やFBIの毎日の仕事に手抜かりがないように気をつけた。
 ハンセンに満足感と活力を与えたのはスパイ行為だった。FBIを翻弄し、ソ連が自分の正体を何も知らないと考えるのは楽しかった。秘密を愛し、自分の担当者との関係で感じられる優位性や支配力がとても気に入っていた。
 KGBのスパイを演じるとき、ハンセンは影響力をもち、自分が支配する立場にたった。ようやく主導権を握る男となったのだ。
 子どものときに父親から受けた虐待の傷は消えなかった。思考を細分化し、隠匿する方法を学んでいた。
 ハンセンは、FBIがいかにして二重スパイをつきとめるかを正確に知っていたので、いくら用心してもしすぎることはないと分かっていた。
 ハンセンは、史上最大のスパイになりたいという冷酷で非情な欲望に駆り立てられていたのだと考えられている。
 FBI捜査官、子ども6人をかかえる一家の長、そしてKGBのスパイという三役をこなすハンセンは忙しかったが、スパイ活動においても日々の生活においても自重して発覚しないようにした。人目につく散財などはしなかった。
 しかし、ハンセンの妻の兄(FBI捜査官をしていた)が、ハンセンが自宅に隠していた数千ドルの現金を家族に見られたとき、スパイ行為をしているのではないかと疑い、FBIの上司に報告した。それは1990年のこと。ところが、FBIは、この報告を取り上げなかった。
 では、ハンセンはスパイ活動で得たお金を何につかったのか。
 1回に2万ドルとか、多いときには5万ドルをハンセンはソ連(KGB)から現金で受けとった。また、モスクワの銀行に80万ドルもの預金があった(ただし、ハンセンが逮捕されて刑務所に入ったため、結局、引き出さないままに終わった)。
 ハンセンは親友と2人で、ワシントン市内のストリップ店でショーを見ながら昼食をとるのが楽しみだった。そして、そこのストリッパーに貢いだ。彼女が歯の治療費が2000ドルいるといえば、すぐに差し出した。そして宝石も贈った。香港旅行に行ったり、ベンツを贈ったり。ところが、彼女がクレジット・カードを勝手につかったことから、ハンセンは直ちに切り捨てた。
 やっぱり、妻以外の女性につかったわけなんですね。そして、ハンセンにはもう一つの趣味がありました。映画にも出てきますが、何も知らない妻をポルノ・スターに仕立てあげたのです。自分たち夫婦の性交渉をビデオで隠しどりして親友に見せたり、のぞき穴を提供していたというのです。インターネットの掲示板に、妻とのセックスを空想して投稿するのを楽しんでいました。敬けんなカトリック教徒でありながら、一方ではハードポルノを楽しむという二面性があったわけです。
 1991年にソ連が崩壊したあと、スパイとして摘発される危険がハンセンに迫った。
 ハンセンをスパイと疑ったFBIは特別な捜査本部を極秘のうちにたちあげて、ハンセンを24時間体制で追跡した。映画にもその様子が出てきます。ハンセンの自宅のすぐ近くの家も借りて監視したというのです。
 ハンセンは、アメリカのスパイとして働いたソ連の将軍やKGB士官の正体を明かした。彼らは直ちに処刑された。このようにハンセンのソ連に対する貢献度は画期的に大きいものがあった。ハンセンは、スパイとして逮捕されたが、終身刑の囚人として、今もアメリカの刑務所に暮らしている。
 この本を読むと、父親の息子への「しつけ」の度が過ぎると、とんでもないことが起きることがよく分かります。でも、本当にそれだけだったのだろうか・・・、という気もするのです。いずれにしろ、実話ですので、興味は尽きません。
(2003年4月刊。2200円+税)

ステータス症候群

カテゴリー:社会

著者:マイケル・マーモット、出版社:日本評論社
 見なれない言葉です。いったい何だろう。何の病気かな・・・。そう思って読みました。読み終わったとき、オビの言葉がやっと分かりました。
 日本は、いま大切なものを失おうとしていないか。
 そうなんです。今度の後期高齢者医療制度が、その典型ですね。社会の連帯をズタズタに切って捨て、人々を政府はバラバラにしようとしています。すると、どんな社会になるか。暗黒のアメリカ社会の到来です。富めるヒトはますます富み栄え、貧しい人々はますます貧しく追いやられ、絶望と腐臭にみちた生活を余儀なくされていく。
 著者は2006年に富山で日本公衆衛生学会総会で記念講演したイギリスの教授です。健康は、連続的な勾配をもった社会格差に従うもの。これをステータス症候群と呼ぶ。自律性をもつこと、つまり自分の人生に対してどれだけのコントロールをもてるのかということ、そしてフルに社会と接点をもち、社会的活動に参加できる機会をもつこと。この二つが、健康や厚生、そして長寿に欠かせないものである。自律性(コントロール)や社会参加の機会に不平等が生じていることが、健康格差を生み出している大きな要因である。自律と参加の度合いこそ、ステータス症候群の根底に潜む問題である。
 ワシントンDCの地下鉄に乗って、メリーランド州のモンゴメリー郡まで乗車してみると、それが分かる。1マイル(1.6キロ)すすむごとに、その地区の平均寿命は1.5年ずつ長くなっていく。乗った地区に住む貧乏な黒人と下車した地区に住む裕福な白人では、なんと平均寿命は20年も違う。ロンドンでも、東へ行く地下鉄に乗ると、6駅すすむと、駅ごとに平均余命は1年短くなっていく。いやあ、これって驚きますよね。そこまで違うのですね。
 キューバの平均寿命は男性73.7歳、女性77.5歳。ところが、ロシアでは男性57歳、女性72歳。ひゃあ、すごいですね。男性は長生きできないのですか・・・。
 コスタリカやキューバ、インドのケララ州のように、貧しくても健康状態のよいところもある。逆に、アフリカのシエラレオネでは、子どもの4分の1が5歳になる前に死ぬ。男37歳、女39歳。これが平均寿命だ。平均寿命が短い最大の原因は子どもの死亡率が高いこと。
 アメリカに住む黒人の所得は1人あたり2万6000ドル。世界の標準からすると裕福ということになる。しかし、アメリカの黒人の平均寿命は71.4歳。これに対して、コスタリカは77.9歳、キューバは76.5歳。貧しい国々よりも、かなり短い。
 アメリカでは、所得の不平等と死亡率との関係は、はっきり認められる。つまり、不平等の程度が高いほど、死亡率も高い。アメリカの白人と黒人との平均寿命の差は、女性同士の差よりも、男性同士の差のほうが大きい。
 2002年、アメリカでは国民10万人あたり700人が刑務所にいた。イギリスは 132人、カナダは102人、フランスは85人。そして日本は48人だ。
 日本にはアメリカの大都市にあるような「足を踏み入れてはいけない地区」というものはない。日本社会は、人々の高い信頼によって特徴づけられる。
 アメリカでは、上位20%が全収入の46%を稼いでいる。日本では35%である。
 日本は、犯罪率が低く、教育水準が高く、所得の不平等が小さく、労使関係と経営形態では社会的結束の高さを示す国である。
 
 日本では、男児が5歳前に死ぬ確率は1000人に対して5人、女児は4人。シエラレオネでは、これが男児292人、女児265人。ロシアでは男児23人、女児17人。
 一般に貧困の程度が大きければ大きいほど、攻撃的行動の頻度も多くなる。しかし、すべての子どもがそうなるわけではなく、大半の子どもは健全である。
 ワシントンDCの若い男性の30%は18〜24歳のあいだに薬剤売買で逮捕されているが、残りの大半は決して凶悪犯罪に関わらない。
 社会的に恵まれない環境の子どもたちは、学校に入学して、さらに状況が悪化する。だから、子どもたちが人生においてよいスタートを切るためには、子どもたちの親を、支援することが大切である。
 そうなんです。少子化だからといって子どもを生めよふやせよ、それが義務だと言うだけでは意味がありません。子どもを生み育てることに国が援助を惜しまないことこそ必要なのです。そこを舛添大臣はまったく分かっていません。とてもいい本でした。
(2007年10月刊。3600円+税)

西淀川公害を語る

カテゴリー:社会

著者:西淀川公害患者と家族の会、出版社:本の泉社
 大気汚染公害は今も深刻です。私は弁護士になる前から取り組んできました。この本を読みながら、私の青年弁護士時代をふり返ったことでした。そして、写真を見て、みんな若かったなあと思ったのですが、それだけ私も年齢(とし)をとったということなんですよね、残念ながら・・・。
 日本最大、最強を誇る西淀川公害患者の会が設立されたのは1972年(昭和47年)のこと。私が司法修習生になった年です。最高時の会員数2800人(うち15歳以下の子どもが半数)。今は400人。年配者の半分以上が亡くなった。
 西淀川公害裁判は勝利的に解決するまで20年かかった。しかし、その結果えられた和解金40億円のうち25億円が患者への補償金となり、残る15億円がまちづくりなどの資金として活用された。その一つが通所介護施設「あおぞら苑」。5000万円で用地を取得し、開設するのに5000万円をかけた。公害患者用の介護施設である。
 すごいですね。裁判の成果が地域再生の場として活用されているなんて、素晴らしいと思います。たいしたものです。生きるお金のつかい方ですね。
 西淀川区は、1975年(昭和50年)ころ、スモッグが出ると、車は昼間でもライトを照らした。それでも30メートル先しか見えなかった。小学校はスモッグがひどいため、運動会を途中で中止し、別の日に再開することもあった。そのころの子どもの作文を紹介する。
 大阪の空は、灰色だ。
 スモッグで いっぱいだ。
 今日も、また、スモッグで汚れた町の空
 また、あすも、あさっても、くり返されるのだろう
 これでいいのか、西淀川は、
 公害のために、人間がつくった工場に、
 人間が苦しんでいる
 スモッグの年間発生日数は、1956年に88日、1960年には160日、その後は100〜120日前後で推移した。団地のテレビ・アンテナが1年でポロリと折れ、バラバラになってしまったほど。
 1973年10月に公害健康被害補償法が制定された。西淀川区の公害認定患者は1976年に4910人。区民の20人に1人が認定された。
 患者会は国、道路公団そして企業10社を被告として公害裁判に踏み切った。その提訴前に原告となった患者にかいてもらった契約書には、「仮に勝っても、賠償金は完全解決するまでは受けとらない」とあった。な、なーるほど、ですね。
 1978年の第1次提訴の原告は112人。1984年の第2次提訴の原告は470人。被告となった企業からの切り崩しのため、500世帯が辞めていった。
 企業側は、ぜんそくはアレルギーが原因だ、たばこが原因だと主張して、裁判の引き延ばしを図った。いやあ、ひどいものです。なりふりかまわない主張を出しました。
 公害健康被害補償法の改悪が企業、財界側から始まった。臨調会議がその司令塔となった。そこで、患者会は、会議の開かれている東京の庁舎前に600人が集まった。やがて、全員が片手に直訴状をかざして庁舎に太鼓の音とともに乱入し、土光敏夫会長に迫った。瀬島龍三を見つけました。そのときのセリフがすごい。
 「関東軍参謀に用はない。引っ込め。土光に会わせろ」
 患者の会に、関東軍の高級将校を載せる車の運転手をしていた人がいて、瀬島龍三の顔を見知っていたからできた芸です。さすがの瀬島龍三も、びっくりして引き下がったというから、いかにも痛快です。軍人あがりが、反省もなく戦後の日本政治を牛耳るなんて、とんでもないことですよ。
 裁判では、被告側が700人をこす原告全員の尋問を求め、裁判所がこれを受け入れた。月1回のテンポでやったら10年以上かかることになる。そこで、西淀川簡裁の1階法廷と2階会議室の両方をつかって、1回で上下7人ずつ、計14人ずつ尋問することになった。そして、第2次訴訟からは原告4人に1人の代表尋問になった。
 しかし、この原告尋問は、結果としては大変な効果があった。どれだけ患者・遺族が苦しんでいるかを、裁判所と弁護団が深く認識することになったからだ。
 いよいよ、1991年3月、大阪地裁で判決。私と同期の津留崎直美弁護士(久留米出身)は、10通りの声明文を用意した。そして、患者会は・・・?
 なんと、敗訴したときには、患者2000人が法廷に入って座りこみをする計画だったというのです。そ、そんな無茶な・・・。これには、さすがの私もア然としまして、開いた口がふさがりませんでした。
 国と公団を除いて、勝訴判決でしたので、そういう事態にならなくて、本当に幸いです。
 判決直後の関西電力との交渉。なかなか交渉に応じようとしない。さあ、どうする。夕方5時30分、1000人分の弁当が運ばれてきた。「みんな、メシにしよう」と呼びかける。そして、次に貸し布団が運ばれてきて、関電ビルの出入り口にうず高く積み上げられる。「帰らないぞ」という患者会の不退転の決意をしめした。うひゃあ、す、すごーい。そこまでやるのか。まいった、まいりました。いえ、関電がそういって、交渉に応じたのです。
 被告企業10社から40億円近くを出させたときの裏話も紹介されています。企業側の担当者と、実に人間的な接触があったようです。これまた、すごいことです。
 今だから書ける、という内容がたくさんあり、とても面白く、勉強になりました。
 患者会の森脇君雄会長のますますのご活躍を祈念します。
(2008年3月刊。1800円+税)

平安貴族の夢分析

カテゴリー:日本史(平安)

著者:倉本一宏、出版社:吉川弘文館
 私は毎晩のように夢を見ます。楽しい夢もあれば、変な、いかがわしい夢もあります。夢の世界では、もてもて人間になったりもするのです。これって夢だろうなと夢の中でも思っているのですから、不思議なものです。
 平安時代の貴族がどんな夢を見ていたのか、興味津々で読みました。なあんだ、現代の私たちと同じだったのかー・・・、とがっかりしてしまいました。現代人とはよほど変わった夢を見ているものと考えていたからです。宗教がらみの夢は多かったようですが。
 この本はまず、人間がなぜ夢を毎晩みているのかを解明しています。
 レム睡眠は、日中に収集した不要な情報のデータを消して、翌日、新たに情報を収集できるようにする働きを持っている。脳がたくさんのものを覚えれば覚えるほど、神経回路網が混乱し、間違った情報が混じりこむので、夢をみることによって、人間は余計な情報を消して脳を調律し、脳の可塑性(記憶)を可能にする土壌づくりを行っている。つまり、夢の主要な機能は忘れることにある。な、なーるほど、そういうこと、だったんですね。よく忘れないと、新しい知識を脳は吸収できないというわけです。
 平安時代、夢は寝目つまり、いめと読んだ。
 平安時代の貴族は、朝おきて食事をしたり身繕いをしたりする前に、昨日の儀式や政務を日記に記録していた。具注暦という暦の余白に日記を記した。つまり、平安貴族が朝起きて最初に手にする物体は、鏡の次に日記を記す具注暦だった。
 たとえば、摂政となり関白となった藤原忠平(ふじわらのただひら)の記した『貞信公記』によると、位階を早く上げてほしいという個人的な希望を夢に見たこと、それを日記に記している。
 藤原道長の『御堂関白記』も紹介されています。『御堂関白記』における道長の夢というのは、そのほとんどがどこかに外出あるいは参列することを回避するための根拠としての「夢」である。具体的に「夢」の内容は語られておらず、本当にみたのかどうか怪しい。
 道長には、行きたくない所には夢想を口実にして行かず、やりたいことだけはそれにもかかわらずやるといった行動様式がみてとれる。これは、夢についての平安貴族全般にみられる行動様式だったようだ。そして、陰陽師は依頼者の意思どおりの占いをすることが多かった。な、なーるほど、そういうものなんですよね。昔も今も、変わりませんね。
 平安貴族には、家の存続のためには政治的地位を継ぐ男子と、入内(じゅだい)を予定する女子とが必要であった。ところが、右大臣を26年も在任した藤原実資(ふじわらのさねすけ)は、男子にも女子にも恵まれなかった。
 実資の夢について、夢解き僧がいいことを言って近寄ってきたが、実資はいたって冷静な対応をした。つまり、夢解き僧の言うことを真に受けなかったということです。
 67歳の実資の頬がはれてきたとき、実資は夢の中に出てきた2つの治療法をやってみました。それでも、決して、夢をうのみにしたのではなく、当時考えられる様々な手だてを講じたうえで対処していました。つまり、現実的な対応をしていたというのです。決して夢のご託宣のとおりに動いたわけではありません。
 この実資の『小右記』に登場する夢は、一見すると夢想によって宗教的な怖れを抱いていたかのような観がある。しかし、逆にいうと、金鼓を打たせたり、諷誦(ふじゅ)を修させたりといった措置を講じることによって、日常的な生活に戻っていったのである。必ずしも実資が宗教的な怖れに包まれていたわけではないと考えるべきである。つまり、実資もまた、道長と同じように、夢想を冷静に自分の都合のよいように利用していたのだ。
 なーるほど、そういうことだったのですか。これでは、まるで、現代日本人と同じですよね。
(2008年3月刊。2800円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.