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2008年3月 の投稿

画文集・シベリア抑留1450日

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:山下静夫、出版社:東京堂出版
 シベリア抑留の実情を初めて目で見ることができました。これまで書物としてはいくつも読んでいましたが、この本によって初めてビジュアルなものになりました。
 著者はシベリアから帰国して25年後の1974年春、抑留されていた4年間を日記風に書きはじめ、10ヶ月間で書きあげた。その過程で挿画を入れ、7年のうちに400枚あまりの画になった。
 B6ケント紙に黒のボールペンで、ペン画のスタイル。経験したものだけを、現場でカメラのシャッターをきった写真のように忠実に描写することを心がけた。
 いやあ、本当によく描けています。シベリアの酷寒の大自然と、抑留されていた日本兵、そして監視していたロシア兵の人間性がよくぞ描けています。感心してしまいます。
 著者は1945年(昭和20年)夏、抑留されたとき27歳でした。昭和18年に召集されて満州に渡り、佳木斯(チャムス)で敗戦を迎えた。輜重兵聯隊の主計軍曹だった。著者は商家の息子で都会っ子、小柄な身体で体力的にも劣っていたが、不屈の気力と日本人の誇りを胸に仲間に助けられながら、収容所で中隊長となり、肺炎・赤痢・マラリアにかかり、膝にケガをしながらも、昭和24年9月に日本に帰国できた。
 日本軍捕虜のシベリア抑留はスターリンによる1945年8月23日の極秘指令、日本軍捕虜50万人をソ連に移送せよという指令にもとづく。
 抑留者は60〜65万人。抑留中の死亡者は6〜9万人。
 戦争により2500万人という膨大な犠牲者を出して国土が荒廃したソ連は、復興のためノドから手の出るほど労働力を必要としていた。
 比較として、ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。ドイツの捕虜になったソ連軍人は570万人で、そのうち330万人(58%)が死亡した。この死亡率の高さは独ソ戦の苛酷さを意味している。
 これに比べると、日本軍人の捕虜の死亡率が1割程度ですんだというのは、まだましだったことになります。驚くべき数字です。
 著者が4年のシベリア抑留のあと日本(舞鶴港)に帰ってきたとき、日本政府の高官は、「ながらく御苦労様でした」と挨拶することもなく、ソ連の内情はどうだったか、スパイまがいを強要した。このことに著者は怒っています。なるほど、そうですよね。
 著者がようやく日本に帰れることを知ったとき、ロシア人たちは、「よかった、よかった。達者でお帰り」と喜んでくれたというのです。そして、きみたち日本人のおかげで住みやすい町になった、ありがとうという感謝の言葉をかけられたといいます。
 ひゃあ、そんな感じだったのですか・・・。
 シベリアの極寒の地を日本人捕虜が大変な苦労をして切り拓いていったことが、画と文章によって、ことこまかに紹介されています。
 シベリアでは冬にマイナス25度の日が続くと、今日はぬくい日だなあと喜び、防寒外套を脱ぎ、素手で作業することがあった。日本でマイナス27度と言えば、大変な寒気で異常事態といえるが、常時マイナス30度のシベリアでは服装もそれにあわせてあるため、むしろ暖かさを感じるほど。
 シベリアに日本人捕虜を抑留して多くの犠牲者を出したのは、第1に、日本軍の将校、下士官の横暴をソ連が黙認し、利用したことによる。食糧も公平ではなかった。第2に、作業遂行にノルマを強制し、将校、下士官に追求したため、作業兵を死においやった。第3に、なれない作業への無知のため発生した犠牲者がいる。第4に、生活環境が改善されず、もっぱら野外作業にかり出され、凍死者さえ出た。
 日本軍捕虜は、経費のかからない安い労働力とみられ、限られた期間内に精一杯つかいまくる、ソ連は消耗品視していた。
 木の枝にとまっている三羽のヤマバトをソ連の兵士が一羽ずつ長い歩兵銃で撃ち落としていったというウソのような話も紹介されています。
 シベリア抑留の実情を少しでも知りたい人には欠かせない本だと思いました。
 陽も長くなり、いっそう春めいてきました。それは良いのですが、花粉症に悩まされて困っています。鼻づまりがひどく、夜、口を開けて寝ていたらしく、朝、起きたときに舌がザラザラして嫌な感じでした。涙目になり、目が痛痒いのも困ります。もっとも、こちらは目薬で何とかなります。夜、寝る前に、鼻のあたりに温湿布をあてて温めています。すると、少しは鼻づまりがやわらぎます。黄砂で車体が黄色くなっていて驚きました。いろいろあるのも春なのですね。
(2007年7月刊。2800円+税)

民主化の韓国政治

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:木村 幹、出版社:名古屋大学出版会
 戦後の現代韓国政治の変遷の本質がよく分かる本だと思いました。
 現在の韓国は第六共和国体制と呼ばれている。1987年6月に民主正義党の廬泰愚が大統領に当選した。韓国の民主化は、民主化を求める国民の激しい闘争と、熱狂と絶叫と希望に満ちた大統領選挙の末、結局、民主化以前の軍事政権における与党の流れをくむ、そして、わずか7年前に人々の民主化への思いを押しつぶしたクーデターの首謀者の一人を大統領に選び出して幕を閉じるという皮肉な結果に終わることとなった。
 しかし、重要なことは、惜敗した野党をふくめて、韓国の人々が、この選挙結果と第六共和国体制を受け入れたことにある。
 1948年の大韓民国建国以後、1987年に至るまで8回の憲法改正を経験した韓国において、第六共和国は、一度も憲法改正がなされず20年間も続く最長の安定した共和国なのである。
 「第六共和国」の前、人々は選挙結果を信用せず、選挙に敗れた勢力も、その結果を受け入れようとはしなかった。それがなぜ変わったのか、という点を本書は解明しています。
 朴正熈の1961年の軍事クーデタと1972年の維新クーデタは質的に異なっている。1961年のとき、朴正熈らクーデタ勢力は、クーデタ直後の体制はあくまで暫定的な体制であるという前提のうえに将来の民政移管をちらつかせ、自らの正統性を確保し、野党勢力を懐柔しようとした。
 しかし、1972年には、かつてのような「民主主義」的体制へ戻ろうとはしなかった。自らの新体制を正統化しようとする試みを完全に放棄した。思想・宣伝活動を展開することもなかった。
 「言葉」を失った朴正熈は、「説明」を断念し、「説明」なくして自らの体制を維持しようとした。しかし、それは、朴正熈にとって、出口のない大きな落とし穴でもあった。皮肉なことに、以前よりもさらに強力な政治体制を敷いた結果、はじめて国会議員選挙において得票率において野党に敗北を喫した。この状況を少しでも改善すべく、朴正熈は、政府をしてさらなる野党弾圧へと向かわせた。そのなかで1979年10月26日に側近であった金載圭中央情報部長により暗殺されてしまった。
 金大中と金泳三という二人の政治家はいずれも第三共和国期において、代表的な野党内「穏健派」の「中間ボス」であった。ところが、「40代旗手論」を契機に、二人とも、あたかもそれまでの経歴が嘘であるかのように、急速に強硬論へと傾斜し、野党内における代表的な対政府強硬論者となっていった。
 それは状況の方が変化したからであった。朴正熈政権の側が、二人の本来の活躍の場を奪ってしまったからである。「維新クーデタ」の勃発は、二人の行動を見事に正統化した。「維新憲法」の下、国会の権限が剥奪され、大統領選挙を儀式化された彼らには、もはや「強硬派」に転じる以外の選択肢はなかった。二人が「転向」したのではない。変わったのは状況の方である。二人とも、ただ前と同じように自らが活躍することを求めていたに過ぎない。
 「維新クーデタ」は、韓国内における政府・与党の言説の信頼性を損ない、逆に野党にこれを攻撃する絶好の口実を与えた。以後、野党新民党の多数は強硬派によって占められ、政府・与党への対決姿勢を明確にしていった。金泳三は、この政府・与党に対する「鮮明野党」路線の主唱者であり、政治活動を封印された金大中は「民主化」の象徴的存在となった。
 これに対して朴正熈は力で抑えこむことを選択して緊急措置を連発する。そこには、国民に対して自らの体制を論理的に説明することを事実上放棄した政府・与党があった。
 政治、社会、そして教育面の大きな変化に何回となくさらされた近代以降の朝鮮半島によって、人々の受けた教育の程度や内容が大きく異なる。朝鮮王朝期の科挙受験のための教育を受けた世代と、日本統治下に近代教育を受けた世代、そして解放以後の独立韓国において教育を受けた世代が、現実社会に対する認識を異にするのは当然である。
 1940年代には大学生の数は少なく、彼らが力をもって政局を主導することは考えにくい。1960年代の韓国では、学生の数的増加を背景として学生運動は社会的に大きな意味をもった。そして1960年から70年までの10年間に、それは劇的に変化した。1960年代半ば、韓国の大学生は10万人をこえていて、毎年2万人以上もの卒業生が社会へ送り出されていった。
 うむむ、なーるほど、ですね。こういうのを、まさしく歴史の弁証法というのではありませんか。
(2008年1月刊。5700円+税)

エコノミック・ヒットマン

カテゴリー:アメリカ

著者:ジョン・パーキンス、出版社:東洋経済新報社
 この本の序文に、次のように書かれています。エコノミック・ヒットマン(EHM)とは、世界中の国々を騙して莫大なお金をかすめとる、きわめて高収入の職業だ。EHMは、世界銀行やアメリカ国際開発庁(USAID)などの国際援助組織の資金を、巨大企業の金庫や、天然資源の利権を牛耳っている富裕な一族のふところへと注ぎこむ。その道具につかわれるのは、不正な財務収支報告書や、選挙の裏工作、賄賂、脅し、女、そして殺人だ。EHMは、帝国の成立とともに古代から暗躍していたが、グローバル化のすすむ現代では、質量ともに驚くほど進化している。
 EHMは、いったん仲間入りしたら、一生抜けられない。EHMは、汚い仕事をする特別な存在。どんな仕事をしているのか、誰に話してはいけない。妻に対しても・・・。
 EHMの仕事は、世界各国の指導者たちを、アメリカの商業利益を促進する巨大なネットワークにとりこむこと。EHMは、マフィアのヒットマンと同じく、まずは恩恵を施す。それは、発電プラントや高速道路、港湾施設、空港、工業団地などのインフラ設備を建設するための融資という形をとる。融資の条件は、プロジェクトの建設をアメリカ企業に請け負わせること。要するに、資金の大半はアメリカから流出しない。ワシントンの銀行から、ニューヨークやサンフランシスコなどの企業へ送金されるだけ。しかし、融資を受けた国は、元金だけでなく、利息まで返済を求められる。EHMの働きが成功したら、融資額は莫大で、数年たったら債務国は返済不能になる。そのとき、マフィアと同じように、厳しい代償を求める。たとえば、アメリカ軍の基地の設置など。もちろん、それで借金が帳消しになるわけではない。
 エクアドルは、EHMが政治的経済的にトリコ(虜)にした国の典型だ。エクアドルの産出する原油100ドルあたり、石油会社のとり分は75ドル。残り25ドルのうち4分の3は、対外債務の返済にあてられる。その大半は軍備などに充てられ、公衆衛生や貧しい人々への援助や教育に充てられるのは、2.5ドルほどでしかない。
 ウガンダ(アフリカ)の悪名高い独裁者だったアミン元大統領は、1979年に失脚し、サウジアラビアに亡命した。反体制派の国民を10〜30万人も虐殺したという暴君が、サウジアラビアの王族から保護され、車や召使いを与えられ、豪華な生活を過ごした。アメリカも、反対はしなかった。アミンは2003年、80歳で病死した。
 EHMは、エクアドルを破産に追いこんだ。何十億ドルもの貸付をして、アメリカのエンジニアリング会社に工事を依頼させ、もっとも裕福な人々の利益になるプロジェクトをつくった。その結果、この30年間で、生活困窮者の割合を示す公式な貧困線は50から70%へ、不完全失業者と失業者の割合は15%から70%へと大きく増えた。国家の負債は2億4000万ドルから160億ドルへと増加した。その一方、最貧層のために配分される国家予算の比率は、20%から6%へと減少した。
 今日、エクアドルは借金の支払いのためだけに、国家予算のほぼ半分をつかわなければならない。
 アメリカの実情を再認識させられました。サブ・プライムローン破綻で世界中をゆり動かしましたが、今のままでいくとアメリカの経済繁栄はいずれなくなってしまいますよね。でも、そのとき日本がどうなっているか、お互いにますます心配です。
 庭にミカンを半分に切っておくと、すぐにメジロが二羽飛んできて、ついばみはじめます。可愛らしいですよ。そこへヒヨドリが飛んできてメジロを追い払います。ジョウビタキもやって来ますが、ミカンは食べません。ジョウビタキは茶色で、尻尾が少しだけ長いスズメくらいの大きさの小鳥です。人の見えるところまで近づいてきて、鳴きながら尻尾をチョンチョンと下げて挨拶してくれるのが愛敬です。それよりもうひとまわり大きいツグミのような茶色の小鳥も庭にやって来るようになりました。図鑑をみて調べるのですが、アカハラに似て、それほど赤味はありません。もちろん、常連のキジバト、そしてわが家にすみついているスズメたちも庭中をかっ歩しています。ようやく春になりました。チューリップの咲くのも、もうすぐです。待ち遠しくて、しかたありません。
(2007年12月刊。1800円+税)

ホモセクシャルの世界史

カテゴリー:社会

著者:海野 弘、出版社:文藝春秋
 ヒンズー教は同性愛を一般的に受け入れている。イスラム教徒キリスト教には同性愛の項目がない。ユダヤ教は、ゲイは一般に認めないが、このごろは認めようとする派もある。
 アメリカに渡った宣教師は、ネイティブアメリカンの部族の中に、女装して女の仕事をしている男がいるのを見て驚いた。女装した男たちは、部族の最高会議で助言者の役をつとめ、重大な決定は彼の意見を聞く。占い師、預言者、語り部、ヒーラーでもある。
 ギリシアのスパルタが軍隊組織を発達させたといっても、必ずしも男性社会だったわけではない。アテネよりも、むしろスパルタの方が女性の社会的地位は高かった。
 18世紀、ヨーロッパではホモセクシャル(ソドミー)を処罰する法律が次々に廃止された。とくに啓蒙君主のいた国で早かった。フリードリヒ大王のプロシア、レオポルト2世のオーストリア、エカテリーナ2世のロシアである。先進国のはずのフランスとイギリスは遅れた。フランスでは1791年に犯罪でなくなり、1810年のナポレオン法典で、それが確認された。しかし、ソドミーは犯罪ではなくなったが、差別意識は残り、警察はひそかに監視を続けた。
 イギリスでは男色による死刑は1861年まで残った。この年、それは無期懲役となった。エリザベス女王がつくった男色処罰法は、1967年まで残った。
 アメリカでは、2003年、ホモセクシャルを罰するテキサス州法を連邦最高裁が違憲とし、州刑法が廃止された。
 イギリスのオスカー・ワイルド(1854〜1900)は世界一有名なホモセクシャルであり、その典型だ。
 フランスのランボーとヴェルレーヌもホモセクシャルの関係にあった。ヴェルレーヌのそれは少年時代からだった。ヴェルレーヌもランボーも、圧倒的な母の庇護下にあったことが共通している。2人は、しばしばそこから逃れたが、また引き戻された。母から、女から逃れるため、2人はひかれあった。ヴェルレーヌは言葉を取り戻し、詩を書けるようになった。
 アンドレ・ジッド、プルースト、コクトーはいずれもホモセクシャルの作家である。ジッドは、そのことをもっとも明確に告白した。プルーストとコクトーは、内部では公然の秘密だったが、告白はせず、あいまいにし、言い訳もしなかった。
 ジャン・コクトーは隠れなきホモ・セクシャルであるが、多くの女性を愛し、一緒に暮らしたりもした。だが、結婚はせず、子どもはつくらなかった。人を愛することにおいて、男とか女とかの区別はしなかった。しかし、芸術的な美しさの点で男にひかれた。
 うむむ、なんということでしょう。私には、よく分かりません。
 アメリカ。ハリウッドでは、ホモセクシャルの人々をトワイライト・メン(薄明の人々)、ラヴェンダー・バディ(紫の兄弟)などと呼んだ。彼らは目立たないように暮らしていた。
 サマーセット・モームもキューカーもホモだった。ロック・ハドソンは、1959年から1964年まで、アメリカの人気ナンバーワンの男優だった。多くの女性は、結婚するなら、彼のような男と思った。しかし、ハドソンはホモセクシャルだった。
 YMCA!という歌は、アメリカのゲイ賛歌である。
 ニューヨークのゲイの領土はハーレムである。黒人街ハーレムが、白人たちのもっとも自由にふるまえる場所だった。
 FBI長官のフーヴァー、副長官のクライド・トルソンの2人とも独身であり、ホモセクシャルだと疑われていた。そのウワサを振り払うため、この2人はホモへの厳しい態度を示した。アカ狩りで名高いマッカーシーも、ホモセクシャル問題には深入りしなかった。というのも、彼自身、その疑いがあったから。
 この本を読むと、いかにホモセクシャルに生きる人々(ゲイの人々)に文化人が多いか、驚くべきほどです。いったい、これはどういうことなんでしょうか・・・。
(2005年4月刊。3200円+税)

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