法律相談センター検索 弁護士検索
2008年2月 の投稿

雪解け道

カテゴリー:社会

著者:青木陽子、出版社:新日本出版社
 団塊世代の青春を描く大河小説。あの「大学紛争」とは何だったのか。「政治の季節」を駆け抜けた情熱が、今よみがえる。これは、オビに書かれている言葉です。
 団塊世代は、いま、私をふくめて還暦を迎えつつあります。私には、残念ながらまだ孫はいませんが、この本の主人公のように孫をもつ人もたくさんいます。
 多くの団塊世代が大学生のころに直面した「大学紛争」とは、いったい何だったのか。革命を議論していた、あの熱気、そして情熱は、いったいどこに消え去ったのか。不思議なほどにおとなしいのが、今の団塊世代の大きな特徴です。ええーっ、おいおい・・・。
ぼくら、20歳(はたち)前後のころは野放図に語り、行動して、世間の顰蹙を買うほどの存在だったんじゃないの?今、どうして、そんなに分別臭い顔をして、横丁の楽隠居みたいに引っこんでいるの・・・。たしかに、私はそう叫びかけたくなります。
 著者は私とまったく同年の生まれのようです。1967年に大学に入学し、私の入ったセツルメント・サークルに似た児文研に入部します。
 児文研は100人近い部員をかかえた大所帯のサークルで、戦前からのセツルメント活動に端を発しているという。
 私の所属していた川崎セツルメントは、20ほどの大学から学生が150人ほども参加していました。もちろん、いろんなパート(部)に分かれていました。子ども会、青年部(若者会)、定時制高校パート、労働文化部、法律相談部、栄養部、保健部といったパートです。子ども会は、いくつもの地域で、そして、青年部はいくつもの若者サークルに入って活動していました。
 実に多くの出会いがあり、発見がありました。私なんか、大学でよりも、このサークルで学んだことのほうが大きいと、今でも思っています。というか、2年生のときに無期限ストライキに突入して、まともな授業を受けていないことも原因のひとつです。でも、授業があっていたとしても、果たして、どれほど真面目に授業に出ていたかは疑問です。
 寮生活をしていましたが、昼と夜とが逆転したような学生は、いくらでもいました。まあ、それはそれでいいような気がします。
 「ぼくは大学に革命をやりに来ました。・・・いろいろ考えた結果、日本には革命が必要だと考えています。学生運動をやりながら、そこから革命の道筋を考えたいと思っています」
 この本に出てくる学生のセリフと同じような言葉を下級生(43年入学)から聞いて驚いたことを覚えています。彼は、寮内にあるセクト全部をまわって論争したというのでした。ええーっ、そんなことをする学生がいるのか・・・、と驚きました。
 デモの中にいて、機動隊とぶつかると、身体も気持ちも、くしゃくしゃになって、すごく昂揚してくる。自分自身がなくなるくらいに周囲に溶け込んでいく。それで、生きているという実感が強く湧いていくる。
 自分たちを今の状況に追いつめている元凶が国家権力なら、権力の暴力装置とじかにぶつかるというのは、すごく納得できる。でも、怖い。自分が自分でなくなるような、あの状況が・・・。あれだけのことで、あんなに充実感を感じてしまうなんて・・・。
 『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)とまったく同じ時期の大学内の様子が描かれています。団塊世代はもっともっと力を発揮すべきではありませんか。そのためにも、これらの本を読んで、若さを取り戻してほしいものです。
(2008年1月刊。2400円+税)

私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか

カテゴリー:司法

著者:島村英紀、出版社:講談社文庫
 64歳で逮捕された教授(地震学者)の書いた本です。2006年2月から7月まで、なんと171日間も札幌拘置所暮らしを余儀なくされました。その拘置所での日常生活が、ことこまかく紹介されています。
 札幌拘置所には暖房器具はない。建て替え前は、暖房もなかった。今は廊下に暖房がある。そうなんですね。だから警察の留置場(代用監獄)のほうがいいという被疑者もいるのです。悪いことをした人間にエアコンなんてぜいたくだという「素朴な」国民感情がある限り、冷暖房は難しいでしょうが、本当にそれでいいのでしょうか・・・?
 拘置所の廊下を歩くときには、真ん中を、まっすぐ前を向いて歩くことが要求される。決して拘置所に収容されている人と目を合わせてはいけない。
 昼食は午前11時すぎに配られる。昼食後は昼寝してもいい。平日だと12時半から1時間。土日と休日は、12時半から2時間。これ以外の時間は横になってはいけない。
 就床は曜日にかかわらず18時。フトンを敷いて横になってもいい時間だ。就寝は、曜日にかかわらず21時。これは、寝なければいけない時間。これ以降、起きていてはいけない。
 食事は歯ごたえのあるものは、ほとんどなく、柔らかいものがほとんど。長期収容者に歯の悪い人が多いせいだろう。比較的に低脂肪で、魚タンパク、練り製品が多い。野菜は煮たものが多い。ワカメ、昆布、ヒジキなど海草類は多い。
 塩分は多すぎで、デザートや果物が意外に多い。麦が1割ほど混じった米飯は、想像していたより悪くはない。よくかむと甘い。巨大なコッペパンも出る。焼き魚は、焦げていることが少なく、うまい。
 本は合計して98冊を借りて読んだ。
 著者は詐欺罪で起訴されました。ところが、被害者とされた北欧(ノルウェー)の大学の代表者が法廷で詐欺にはあっていないと証言したにもかかわらず、有罪(懲役3年、執行猶予4年)となりました。研究費を私的流用したという点を検察官は立証できなかったのに・・・。
 ところが、著者は控訴しなかったのです。控訴してもムダだと判断したわけです。
 その理由の一つに、札幌高裁には、有罪を乱発するので有名な裁判官がいて、その裁判官が担当する可能性が高いということがあげられています。なるほど、たしかに、そういうことも、現実には考慮されていることです。控訴したあげく執行猶予どころではなく、実刑になっては大変ですからね。だけど、司法って、そんなにあてにならないものであっていいのでしょうか・・・。
 そして、真実追究とか名誉回復とか悔しいという気持ちより、残された人生を本来やりたいことにつかったほうがよほどいいと判断したというのです。
 なるほど、それも一つの決断だと弁護士生活35年の私も思いました。私の体験でも、司法は、それほど、あてになる存在ではありません。勇気のない裁判官(もっとも、本人はあまりそのような自覚はありません)が、それほど多いのです。
(2007年10月刊。533円+税)

戦争格差社会アメリカ

カテゴリー:アメリカ

著者:田城 明、出版社:岩波書店
 テロとの戦争のもとで、アメリカに今なにが起こっているのか、ヒロシマ記者が歩く。そんなタイトルのついた本です。いやあ、ホントに、日本がアメリカのような国になったら大変だと、つくづく思わせる本です。
 2001年9月11日のテロ事件から5年たったアメリカにおいて、現場で救助活動にあたった人のなかに、その後遺症に悩む人々がいかに多いか。マイケル・ムーア監督の映画『シッコ』にあるとおりです。
 9.11テロの直後、被災者の救援活動にあたった人々の大半に呼吸器疾患がみられる。ぜん息、のどや胸部の痛み、頭痛、全身の倦怠感。PTSDも見逃せない。
 現在、WTC崩壊現場で働いた人たちによる、障害者年金や労働補償を求める訴訟が 8000件にのぼる。
 アメリカから危険人物と一方的に認定されて国外追放された人は、2005年だけでも10万人にのぼる。
 アメリカの退役軍人省は、全米で20万人のホームレスがいると推定している。男性のホームレスの3人に1人は、退役軍人だ。年間では、40万人の退役軍人が1日以上ホームレスの状態を体験している。退役軍人のホームレスのうち、ベトナム戦争関係が45%ともっとも多く、湾岸戦争、イラク・アフガニスタン戦争の関係者も10%はいる。
 イラクへの派遣を拒否して軍法会議にかけられた兵士が10人いて、うち2人は服役中。イラク派遣を避けてカナダに移った兵士が200人。イラク戦争が始まって、無許可の隊離脱者は6400人。
 アメリカでの軍隊勧誘は、貧困層の若者をターゲットにしている。
 アメリカでは、ベトナム戦争中の1973年に徴兵制が廃止された。志願制になったが、その勧誘の標的は圧倒的に貧困層だ。軍人を勧誘する年間のリクルート予算は40億ドル(4800億円)。
 メディアとして、イラク戦争に加担したことへの反省も、ニューヨーク・タイムズなどを除いて、ほとんどない。
 新聞もテレビも寡占化がすすみ、多様な意見が反映しにくくなっている。利益優先主義がジャーナリズムの質を低下させている。
 イラク戦争にアメリカは3780億ドル(45兆3600億円)をつかっている。追加予算が承認されたら、4560億ドル(54兆7200億円)に達する。これはアメリカの納税者1人あたり1500ドル(18万円)になる。1時間あたり1150ドル(13億8000万円)、1日だと2億7500万ドル(330億円)の出費となる。
 気狂いじみたアメリカのイラク戦争遂行状況がよく分かる本です。こんな国に追随するなんて、日本をますます不幸にしてしまうだけですよね。
(2007年11月刊。1900円+税)

アレクサンドル?世暗殺(下巻)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者:エドワード・ラジンスキー、出版社:NHK出版
 1866年の暗殺未遂のあと、学生紛争に参加した若者たちの多くが、退学処分となった。彼らはたいてい裕福な家庭の出だったから、ロシアの大学を追われた者たちは外国に留学した。
 マルクスは、喜んで彼らに「いろは」から説明した。マルクス以後の哲学は、すべて世界を説明するだけのものだった。マルクスの哲学は世界を変えなければならないというものだ。だが、ロシアはまだ早すぎると厳しく釘を刺した。ロシアにはまだプロレタリアがいないからだ。バクーニンは、ロシアにおける革命の希望をロシアの国民性、圧政者と貴族に対する農民の憎悪においた。地主であり、地主の子孫であるバクーニンは、地主たちが首を吊され、その屋敷が焼かれたステンカ・ラージとプガチョフの乱を楽しそうに想起した。
 マルクスは頭のばかでかい浅黒いユダヤ人であるのに対して、エンゲルスは頭が非常に小さくて、背の高い、亜麻色の髪のアーリア人だった。そして資本家で金持ちのエンゲルスが、天才で反資本主義の闘士であるマルクスの面倒をみていた。
 1868年から翌年にかけて、首都ペテルブルグで学生紛争の新しい波が起こった。ちょうど100年後の1968年6月から東京でも学生紛争が起きました。私は大学2年生のときに体験しました。『清冽の炎』(花伝社)は、そのときの東京大学の様子が詳細に描かれています。
 ナロードニキは、プ・ナロードと叫んで、人民の中へ入っていった。ところが、人民は、想像もできないほど汚い住居と服、非常に不健康で貧しい食事のなかで生活していた。これは動物の生活なのか、それとも人間の生活なのか、疑問を発せずにはいられない。ナロードニキたちは、愛する民衆との交流に耐えきれず、次々に農村を離れていった。4000人のナロードニキが逮捕された。38人が発狂し、44人が獄死し、12人が自殺した。1877年、193人のナロードニキが現体制の転覆を謀って組織をつくったという容疑で裁判にかけられた。その弁護人として、ロシアの花形弁護士が全員集合した。ロシアのインテリに名を知られた35人の優秀な弁護士たちがナロードニキを弁護した。
 判決は、28人に懲役労働、75人に刑罰の宣告、90人が無罪となって、うち80人が流刑された。この迫害は、民衆の中へ入るという平和的な考えを死滅させた。ナロードニキは危険な変貌をとげた。
 ロシア皇帝を暗殺するため、宮殿の地下にダイナマイトが持ちこまれた。鉄道爆破が失敗したあとのことだ。皇帝と息子たちが宮殿内の「黄色の食堂」に入ろうとしたとき、突然、ただならぬ轟音がして足元の床が盛り上がり始めた。もしも床が固い花崗岩でなかったなら、食堂はすべて吹き飛ばされ、皇帝一家は全滅しただろう。
 もし、悪漢どもが皇帝の宮殿にさえ爆弾を仕掛けることができるのなら、どこに安心と安全を求めたらいいのか・・・。
 ペテルブルグは前代未聞のパニックに襲われた。ドストエフスキーの住むアパートの隣にバランニコフが住んでいた。憲兵隊司令官暗殺の共犯者であり、お召し列車爆破事件に参加したテロリスト「人民の意志」一味の一人だった。
 1880年10月、逮捕された「人民の意志」党員たちの「16人裁判」が行われた。うち5人が死刑判決となった。
 アレクサンドル皇帝は3人を減刑し、2人を絞首刑とした。久しぶりの死刑だった。世間の人々は暗殺事件と死刑を忘れていたのに、久しぶりに思い出させられた。
 皇帝を暗殺しようとするグループは、皇帝の外出を常時見張る監視班をつくった。その結果、日曜日に通るコースはいつも同じことが判明した。
 テロリストたちは、皇帝を殺しさえすれば、民衆の反乱が始まると信じていた。彼らの偏執的な願望は、皇帝を暗殺して、革命を起こすことだった。
 1881年3月1日。午後2時15分。アレクサンドル2世が馬車に乗ってすすんでいると、小柄な男が白いハンカチに包まれた爆弾を投げつけた。皇帝は無事で、その男はすぐに捕まえられた。皇帝は、すぐに現場を立ち去ろうとせず、むしろ、現場を見ようと歩いて戻ろうとしたところ、運河の柵のそばにいた若者が皇帝の足元に物を投げつけた。皇帝も周囲を囲んでいた将校たちも、全員いっせいに倒れた。
 出血多量で衰弱した皇帝を運ぶのを手伝った者の中に、3人目の暗殺者がいた。彼は脇の下に書類鞄を抱えていた。これも爆弾だった。彼は前の2人が失敗したときの暗殺者だった。
 ロシアのアレクサンドル2世皇帝が暗殺されるまでのロシア社会の実情、そして暗殺者たちのことがよく分かります。これほど皇帝暗殺に執念を燃やす集団がいて、それを受けいれる素地がロシア社会に会ったことを初めて知り、驚いてしまいました。先日のパキスタンのブット元首相の暗殺も知りたいと思ったことです。
(2007年9月刊。2300円+税)

自動車爆弾の歴史

カテゴリー:アメリカ

著者:マイク・デイヴィス、出版社:河出書房新社
 怖ーい本です。読んでいると、ゾクゾク寒気を覚えます。でも、これが世界の現実なんだからと、自分に言い聞かせて最後まで読み通しました。核攻撃も怖いですけど、自動車爆弾、それも自爆攻撃にあったら、とても防ぎようがないことが、この本を読むと、よく分かります。結局のところ、暴力による報復の連鎖を早く止めるしかないのです。日本国憲法9条2項の意義は、今日ますます高まっていると改めて思いました。
 初めての自動車爆弾は、1920年9月、アメリカのウォールストリート街で起きた。サッコとヴァンゼッティが無実の罪で処刑されたあと、復讐心に燃えるイタリア系移民のアナーキストであるマリオ・ブダが荷馬車に積んだ爆破物と鉄の散弾を爆発させた。ウォールストリートは史上初めて株式取引を中止した。ブダは、1800年のパリでナポレオンを殺しかけた荷馬車の装置にヒントを得ていたと思われる。
 アメリカの占領するイラクでは、2003年7月から2005年6月にかけて、乗物爆弾によって9000人以上の負傷者(そのほとんどが民間人)を生んだ。2005年秋には月あたり140件。2006年の1月1日だけでバクダットで13件起きた。
 平凡な交通手段と見分けのつかない武器による攻撃にさらされて、行政金融の中心機構が安全地帯に撤退していった。自動車爆弾には、7つの特徴がある。
 第1に、驚くべき威力と効率的な破壊力をもつ隠密(ステルス)兵器だ。
 第2に、自動車爆弾は、非常にけたたましい。宣伝効果が抜群である。
 第3に、自動車爆弾は非常に安くつく。盗難車と500ドルの化学肥料と海賊版電子部品だけで、4〜50人を殺せる。アメリカの用いる巡航ミサイルは1発100万ドルするが、アメリカのオクラホマシティでビルを破壊して168人を殺したとき、5000ドルもかからなかった。
 第4に、自動車爆弾は作戦として組織するのが容易だ。
 第5に、自動車爆弾は、本質的に無差別である。自動車爆弾は主義主張の倫理的信頼を失墜させ、大衆的支持基盤を失わせるようにも作用する。自動車爆弾は、純真無垢な爆破要員を必ず見捨てる、根っからのファシスト的武器である。
 第6に、自動車爆弾は、非常に匿名的で、科学捜査にひっかかる証拠をほとんど残さない。
 第7に、自動車爆弾のもたらした最大の驚くべき衝撃は、現代政治の辺境にいる担い手たちに市民権を与えたこと。
 ベトナムに対するアメリカの侵略戦争、いわゆるベトナム戦争のとき、ベトナム解放民族戦線(アメリカの呼ぶベトコン)は、サイゴン(今のホーチミン市)にいるアメリカ軍への攻撃を何回となく仕掛けた。それは、きわめて洗練されたパルチザン組織であった。些細なことに異常にこだわり、徹底的に予行演習し、秒刻みで実行に移され、実行後に延々と吟味された。その組織には、地図作製者、カメラマン、解体作業専門家、独自の融資部門、通信交通部門、腕時計を時限爆弾の点火装置に改造する専門まであった。
 ベトナムの次に、イギリス(アイルランド)で、そして、中東で自動車爆弾がつかわれます。1983年4月、レバノンのベイルートにあるアメリカ大使館前で、907キロもの爆薬を積んだトラックが爆発した。これによって、ベイルートのCIA支局の6人全員が殺された。
 1983年10月23日の日曜日、5443キロもの高性能爆発物を積んでいたトラックがアメリカ海兵隊宿舎の1階に激突して爆発した。241人のアメリカ海兵隊員が死亡した。1945年の硫黄島以来、1日で最大の人的損失だった。
 ほとんどの自爆テロリストは、実は、外国による占領という屈辱に対して反撥した地元の愛国者である。社会的にはみ出し者であったり、触法精神障害者あるいは、常態的な社会的敗者であるというのは少ない。むしろ、まったく逆の経歴を有している。心理学的に正常で、所属共同体で標準的な経済的見通しをもっていて、社会的ネットワークに深く結合し、自らの民族的共同体へ情緒的に帰属している。彼らは、自らの生を国家的善のために犠牲にすると理解している。つまり、自爆テロとは、主として外国による占領に対するひとつの返答なのである。
 イギリスには何千ものカメラのネットワークがある。しかし、巧みに計画され、上手に偽装された乗物爆弾攻撃から巨大な首都を守る手段としては、ほとんど役に立たない。監視カメラでは防げないのですよね。私も、そうだと思います。
 近くの山の中腹に古いお寺があり、臥龍梅で有名です。日曜日に散歩がてら見に行きました。まだ三分咲きでした。なぜか例年とちがって、まったく花芽のついていない枝が目立ちました。今年は一休みなのでしょうか・・・。大晦日に除夜の鐘を撞きに行ったのは、つい昨日のように思いますが、あれからもう二ヶ月もたってしまいました。本当に月日のたつのははやいものです。
 いま、わが家の庭には水仙のほか、可憐なクロッカス、あでやかなアネモネの花が咲いています。陽も長くなり、春はもうすぐです。
(2007年11月刊。2600円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.