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2007年5月 の投稿

タヌキのひとり

カテゴリー:生物

著者:竹田津 実、出版社:新潮社
 面白く、やがて悲しき物語です。森の獣医さんの診療所便りというサブ・タイトルがついています。すさまじいまでの苦労話を読むと、野生動物とつきあうのがいかに大変なことか、ノミに喰われたかゆみ・痛さとともに伝わってきます。でも、写真だけを眺めていると、カッワユーイと、つい叫んでしまいそうです。
 森に帰らなかった一人っ子タヌキの「ひとり」。子どもを連れて里帰りしたキタキツネの娘、集団入院したモモンガ、溺れたカモ・・・。いろんな森の動物たちが登場します。
 今日も森の診療所は大忙し!
 これはオビの文句です。しかも、まだまだ登場するんです。ノネズミは愛娘の布団のなかで圧死してしまいました。キツツキは朝5時なると診療所の窓ガラスを叩きます。エサくれ、とねだっているのです。野ネコ(野良猫とは違います)は、キタキツネとナワバリをめぐって熾烈な戦いをくり広げます。
 獣医師は、助けた患者から感謝されることのない職業。それどころか、助けた患者からありがたいお礼参りで、何度も痛い目にあわされる。ひゃあーっ、損な役回りなんですね。でも、それを承知でこの仕事を続けているのですから、ホント、偉いものです。森の中にリハビリセンター小屋まで建てたというわけで、すごいすごい。
 モモンガは空を飛ぶ。でもその前に、人間はモモンガのノミにやられてしまう。痒さとしつこさはたまらない。読むだけで背筋がゾクゾクしてきました。お風呂に入ると、身体のビミョーな部分ほどたまらなくかきむしってしまうというのですから、おっとっと、近寄りたくありません。それでも、飛べないモモンガをリンゴでつって飛行訓練させているところの写真なんか、つい痒みを忘れて私もしてみたくなります。
 カモのヒナが水に溺れて、本当に死んでしまった。実はカモは水に浮かない。浮くには条件がある。カモのヒナが水に浮くのは、ひとつは体を覆う綿毛といわれる羽毛が静電気を帯びていること、もうひとつは羽毛に油脂がぬられていて、それが水をはじき、結果として水面に浮く。さらに、カモのヒナは親鳥の翼の中に出入りをくり返す。このふれあい、こすりあいの摩擦によって静電気が生じる。では、親鳥がいなかったらどうするか。絹製の風呂敷のなかにカモのヒナを入れて、上下・左右にふりまわす。油脂を体中にぬりこむ作業のほうは、お手本もなく大変だった。それでも、ちゃんと空を飛べるようになって仲間と一緒に渡り鳥になっていくのです。
 うーん、素晴らしい写真ばかりで、たんのうしました。

真説・阿部一族

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:升本喜年、出版社:新人物往来社
 森鴎外の『阿部一族』は読みましたが、もう何十年も前のことですので、『五重塔』は最近再読しましたから記憶に新しいのですが、ちっとも覚えていません。ただ、同じ肥後藩士の阿部一族に襲いかかった苛酷な運命を描いたというので読んでみました。武士の世界も大変なんだとつくづく思いました。山田洋次監督の武士三部作映画「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」「武士の一分」を思い出します。ああ無情という感じです。
 時代は江戸時代初期。寛永14年(1637年)、島原の乱が始まった。肥後熊本藩の細川軍は攻撃軍のなかで最大の損失を蒙った。戦死者270人あまり、戦傷者1800人。
 阿部一族の当主、阿部弥一右衛門は、豊前国宇佐に土着し、勢力をはる豪族だった。細川忠利の父・細川忠興が慶長5年、豊前の領主に封じられた。領内の土豪たちの強大な存在をみて、逆利用することにした。
 その後、細川忠利は肥後に封じられ、阿部も一緒に豊前から移った。このとき知行100石(すぐ300石)の武士となった。肥後は、秀吉でさえ「難治の国」といったほどの大国である。幕府は忠利の肥後入国にあたり、小倉城から武具や玉薬の一切を持ち出すことを許しただけでなく、大阪城から石火矢3、大筒10、小筒1000、玉薬2万を出した。肥後は「一揆どころ」といわれるほど一揆の多い国として知られた。惣庄屋だけでも100人以上いる。土豪あがりのほか、大友、小西、加藤の遺臣もいる。細川氏に反発し、簡単に心を評するとは思われない。そこを忠利は治めた。阿部も力を尽くした。
 その殿様・忠利が病死した。その直前、殉死を禁ずると言い渡していた。だから、阿部も殉死する気はなかった。それに忠利の子・光尚は殉死を禁じた。
 忠利亡きあと、阿部のように忠利に眼をかけられて取立られていた者と細川藩譜代の者たちの対立が目立ってきた。ところが、忠利は実力第一主義で、実力のある者なら、家柄や血統などに関係なく眼をかけ、思い切って仕事をやらせ、大胆な抜擢も断行するし、十分の待遇も惜しまない。多少、性格に欠陥があったり、悪い前歴が多少あったりす者でも、能力があり、ひたむきに働く者であれば、その者を認め、眼をかけた。反面、肩書きだけで実力のない者や積極性のない者は極端に無視し、冷遇した。だから、無視された方には、嫉妬と怨念が蓄積する。反動が来るのも当然だ。
 阿部弥一右衛門が忠利の遺訓を守って切腹しないことに対して、怨みをもつ者たちが嘲笑しはじめた。「卑怯者」「臆病者」「あれは百姓だ」と・・・。さすがの弥一右衛門も耐えきれない。
 光尚は熊本城に初登城したその日に、弥一右衛門が殉死したとの報告を受けた。なんたること、言語道断。家臣としてあるまじきこと。怒りを抑えきれない。
 殉死者19人の相続人全員が登城して、相続を許された御礼を光尚に言上した。跡式相続が内定してから、もう二ヶ月目に入っているが、このお目見えがあって、はじめて相続の正式決定となる慣わしだ。阿部権兵衛は、このとき、相続人代表として言わずもがなのことを光尚に申し立てた。
 光尚の下で権勢を誇る林外記にとって、今や阿部一族は邪魔者としかうつらない。これをたたきつぶせば、他の者への見せしめになる。ついに阿部一族みな殺しが決まった。討手総数17人が選ばれた。
 夜明け前からの討ち入りが終わったのは午後3時過ぎ。阿部一族全員が殺された。その討ち入りの凄惨な情景が活写されています。映画でも見ているような感じです。
 ところが、まもなく光利が31歳の若さで倒れた。阿部一族が誅伐されて6年目のこと。林外記は無用の邪魔者となった。そして、早朝、四人組に襲われて、林外記は討ち果たされてしまった。
 阿部一族の忠実をふまえた小説です。なかなか迫力がありました。因果はめぐるという話になっています。森鴎外の小説は忠実と違うところがあるという指摘もあります。

軍産複合体のアメリカ

カテゴリー:アメリカ

著者:宮田 律、出版社:青灯社
 ブッシュ大統領の一族は、軍産複合体の出身である。ブッシュ大統領の曾祖父のサミュエル・ブッシュはオハイオ州の企業であるバッキー・スティール・キャスティングス社を経営していたが、この会社は兵器を製造していた。1917年にワシントンに移り、連邦軍事産業委員会の小型武器・弾薬・兵站部門のメンバーとなった。サミュエル・ブッシュは、アメリカの軍産複合体の創設に深く関わった人物だった。また、ブッシュ大統領の祖父にあたるプレスコット・ブッシュもアメリカの兵器製造を行う企業に関与していた。
 ロッキード・マーティン社がアメリカで最大の軍需産業である。従業員16万5000人という巨大企業だ。1998年の国防総省からの受注額は123億ドルでトップ。第二位はボーイング社の108億ドル。ロッキード・マーティン社は世界最大の軍需産業で、核兵器や弾道ミサイル防衛の分野が主要な企業活動の分野である。2000年には国防総省から150億ドルの契約を得た。さらにエネルギー省から核兵器の開発のために20億ドルの予算を獲得している。
 冷戦が終わっても、アメリカ政府が「ならず者国家」「イスラムの脅威」「悪の枢軸」など、「敵の脅威」を強調するのは、軍需産業の価値の低下を恐れるからである。アメリカは、経済構造自体が戦争によって支えられているといっても過言ではない。だから、アメリカは常に「次の敵」を探すことに躍起となっている。
 アメリカの軍需産業は、9.11のテロによって多大の恩恵を受けた。その株価が9.11以降、上昇したことにも示されている。巨大な軍需産業のほかに「テロとの戦い」で利益を上げたのは民間の警備会社である。警備会社は、国防総省と関わりをもち、また退役軍人たちが主導的役割を果たし、アメリカの同盟国の軍隊に対する訓練や警察官の養成を行っている。
 MPRIは、警備会社の代表的なものであるが、世界中の軍隊の訓練を行い、また、国防総省と契約している。MPRIは元陸軍参謀長のカール・ヴォノによって設立された会社で、20人の元軍幹部が取締役になっている。9.11のあと、このMPRIを所有する会社の株は2倍にはねあがった。
 ベクテル社は、イラク復興で最大の恩恵を受けた企業である。戦後18ヶ月間に、6億8000万ドルの契約を確保した。
 チェイニー副大統領がCEOをつとめたことがあるハリバートンは2004年に、その株価が3000%も上昇した。ハリバートンはブッシュ政権によるイラク占領と復興事業で数十億ドルの利益をあげた。
 アメリカの政府高官が軍産複合体の幹部になることは、アメリカ政府と軍産複合体の癒着ぶりを如実に示している。
 アメリカのテロ戦争開始後の軍事費の増加で潤ったのは、ロッキード・マーティン、グラマン、レイセオン、ボーイングといった巨大軍事産業である。
 増額された軍事費は、アフガニスタンでの戦争につかわれたというよりも、新鋭の
F/A−18E、F−22戦闘機、現在は消滅したソ連の潜水艦を追跡する目的で計画されたヴァージニア級の潜水艦、トライデントD5潜水艦発射型の弾道ミサイルの購入に用いられた。これらの兵器が対テロ戦争とは何の関係もないことは明らかである。
 アメリカの軍需産業は、農業に次いで多額の政府補助金を受けとっている産業である。そして、アメリカ製武器は世界各地に売却され、アメリカ製武器の購入国10位以内に中東の5ヶ国が入っている。エジプト、クウェート、サウジアラビア、オマーン、イスラエルである。
 1976年以来、イスラエルはアメリカの経済的・軍事的援助の最大の受領国となり、2003年までに受けた援助総額は1400億ドルにもなった。イスラエルは毎年30億ドルの援助をアメリカから得ているが、それはアメリカの対外援助総額の5分の1を占める。このイスラエルは、アメリカからの経済援助の25%をその国防産業に投資している。イスラエルの労働力の5分の1は軍事関連の産業に雇用されている。イスラエルからイランへの武器売却額は毎年5億ドルから8億ドルであった。
 中東は世界でもっとも武器を輸入している地域である。1950年から1999年までのあいだ、アメリカの武器売却先の38%が中東諸国であった。
 2005年のアメリカの軍事費支出額は世界全体の48%、1兆1180億ドルだった。
 アメリカが軍事力を行使しようとしたとき、私たちは戦争で巨利を得る軍産複合体の存在を想起し、戦争に対して疑義や反対の声を上げ、アメリカの戦争の不合理さを説いていかなければならない。
 著者は最後にこのように強調しています。まったく同感です。資料にもとづく説得力ある明快な論理に思わず拍手を送ってしまいました。日本がアメリカに引きずられると、とんでもないことになってしまいます。クワバラ、クワバラです。

吉本興業の正体

カテゴリー:社会

著者:増田晶文、出版社:草思社
 吉本は、これから世に出ようという芸人に対して差別しないし、贔屓(ひいき)もしない。放任の姿勢を貫き、努めて平等に扱う。だが、そこに輝くものを見つけたときから、事情が異なってくる。
 芸人は際立った個性を持つうえ、感情の塊のような商品だ。毒を吐き、社会的規範から逸脱してしまうことさえある。こんな扱いにくい商品は他にあるまい。
 吉本は芸人に対して、ときに強面ぶりを発揮し、あるいはネコ撫で声で懐柔しながら、結局は己が掌の中で彼らをマネージメントしてきた。しかも、吉本は一人の才能、一組の人気を最大限に発揮させながらも、決してそれだけに依存しない。
 主力商品の寿命が尽きた日に会社も終焉を迎えるという愚を吉本は絶対に踏まなかった。芸人は商品であり、商品はあくまでも取り替え可能でなければいけない。それを裏で支えているのが、広大で柵の低い放牧地なのだ。
 吉本の強みは層の厚みにある。どの芸人も人気者がコケるのを待っている。そいつがコケたら、すぐに自分の出番があることを自覚している。実際、そのとおりになる。
 吉本興業は2006年3月期に、過去最高の462億円を達成した。
 吉本には過去数回のピークがある。戦前、すでに吉本は東京を制圧し、日本一の吉本を一度実現していた。お笑いの世界への本格復帰は昭和30年代半ばからのこと。うめだ、なんば、京都に三つの花月劇場を構え、勃興したばかりのテレビと蜜月関係を結び、ラジオの深夜放送を聴く若者たちにアピールすることで躍進の糸口をつかんだ。
 吉本は若手を大胆に起用した。仁鶴、やすきよ、三枝、月亭可朝らは吉本の四天王といわれた。戦後30年以上かけて、吉本は上方お笑い界のトップ・プロダクションの座に返り咲いた。1980年に巻きおこったマンザイブームによって、吉本はまた頂点を経験した。このマンザイブームにより、吉本はまた頂点を経験した。このマンザイブームは短命に終わったが、さんま、紳介、ダウンタウンらを先兵として東京制圧を狙った。1990年代にその地盤づくりが完了し、2000年に念願の全国区化を果たした。
 大阪のオモロイ子と、東京のおかしな子では、レベルが違う。大阪の子は親元から通ったり、大学を落ちたから芸人にでもなろか、という手合いがけっこういる。その点、こと危機感という側面だけでいうと、東京の生徒たちは必死だ。故郷を出て一人住まいをして、なんとしてもお笑いの世界でビッグになってやろうという野心をもった生徒が多い。
 大阪は芸人、とくに漫才師の宝庫だ。しかし、戦後からずっと、大阪で生まれた笑いは大阪でしか消費されていない。ところが、吉本は、大阪弁を笑いの標準語に仕立てた。日本の言語史上、これほどまで大阪弁が市民権を得た時代はない。
 1982年、吉本は芸人の養成学校をNSC(吉本総合芸能学院)を開設した。ピーク時には2000人が応募。今でも500〜800人が願書を出す。入学金は10万円で、月謝2万5000円。1年分の学費は合計40万円。面接で、よほど不適当とみなされない限り、ほぼ全員が合格する。
 現実は厳しい。卒業生のなかからプロとしてやっていけるのは、一期あたり4〜5組程度。お笑いの世界でトップクラスになるのは、東大に入ってエリート官僚になるよりも、よほど難しい。ただ、吉本にとって、NSCができたことで、大量の芸人予備軍を手にすることができた。全員がスターになれるわけもないが、いずれにせよ分母が大きい方が、売れっ子を含む確率は高くなる。
 しかし、吉本のすごいところは、タレントの層の厚さより、むしろマネージャーのパワー。彼らは、局におまかせ、仕事下さい、なんて絶対に言わない。どうやって売り出すか、どんな企画がいいか、この番組をステップに次はどう展開するか。本来ならテレビ局側の領域にどんどん足を踏みこんでくる。
 マネージメントという名目の人身売買、社会的良識など通じないアウトローの芸人どもにムチを入れる猛獣づかい。要するに、テキヤ稼業の巨大化したものが吉本興業である。 そんな吉本が一部上場企業になり、経団連にまで入っている。まあ、日本の経済界の本質は、良くも悪くもそこにあるというべきなんでしょうね。
 20年以上も前、大阪に出張したとき、ひまつぶしにナンバ花月劇場に一度だけ入ったことがあります。若い男女で満員、私にはとてもついていけない乱暴なギャグで爆笑の連続でした。早々に退散してしまいました。私はテレビと無縁の生活をずっとしていますので、歌の世界と同じく、お笑いの世界にもトントふれることがないのですが、活字を通して知る芸能界のすさまじさには声も出ません。
 福岡のお濠端で若者二人が芸の練習をしている場面をたまに見かけることがあります。どの世界でも、トップにのしあがるのは大変なんだと、この本を読みながら、お濠端の若者の真剣な稽古姿を思い出しました。

からだのままに

カテゴリー:社会

著者:南木佳士、出版社:文藝春秋
 著者はパニック障害を17年前に発病(38歳のとき)、やがてうつ病に移行した内科医です。
 自分の判断で人の命が左右されてしまう日常はあまりに重すぎる。
 元気だったころ、小説を書き上げたあとで、寝しなに前から読みたかった本を開くのは至福のときだった。掛け布団から出た顔の上に本の世界が広がり、言葉の海を泳いでいくと、思いがけず遠くまで行けそうな気分になり、その場所はゆめの世界に引き継がれたりした。そういう平凡な幸せの時間は、失ってみて初めてその貴重さに気づかされる。
 私にとっては日曜日の昼下がり、昼食のあとのコーヒータイムで本を読みふけるのが至福のときですね。だから、なるべく明るくて見晴らしのいいお店に入りたいのです。ところが、一人で入れるゆっくりできる喫茶店を見つけるのに苦労します。
 他者の死に立ち会う回数が増えてくるにつれて、人が死ぬ、というあまりにも冷徹な事実の重さに押しつぶされてしまいそうで、このつらい想いを身のうちに抱えては生きてゆけないと明確に意識し、自己開示の手段として小説を選んだ。
 実は、私も高校一年生の終わりまで医学部志望でした。高校三年生まで、ずっと理系クラスにいたのです。でも、二年生に上がる前の春休みに自己診断したのです。数学がちっともひらめかないじゃないか。これじゃあダメだ。それで見切りをつけて文系、そして法学部へ転身したのです。いま、医者にならずに本当に良かったと思います。毎日毎日、人の死に直面して過ごすなんて、耐えられません。私の知っている医師は、だから自宅に帰ると、テレビの馬鹿馬鹿しいお笑い番組を見て腹の底から笑っている。そうやって精神のバランスをとるんだ、そう語っていました。なるほど、ですね。テレビを見ない私は、下らないテレビを見ないでも精神のバランスを保持できているというわけです。それだけでも弁護士という職業につけて良かったと考えています。
 著者のペンネームである南木の由来が次のように紹介されています。
 祖母のような地に足の着いた暮らしを営む人たちの生き様を描く作家になりたかったから、ペンネームを南木とした。南木山とは、嬬恋村の浅間山麓一帯をさす地元の人たちの呼び名だ。
 著者の執筆は休日の早朝のみ。まだ暗いうちにいそいそと起きだす。レンジで、牛乳を温め、それを飲みながら「勉強部屋」のパソコンに向かう。書かれた言葉が次の世界の入り口となり、そこに見えてくるものを記述すると、また異なった視点に立てる。こういう非日常の感覚がおもしろくて小説を書き続けてきた。
 なるほど、非日常の感覚が面白いというわけなんですね。私は、まだその境地には達していません。
 書いた死亡診断書が300枚をこえたあたりから、見送る者であった自分の背に死の気配がべったりと貼りつき、他者に起こることは必ずおまえにも起こるのだ、と脅迫してきた。すると、存在していることがたまらなく不安になり、明日を楽観できなくなった。
 小説を書き始めたのは、医師になって2年目あたりで、人の死を扱うこの仕事のとんでもない「あぶなさ」に気づいたからだった。危険を外部に分散するために書いていたつもりだったが、それは内に向かって毒を濃縮する剣呑な作業でもあったのだ。
 医者になりたてのころ、死は完璧に他者のものであり、こちらはたまたま臨終の場面に立ち会わねばらなぬ職業についたまでで、やがては慣れるだろうとたかをくくっていた。中年にさしかかると、日々慣れたはずの死が、じつは自分の背後にそっと迫っているのを知り、慄然とした。他者に起こることは、すべてわたしにもおこりえるのだと肌身にしみた。本当の大人になるとは、こういう大事を知ってしまうことなのだろうから、わたしは厄年のあたりでようやく成人したことになる。それからは、自分が存在することそのものが不安で、夜も眠れなくなり、結果として病棟の担当を降りねばならないほど心身を病んだ。
 医師としての本質的な苦労・悩みが惻々と伝わってきます。
 著者の本が映画化された「阿弥陀堂だより」は本当にいい映画でした。機会があればぜひまた見たいと思います。四季折々の風景の移り変わりは、思わず息を呑むほど素晴らしく、生きてて良かったと大画に引きずりこまれながら、つい思ったことでした。

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