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2007年4月 の投稿

杉野押花美術館コレクション〜パステルの風〜

カテゴリー:未分類

著者:杉野俊幸、出版社:杉野押花美術館
 炭都・大牟田にも美術館があったんですね。炭都といっても、三池炭鉱はとっくに消えてなくなりました。早いもので閉山から10年たっています。三井は中央資本だけに、すべてが東京志向であり、地元には美術館も博物館も何も残しませんでした。
 そんな大牟田に美術館が出来ていることを知っても、あまり訪れる気はありませんでした。ましてや押花というと、なんだか、しおれた花の地味でくすんだ色あいしか連想できなかったからです。でも、まあ、ものはためし、だまされたと思って入ってみました。
 なんと入場無料なんです。しかも、小ぢんまりした木造りの美術館にかかっている押花が、どれもこれも生き生きしています。しおれて、くすんだ押花なんかじゃありません。うれしいことに、一つ一つの作品に手書きで作者の思いを語る文章がついてます。読んでいると、なんだか心のあたたまるほのぼのとした気分になります。
 私は群馬にある星野富弘美術館にも行ったことがあります。とても素晴らしい美術館でした。そこでも、一つ一つの絵に作者の思いが手書きされていて、絵を見て文章を読んで、生きる元気をもらったみたいにいい気分に浸ることができました。それと、まるで同じ気分です。
 タダで全部みてまわり、申し訳ない思いから、この本を購入しました。「美しい桃の花」というタイトルの押花があります。そのコメントを紹介します。
 「私の気に入った作品です。ピンクの花と黒い枝とバックの青色が協奏している。協奏は音楽での言葉であるが、絵画では響き合いと言うのであろうか」
 淡いブルーのパステルがを背景にピンクピンクした桃の花が春らしいあでやかさを競うように一面に咲いた作品です。まったくくすんだところはありません。
 いったいどうやってこんな作品をつくるのだろうと不思議な気持ちになります。そして巻末にその解答編があるのです。
 バックはパステルを塗るのです。パステルの持ち方、塗り方まで写真つきで解説されています。色と色を混ぜて、新しい色をつくり出します。そして、その上に押し花を置いてみて、花や葉が美しく見える色を発見し、その色で描くのです。
 押し花教室もあるといいます。
 私は、美術館で押花作品を見終わって、隣の喫茶コーナーに入りました。1階で手づくりパンやベーコンのくん製などを買い、2階に上がりました。ちいさいけれど見晴らしのいい部屋があります。カウンターに腰をおろし、ロイヤルミルクティーをゆっくり味わいました。なかなかうまい味です。
 よく晴れあがった春うららかな日曜日の昼下がり、至福のひとときでした。水曜日は休館です。

ITとカースト

カテゴリー:アジア

著者:伊藤洋一、出版社:日本経済新聞出版社
 インド・成長の秘密と苦悩。こんなサブ・タイトルがついています。
 インドの離婚率は1%。えーっ、ウソでしょ・・・。インドの結婚は、お見合いの比率が高く、80%に近い。インドでは結婚が神聖視されていて、未婚の男女に対する管理はとても厳しく、結婚前の男女関係は非常に保守的。結婚相手は基本的に親が決める。だから、ラブ・レターという言葉はインド社会では否定されている。
 えーっ、そうなんですかー・・・。インド映画を見て、なんだか恋愛至上主義のような気がしていたのですが、まったくの誤解だったようです。
 インドでは結婚後の浮気も、事実上不可能だという。たとえば、インド人の男女がホテルに泊まるときには、身分証明書を呈示して夫婦であることを立証しなければならない。
 ヒンズー教では、生きている間はカーストで身分も職業も変えられない。しかし、現在のカーストでの人生の結果によっては、次の生など、来世で高いカーストに上がることができる。つまり現世の身分の低さは、最初からあきらめ、死後に希望がもてる仕組み。現在のカーストは過去の生の結果であるから、今の置かれている環境を受け入れて、人生を生きるべきだ。こうなる。
 選挙のとき、現世で大地主に奉仕すれば、来世では良いカーストに生まれ変わると、今でも多くの人が信じている。これって、支配者にはものすごく都合のいいものですよね。
 父親と母親とが違うカーストから出ている場合を含めて、誰がどの階級にいるのかと決めつけるのは実に難しい。
 カースト以下の人々は一般にアンタッチャブルと呼ばれる。その人々は自分ではダリットと呼ぶ。ダリットとは、壊された民という意味で、2億人いる。
 インドの最大の財閥はパルシーと呼ばれる。タダ・グループはパルシーのなかのグループ。パルシーとは、ヒンズー語で、プルシャという意味。
 シーク教徒は、全人口の2%しか占めないが、インドでは、その存在感は大きい。
 ヒンズー教徒は頭にターバンなど巻かないが、シーク教徒は頭髪やヒゲをそらない掟をもつため、ターバンを頭に巻く。シーク教はイスラム教の影響を受けてヒンズー教を改宗した宗教であり、カースト制を否定し、人間の平等を強く訴える教えをもつ。軍人や政界にシーク教徒は多いが、ビジネス・交通運輸の分野でも存在感は大きい。
 インドはあれだけの人口(11億人)をかかえていながらオリンピックでほとんどメダルをとっていない。インドは個人競技に弱い。
 たとえインド最下層の階級出身であっても、今までカースト制度では分類のなかった ITの分野には挑戦できる仕組みができあがっている。
 アメリカにはインド系の人々が240万人いる。25歳以上のインド系の67%が大学卒以上の学歴を有し、世帯収入の平均は6万7000ドル。
 インドでIT事業がすすんでいるのは、アメリカとの時差が12時間ほどあることもプラスしている。アメリカ人が寝ている間にコンピューターへのデータ入力や処理ができたら、朝までにアメリカに情報をふまえたアドバイスができるだろう。
 インドのIT系新卒者は、日本人技術者の3分の1の給料で働いている。
 インドって、ホント不思議な大国です。

労働弁護士の事件ノート

カテゴリー:社会

著者:東京法律事務所、出版社:青木書店
 会社の経営が苦しくなってきたことを理由として人員整理がはじまり、労働者が解雇されることがあります。そのとき、その解雇に客観的に合理的な理由があり、社会通念上相当といえるためには、次の整理解雇の4要件をみたす必要があります。これは、一応、確立した判例になっています。
 ? 人員削減の必要性があること
 ? 解雇を回避する努力を尽くしたこと
 ? 解雇される対象者の選定に合理性があること
 ? 解雇手続きが相当であること
 これらの要件をみたしていないときには、その解雇は権利濫用として無効となります。
 ある事件では、会社が解雇通告した同じ月に、次年度に20人の新規雇用を計画していることを、その解雇対象者がインターネットで見つけて、それが決定打となって解雇は無効となった。企業は、投資家への情報開示のために労働者には見せない財務情報をホームページに堂々と公開していることがある。なーるほど、こういう手もあったのですね。
 「辞めろ、会社を。お前、いらん。迷惑かけてまで。どういう親や、顔も見たくない。辞表もってこい、辞表を」
 「会社の都合を考えていないだろう。そんな考えだったらいらんちゅうの。辞めてくれや、言うの。お前に払っている給料で2人雇えるんだからな。明日から会社に来んでもええで」
 これは損保会社で40代半ばの支店長が、50代前半の労働者を辞めさせようとして罵倒したときの言葉です。罵倒された労働者は録音テープを隠し持っていました。これが解雇無効につながりました。時と場合によって、相手の承諾なしでとった録音テープでも、裁判の証拠となりうるのです。
 この事件では勝利的和解が成立し、解雇された労働者は職場に復帰することができました。逆に、さんざん罵倒していた支店長のほうが退職してしまいました。
 労働者派遣が大流行しています。職場にいろんな種類の労働者がいて、団結することもできない労働条件のもとで、本当に生産効率は上がっているのでしょうか。私には疑問です。
 労働者派遣とは、派遣元である事業主と、労働契約を締結している者が、派遣元事業主との間で労働者派遣契約を締結した派遣先事業主の指揮命令にしたがって派遣先の事業場で就労する働き方のこと。派遣社員は、雇用する事業主と、指揮命令する事業主とが違うところに特徴がある。
 業務委託とは、一定の業務処理の委託を受けて、その業務を遂行し、それに対する報酬が支払われる働き方をいう。
 業務請負は、一定の仕事の完成を約束して、その仕事の完成に対して報酬が支払われる働き方をいう。委託も請負も、仕事の方法について指揮命令を受けないで業務を処理するのが建前。たとえば、請負では、仕事をする人は、注文主の指揮命令は受けず、求められるのは仕事の完成という結果のみ。
 首都圏青年ユニオン(労組)では、派遣労働者を組織して団体交渉を行った場合、派遣元企業から解雇を撤回させて復職させ、新しい派遣先を紹介させる、新しい派遣先が決まるまでの給料は派遣元企業が支払う、という内容で解決している例がある。
 さすがに労働事件専門の弁護士をたくさんかかえた東京の法律事務所がつくった本です。いろいろ大変勉強になりました。福岡では労働裁判は激減したままの状況です。

ザ・取材

カテゴリー:社会

著者:関口孝夫、出版社:華雪舎
 日本共産党の機関誌である赤旗編集局長をつとめたベテラン記者が新米記者を前に語った講話が本になりました。さすが数々のスクープをものにした敏腕記者の話だけに、ついつい耳を傾けさせるものがあります。
 戦後の日本の利権史に名を残す政治家の双璧は、河野一郎(河野洋平の父)と田中角栄だ。河野一郎は農林大臣として国有林処分に、田中角栄は大蔵大臣として国有地処分にそれぞれ辣腕を振るった。60年代、田中角栄が国有地処分で得た利権はざっと100億円と見積もられ、これを小佐野賢治と2人で折半したという「通説」があった。田中角栄が大蔵大臣のときの国有地払い下げは群を抜いていた。
 田中角栄は鳥屋野潟の湖底地を買い占めた。その総面積は98ヘクタール。そのうちの干田化した13ヘクタールを、政治力で新潟県・市に買い値の2倍で売りつけた。これは買収総面積に相当する額だった。だから、残った湖底地85ヘクタールはただで手に入れたも同然。ところが、上越新幹線の開通で、その湖底地は新幹線駅前に位置するため、地価は一気に150億円へと高騰した。これを取材してまわったのです。
 著者に会うのを渋ったキーマンを取材したとき、著者はキーマンに次のように言った。
 「きょうは話を聞きに来たのではなく、私の話を聞いてもらいたいと思って来た。この問題については私なりに調べ、輪郭をとらえているつもりだ。ただ、この問題の真相をはじめて世に問うことになるだけに、活字にするにあたっては正確を期したいし、大げさな言い方をすれば歴史への責任もある。立場があるというのなら、私がしゃべる調査結果を聞いて、不正確なところを指摘してくれるだけでもいい」
 さすがにこのように前置きされると、そのキーマンは、「そこは違う」「そう、そのとおり」と合いの手をいれはじめ、ついには、「ワタシが直接しゃべったということでなければ、書いてもいい。真相はこうなんだ」と語り出した。
 田中角栄にしてやられた。あいつの方が一枚も二枚も上手だった。これがキーマンの弁だったというのです。さすが、すごい取材力ですね。
 警察の手がける汚職事件は、地方政界の市長、せいぜい地方議員、地方公務員規模の贈収賄事件どまりが相場。高級公務員がらみの事件は皆無ではないが、あくまで例外。
 警察の汚職捜査は、どちらかというと上に伸びず、下に伸びる傾向にある。
 警察庁長官などをつとめた警察官僚が次々と自民党の国会議員に転身する光景に象徴されるように、自民党の一党支配が長期にわたった下で、日本の警察組織が長年にわたり政権与党へ形づくってきた組織と人脈構造癒着の産物である。いいかえれば、支配する政治勢力にもっとも左右されやすい番犬のような組織ともいえる。なーるほど、ですね。
 新聞記者の心得。
○ 拾ってきたものを何もかも原稿用紙の上にぶちまけようとするな。何を拾うかではなく、何を捨てるか、だ。
○ 前文に力を注げ。ここに全体の3分の2の精力を注ぎこめ。そこで苦しめば、後は楽だ。前文の中に、整理記者が見出しに拾いたくなるような珠玉のことばを入れろ。
○ 120行以内で意を尽くせる記事しろ。それがスピード時代の読者の一読判断の基準だ。それを1時間で書きあげろ。
○ 筆がすすまないのは事実が少ないからだ。事実の薄さを修飾語や形容詞でごまかそうとするな。
○ 一つの記事に同じ表現を2度つかうな。文語調のもったいぶった表現はつかうな。接続詞はいらない。記事が短文の積み重ねだ。
 体験にもとづく、なかなか含蓄ふかい講話でした。弁護士にとっても、現場に足を運んだうえで準備書面を書くのは大切なことです。読む人への説得力が格段に違います。

ミカドの外交儀礼

カテゴリー:日本史(明治)

著者:中山和芳、出版社:朝日新聞社
 明治天皇が外国人に会ったときの状況を紹介した本です。なかなか興味深いものがあります。
 明治天皇は、元服のとき(1868年1月15日)、童服を脱ぎ、冠をつけ、お歯黒をつけた。男がお歯黒をつけるなんて、聞いたことがありませんでした。気色悪いですよね。
 天皇が外国人に初めて会ったときには、それに反対する者が多くて、大変だったようです。当時は、多くの日本人が外国人を異人と称して、「人間と少し違った種類で、禽獣半分、人間半分」であるかのように考えていた。天皇が外国公使と握手するなんてとんでもない。そんなわけで、それは実行されなかった。なーるほど、ですね。
 フランス公使と会見したときの明治天皇の容姿は次のように描かれた。
 14か15歳の若者だった。眉毛が剃られ、その代わりに額の真ん中に筆でなぞり画きされて、これがその顔を長めに見せさせていた。歯は既婚女性のように黒い漆で染められていた。
 1869年(明治2年)、イギリスのヴィクトリア女王の二男・エジンバラ公が来日したとき、天皇が会見するかどうか政府部内でもめた。結局、会見することになった。ところが、天皇が会見する場から少し離れたところで、神官が清めの儀式を行った。イングランドからついてきたかもしれない悪霊を追い払うためのものだ。アメリカ代理公使のポートマンがそれを知ってアメリカ大統領へ報告書を書いて送った。外国人の物笑いの種になったことを知り、さすがに、この清めの儀式はその後はされなくなった。
 1871年(明治4年)に、オーストリアの元外交官が天皇に謁見した。そのときのことを元外交官ヒューブナーは次のように書いている。
 天皇は20歳だが30歳のように見えた。鼻は大きくて少しぺしゃんこ。顔色は青白いが、目は生き生きと光り輝いている。目は行儀良く、きょろきょろとはしない。江戸の町中でしばしば出会う顔と同じだ。
 天皇は1871年(明治4年)、牛乳を飲み始めた。また、「肉食の禁」をやめ、牛肉や羊肉を常食とするようになった。
 天皇は1872年(明治5年)6月に初めて一般の人々の前に洋服を着て姿を現した。
 1873年(明治6年)3月、天皇はかき眉とお歯黒をやめ、さらに突然、断髪した。
 天皇は写真が嫌いで、写真をとらせなかった。それで、お雇い外国人キョソーネが隣室から天皇をスケッチし、それにもとづいて肖像画を描いた。
 1883年(明治16年)、2階建ての様式建築「鹿鳴館」が完成した。この鹿鳴館で、日本人が熱心に舞踏に励んだ。しかし、外国人は、日本人の努力を笑っていた。
 皇后が洋装するためにドイツに注文した大礼服は13万円もした。鹿鳴館の総工費が18万円であるのに比べても大変高い。ちなみに総理大臣の年俸は1万円、他の大臣は  6000円だった。
 1889年(明治22年)2月11日に、憲法発布式典が挙行され、このときの祝賀パレードで、天皇と皇后が初めて同じ馬車に乗った。
 そんな様子を東京府民が見るのは初めてのこと。皇后も天皇と結婚したことによって天皇と同じ社会的地位に引き上げられたことを天皇自身が認めたということ。それまで、天皇は、玉座が皇后の座と同じ高さにあるということをどうしても納得できなかった。
 明治天皇の実像の一端をよく知ることができました。

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