著者:松下志朗、出版社:南方新社
著者はあえて薩摩藩と呼ばず、鹿児島藩としています。鹿児島・島津家の所領は薩摩・大隅・日向の3ヶ国にまたがっていたからです。
そして、そもそも藩という呼称が行政上のものとして歴史に登場してくるのは、徳川幕府の大政奉還のあと、明治になってからのことなのです。
江戸幕府が藩の公称を採用したことは一度もなく、旗本領は知行所といい、1万石以上の大名の所領は領分と公称されていました。うむむ、さすが学者ですね。厳密です。
それはともかく、本書では領内の百姓の生活が史料にもとづいて紹介されています。
文化3年に志布志に近い井崎田村の門百姓たち11人が、志布志浦から船に乗って上方見物に出かけ、伊勢神宮に参拝して帰ってきた記録が残っている。98日間もの物見遊山を当時の農民たちはするほど生活のゆとりがあった。
江戸時代の農民がかなり自由に旅行をしていたことは、今ではかなり明らかになっています。当の本人たちが日記を残しているのです。日本人って、昔も今も本当に記録好きの人が多いのですよね。かくいう私も、その一人です。
鹿児島藩には、責任者としての名頭(みょうとう)がいて、その下に、名子(なご)がいました。
農民は、役人が勝手に新田を開発したと考えたときには、実力でその新田をうちこわすという過激な実力行動をすることがありました。これも百姓一揆の一種なのでしょうね。
飢饉のために貧農が飢えているときに藩ができないときには、村内の有徳者(豪農)に救済を依存していた。
隠れ切支丹ではなく、隠れ一向宗の門徒が藩内に大量にいた。村によっては900人近く、村民の8割が一向宗門徒だったところもあった。これだけ多いと藩当局は門徒全員を処罰することも出来ず、代表者を見せしめ的に切腹させて終わらせていた。
藩内で菜種栽培が盛んとなり、菜種油をめぐって商人が活躍するようになった。商業活動が盛んになると、当局へ訴訟が起こされ、また窮乏し欠落する農民が頻発するようになった。日本人は昔から裁判沙汰を嫌っていたのではありません。あれは明治中期以降の政府にによる誤った裁判抑制策にもとづく嘘に踊らされているだけなのです。
また、鹿児島藩は積極的な唐通事優遇策をとっていた。唐通事は漂着した唐船を長崎に回送するときの通訳の役目を担う人々のことで、数十人もいた。うち2、3人を長崎へ留学させていた。唐通事として功績をあげると、門百姓の子が郷士へ上昇することができた。
江戸時代の農民の生活の一端を知ることのできる本です。
2007年2月2日


