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2007年2月 の投稿

鹿児島藩の民衆と生活

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:松下志朗、出版社:南方新社
 著者はあえて薩摩藩と呼ばず、鹿児島藩としています。鹿児島・島津家の所領は薩摩・大隅・日向の3ヶ国にまたがっていたからです。
 そして、そもそも藩という呼称が行政上のものとして歴史に登場してくるのは、徳川幕府の大政奉還のあと、明治になってからのことなのです。
 江戸幕府が藩の公称を採用したことは一度もなく、旗本領は知行所といい、1万石以上の大名の所領は領分と公称されていました。うむむ、さすが学者ですね。厳密です。
 それはともかく、本書では領内の百姓の生活が史料にもとづいて紹介されています。
 文化3年に志布志に近い井崎田村の門百姓たち11人が、志布志浦から船に乗って上方見物に出かけ、伊勢神宮に参拝して帰ってきた記録が残っている。98日間もの物見遊山を当時の農民たちはするほど生活のゆとりがあった。
 江戸時代の農民がかなり自由に旅行をしていたことは、今ではかなり明らかになっています。当の本人たちが日記を残しているのです。日本人って、昔も今も本当に記録好きの人が多いのですよね。かくいう私も、その一人です。
 鹿児島藩には、責任者としての名頭(みょうとう)がいて、その下に、名子(なご)がいました。
 農民は、役人が勝手に新田を開発したと考えたときには、実力でその新田をうちこわすという過激な実力行動をすることがありました。これも百姓一揆の一種なのでしょうね。
 飢饉のために貧農が飢えているときに藩ができないときには、村内の有徳者(豪農)に救済を依存していた。
 隠れ切支丹ではなく、隠れ一向宗の門徒が藩内に大量にいた。村によっては900人近く、村民の8割が一向宗門徒だったところもあった。これだけ多いと藩当局は門徒全員を処罰することも出来ず、代表者を見せしめ的に切腹させて終わらせていた。
 藩内で菜種栽培が盛んとなり、菜種油をめぐって商人が活躍するようになった。商業活動が盛んになると、当局へ訴訟が起こされ、また窮乏し欠落する農民が頻発するようになった。日本人は昔から裁判沙汰を嫌っていたのではありません。あれは明治中期以降の政府にによる誤った裁判抑制策にもとづく嘘に踊らされているだけなのです。
 また、鹿児島藩は積極的な唐通事優遇策をとっていた。唐通事は漂着した唐船を長崎に回送するときの通訳の役目を担う人々のことで、数十人もいた。うち2、3人を長崎へ留学させていた。唐通事として功績をあげると、門百姓の子が郷士へ上昇することができた。
 江戸時代の農民の生活の一端を知ることのできる本です。

ケータイの未来

カテゴリー:社会

著者:夏野 剛、出版社:ダイヤモンド社
 おサイフケータイをカギとして利用する分譲マンションが福岡市にある。カギとして利用するほか、電子メールをつかった合鍵新規発行、帰宅をメールで知らせる解錠通知、カギのかけ忘れを確認する、入退室履歴を参照する、などなどができるすぐれものだ。
 先日の新聞に日本のケータイ・メーカーは中国市場から撤退したとのことです。欧米のメーカーに負けてしまったのです。ところが、日本のケータイは世界のなかで抜群に質が高いというのです。機能や商品としての完成度が格段に違うそうです。それでも欧米のメーカーに安さで負けてしまいました。世の中、むずかしいですね。この原因は日本人のプレゼン能力のなさだけではないでしょう・・・。
 おサイフケータイは、クレジット産業との一層の提携を考えているようです。月1万円以下ならドコモが与信する。そのほか、20万円以上のクレジット・カードとも結びつける。
 ドコモは5兆円、KDDIが3兆円、ボーダフォンも1兆5千億円。日本のケータイ事業者は、いずれも1兆円企業。3社あわせて10兆円近い売上げがありながら、経済界のリーダーにはなりえていない。
 私のケータイが目覚ましにもつかえるというのを最近知りました。そして、この本によると、人間の耳には音として聞こえないけれど、不快な音でない目覚ましの役目を果たす音域のものが開発されているそうです。すごーい・・・。
 先日、FAXをケータイに送ることができるということも聞きました。インターネットと結びついたIモード・ショックによってケータイの進歩はとどまるところを知りません。でも、ケータイでテレビを見たり、本を読んだりって、本当に必要なのでしょうか。私もケータイは持っていますが、カバンのなかにしまい忘れたり、一日一回もつかわなかったりという程度でしかありません。公衆電話が町になくなってしまったので、ないと困るのです。
 クライエントに私のケータイ番号を教えることもしていません。たまに突然呼び出し音が鳴るので出てみると、間違い電話だということがよくあります。

憲法は政府に対する命令である

カテゴリー:社会

著者:ダグラス・ラミス、出版社:平凡社
 日弁連会館で著者の講演を初めて聞きました。まさに目が洗われる思いがしました。著者は日本語ペラペラのアメリカ人です。津田塾大学で20年間、政治学を教えていました。退職後の現在は、沖縄に住んでいます。1960年にも海兵隊員として沖縄に駐留していました。1936年の生まれです。
 著者は、日本国憲法が押しつけ憲法であることを否定するべきではないと主張します。
 憲法とは、そもそも押しつけるものである。なぜなら、憲法は政府の権力・権限を制限するものだから。民衆が立ち上がって、政府の絶対権力を奪取し、それを制度化するために憲法を制定するというのが世界各地で起きたこと。
 だから、問題は押しつけ憲法かどうか、なのではない。誰が、誰に、何を押しつけたのか、ということである。なーるほど、そういうことなんですよね・・・。
 日本を占領・支配したGHQが憲法草案をつくって日本政府に渡したとき、ホイットニーは、日本政府がすぐに案を日本の民衆に公開しなければ、GHQが公開するぞ、と脅した。GHQは、日本の民衆が必ず憲法草案を支持するという自信があった。そして、その予測は当たった。日本の民衆は日本政府への新憲法の押しつけに参加したのである。
 ところが、半年もたたずして、GHQのほうは日本の民衆を共産主義勢力ないし、そうなりやすい人々として敵意と恐怖心をもって見はじめた。そして、憲法施行してまもなくから後悔していた。
 いま、憲法9条、とりわけ9条2項が問題となっている。交戦権とは、兵士が人を殺す権利である。侵略権なるものは、現在の国際法のもとでは、そもそも存在しない。
 交戦権とは、侵略戦争をする権利ではなく、戦争自体をする根本的な権利である。交戦権は、兵士が戦場で人を殺しても殺人犯にはならないという特権だ。それは兵士個人の権利ではなく、国家の権利である。
 国家とは、正当暴力を独占(しようと)する社会組織である。
 自然権としての自衛権は、生きものに限って当てはまる。国家は生物でもなく、自然には存在しない人為的な組織である。したがって、国家が自然権の持ち主であるわけではない。自然権としての自衛権は国ではなく民衆が持っている。
 日米安保条約によって、アメリカ政府が日本国の主権の一部をアメリカへ持って帰った。日本の外交政策の基本を決める権利はアメリカ政府が握っている。
 著者は講演のなかで、日本の平和運動が安保条約反対を唱えることが少なく(小さく)なったことを不思議がっていました。なるほど、そう言われたら、たしかにそうですね。
 日本の首都にたくさんの米軍基地があり、沖縄は基地の中に点々と町があって、日本人が住んでいるといった感じです。世界で何か紛争が起きるたびに、日本政府はアメリカ政府の指令のままに動く意志なきロボットの存在でしかありません。
 世界中の笑われ者が日本という国です。そんな国が国連の安保常任理事国をめざすというのですから、ちゃんちゃらおかしいですよ。お金があれば、国連のポストだって買えると日本の支配層は錯覚しているのでしょうね。馬鹿げた話です。
 日本の自衛隊は、軍隊の組織を持ち、軍服を着て、軍事訓練を受け、戦争のための武器をもっている。しかし、肝心の軍事行動はまったく出来ない。わけのわからない組織だ。これは歴史の産物である。これは、日本政府と日本民衆の平和勢力との矛盾なのである。しかし、このような矛盾した状況ではあるが、憲法ができてから現在までの60年間、日本の交戦権の下で、一人の人間も殺されたことはない、という事実がある。すなわち、一見すると死んだように見える憲法9条は、すっとこどっこい生きているということだ。
 大変わかりやすく、日本国憲法がいかに今の世の中に必要なものか、アメリカ人が日本語で語った本です。一読を強くおすすめします。

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