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2006年12月 の投稿

西海の天主堂路

カテゴリー:未分類

著者:井手道雄、出版社:新風舎
 久留米にある大きな病院の理事長兼病院長として活躍してこられた著者は、病を得て 2004年7月に亡くなられました。この本は、著者が生前書きためていた天主堂めぐりの紀行文を、その妻が整理して単行本にしたものです。長崎、佐賀、熊本など、九州西北部にあるキリスト教の教会を歴訪し、写真つきで紹介されています。旅行記としても、またキリスト教の歴史についても貴重な読みものとなっています。
 長崎県に生月島がある。いま生月島のカトリック信者は250人。ところが、ほかに1000人ほどの隠れキリシタンが今もいる。キリスト教から次第に土俗化し、先祖が信仰してきた教えを守り続けているだけなのだろう。キリシタンの暦は守っても、祈る内容には現世利益を願う意向が強い。自らを古(ふる)キリシタン、旧キリシタン、納戸神と称した。五島列島では、元帳や古帳ともいう。
 同じく長崎県の馬渡島にも隠れキリシタンがいた。葬儀のときは、仏式の葬儀のあと、見張りを立てて改めてキリシタン式の葬儀を行った。また、祈りや集会などのときにも、番人を立てて常に見張り、警戒を怠らなかった。
 唐津藩のほうでも潜伏キリシタンであるとはうすうす気づいていたが、僻地ではあるし、検挙すると逆に宗門改め不行き届きで幕府より咎められるので、知らぬふりをしていた。潜伏キリシタンの島民は宗門改めの絵踏みのときには拒まず、島に戻って神に謝罪の祈りを捧げていた。
 五島列島にも多くの潜伏キリシタンがいた。五島藩は、江戸時代には藩の経済上の問題もあって、見て見ぬふりをしていた。しかし、幕末から明治初期には、長崎の「浦上四番崩れ」と同じように、五島各地で「五島崩れ」と呼ばれる激しいキリシタン弾圧が繰り返された。
 明治元年のキリシタン人別調べのとき、多くの潜伏キリシタンが堂々と信仰宣言をした。200人以上もの人々が飢えと寒さのなかで拷問を受けた。
 久賀(ひさか)島の潜伏キリシタンは、190人も捕まり拷問を受けている。そのうち72人が20歳以下であり、10歳以下も45人いる。1歳の幼児までいた。
 福江島では、今でも町の野外放送で教会のお知らせが放送されている。ここでは、日常生活が教会を中心に動いている。
 実は、五島は32年前に私が弁護士になったとき、日教組への刑事弾圧事件が起きて弁護人として派遣された思い出の地です。弁護士になってすぐのことで、まだ弁護士バッジも届いていませんでした。警察へ面会に行くときにバッジは不可欠ですので、先輩弁護士のバッジを借りて出かけました。中学校の体育館に日教組の組合員が200人ほど集まっているところで挨拶させられました。まったく経験もなく、労働法も刑事訴訟法もよく分かっていない弁護士ホヤホヤの私でしたから、今考えても冷や汗一斗の思い出です。ともかく、お魚の美味しかったことだけはよく覚えています。
 この本を読んで最大の驚きは、久留米の大刀洗町今村に多くの潜伏キリシタンがいたということです。大刀洗というと、なにしろ筑後平野のド真ん中ですので、長崎のような離れ小島とは違います。
 16世紀公判から17世紀初めにかけて、福岡県南部の筑後地方つまり、久留米、柳川、今村、秋月、甘木に多くのキリシタンがいた。もっとも教会堂が多かったときには、久留米に二つ、柳川は一つ、今村に一つ、秋月に二つ、甘木に一つの教会堂があった。
 1605年(慶長10年)には、久留米から秋月に至る地方に8000人のキリシタンがいた。いまの筑後地方のカトリック信者の総数は2900人でしかない。当時のキリシタンがいかに隆盛であったか、よく分かる。
 今村の潜伏キリシタンは、仏教とを装いながら、祈りや教会暦を正しく継承し、純粋にキリシタン信仰を保ってきた。
 なーるほど、そういう歴史があったのですね。きっと、これも筑後藩大一揆の一つの要因となっていたのでしょうね。人民、おそるべし、です。

藤沢周平未刊行初期短編

カテゴリー:未分類

著者:藤沢周平、出版社:文藝春秋
 藤沢周平が作家としてデビューする前、昭和37年(1962年)から39年(1964年)まで「読切劇場」など。月刊誌に短編時代小説を書いていたのが発掘されました。藤沢周平は36歳、娘が生まれ前妻が死亡するころの小説です。
 そのころの心境を、藤沢周平は知人への手紙に次のように書きました。
 人生には、思いもかけないことがあるものです。予想も出来ないところから不意を衝かれ、徹頭徹尾叩かれて、負けて、まだ呆然とその跡を眺めているところです。・・・
 悲しみに打ちひしがれ、自殺もできない状況のなかで、藤沢周平は執筆活動をすすめていきました。藤沢周平が新人賞を獲得したのは、それから7年後の昭和46年(1971年)春のことです。
 この本で紹介される短編小説は、なるほど同じ作家の手になるものだけあって、登場人物と時代背景の描き方は、やはり藤沢周平の小説という気がします。ただ、なんとなくまだ荒削りの感もしましたが・・・。しっとり感がまだ少し薄い気がします。
 先日、山田洋次監督の映画「武士の一分」を見ました。藤沢周平原作の映画化三部作の完結篇です。江戸時代の藩政治の不合理のなかでも、夫婦愛に生きる下級武士の生きざまがよく描かれていると思いました。涙もろい私などは、ついつい涙腺が閉まらず、困りました。それなりに観客は映画館に入っていましたが、興行的に成功するのかどうか危ぶまれます。みなさんも、ホームシアターではなく、ぜひ映画館に足を運んで、大きなスクリーンで暗いなか、じっくり映像を見入ってくださいね。
 庄内の方言の柔らかさ、優しさもいいですね。福岡弁も悪くはないと思うのですが、胸にゆっくり泌みこんでくるような庄内言葉は、聞く者の胸のうちをほんわかした気分に浸らせてくれます。
 12月半ば、11月に受けた仏検(一級)の結果を知らせるハガキが届きました。もちろん不合格です。問題は得点です。合格基準点98年のところ、69点でした。あと30点も足りません。120点満点で、やっと5割に達したところです。8割以上とらないと合格しないというハードルは、今の私にとってあまりに高いものがあります。
 実は、自己採点では、なんと75点をつけていました。6点もサバを読んでいたわけです。これまでは、1点か2点くらいの差しかなかったのですが、ついつい自分に甘く見てしまったようです。反省、反省と念じてしまいました。
 この12月に58歳になりました。えーっ、そんなに生きてきたの・・・、という感じです。20歳になったのが、ついこのあいだ。弁護士になったのは昨日のように思えるのに、いつのまにやら弁護士生活も32年たちました。大局的な直感はかなり冴えてきたと本人は思っているのですが、具体的な法律条文とその解釈については、ますます心もとない限りです。いつも身近にいる若手弁護士に教えを乞っている有り様です。

お世継ぎのつくり方

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著者:鈴木理生、出版社:筑摩書房
 江戸時代、徳川幕府が250年間も続いた理由は、
 男子の名義による相続
 その男子の母親の出身や身分は問わない
 すべての武士に適用される
 以上は、逆にいうと、一般的には女子にも男子と同じ相続権があったこと、むしろ女子優先だったことを意味している。「農工商」では、女子相続が主流だった。
 庶民は、武家とは正反対に、女子の誕生を待ち望んでいた。
 10世紀から江戸時代まで、男を選ぶのは、女とその家族というより氏族全体の意向だった。男はタネを提供するだけで、その男のタネからできた子は成人するまで、女の家が育てた。女持ちの氏族が、その男に似合う適齢の女を「投資」して、権力財力を維持していた。いわば、「男買い」「男への投機」のようなものだった。
 商家の場合は、当主といえば婿養子が常識であり、家付きの妻には頭があがらなかった。
 江戸時代の女性は、物見遊山・芝居・信心などを口実として、男性を「囲ったり」、陰間(かげま)茶屋に通ったり、女性グループでの観光旅行などでも性的享楽を大いに愉しんでいた。江戸では、性の欲望を処理できた場所は、男は吉原一ヶ所に限られていたが、
女は七場所も認められていた。
 家付きの妻は、性生活に不満があれば、七場所をはじめとして、自分用の寮に男を呼ぶのも自由だった。働きのいい女が、好みの男を自宅に飼っておく風潮は普通のこと。
 そうだったんですかー・・・。開いた口がふさがりませんでした。日本の女性は、昔から強かったんですよね。私は弁護士をしていて、つくづくそう思います。もちろん、弱い女性もいることは認めますが・・・。

宇宙を読む

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著者:谷口義明、出版社:中公新書
 久しぶりに宇宙の本を読みました。この夏は、なぜかベランダに出て月の世界を眺めることが少なかったのです。暑かった割には曇天の夜が多かったのではないでしょうか。望遠鏡で月世界の運河をしばし眺めていると、俗世の憂さを忘れることができます。これは真夏の夜の寝る前の楽しみです。冬を迎えた今はベランダに出るなんて、とんでもありません。ところが、オリオン座など、冬空のほうが星はきれいに見えるんですよね。もう、あと一月もしないうちに除夜の鐘をつきに近くのお寺に出かけます。小一時間ほど山の中腹で空を眺めながら鐘衝きの順番待ちをします。寒い中、焚火にあたりながら星々を見上げます。
 満月の明るさは一等星の26万倍もある。つまり、一等星が26万個も集まらないと満月の明るさには届かない。上弦の月でもその明るさは一等星の2万倍もある。ちなみに、太陽は一等星の明るさの1000億倍。これは満月の40万倍の明るさに相当する。
 星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星。すこしをかし。尾だにながらましかば、まいて・・・。
 これは清少納言の「枕草子」の有名な一節です。私の名前「昴」を「すばる」と読めない人も多いのですが、この「昴」(すばる)は、日本書紀にも出てくる古い言葉なのですよ。
 すばるは、肉眼で見える星は6個だけだが、実は数百個もの星が集まっている。散開星団と呼ばれている。 
 七夕の織女星は見かけの等級は、一等星よりゼロ等星に近い明るさ。しかし、もし織女星が太陽と同じ距離にあったとすると、織女星は表面温度が1万Kと高く(太陽は6000K)、光度は太陽の1万倍もある。これでは、まぶしいどころではなく、人類は生命の危機に遭遇する事態を迎える。
 太陽の表面の温度は6000K。黒点の部分の温度は4000K。そのため、周辺部に比べて暗くなり、黒く見える。
 先日、星野村にある天文台で昼間、太陽と黒点を見る機会がありました。天文台に行くと、真昼間でも星が見えるのですよ。ご存知でしたか。
 私たちの住む地球、そして太陽系をふくむ天の川銀河は、差し渡し10万光年もある巨大な銀河であり、そこには1000億〜2000億個もの星々が存在している。しかし、天の川銀河は、宇宙にたくさんある銀河の一つでしかない。
 果たして、私たちの地球以外にも高度な文明をもつ星と惑星は存在するのでしょうか。
 宇宙全体の質量のうち、陽子や中性子などのバリオンが占める割合はたったの4%でしかない。残る32%はダークマターで、73%はダークエネルギーとなっている。では、このダークマターとかダークエネルギーとは、いったい何者なのか。実は、まだ解明されていない、正体不明の存在である。
 宇宙を撮影した写真は、これまた、この世のものとは思えないほどの美しさです。世界が未知なるものに充ち満ちていること、人間なんて、実にちっぽけな存在であることを実感させられる本です。やっぱり、たまには宇宙の本をひもとくべきだと反省した次第です。

ルビコン

カテゴリー:未分類

著者:トム・ホランド、出版社:中央公論新社
 賽(さい)は投げられた。
 一か八か、運を天に任せる気になって、ようやくカエサルは軍団兵に全身命令を下した。
 有名なルビコン川は、幅は狭いし、取り立てて特徴もなく、今では正確な場所すら分からない。しかし、このルビコンは正真正銘の境界線だ。これを越えたカエサルは、昔から守られてきたローマの自由を葬り、その残骸の上に君主制を打ち立てた。これは自由と専制、混乱と秩序、共和制と貴族制、ルビコン川を境にすべてが逆転した。このことは、ローマ帝国が滅びてからも、ローマの跡を継ぐ者たちの頭からは、いつまでたっても離れることはなかった。
 カエサルは、紀元前100年7月13日に生まれた。
 ローマ人は、生まれながらにして市民になるのではない。父親には、新生児の要不要を決め、要らない息子や娘(こちらの方が多かった)を捨ててこいと命じる権利があった。生まれたばかりのカエサルは、まずお乳をもらう前に、父親に高く持ち上げられて、この男の子は自分の子であり、ゆえにローマ人だと周りの者に示してもらった。生まれた9日目は、名前を付ける日だ。ほうきで家から悪霊を追い払い、飛んでいく鳥の様子で男の子の未来を占う。
 ローマは「赤ん坊」にあたる言葉がない。子どもを鍛え始めるのに、早すぎることはないというのが、ローマ人の常識だった。新生児は大人の体型になるよう包帯でぎゅうぎゅうに縛られ、赤ん坊らしさは力づくで矯正された。一歳の誕生日を迎えられるのは、三人に二人で、その後、思春期まで生きられるのは、その半分にも満たなかった。
 娘は、嫁いで家を出た後も父親が後見人をつとめたし、息子の方も、何歳になろうと、たとえ政務官に何度当選しようと、父親の保護下から離れることは絶対になかった。ローマの父親ほど、家長と呼ぶにふさわしい父親もいない。
 ローマでは、誰もが法律に強い関心を寄せていた。市民は、法律制度のおかげで自分たちは市民として生活でき、権利が保障されているのだと、きちんと分かっていた。
 男子は幼いころから、戦争へ行くため身体を鍛えるのと同じように、弁護士を開業できるよう一心不乱に頭も鍛えた。大人の社会では、弁護士業は、元老院議員が軍人以外に威厳を傷つけられずに行える唯一の職業だと考えられていた。法律は政治活動とは切っても切れないものであり、知らされないではすまされないもの。
 ローマには、現代の検察にあたる公的機関がなかった。起訴はすべて個人でおこなわなければならない。だから、個人的恨みを法廷に持ち込むのも朝飯前だ。被告が重大犯罪で有罪と認められたら、表向きは死刑が宣告されることになっていた。しかし、実際には、ローマには警察組織も刑務所制度もなかったので、死刑判決を受けた者は、こっそり国外に亡命することができた。身の回りの資産を没収される前に国外に持ち出せば、亡命先で裕福に暮らすことさえ可能だった。ただ、政治生命は完全に絶たれる。犯罪者は市民権を剥奪されるだけでなく、再びイタリアに一歩足を踏み入れるようなものなら、だれに殺されても文句は言えなかった。
 裁判では、どんな卑劣な策略も、どれほど悪質な暴露話もとことん非道な中傷も、勝つためなら平気だった。裁判は、選挙をもしのぐ、生死をかけた戦いだった。
 裁判はスリル満点の観戦スポーツだった。だれでも自由に傍聴できる。目の肥えた法廷ファンは、いつでも、たくさんのなかから見たい裁判を選ぶことができた。弁論家にとっては、傍聴人の入り具合が自分への評価のバロメーターになった。
 ローマ人の常識では、法律を研究するのは、弁論家の才能のない人間のすること。巧みな話術こそ、法廷での才能を測る本当の物差しだった。群衆や傍聴人を相手に、その心をつかみ、笑いや涙を誘い、お決まりのジョークでどっと沸かせたかと思えば、一同をジーンと感動させる。ときには説得し、ときにはアッと驚かせ、世の中の見方を変えさせる。こういうことができてこそ、一流の法廷弁護人と言える。だから、ローマでは、原告と俳優をどちらも同じ「アクトル」という言葉で表していた。
 ブルータス、おまえもか。
 シーザー(カエサル)の言葉は有名ですが、当時の法廷弁論術についての紹介は大変面白いものがあります。日本でも、いよいよ裁判員制度が始まります。フツーの市民から成る裁判員に対して、どれだけ分かりやすい言葉で話しかけ、理解してもらうことができるか、弁護士も検察官も、本当の力量が問われる世の中になりつつあります。

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