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2006年11月 の投稿

マネーロンダリング

カテゴリー:未分類

著者:平尾武史、出版社:講談社
 山口組五菱会系ヤミ金融グループによるマネーロンダリング事件では、100億円ものお金が規制の網をくぐり抜け、香港へ送金されていました。この本は、そのカラクリを追跡しています。
 クレディ・スイス香港の最低の預入額は 100万ドル。日本円で1億円以上ということ。行員の年間の預金獲得ノルマは9000万スイスフラン(70〜80億円)。信じられないケタです。こんな巨額の預金を集める銀行があるんですね。
 最近の新聞記事に、スイスの銀行が日本支店を開設したことが紹介されています。それは日本のリッチ層をターゲットとしている。そのターゲットとは、1人10億円以上の金融資産をもつ層だ。いや、実は50億円以上をもつ層が狙い目だ。これは、不動産を含まない資産なんです。すごいことです。
 クレディ・スイス香港の日本人顧客は200人で、預け入れ資産は2000億円。クレディ・スイス香港のプライベートバンクの顧客には、会社経営者や多額の遺産を相続した人、医師などが多い。1人のリレイションシップ・マネージャー(RM)がかかえる顧客は40人ほどで、顧客1人あたり平均10億円ほど預かっている。まるで別世界の金額ですよね。これって・・・。
 香港への送金手数料は5%。といっても、40億円送るというのですから、手数料だけで、なんと2億円になるわけです。まったく想像を絶します。
 実は、海外へ200万円以上を送金しようとすると、国外送金調書という書類が必要になる。送金する銀行が税務署へ提出する。そして、送金額が3000万円をこえると、外為法にもとづいて、送金する本人が税務署・日銀に報告することが義務づけられている。そして、窓口をクリアしても、決裁する本店の担当者が書類をチェックして怪しい金融庁へ疑わしい取引として送金の事実が報告される。金融庁が少しでも犯罪に関与すると判断した情報は、警察庁、検察庁、税関などに提供される。だから、個人が一度に10億円を送金するなどというケースは本来ならありえないこと。
 ヤミ金の帝王の住居は東京の一等地のマンション。1ヶ月の家賃が85万円もする。トップの梶山は、芝にある超高級マンションの34階に、家賃92万円の一室を借りていた。
 梶山の配下の奥野は、まだ26歳でしかないのに、ヤミ金融で35〜40億円も稼いだ。梶山は1949年うまれ。静岡の商業高校を卒業して、塗装工などをしていた。上京して、稲川会に入ってヤクザとなる。そのうちヤミ金融を始めた。その後、山口組へ転身する。
 ヤミ金の顧客リストにはアルファベットが付されている。Kは警察に通報する客、Sはお金を借りて、そのまま逃げる客(詐欺)。Bは弁護士に相談した客、Gはごねる客。
 梶山はラスベガスでVIP待遇を受けていた。いくつかランクのあるうち鯨と呼ばれる最上級のもの。特別待遇だ。
 スイスのチューリッヒにあるクレディ・スイス本店にあった梶山の51億円はすべてクレディ・スイス香港から送られていた。梶山の預金は、ほとんど現金ではなく、香港で購入したユーロやドル建ての社債、株式の形で入金されていた。
 暴力団がヤミ金でボロもうけして、そのお金を国内の規制の網をくぐり抜けてスイス銀行に少なくとも51億円を預けていたという手口をかなり暴いています。
 そして、この51億円が犯罪被害者のもとにスンナリ全額が還付されたら何も問題ないのですが、現実には、そうはなりません。私の依頼者にもヤミ金融に大金をだましとられたと訴える人は多いのですが、この梶山グループからだと判明したのは、なんとたったの1人だけでした。そうすると、残ったお金は全額国庫に没収できるのか、それとも被告人の手元に戻ってしまうのか、ということが問題になります。被害者が不明だからといってだましとった被告人の手元に戻るなんて、絶対におかしいですよね。一応の立法措置ができましたが、要は被害者が被害者だと名乗りをあげないとどうしようもないということです。そして、そのための条件整備がさらに求められています。

ベトナム戦争のアメリカ

カテゴリー:未分類

著者:白井洋子、出版社:刀水書房
 アメリカにとってのベトナム戦争がいつ始まったのかについて、第二次大戦直後の  1945年とする説がある。つまり、ベトナム戦争は30年戦争だというもの。
 1945年10月、日本の敗戦から2ヶ月後、ベトナムの植民地支配の復活を狙ったフランスの1万3000人の戦闘部隊をサイゴンまで運んだのは12隻のアメリカ商船隊だった。そして、そのフランス軍兵士たちは、アメリカの提供した近代的なアメリカ製装備で武装していた。
 1945年8月末、フランスのドゴール大統領はワシントンを訪問し、トルーマン大統領と会談した。このとき、アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対しないことをド・ゴールに約束した。この会談が、その後の30年におよぶインドシナでの戦争をもたらした。
 ホー・チ・ミンの起草したベトナム民主共和国独立宣言の冒頭には、アメリカの独立宣言とフランス革命の人権宣言の一部が引用されている。ところが、アメリカの知識層はそれを知って喜ばなかった。野蛮なアジア人が勝手に利用したことで侮辱されたと感じたのだ。うむむ、そうだったんですか・・・。
 ベトナムでのアメリカの戦争は、アメリカ国民からも「汚い戦争」と呼ばれた。それは、政府と軍部によってウソと秘密で塗り固められていたからだ。
 アメリカの情報機関は、1961年時点で南にいるベトコン1万7000人の80〜 90%は現地の人間であり、北に依存しているとは認められないとしていた。実のところ、CIA報告(1964年)はドミノ理論にしばられてはいなかった。南ベトナムの共産主義勢力の力の源は南ベトナム自体にある、としていた。
 1963年11月、ベトナムのゴ・ジン・ジェム大統領がクーデターで暗殺された。その時点でアメリカ軍はベトナムに1万6500人いたが、ジェム大統領は反米感情を隠さなかった。だから、軍部クーデターが起きたとき、アメリカは黙認した。
 その3週間後、テキサス州・ダラスでケネディ大統領もまた暗殺された。ケネディ大統領が暗殺されなかったとしても、アメリカ軍が撤退していたとは考えられない。
 1964年7月末に起きたトンキン湾事件のとき、実はアメリカ軍艦艇は隠密の偵察摘発活動に従事していた。だからアメリカ政府は事件の詳細を明らかにできなかった。
 詳細を知らされなかったことから、アメリカ国民は北ベトナムへの報復爆撃を支持し、ジョンソン大統領の支持率は、一夜にして42%から72%へと跳ね上がった。
 アメリカが北ベトナムへの爆撃を公然と開始したのは、1965年2月。南ベトナム解放戦線が南ベトナム中部にあったプレイク米軍基地を攻撃したことへの報復として北ベトナムが爆撃された。
 1965年3月、アメリカ軍海兵隊2個大隊3500人が沖縄からダナンに上陸した。
 実は、アメリカ国内では無差別で残虐な皆殺しによる先住民征服のための戦争が数限りなく繰り返されてきた。アメリカ兵にとって、ミライでの虐殺事件は、ごく通常の作戦行為でしかなかった。むしろ、あたりまえの作戦を命令され実行してきたことが、軍法会議にかけられるほどの犯罪だったと知らされたときのショックの方が大きかった。
 ベトナムに送られたアメリカ兵士たちのなかには、アメリカ本国へ帰還したあと、戦争神経症に苦しむものが続出した。アメリカ軍によるベトナム民衆への残虐行為の実態を伝えられたアメリカ社会がベトナム帰還兵に対して「赤ん坊殺し」「訓練された殺し屋」「麻薬常習者」などのレッテルを貼って冷遇したことは、帰還兵のPTSD症状をさらに複雑で深刻なものとした。
 疎外感や抑鬱、戦場の悪夢、不眠、人間関係をはじめとするあらゆる状況での忍耐心や集中力の欠如などの症状が、帰還して何年もたってから発現することが多く、しかもこれらの症状は発現して長期間続いた。ベトナムからの帰還兵300万人のうち50〜70万人がPTSD症状を抱えていた。そして、既婚者の38%が帰還後6ヶ月内に離婚した。帰還兵全員の離婚率は90%。
 帰還兵の40〜60%が恒常的な情緒適応障害をもつ。帰還兵の事故死と自殺は年に1万4000人。これは全米平均を3割以上も上まわる。5万8000人の戦死者のほか、戦後15万人以上の自殺者を出した。50万人の帰還兵が逮捕・投獄され、1990年現在で今なお10万人が服役中、20万人が仮出獄中だった。麻薬・アルコール依存症は 50〜75%。帰還兵の失業率は40%で、その25%が年収700ドル以下だった。
 帰還兵の自殺者は1993年までに2万人となった。日本の自衛隊の自殺率は一般に38.6(これは10万人あたりの自殺者数)。ところが、イラクに派遣されて帰国した7600人の自衛隊のうち既に6人が自殺している。自殺率は78.9。つまり、一般の2倍の自殺率。
 ちなみに、日本の自衛隊員の自殺者数は、2000年度73人。2001年度59人、2002年度78人、2003年度75人、2004年度94人であり、10年間で合計673人であった。さらに、アメリカ陸軍の2005年に自殺した兵士は前年より16人増えて83人。その4分の1はイラクかアフガニスタン出征中。現役兵全体に対する自殺率は12.4。
 2003年にイラク戦争が始まってから1年間にイラクより帰還したアメリカ陸軍と海兵隊の兵士22万人をアメリカ陸軍病院の医師が調査したところ、帰還兵の35%が精神疾患を訴えた。診断したところ、19.1%の兵士に精神疾患が認められた。12%がPTSDだった。調査に回答した帰還兵の半分以上が「イラクで殺されるのと同じ大きな危険を感じた」と述べ、帰還後、2411人が自殺を考えたと回答した。
 別の統計では、イラク戦争が始まってから2005年12月までにイラク国内で45人、帰還後24人の合計69人のアメリカ兵が自殺している。

石斧と十字架

カテゴリー:未分類

著者:塩田光喜、出版社:彩流社
 パプアニューギニア・インボング年代記というサブ・タイトルがついています。今から20年前に2年間、日本人民俗学者としてパプアニューギニアに滞在して見聞したことをまとめたものです。
 その後20年たって、現地はずい分と変わっているのでしょうが、20年前のパプアニューギニアのことを知ることができます。それは現代日本人の私たちにとっても決して無意味のものだとは思えません。実に偶然のことですが、私が毎週かよっているフランス語教室で、パプアニューギニアで何年間か生活した女性が自分の体験記を本にしてベストセラーになったドキュメンタリー番組を見ながら会話の練習をしました。文明人として「未開の地」の生活の実際がどんなものなのか興味をもつのは、洋の東西を問わないのです。
 誰に対しても愛想よくふる舞わねばならない。それは、たった一人、客人として異人種の中で暮らしていかねばならない、しかも人々から心を開いてもらわなければならないフィールドワーカーである私に課せられた鉄の規則の第一条だった。
 ニューギニア高地には、生き馬の目を抜く厳しい生存の法則が存在する。ぼーっとしていてはいけない。村の中にも敵がいる。善良な人々だけと考えるのは幻想にすぎない。
 インボング族の食事は2回。朝、サツマイモを食べ、夕方も焼いたサツマイモを食べる。インボング族にはお湯を沸かす習慣がなかった。土器文化の育たなかったニューギニア高地では、飲み物は常に生水だった。人は土器なしでは湯を沸かすことができない。人々は湧き水を直接のむか、竹かひさごの器に入れて飲むか、いずれにしても生水を飲むのが常だった。白人が入って30年たっても、水をわざわざ湧かして飲む者はほとんどいなかった。しかし、著者は、生水と生肉は絶対に口にしてはいけないと厳しく注意されていた。肝炎にやられるからだ。
 インボング族においては、自然死や単なる病死は存在しない。人が死ぬのは、霊魂が神々の敵に及ぼした打撃の結果である。だから、病気の治療は、病気をもたらした相手を突きとめ、それに対して、その攻撃を止めさせる手を打つことにある。インボング族には、病気をもたらした相手を探す術がいくつもあり、その結果に応じて、攻撃を止める手段がいくつかに分かれる。
 インボング族は白人がやってきて、急に貧乏な立場へ叩き落とされた。白人たちは真珠母貝をたくさんもってきて、ブタ一頭と交換した。インボング族には、誰かの命令のもとに、共同で労働するという習慣はなかった。それを白人が銃の力を背景に強制したのだ。
 怒った子どもが実の父親の眉間を狙って石を投げつけた。その詫びに1000円を父親に渡し、父親もそれを収めて納得するということがあった。贈与や互酬が社会の精神として徹底するということはそこまで行くということなのだ。互酬が社会の精神として関係を支配するところでは、一般に権威というものは発達しない。各個人を超越してその上に立つ全体なるものも、個がその中に抱かれて安らう東洋的共同体の制度理念もここにはない。全体を人格として代表する権威者は現れえないのである。このため、伝統というものは、拘束力あるものとして、個人の上に君臨しえない。そして、権威の不在は、葛藤を暴力へと発散させる絶えざる傾向をうみ出す。だから、部族間の戦争が今でも勃発する。
 暴力が、この連鎖の上を流れることを止めさせる唯一の回路が賠償という贈与行為である。賠償が無事にすまされ、今度は両当事者が互いに対する贈与の連鎖の上を進んでいくなら、友敵関係は逆転する。暴力と互酬の、この等価で無媒介な反転可能な直接こそ、ニューギニア高地社会に権威と支配の発生を排除し、緊迫した新石器的自由と平等を成立させているものである。
 ちょっと難しい表現ですが、自由は戦争をもたらすものであるようですし、また、それを「お金」で解決することもできるということのようです。
 著者は、現地に総額30万円で人類学者と宣教師とは商売敵(がたき)、もっと厳しい言葉をつかうなら、天敵の関係にあるとしています。
 ここは一夫多妻制。夫はどの妻にも満遍なく愛を注いでやるというのが建前だが、現実には、若い方の妻、よく肥えた方の妻に心を傾けがち。一人でも多くの子どもを欲しがる夫にとって、閉経した妻は魅力が薄い。
 男に甲斐性があれば、女を何人めとろうが、文句を言われる筋合いはない。女を多く持つこと、そして子どもを多く持つこと、そして子どもを多くもてばもつほど、その男の名声が上がっていくのがインボング社会の仕組みである。その男の財力と男としての勢力を雄弁に示す標(しるし)であり、ものにした女の数は男の勲章なのだ。それが、この社会で尊敬される指導者となる必要条件でもある。
 そこで、一夫一婦制を説き、一夫多妻の慣行を神の名のもとに弾劾するキリスト教の教えは、夫の愛を失った妻たちにとって強い心の支えとなってくれる。キリスト教は現世の愛、肉の愛を失った女たちを通じて、インボング族のなかにとうとうと流れこむ。キリスト教が土着化しているようです。キリストとの出会いを語る女性説教師が登場するのに驚きました。キリスト教は現地社会にしっかり根をおろしています。
 インボング族は、足跡を見ただけで、誰かを言い当てることができる。インボング族の足は少年のころから大きく発達し、それぞれに個性的だ。とりわけ親指が大きく張り出している。村の子どもたちは、たいてい裸足だ。
 なーるほど、と思った本でした。500頁もある大部な本ですが、写真もあって大変わかりやすく、最後まで面白く読みとおしました。

心臓にいい話

カテゴリー:未分類

著者:小柳 仁、出版社:新潮新書
 心臓は、自ら音を出す唯一の臓器である。私たちの意思とは無関係に、定期的に音が聞こえているような臓器はほかにない。
 心臓は、安静時で1分間に70回拍動し、1回ごとに出ていく血液は70ミリリットル。最低でも毎回10万回も収縮をくり返し、7000リットルもの血液を全身に送っている。心臓から流れ出た血液は、30秒ほどで全身をめぐって再び心臓に戻ってくる。えーっ、そんなに早く血は身体中をめぐっているんですかー・・・。
 日本では、現在、30万人がペースメーカーをつかっている。
 ニトログリセリンに血管拡張性があることが分かった。ニトログリセリンには冠状動脈を広げる効果がある。私の依頼者にもニトログリセリンを持ち歩いている人が何人もいます。舌下錠です。心臓に激痛が走ったとき、舌下に1錠入れて10〜20分で効果があります。逆に30分たってもまだ苦しくて、2錠目が必要になるかどうかで、狭心症なのか心筋梗塞に向かいつつあるのか区別できる。そうなんですかー・・・。
 心臓は許される虚血時間が短い。4時間しかもたない。4時間のうちに血流を再開して、真っ赤な血を流してやらなければ、その心臓は蘇生しない。これに対して、肝臓は12時間、肺は8時間、腎臓では24時間の虚血時間に耐える。
 心臓移植をして、20年以上も生活している人がいる。現行の人工心臓の耐用期間は、長くても2〜3年。現在、人工心臓によって生命を維持している人は、日本国内に20〜30人ほど。
 心臓にとって、たばこは厳禁。ニコチンを注射すると、冠状動脈は攣縮してしまう。タバコは心臓にとって、百害あって一利なし。
 健康な心臓にとって、ストレスは必ずしも大きな問題ではない。真夜中から午前中にかけて心臓発作が起こりやすい。睡眠中には脳からの指示がないから。昼間のストレスを受けながら活動しているときには、心臓は元気よく働いてくれる。
 死ぬまで休みなく働いてくれる心臓がいとおしくなってくる本です。

アップ・カントリー

カテゴリー:未分類

著者:ネルソン・デミル、出版社:講談社文庫
 なんと1968年のテト攻勢をメイン・テーマとする現代アメリカ小説です。驚きました。実は、私も同じ1968年を扱った小説を書いていて、この年に何が起きたかについて調べていますから、よく分かります。
 1968年2月のテト攻勢は、私が大学1年生のときに起きました。本当に驚きましたよ。だって、サイゴン(現ホーチミン市)のアメリカ大使館が「ベトコン」の決死隊によって占拠されてしまったのですから。アメリカ万能ではないことを全世界に知らしめた画期的な事件でした。ベトナム戦争で戦死したアメリカ兵は5万8000人。ワシントンにある長く延々と続く壁に、その氏名が彫り込まれていて、観光名所にもなっています。
 1968年は、アメリカが最大の死傷者を出した悲しみの年だ。テト攻勢、ケサン攻囲戦、アシャウ峡谷の激戦など。私も、リアルタイムで聞いていました。
 1968年は、またマルチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師とロバート・ケネディ大統領候補の暗殺があった年でもある。そして、アメリカでも日本でも大学紛争があり、アメリカでは都市暴動まで起きている。
 このテト攻勢のさなか、アメリカ軍の中尉が大尉に殺されたのを一人の「ベトコン」兵士が目撃した。その状況を書いた手紙が30年たって発見された。この目撃者を調べてほしい。こんな依頼を、陸軍犯罪捜査部を退役した元准尉が、かつての上司から受けることから話は始まります。そして、ベトナム各地を、かつてのアメリカ陸軍第一騎兵師団の兵士として戦闘に従事した思いを抱いて歴訪します。ベトナム戦争の惨状が記憶に生々しくよみがえってきます。読者は、当然のことながら、ベトナム戦争を追体験させられます。実にすさまじい戦争でした。
 アップ・カントリーというのは、田舎のほう、という意味のようです。ベトナムにいたアメリカ兵がマリファナなと薬物に手を出していたことはよく知られていますが、軍事物資の横流しや文化財の持ち出しなどの犯罪も横行していました。この本は、30年前の犯罪が今も問題となることがあることを明らかにしています。それはアメリカ大統領選でケリー候補の軍歴が問題になったことでも明らかです。
 700頁もある分厚い文庫本で上下2冊の本です。長崎の福田浩久弁護士よりすすめられて読みはじめました。実は、今月末から6日間、ベトナムへ旅行するつもりなのです。大学生時代、ベトナム戦争反対を叫んで何度となく集会やデモ行進に参加していたものとして、また、ベトナム関係の本をたくさん読んだものとして、ベトナムにはぜひ一度行ってみたいと思っていました。

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