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2006年7月 の投稿

昭和三方人生

カテゴリー:未分類

著者:広野八郎、出版社:弦書房
 三方(さんかた)とは、馬方(うまかた)、船方(ふなかた)、土方(どかた)の三つの職種を経験したという意味です。
 著者は船方、土方そして戦前の三池炭鉱などでの生活をずっと日記につけていたのです。プロレタリア文学運動にも参加していました。炭鉱生活26年のあと、万博景気にわく大阪で再び土木作業に従事しました。
 明治40年(1907年)に長崎県大村市に生まれ、1996年(平成8年)に福岡市で亡くなっておられます。
 戦前、佐賀の農家には農耕馬が必ずいました。私の父のいた大川もそうでした。そこでは競走馬の飼育も手がけて収入源としていました。馬は今とちがって身近な存在だったのです。
 船員時代にプロレタリア作家として有名な葉山嘉樹の知遇を得て、「文芸戦線」や「労農文学」などのプロレタリア文学運動の機関誌に詩や小説を投稿しています。
 土方をしながら「改造」を読んでいたというのですから、たいしたものです。
 昭和12年3月15日の日記に、こう書いてあります。「改造」を読み、新聞を見ると、いくらか世の中が分かるような気がする。時代は、ますます暗鬱な方に流れていくようだ。満州事変以来、大衆はこの嫌な空気の中で、もがいているのだ。
 同じ年の10月、佐賀にあった杵島炭鉱で坑夫として働きはじめました。夏目漱石の「坑夫」を読んでいます。どうして種を手に入れたか、よくこれほど実感を出したものだと感心した。しかし、しちくどいような漱石的臭味がくっついているので、鼻について仕様がなかった。内部から坑夫の生活を描いていない。これはただ見聞記といった感じがした。
 鋭い感想文ですね、まいりました。12月14日に南京陥落祝賀の旗行列が昨日あったと書かれています。
 ただやたらに沸き立つ人々の態度をみて、自分の心は訳もなく空虚を感じるのはどうしたことだろう。非国民だと罵られても仕方がない。
 あの南京大虐殺を日本人は知らずに旗行列して喜び浮かれていたのです。戦争から帰ってきた兵隊の話を聞くと、もう沢山だと言いたいぐらい残虐なことを並べたてるので、憂鬱になった、とあります。
 昭和13年2月から三池炭鉱で働きはじめました。24時間で1万トンの出炭記録をつくったころのことです。出炭記録にみんなの目がいくと、とたんに事故が多くなったということも記録されています。
 軍事講演を聞きに行ったとき、安井少尉が実戦談を語ったが、そのなかで、戦地の住民がいかにみじめであるか、戦争というものが避けられるものなら、平時、どんな苦痛を忍んでもいいことを痛感した、と語ったそうです。なるほど、ですね。
 「カラマーゾフの兄弟」、トルストイの「戦争と平和」、ジイドの「狭き門」を読んだりしていますが、そのうちに独ソ戦が始まりました。
 駅へ入営兵の見送りに出かけることも多くなりました。
 坑内労働は肉体疲労がすごい。労働の余暇に肉体が要求するのは食欲と睡眠。精神生活の入りこむ余地はない。しかし、そうは言いつつ、休みの日に梅見に出かけたりしています。
 労働者の日記も、続けていると歴史を語るものになることを実感させられた本でした。

満州国皇帝の秘録

カテゴリー:未分類

著者:中田整一、出版社:幻戯書房
 まったく期待せずに読みはじめた本ですが、案に相違して、すこぶる興味深い内容の本でした。著者はNHKプロデューサーとして、現代史を中心に歴史ドキュメンタリー番組の制作に長く携わってきたそうですが、大変いい本を出されたと敬意を表します。満州国の一面の実情がよく分かりました。
 関東軍司令官は毎月3回、1のつく日、1日、11日、21日に満州国皇帝を訪問し、日本の政策の方向、日本政府の目的と意向を知らせていた。もちろん、これは満州国の最高機密事項であり、絶対に外部に漏れてはならないもの。ところが、これが記録され外部に漏れていたのである。その内容がこの本で紹介されているのです。
 外部とは日本の外務省のことです。新京にあった日本大使館の外交官たちの間には関東軍に対する不満と反感がみちていた。軍部の独断専行に対する危機意識と無力感との狭間で外務省は苦悩していた。そのため、危険を冒してでも本省に極秘情報を送ろうとする、現地外交官の決断と大胆な行動があった。
 形式は、在満大使館の参事官あるいは一等書記官から本省の東亜局長にあてて送ったもので、「半公信」と扱われた。半分は公の文書、半分は私信。だから、大使の決済を受けなくても本省にあてて送ることができる。つまり、大使である関東軍司令官の目にふれずに生え抜きの外交官同士の半ば私信として本省へ送られた。
 そして関東軍司令官はすべて大使という肩書きにされている。これは外務省の内部の問題だというわけである。関東軍司令官に関する情報を漏らしたわけではないので、軍事機密の漏洩にはあたらないという高等論理である。
 1934年3月、溥儀は満州帝国皇帝に即位した。この即位にあたって関東軍は、溥儀が清朝の皇帝即位の正装である竜袍を着用することを認めなかった。溥儀は満州国の皇帝であって、大清国皇帝の復辟ではない。したがって、満州国陸海軍大元帥正装を着用すべきだと関東軍は押しつけた。溥儀は納得しない。満州建国を利用して清朝復辟を狙っていた溥儀とその一族郎党にとって、皇帝即位の儀式は、対外的にもその意志を表明する千載一遇のチャンスだった。
 ようやく両者のあいだで妥協が成立した。祭壇では竜袍を着て即位したことを天に報告し、つづいて宮殿内では陸海軍元帥の正装で即位式典を行った。
 溥儀は1935年に日本を訪問することにした。この狙いは関東軍が関東州や満鉄のように日本政府の監督下に満州国はおかない、関東軍が満州国を直接に統治するということであった。
 溥儀は訪日のとき親しく歓迎されたことから大きな錯覚をした。日本の天皇の威光を借りて満州国における肯定の権威を高めるられるという幻想を抱いた。もちろん、そうはならなかった。天皇を利用すれば関東軍をおさえることができると思ったのである。しかし、現実には、満州国官僚の人事ひとつも皇帝の思うようにはならなかった。すべて関東軍司令官の指図によった。
 溥儀には何人もの女性(妻)がいましたが、性的不能者であったようです。といっても男性(若者)はいたようです。溥儀は、清朝皇帝の幼年時代、宮仕えの年増の女性にもてあそばれ、その特異な体験のため女性に対するトラウマに陥っていたということのようです。
 この厳秘会見録の送り先は、外務大臣、外務次官と東亜局長の3人だったが、外務大臣を軍人が兼任したときには、大臣ははずされた。
 記録をしていた林出賢次郎は日本政府内部と軍との人事抗争のなかで、1938年、突然解任された。そのとき、内地に記録をひそかに持ち帰ったものが残っている。林出は溥儀から大変信用されていたが、日本に帰ってからは天皇の中国語通訳として戦後の1948年までつとめていた。
 満州国の内情を知るうえで一級の資料だと思いました。よくぞこのような貴重な資料が残っていたものです。溥儀と歴代の関東軍司令官との生のやりとりが大変興味深いものでした。

フランス反骨変人列伝

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著者:安達正勝、出版社:集英社新書
 フランスの国王に公式寵姫(ちょうき)なるシステムがあったことを初めて知りました。フランスについては、言葉とともに長く勉強してきたつもりでしたが、やはりまだまだ知らないことがたくさんあるようです。
 フランスには日本や中国のような後宮はない。なぜなら、キリスト教が王妃の子にしか王位継承権を認めないので、後宮をもうける大義名分がない。そのかわり、国王は正式な愛人を一時期に一人だけもっていいことになっていた。
 この公式寵姫は日陰の花ではない。外国大使を引見し、宮廷舞踏会や宴会を主催する公式の存在だ。むしろ王妃は、寵姫の陰に隠れるような地味な存在でしかなかった。
 マリー・アントワネットは例外。夫のルイ16世は一人の愛人ももたない希有の国王で、公式寵姫がいなかった。だから、王妃のマリー・アントワネットが公式寵姫の役割も兼ねることになった。その分、マリー・アントワネットは民衆の反感も買ってしまったわけです。
 この本で紹介されているのは、ルイ14世に妻を寝取られたモンテスパン侯爵です。モンテスパン侯爵は当時としては非常に珍しいことに恋愛結婚し、妻を熱烈に愛していました。その妻が公式寵姫となったとき、ルイ14世にあえて公然と逆らってしまったのです。どうなったか?
 臣下はすべて自分の楽しみに奉仕しなければならない。王国でもっとも美しい女性を愛人とすることは自分の義務である。これがルイ14世の考えだった。自分に不快感を与えた以上、侯爵の行為は不敬罪にあたる。モンテスパン侯爵は田舎に引っこみ、妻は死んだとして自分の領地内全域に葬儀馬車を走らせた。
 モンテスパン侯爵夫人はルイ14世との間で8人の子どもを産みました。ところが、5歳年長のマントノン侯爵夫人に公式寵姫の座を奪われてしまったのです。公式寵姫は永遠のものではありません。それで、モンテスパン夫人は夫のもとに帰ることを願いました。しかし、夫は受け入れず、修道院で過ごすことになります。そしてモンテスパン侯爵はルイ14世の宮廷に復帰しました。なんとも微妙な人間心理です。
 次にギロチンによる死刑執行を職業としていたサンソン家の6代目です。死刑存続派は世の中に多いわけですが(私は廃止派です)、6代目サンソンは確固とした死刑廃止論者でした。6代目のアンリ・クレマンは生涯に111人を処刑しました。フランス大革命のときの4代目は、なんと1年あまりで2700人もの人間の首を落としたのです。
 死刑制度は宗教と自然の法に反する。殺人は殺人によって罰せられてはならない。担当した100人以上の死刑囚のなかで、処刑の恐ろしさに震えあがっていたのはたった1人だけ。罪を自覚せず、何の反省もしていない人間を処刑するのは動物を殺すに等しい。本人に罪を自覚させ、罪を償う機会を与えるべきだ。
 死刑執行人は人々から感謝されない。どころか、忌み嫌われ、差別されている。死刑判決には喝采しても、その判決を執行する人間には侮蔑と恥辱を投げつけるのだ。これは論理的矛盾、馬鹿げた偏見だ。我々の仕事は超人的な努力を要するが、決して報われることはない。恥辱のなかで生き、汚辱のうちに死ぬ。なるほど、と思いました。
 よく雨が降ります。九州南部の洪水のひどさは大変です。北部の方はそうでもありません。蝉が鳴けないのが気の毒なほどです。雨が止んだら一斉に蝉が鳴きはじめるのを聞いて、彼らも大変だと思いました。なにしろ一週間のうちに子孫を残すために配偶相手をみつけいけないのですのですから・・・。食用ヒマワリがたくさん咲いています。

帝都衛星軌道

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著者:島田荘司、出版社:講談社
 携帯電話をつかうと、瞬時に、そのエリア基地局が判明する。基地局から電話までの距離も百メートル単位で割り出せる。そして、電話番号、契約者もすぐに分かる。
 ふーん、そういう世の中なんですね・・・。犯罪捜査につかわれるのはよしとしても、それ以外にもつかわれている気がしてなりません。
 Nシステムだって(今はTシステムというのもあるそうです。その違いがよく解りませんが・・・)、はじめは犯罪捜査のみということでしたが、そうでない使われ方をしたケースがいくつも明らかになっています。警察を信用するわけにはいきません。
 この本には、途中でせこい寸借詐欺のような欺しの手口のあれこれが具体的に紹介されています。人の善意、盲点をついた悪どい詐欺です。読んでいるうちに、いやな気分になってきました。でも、実は多いんですよね。弁護士として悪徳商法を毎日のように扱っていて、本当にそう思います。
 後編には、日本の裁判の仕組みが次のように紹介されています。
 日本の裁判官がいかに威張っていて、乱暴で、理屈の解らない人たちであるか・・・。
 殺人というものは、そして一度これを犯した者がどんな異常な心理状態に突き落とされ、永遠に精神をさいなまれ続けるか。戦争ならまだしも、平時のことなんですから。
 後編には前編の謎ときがありますが、ここで紹介するわけにはいきません。それより、東京の地下についての話を紹介します。日比谷公園の地下に巨大な貯水槽があるというのは、私も聞いたことがありました。戦前からあって、秘密の地下施設だったそうです。
 東京の地下鉄の駅に使い勝手の悪いのが多いのは、既にあった軍施設を無理に廃物利用しているから。千代田線の霞ヶ関駅は元海軍の防空壕だった。
 皇居を防衛するために皇居の周囲に環状に設置されていた地下要塞群の跡。それを結んでつくられたのが、現在の東京の地下鉄なんだ。そうだったんですか、そう言われると大手町駅なんかひどいものですよね。まるで迷路です。いったい自分がどこにいるのか、さっぱり分からなくなってしまいます。

日曜日ピアジェ、赤ちゃん学のすすめ

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著者:開 一夫、出版社:岩波科学ライブラリー
 わが家に赤ちゃんがいないのがとても残念に思えます。昔は身近にいたのですが・・・。孫も果たしてできるのやら、という状況ですので、残念でたまりません。
 というのも、この本には赤ちゃんをめぐる楽しい実験がいくつも紹介されているからです。ぜひやってみたいと思っているのですが・・・。さし絵がまた、とてもいいのです。いかにも愛くるしい赤ちゃんそのものです。
 たとえば、赤ちゃんにベロ(舌)を出してみせます。普通の顔とベロを出すのと交互にくり返して見せます。赤ちゃんはいったいどんな反応をするでしょうか。
 赤ちゃんは、大人のように自分のベロを出してくれるのです。あたりまえのようですが、これって単なる反射行動ではないのです。鏡も見ないで、相手の動作と同じ行動ができるというのが、実はすごいことなんです。うーん、そうなのか・・・。
 次の実験は、まず初めの1分間は笑顔で赤ちゃんに話しかけます。次の1分間は静止顔です。声は出さずに、じっと赤ちゃんの顔を見つづけるのです。怒った顔でも悲しい顔でもなく、あくまで普通の顔です。そして、最後の1分間で、笑顔になって話しかけます。
 さあ、途中の静止顔に赤ちゃんはどう反応するでしょうか。
 赤ちゃんは静止顔を見たくないため、顔をそむけたり、むずがったりするそうです。これは赤ちゃんにはコミュニケーション能力があることを意味します。うーん、本当でしょうか。たしかめてみたいものです。この赤ちゃんは、生後2ヶ月から8ヶ月くらいまでです。
 次の実験は結果が意外でした。対象の赤ちゃんは生後9ヶ月から12ヶ月です。赤ちゃんの前にハンカチを2枚、別々に置いておきます。少し中央にふくらみをもたせます。そして、どちらかのハンカチの下におもちゃを隠すのです。赤ちゃんがハンカチを取ってオモチャを手にしたら、ほめてあげます。そこで、実験です。今度は別のハンカチの下におもちゃを隠します。赤ちゃんの見ている前で隠すのです。
 さあ、赤ちゃんはどちらのハンカチを取るでしょうか・・・。なあーんだ、そんなのあたりまえじゃないか。おもちゃを隠した方のハンカチを取るに決まっているだろ。見てたんだから・・・。
 ところが、ところが、赤ちゃんは最初に隠したハンカチを取るというのです。えーっ、ウッソー、ウソでしょ。そう叫びたくなります。学者が何度も追試したそうですが、結果は変わりませんでした。これについては、赤ちゃんにとって、対象は見えていなくても存在しつづけるという対象の永続性概念をもっていないからだと説明されています。つまり、対象が見えなくなることは、もうそこには存在しないと赤ちゃんは考えるのです。それにしても不思議ですよね。
 3歳ころまでの赤ちゃんの記憶は人間誰でも思い出すことができません。つまり、3歳児までの赤ちゃんは、それ以上の年齢の人間とは違った存在なのです。そこに赤ちゃん学が存在する根拠があります。うーん、人間って奥の深い存在なんだ・・・。

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