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2006年5月 の投稿

団塊の世代だから定年後も出番がある

カテゴリー:未分類

著者:布施克彦、出版社:洋泉社新書Y
 著者も団塊世代です。
 よど号ハイジャック事件や浅間山荘事件など、団塊の世代が世間を騒がせた。一部バカ者の行為なのに、世代全体がショックと自信喪失感に包まれた。
 この「一部バカ者」という表現にはアンチ全共闘だった私にも実は抵抗感があります。著者は当時の大学闘争に没交渉だったのではないでしょうか。よど号事件はともかくとして、連合赤軍事件が全共闘シンパ層に与えた影響は相当に深刻だったと思います。それを簡単に「一部バカ者の行為」として切り捨てられると、そう言われたら、確かにそうなんだけど・・・、という気がしてしまうのです。ただ、その点を除くと、この本で指摘されていることは、ほとんど同感できるものです。現在700万人ほどの団塊世代が生きている。人数が多いというのは、最大の武器である。
 団塊世代のもらう退職金総額は50〜80兆円。2010年の団塊世代関連市場は100兆円をこえる。国民総資産1400兆円の過半数を中高年世代が握っている。
 ところが、団塊世代の多くが自信を失っているように見える。かつて、腕に覚えがあり、仕事の虫だった団塊世代。順風と逆風の両時代を知る柔軟性もある。バブル経済時代までは、どこの会社にも鮮明な派閥があった。社内の人的関係の多くが、団塊世代をもって途切れてしまった。これから日本を背負うべき30代から50代前半の世代は、いま疲れているように見える。
 学生時代に世の矛盾をついて大人に食ってかかった団塊世代は、社会の一員になって実際の矛盾と向きあったとき沈黙した。毎年あがる給料やボーナスを捨てるのは賢くないと判断したのだ。はじめは違和感を覚えた矛盾が、いつか身体に染みこみ、感覚は麻痺してしまった。矛盾を器用にのみこむのが、組織で栄達する前提条件だった。
 団塊世代の多くは転職に自信がない。団塊の世代は後進国に生まれ、中進国に育ち、先進国で仕事する。しかし、団塊世代は自信を失う必要はない。今まで通過してきた人生のなかでこの世代はすでにしっかりと武器を身につけている。これから始まるシニア時代を生きていくうえで、必要なものを十分に身につけている。問題は、本人がそのことをあまり自覚していないこと。自信喪失とともに、本来武器であるべき要素を不要あるいは邪魔なものと考えていることさえある。
 団塊世代気質の核に、枠と標準によって固定された協調と競争の調和精神がある。
 永遠の若者であり続けたい団塊の世代の多様な人生経験のなかで勝ちパターンを知り、挫折も味わって、精神の鍛錬も経験した。ハザマの時代を生きて試行錯誤から、柔軟性も身につけている。そんな団塊の世代は、きっと世の中に役立つ多様な仕事ができるはずだ。そうなんです。お互い、もっと自信をもって、今の変てこな社会を変えるためにがんばろうじゃありませんか。変人・小泉になんか負けてなんかおれませんよ。

えひめ丸事件

カテゴリー:未分類

著者:ピーター・アーリンダー、出版社:新日本出版社
 2001年2月9日、宇和島水産高校の実習船「えひめ丸」がアメリカ海軍の原子力潜水艦の突上の浮上によって激突され、たちまちのうちに沈没し、9人もの死者を出しました。この事件の真相を追究した本です。
 潜水艦は静かに、そして深くという戦術から、海面下にいるときには、電波交信による航行・通信は不可能だから、「音」に頼るしかない。しかも、それはパッシブ・ソナーのみ。相手の発する音を聞くことで相手を識別し、危険物を避けている。自分から音を出して探るアクティブ・ソナーはとっていない。だから、海図にものってない海面下の山があったというときには気づかないまま衝突してしまうことが起こりうるし、現に起きている。なるほど、潜水艦というのは現代最高の科学技術の粋を尽くしているというわけではないのですね・・・。
 衝突したアメリカの原潜グリーンビルは特別招待客をのせていた。アメリカ海軍は、潜水艦や艦船などの建設・維持のための予算を獲得するため、ときどき特別な招待客を艦艇に招いて接待するという政治的・広報的な活動を長く続けている。ワルド艦長のような士官たちは、このツアーのホストをうまくつとめることが、海軍を利するだけでなく、上官に自分の仕事ぶりを印象づけ、昇進につながると期待する。
 つまり、「特別招待客プログラム」は、広い意味では国家の軍事政策に、狭い意味では個々の士官たちの昇進に影響を及ぼすという政治的性格をもっている。なるほど、そうなんですね。このとき潜水艦に乗っていた特別招待客は16人。その多くは、ブッシュ大統領ともつながりの深いテキサスの石油関連企業の重役たちとその妻だった。
 事件後、これらの特別招待客の氏名は隠されていたが、明るみに出た。しかし、彼らは海軍の審問委員会に呼ばれることはなかった。下手すると、海軍の全体としての組織構造による事故だと思われないようにするためだった。ちなみに、日本でも体験航海は実施されていて、2000年には日本近海で60人の民間人が乗艦している。
 原潜グリーンビルからは重要な証拠がいくつか失われた。航海図、録音テープ、ビデオテープなど。海軍が意図的に隠した疑いがある。ワルド艦長は軍法会議にかけられなかった。なぜか。コネツニ太平洋潜水艦隊司令官が原潜グリーンビルの体験航海を許可していたこと、この航海はマッキー退役大将からきたこと、海軍長官をふくむ海軍上層部もからんでいたことが暴露されないためだ。また、軍産共同体を守り抜きたいという深い動機があった。
 ところで、軍法会議は、下の者には厳しく、上の者には甘い。軍法会議にかけられたのは、この50年間で、大将はたった3人であるのに、軍人は1年間に7603人にものぼる。そして、その97%は有罪となった。
 ちなみに、この本は、原潜グリーンビルが「えひめ丸」を標的にしたという説を否定しています。要するに、ワルド艦長が特別招待客を喜ばせるパフォーマンスに終始したあげく、えひめ丸を見落としたという見解です。
 えひめ丸は600メートルの深さから海面下35メートルまで引き揚げられたものの、結局は水没させられました。船体を日本国民の目の前にさらしたくないという日米両政府の思惑からです。
 森喜朗首相(当時)は、当日午前10時40分に事件を知らされても、友人たちと横浜市内でしていたゴルフを中断せず、ゴルフ場を出たのは午後1時近くでした。国民の生命を軽視しているのは今の小泉首相とまったく同じです。
 この本では、最後に、愛媛県が被害者(遺族)と共通の弁護士をたててアメリカ海軍と折衝したことを問題としています。両者は利益相反関係にあるという指摘です。当然のことです。でも悲しいことに、多くの遺族が巨大な圧力を恐れて、県の弁護士に依頼してしまいました。真相究明に奮闘したのは、残った2遺族が依頼した豊田誠弁護士(自由法曹団の元団長です)を団長とする弁護士たちでした。私の敬愛する愛媛(宇和島)の井上正実弁護士も地元の弁護士として参加していました。そのがんばりで、真相究明が一歩前進し、ワルド艦長の謝罪訪問も実現したのです。
 アメリカとの関係で日本の置かれている深層状況を改めて思い知らせる良書です。
 スモークツリーが満開です。フワフワとカスミに覆われるのです。見てるだけで心がなごんできます。純白のジャーマンアイリスがひとつだけ遅れて咲きました。気品のある花です。紫色のネギ坊主そのもののアリウム(かな?)も咲いています。もうすぐホタルが飛びかう季節となります。駅舎の高いところでツバメが子育てでがんばっています。

女帝の世紀

カテゴリー:未分類

著者:仁藤敦史、出版社:角川選書
 明治来の皇室典範は、必ずしも日本の歴史と伝統を正確に反映するものではない。それは8世紀初頭の大宝令段階から女帝に関する規定が存在していたのを無視している。過去の女帝は単なる「中継ぎ」のための君主であるという、女帝の即位を認めない政治的な立場から恣意的な歴史解釈がなされている。
 7、8世紀には、7世紀と8世紀になぜ女帝が多かったのかという問いを著者は投げかけ、それを解明しています。
 この当時は、8代6人の女帝が即位している。7、8世紀は「女帝の世紀」と称されるのも当然のこと。皇后即位の習慣があったという説を肯定的に紹介しています。
 ところが、奈良時代まで皇室に女帝が次々に出ているのと対照的に、貴族層では一件の例外もなく女性の族長は存在していない。これは不思議なことです。
 奈良時代に僧の道鏡が即位する可能性がありました。孝謙上皇(女帝)が称徳天皇として重祚(ちょうそ)した(再び天皇になった)あと、道鏡は天皇なみの待遇である法王に就任し、天皇への即位をうかがいました。これを和気清麻呂が妨げたことはあまりに有名です。では、なぜ一介の僧にすぎない道鏡が天皇になりそうになったのか。ここを著者は解明しています。
 道鏡は女帝の子ではなく、女帝の夫として、先の聖武天皇の「我が子」に擬制的に位置づけられることによって即位の可能性が生じた。このころは、臣下の即位はタブーではなかった。むしろ、この事件以降にタブーとなったのだ。鋭い指摘だと思います。
 継体大王は前王の直系ではありません。継体大王の前には複数の王系が存在し、継体朝から王朝の血統が固定化して王族が形成された。つまり、王系の交替が常態であった継体朝以前の段階から、欽明系王統が五代連続することにより、欽明を祖とする世襲王権の観念が生じた。このように、日本は古来から、万世一系の天皇が支配していたというのは真赤な嘘なのです。天皇(当時は大王)になるべく有力氏族が果てしない殺しあいまでしていたのが実態です。日本人が、むしろ好戦的な民族だったことは第二次大戦をみれば分かるとおりです。小泉なんかにごまかされてはいけません。
 大王(当時は天皇とは言いません)即位の条件としては年齢が大きな要素であり、高齢であることが、むしろ有利だった。20代では即位の適齢期とされず、60代の方が有利となった。大王即位の適齢期は40歳前後だった。そのような適齢期の人間がいないときには、大后が王族の女性尊長として即位した。執政能力が群臣に認められると、女帝が即位した。したがって、女帝の資質・統治能力が男帝に対して劣っているとはいえない。
 有名な長屋王の変についての著者の指摘には、さすがと感心してしまいました。長屋王邸の跡はスーパーダイエーがたっていましたが、そこから大量の木簡が出土して、その分析がすすんでいます。長屋王は王権強化策に反対する畿内貴族層の利害を代弁しており、それを抑えつけるための王権によるクーデターではなかったかと著者は考えています。
 長屋王家の巨大な家産を背景とした藤原家と長屋王との政策的な対立があり、そこで支配層が合意してなした長屋王打倒のクーデターだった、というのです。
 日本史における権力者内部の政争は、今の自民党と民主党だけではないのです。

ヒルズ黙示録、検証・ライブドア

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著者:大鹿靖明、出版社:朝日新聞社
 ヤツらはどんな「ワル」だったのか?オビにこう書かれています。一瞬、日本をダメにしたワルはほかにいるんじゃないの。例によって、マスコミの悪のりじゃないのかな、という反発を感じてしまいました。アエラ記者によるレポートです。
 たしかに、日本をだめにしている、ひどい若者たちです。でも、村上ファンドなんて、今も世の中を騒がし続けているのです。それで喜んでいる連中もいるわけなので、ホリエモンだけが悪いとは思えません。楽天KCの三木谷なんて、ちゃっかり澄ました顔してクレジット業界でのさばっていますし・・・。私の日常業務と関係おおありの若者です。毎日毎日、楽天KCから大量の手紙とFAXをもらっています。
 ライブドアの堀江は両親としっくりいっていなかった。宮内(税理士)は、生後まもなく両親と離れて暮らした。熊谷史人は学生結婚し、子どもの養育費稼ぎのため、深夜までバイトに追われた。このように、ライブドアの中心メンバーの多くは30から35歳の団塊ジュニアで、高度成長からバブル期にかけて人格形成をしたが、一億総中流社会とは縁が薄かった者が多い。しかも、就職時は氷河期で、就職にも苦労した。幸福や豊かさには縁が薄かった。こうした背景が、強烈なコンプレックスとして内面に沈殿し、それをバネにした敵愾心や復讐心がある日突然、やってやる、目にもの見せてやるという荒々しい行動に転じやすかった。彼らの行動は挑発的で、刺激的だった。だが、一発、二発は相手に不意打ちを食らわす強烈なパンチを繰り出せても、周囲の大人たちが警戒して身構えると、もはや小僧では歯が立たなかった。
 堀江が一人で請け負っていた時期は高い収益率だったが、人数が多くなると、品質が安定しなくなり、収益率は低下していく。2002年10月、経営がいきづまった旧ライブドアの事業を譲り受けて業態を全面的に転換した。法人向けのホームページ作成ではなく、一般の個人客相手のモデルへ転換した。
 東証マザーズ上場銘柄は、3ヶ月おきの4半期決算の開示が求められる。そこで、常に収益を稼げる金融部門をビジネスの柱にすえた。本業の不振を補って、金融部門が売上高や利益が常に右肩上がりに成長しているように演出することを余儀なくされた。堀江は、人が変わったように、世間から注目を集めることに熱中するようになった。
 堀江の住む六本木ヒルズのレジデンシャル・タワーは、家賃が月に220万円。
 堀江の原動力は、他に類をみないほど深く自分を愛することができる力にある。広報担当の乙部綾子はこう語る。堀江さんは女性を本当に愛したことがないと思う。誰かと熱烈な恋愛をしたり、失恋して傷ついたりすることができない人なんです。あの人、自分が一番好きだから。自己肯定が人一倍強い堀江は、自己愛の強さが他者をいたわる心の乏しさになって現れる。堀江は八女出身で久留米大学附設高校から東大に入り、東大を中退した。
 ホリエモンの逮捕は、2時間前にNHKがライブドア本社を家宅捜査したと報道したことから始まった。前年秋から取材を始めていたマスコミは準備していた予定原稿を2時間前に本番と間違って流してしまったのだ。前代未聞のミスだろう。まさに劇場型捜査の幕が切って落とされた。
 ライブドアの株価は一時、時価総額が8000億円にまで膨らんだ。ところが、ポータルサイト事業の利益はわずか3臆円でしかなかった。まさに虚像というしかない。
 村上ファンドの村上世彰は、灘中、灘高から一浪して東大に入った。小学4年生のとき、父親から100万円を小遣いとして渡され株を自分で運用するようにすすめられた。とんでもない父親です。世の中、おカネだけがモノをいうと身にしみた人間ほど怖いものはいないでしょう。まったくバカげています。もっともっと大切なことが世の中にはあるということを親は子に伝えるべきではないでしょうか。
 ホリエモンを高く買った経済界の大物がいました。日本経団連の奥田硯(ひろし)前会長です。堀江は東京からヘリコプターで名古屋にいる奥田に泣きつきに言っています。
 堀江は衆議院選挙に出馬するまで実は一度も投票に行ったことがなかった。しかし、
20億円つかえば20人くらいは当選できると豪語し、当選したらマスコミの力を借りて総理大臣を目ざしていたというのです。驚きです、その甘さには・・・。
 互いに刺激しあって、天まで届けと高みに登りつめる六本木ヒルズの競争は、もはや自分たちでは止められない自己肥大化の競争になりつつあった。堀江、三木谷、村上、そしてリーマン・ブラザーズ、ゴールドマン・サックス。ヒルズに巣くう男たちの自意識はもはや止まらない。みなが自分自身を「神」と思うようになっていた。ホントに恐ろしい世界です。お金は集まるところには雪ダルマがころがるようにどんどん集まっていくものなんですね。みんな勝ち馬に乗ろうとしているのでしょう。いつ負け組になってしまうかも分からない、まさに食うか食われるかの世界です。
 私は今日も、一日やっと一食しか食べられないという、ホームレス寸前の中年男性と話をしました。多いんです、そんな人が・・・。

喧嘩両成敗

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著者:清水克行、出版社:講談社選書メチエ
 実に面白い本です。まだ35歳の若手学者の本ですが、その分析力にはほとほと感心してしまいました。このくらいの分析力を持てたらなあと長嘆息するばかりです。私も人並みに年齢(とし)だけはとったのですが、とてもかないません。
 日本人は昔から争いごとを好まない。和をもって貴しとする民族だから・・・。なんていうのは真赤な嘘です。ところが聖徳太子(その実在も疑われています)の十七条憲法を額面どおりに受けとり、それが定着しているのが日本人だと誤解している人のなんと多いことか・・・。そもそも十七条憲法に、和をもっと大切にせよと書かれたのは、当時の日本であまりに争いごとが多かったからです。同じように、十七条憲法は、裁判があまりに多いから、ほどほどにしなさいとも言っているのです。ご存知でしたか。ぜひ一度、十七条憲法の全文を読んでみてください。といっても、全文とそれを解説した本って、なぜか驚くほど少ないんですよ・・・。
 それはともかく、日本人は昔から執念深かったようです。16世紀に日本にやってきた有名な宣教師ヴァリニャーノは、日本人の恐るべき執念深さを次のように本国に報告しているそうです。
 日本人は感情をあらわすことに大変慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑えつけているので、怒りを発するのは珍しい。お互いに残忍な敵であっても、表面上は明るく儀礼的で鄭重に装う。時節が到来して勝てるようになるまで堪え忍ぶのだ。
 果たして陰湿なのは室町時代の日本人だけなのか。著者は中世日本人の激情的で執念深い厄介な気質は、現代日本人にも受け継がれているのではないかと指摘しています。私も、それはあたっている気がします。
 現在、中世社会では必ずしも敵討(かたきうち)が違法行為とはされていなかったことが明らかにされている。ただし、本当は親の敵(かたき)でもないのに、自分が殺した相手を親敵だと言いはって罪を逃れようとする者も当時いたようだ。
 間男を本夫が殺害するという行為自体は、当事者間では何ら違法という認識はなかった。むしろ、そうした法習慣を禁じようとした鎌倉幕府の方が非常識なものと受けとめられていた。敵から危害を加えられた者は、公的裁判に訴えるのも、自力救済に走るのも、その選択はまったく自由だった。復讐は公認されていたというより、むしろ放任されていた。
 室町時代、人を殺した人間がある人の屋敷に逃げこんできたとき、「憑む(頼む)」と言えば、頼まれた側はその人間の主人として保護する義務が生じた。
 鎌倉から南北朝までのあいだ、墓所(ぼしょ)の法理というものがあった。殺された人の属した宗教集団が犯行現場ないし加害者の権益地である広大な土地を、被害者の墓所として加害者側に請求するという宗教的慣行があった。
 室町時代の大名にとって、政治的な失脚は、その政治力や発言力を失うだけでなく、生命・財産・すべてを奪われかねない深刻な重大事だった。そして、京都に住む一般の都市民衆は、度重なる政争のなかで、ただ逃げ惑っていたり、傍観していたわけではなく、ここを稼ぎ場と、たくましく生き抜いていた。
 流罪途中に、流人が殺害されることは多く、当時の人々は流罪は死刑と同じように考えていた。なぜか・・・。
 流人を途中で殺害する行為は、落武者狩りや没落大名の屋形からの財産掠奪と同様、ほとんど慣行として社会に許容されていた。つまり、法の保護を失った人間に対して、殺害、刃傷、恥辱、横難そのほか、いかなる危害を加えようと、何ら問題にならなかった。
 流罪というのは、室町殿にとって堂々と処刑するのははばかられるときの刑。建前上は死刑でないとしつつ、実質的に死刑とする方策として流罪とされたのではないか・・・。
 中世に取得時効が認められていた。それは20年だった。鎌倉幕府の御成敗式目第8条に、知行(ちぎょう)年紀法という有名な条文がある。そこでは、たとえ不法な占拠であっても、その土地での20年以上にわたる当知行(とうちぎょう)つまり用益事実が認められると、その者を正式な土地の支配者として認めることが規定されていた。
 折中(せっちゅう)の法というのがあった。足して二で割る解決方式のことである。中世社会では、最善の策として奨励される重要な法思想だった。たとえば、降参半分(こうさんはんぶん)の法というのもあった。降参した敵の所領については、半分だけは没収せずに残してやるというもの。
 中世社会に生きる人々にとっては、真実や善悪の究明などはどうでもよく、むしろ紛争によって失われた社会秩序をもとの状態に戻すことに最大の価値を求めていた。衡平感覚や相殺主義に細心の配慮を払っていた。
 解死人(げしにん)と呼ばれる謝罪の意を表す人間を差し出す紛争解決慣行があった。その解死人は相手に行ったら殺される危険もあったが、原則としてそのまま解放されることになっていた。下手人は犯罪の実行者、死をまぬがれる解死人そして、派遣されるだけという下使人となっていった。
 喧嘩両成敗と裁判というのは、本質的に相矛盾するもの。喧嘩両成敗は戦時ないし準戦時の特別立法であって、平時の法令ではなかった。戦国大名にしても、織田・豊臣政権にしても、また江戸幕府においても、最終的な目標は喧嘩両成敗なんかではなく、公正な裁判の実現にあった。これによって自らの支配権を公的なものに高めることを目ざした。なぜなら、喧嘩両成敗は、権力主体からすると弱さの表現でしかなかった。むしろ、喧嘩両成敗法を積極的に普及させ、天下の大法(一般的な法習慣)にまで高めていったのは、公権力の側ではなく、一般の武士や庶民たちだった。
 この本を読むと、いかに日本人が昔からケンカ(争闘)を好きだったか、いくつもの実例が紹介されていて、驚くほどです。こんな事実を知らずに、日本人は昔から平和を好んでいた民族だなんて言わないようにしましょう。日清・日露戦争そして第二次世界大戦を起こしたのは、私たちの祖先の日本人だったのは歴史的な事実なのです。これは自虐史観なんていうものではありません。

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