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2006年4月 の投稿

チャター

カテゴリー:未分類

著者:パトリック・ラーデン・キーフ、出版社:NHK出版
 チャターとは、もともとは罪のないおしゃべりという意味の単語だった。
 チャターを監視するアメリカの機関はいくつかある。CIAの職員は2万人、年間の予算は30億ドル。NSAは6万人の職員を擁し、年間60億ドルをつかっている。
 アメリカが世界に放っているスパイは5000人以下。しかし、盗聴に関わっているのは3万人。CIAには4000人の職員がいて、海外で活動している工作員は1500人。NSAは数万人の盗聴要員をもっている。
 短波無線は簡単に傍受できる。NSAは実際、さまざまな規模の無線傍受基地を世界各地にもっている。ハワイ、アラスカ、カリフォルニア、日本、グアム、フィリピンに。
 コンピューターのキーボードのキーの間に、極小のマイクロフォンを潜ませておき、キーを叩く際の音を特別集合サービスで録音し、各キーの打鍵の際に起きる音の波形から、タイプされたメッセージを復元する。うへーっ、こんなこともできるんだー・・・。おどろきました。
 アメリカは100基ほどの偵察衛星を打ち上げている。過去40年間に、アメリカは 2000億ドルを偵察衛星に費やしてきた。
 1990年代初めに多くの国が光ファイバーへ移行するにつれて、NSAは42あった無線傍受基地のうち20を縮小・廃止した。しかし、光ファイバーが傍受不可能というのは言いすぎ。アメリカはUSSシーウルフという攻撃型原潜を改造して、海底での光ファイバー盗聴工作ができるようにした。そのため6億ドルの予算をつかった。このように光ファイバーの技術は、いったんは盗聴を困難にしたが、NSAや他のUK・USA諸国の機関が巨額の予算をつかって研究して、それを克服しつつある。
 今や、中東の人々は電話ではすべてを語らなくなった。大事なことは、会って話す。ビンラディンは、一切電話をつかうのをやめた。頭上の写真撮影衛星に察知されるのを恐れ、疑念をもたれるような車輌の隊列を組んで移動するのもやめた。洞窟や安全な家屋から外出しなくてはいけないときには、必ず徒歩でいく。ビンラディンは、あらゆる電気的な通信を絶ち、何ものにも接続していないことが自分の身を隠すための次善の策だということに気がついた。
 エシュロン基地は1時間に200万件の通信を傍受し、そのなかから4件についてレポートを書く。30分おきに、ある基地が100万件の盗聴をしたとして、電子フィルターで識別されるのは6500件。そのうち1000件を残して、あとは捨てられる。この 1000件がもう少し詳しく検討され、そのうち10件に絞って、最終的には1件となる。
 1994年にスリー・ストライク法がカリフォルニア州で成立してから、刑務所人口は25%増加した。受刑者の4人に1人、4万2000人がこの法によって終身刑を科されている。過去10年間にこの法律にもとづく受刑者の増加分として、80億ドルのコストがかさんでいる。そのうちの50億ドルのコストは、3回目の犯罪は凶悪犯ではない。 2003年までに、400ドル相当以下の窃盗によって25年から終身刑となっている受刑者がカリフォルニアには344人いる。ええっ、ウッソー。思わず叫んでしまいました。 スリー・ストライク法は、やはり悪法としか言いようがありませんね。

クルクス大戦車戦

カテゴリー:未分類

著者:デイヴィッド・L・ロビンズ、出版社:新潮文庫
 第二次世界大戦最大の戦車戦がくりひろげられたクルクスの戦いを、ソ連とナチドイツの両方の将兵の動きを通して明らかにした小説です。
 第二次世界大戦の最優秀戦車との呼び声も高いTー34戦車をあやつるソ連の戦車兵親子が、強力無比の88ミリ砲と貫通不能の装甲をもつドイツの無敵ティーガー戦車に戦いを挑むのです。
 クルクスの戦いは1943年7月、ソ連中央部でくりひろげられた。同年2月のスターリングラードの敗北後、ドイツ軍は攻勢に転じたソ連軍に押し返され、ウクライナの重要な工業都市ハリコフを失ってしまう。しかし、マンシュタイン元帥はハリコフを奪還し、ドイツ軍は東武戦線の崩壊をまぬかれた。このソ連軍の攻勢とドイツ軍の反攻の結果、ハリコフ北方の戦線が一部、ドイツ軍側に突出して残された。そこでヒットラーはクルクス突出部を包囲殲滅する攻勢をかけた。これがツィタデレ作戦である。しかし、この作戦はソ連軍に読まれていた。「ルーシー」と呼ばれるスパイ組織によってドイツ軍の糸はソ連上層部に筒抜けになっていた。
 ドイツ軍は戦域をヨーロッパ中に拡大していたため、ソ連軍に対して戦車の数ではかなりの劣勢にあった。ヒトラーは、戦車の数的劣勢を質でおぎなうべく、新型のティーガー戦車とパンター戦車という高性能戦車に大いに期待し、この新型戦車がそろうまで作戦の実施を遅らせた。しかし、この延期策はソ連軍の防御を固め、さらに戦車の生産に拍車をかけることができた。
 ドイツ軍は3号戦車、4号戦車、5号戦車パンター、6号戦車ティーガーの混成部隊。こんなにたくさんの種類の戦車にどうやって予備部品を供給できるというのか。キャタピラ、変速機、エンジン、車輪。これに対してソ連軍の戦車は一種類のみ。コンパクトで高速のTー34だけ。もしどこかが故障しても、部品はそこらじゅうにころがっている。そして、修理法はみんなが知っている。ぜんまい仕掛けのおもちゃと同じくらい単純だから。ソ連は1種類のTー34戦車だけを1ヶ月に何千輌もつくる。だが、ティーガー戦車を1車輌つくるのには、のべ30万時間以上もかかる。
 ティーガー戦車はヒトラーが88ミリ砲を所望した結果だ。この燃費は路上でリッター0.2マイル。不整地ではリッター0.1マイル。燃料搭載量は530リットル。戦闘状態で4、5時間は走れるが、それ以上ではない。
 強固な防御陣地を幾重にもはりめぐらせて待ち構えるソ連軍に対して、結集できるだけの機甲兵力をかき集めたドイツ軍が南北から猛攻撃を仕掛けてクルクスの戦いは始まった。プロホロスカで展開された独ソ両軍の激闘は、あわせて1500両もの戦車が入り乱れたものとなった。
 2週間にわたった戦いで、ソ連軍は当初の150万人の兵力から17万人の死傷者を出した。5000両の戦車のうちの3分の1を失った。75万人のドイツ軍は5万人を失い、3300両あった戦車のうち、少なくとも1000両を失った。
 アメリカ軍がイタリアのシシリー島へ上陸したことから、ドイツ軍の一部は転戦を命じられ、ツィタデレ作戦は失敗のうちに終了した。
 戦場では、スターリンのオルガンと恐れられるカチューシャ・ロケット弾の一斉射撃があった。カチューシャ・ロケット弾は乱打する心臓の速さで降りそそいだ。ドイツ兵たちは、ただその場で腹ばいになって耳をふさいだ。しかし、カチューシャは精密兵器ではない。大混乱と恐怖をまき散らすために考案されている。ただ、もちろん命中したものを破壊することはできる。ロケット弾は恐ろしいが、効果の方はそれほどでもない。
 私は小学生のころ、父に連れられて何回か戦争映画を見に行ったことがあります。ドイツ軍が砂漠でアメリカ軍と戦うシーンだったことを今でも覚えています。戦車の前には防御陣地は無力だと思い知らされる場面です。
 私の父は会社勤めしているところを応召し、中国大陸に2等兵として動員されました。幸か不幸か、戦場にしばらくいたものの、マラリアにかかって、傷病兵として台湾へ後送され、やがて内地に無事に帰還して召集解除となりました。
 戦争っちゃ、やっぱり、えすかった(怖かった)ばい。鉄砲の弾丸(たま)がびゅんびゅん飛んできて、まわりの兵隊にあたって次々に死んでいくんじゃけん。
 このように述懐していました。
 戦争で倒れた人々の気持ちを偲ぶことのできる小説でもありました。

信長は謀略で殺されたのか

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著者:鈴木眞哉・藤本正行、出版社:洋泉新書
 「信長の棺」(加藤廣、日経新聞社)は私も読みましたが、はっきり言って私は面白いとは思いませんでした。ですから、書評にも取りあげませんでした。小説として読みやすくはないうえに、史実とはかけ離れているとしか思えなかったのです。ところが、小泉首相が愛読しているとマスコミが取り上げたおかげもあって、みるみるうちにベストセラーになってしまいました。でも、マスコミの持ち上げ方も私には納得できません。本当に、みんな読んでから言っているのかなと、私は今でも疑問に思っています。
 小泉首相は日本を精神的なレベルでズタズタに解体してしまった悪の権化だと私が毛嫌いしていることもあるのかもしれませんが・・・。
 「信長の棺」は織田信長の家臣で伝記「信長公記」の作者である太田牛一を主人公としています。本書も、「信長公記」は信頼できるという前提で貫かれてしますので、両者のベースは共通しています。しかし、結論は正反対です。
 本能寺の変の起きたのは1582年(天正10年)7月1日(旧暦では6月2日)未明のこと。信長は明智光秀の謀反と知ると、「是非に及ばず」と言った。これは「仕方がない」と解釈されてきたが、間違いだ。「何が起きたか分かったうえは、是非を論ずるまでもない。もはや行動あるのみ」というのが正解。なるほど、と思いました。信長は小姓たちと一緒になって最後まで戦ったのです。もっとも、そばにいた女性は逃がしたようで、そこから、信長の最期の様子が伝わっているのです。
 7月1日の京都の蒸し暑い夜だったので、小姓たちは素肌同然で、弓や槍もなく、刀で戦った。甲冑を着用し、鉄砲や弓・槍で厳重に武装した1万3000の明智軍にかなうわけがなく、短時間で決着をみた。本能寺の戦いは明け方に始まって短時間で終わり、長男信忠が逃げこんだ二条御所の戦いは午前8時ころから1時間ほどで終わった。
 著者は、光秀がいつの時点で謀反の決意を重臣に示したのかを重視して検討しています。結論としては、出動間近の亀山城内において、数人の重臣に告げたとしています。
 光秀の三日天下という言葉があるが、実際には、11日天下だった。
 明智光秀の人物像については、古典的な教養に富んだ謹直な常識人であって、勤王家でもあったというイメージが普及している。とことが、宣教師ルイス・フロイスの秀吉像は異なっている。
 光秀は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあった。己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。また、築城することに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
 ここには、一筋縄ではいかない、有能で、したたかな戦国人らしい、戦国人としての光秀像が読みとれる。光秀は合理主義者であったから、信長とウマがあったので、重用されたのだという見方がある。
 著者は、光秀が、信長打倒という点で一致しうる立場の重臣たちを動かし、自主的にことを運んだからこそクーデターは成功した。そこには黒幕の介在する余地などない、と断言しています。私も、なるほど、と思いました。
 いろいろの謀略説があるが、クーデターが成功したあと、光秀の役に立つことをした者は誰ひとりいない。これが謀略説の決定的な弱点であるとする著者の指摘には説得力があります。
 このほか、実行時期の見通し、機密漏洩の防止策の説明がないこと、裏付け資料がまったくないことも謀略説に共通する致命的な弱点だという点もうなずけます。
 著者には「偽書『武功夜話』の研究」「鉄砲隊と騎馬軍団」などの本がありますが、いずれも私の目を大いに開かせるものでした。その鋭い指摘には感嘆するばかりですが、これこそ読書の醍醐味です。

チンギス・カン

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著者:白石典之、出版社:中公新書
 モンゴル帝国が誕生して800年になるそうです。1206年、モンゴル高原の諸部族がチンギス・カンのもとに統一されました。
 カンとは、草原地帯に暮らしていたトルコ系、モンゴル遊牧民族が用いていた称号で、国の王や部族の長という意味。ハーンは、唯一無二の君主のことで、カンよりもランクの高い、遊牧民族を統合する最高位の者の称号。
 チンギス・カンの本名はテムジン。テムジンは、生きているあいだはカンと呼ばれており、ハーンと呼ばれるようになったのは、死んでかなりたってからのこと。ハーン(カアン)と呼ばれたのは第二のオゴタイ(ウゲデイ)と第四代のモンケ以降の君主である。そこで、この本では、チンギス・ハーンではなく、チンギス・カンとしています。
 テムジンとは、当時のモンゴル語で鍛冶屋を意味する。目に火あり、面に光ありと形容される、利発な少年だった。チンギス・カンは、その名のとおり鉄なくしては語れない。鉄と交通と後方支援。この3つの確保と連携。それがチンギス・カンの勝利の方程式だった。
 モンゴル時代は末子相続制というけれど、末子以外はそれぞれ独立に際して親からもらっている。したがって、末子が親の全財産を自動的に引き継ぐというものではなかった。チンギス・カンについても同じ。
 モンゴル軍の基本的な作戦方式は無血開城。目的はオアシス諸都市を接収し、その経済的繁栄を、そのまま手に入れることにあった。インフラも人的資源も、できれば無傷のまま残しておきたかった。そのため、降伏した都市では住民の安全を保障し、従来の体制を維持した。宗教に対しては寛容な態度をとった。しかし、抗戦する都市に対しては容赦ない攻撃をおこない、殲滅して周囲への見せしめとした。無駄な抵抗だと悟らせるためだ。
 チンギス・カンには数多くの后妃がいた。「元史」には39人の名前が紹介されている。彼女たちの多くは戦利品として手に入れたもの。当時、敵の大将の妻を奪うというのが、一種の勝利宣言だった。
 遊牧民は牧草地を荒らす行為として、土地を掘ることを忌み嫌う。現在の人は、世界征服者のチンギス・カンの墓ならば「明の十三陵」のような巨大な地下宮殿があるはずだと考えがち。しかし、文献資料をみるかぎりでは、柩と副葬品がおさまる程度墓穴に過ぎなかったようだ。チンギス・カンの墓は、その死が秘せられたように、墓所造営の当時から位置が分からないような手段がとられた。墓暴きにあい、永遠の眠りを妨げられるのを防ぐためだ。
 著者はチンギス・カンの墓所は、アウラガ遺跡から12キロ圏内にあると推定しています。それでも、東京23区内にあるというほどの広さではあるのですが・・・。新聞にのりましたから、私もついに発見されたのかと思ってしまいました。
 ただ、著者はチンギス・カンの墓所の探査を当面しないとしています。それは経済的な理由のほかに、モンゴル国民の感情に配慮してのことです。たしかにそうですよね。日本の天皇陵をアメリカ人がずけずけと発掘しはじめたら、あまりいい気はしませんからね。
 私も「明の十三陵」を見学したことがあります。まさしく地下宮殿でした。すごく奥深いのです。この本を読むまでモンゴル草原の地下のどこかに、チンギス・カンの墓所として壮大な宮殿があると想像していましたが、どうやら違ったようです。秦の始皇帝の墓所は今も発掘が続いています。あの有名な兵馬俑もまだ全貌が判明しているわけではありません。中国大陸のスケールの大きさには、いつも感嘆させられます。

電通の正体

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著者:週刊金曜日、出版社:別冊ブックレット
 電通はクライアントを3つに分けている。まずは広告売上げが年に100億円をこえる企業。トヨタ自動車(年に1000億円)、松下電器産業、花王、NTT。これらの企業のためには電通はエース級の社員でチームをつくり、全社をあげて取りくむ。
 次のランクは、大塚製薬、明治乳業、三共製薬、KDDIなどの中堅どころの企業。このランクがもっとも層が厚い。落としても代わりの社を取れば問題なしという扱い。
 最後のランクは、いつ関係が途切れるかわからない会社。電通は粗利を支えるため、ためらうことなく引き受ける。
 テレビ局にとっては電通が最優先。スポンサーが降りたりして空きが出ると、テレビ局は、まずは電通用にスポット枠をとっておく。
 田原総一朗の妻が死んだとき、そのお通夜の葬儀委員長は電通の成田豊会長だった。
 小泉首相にワン・フレーズ・ポリティックスをアドバイスしたのは電通だ。15秒以内のスローガンの羅列で、ワン・メッセージで端的に言う大切さを、電通から小泉首相は学んで実行している。
 電通の平均給与は年1300万円。一般社員でも30歳半ばで1000万円をこえてしまう。専務・常務クラスになると、何も仕事せずに、秘書と車がついて年収は4〜5000万円に達する。全国の電通ビルは、ほとんど全部が自社ビル。
 マスコミ、とくに広告業界のすさまじさを痛感させられました。私も、日弁連の役員をしていたときに、弁護士会の広報強化のために電通の知恵を借りるプロジェクト・チームに参加したことがありますが、その費用がびっくりするほど高額だったのに驚きました。電通から5人も6人も来るのです。こっちは1人か2人で十分だと思っていたのですが・・・。
 金権政治をすすめているもののひとつが、電通のようなコンサルタント会社にあることがよく分かる本でもあります。

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