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2006年4月 の投稿

入管戦記

カテゴリー:未分類

著者:坂中英徳、出版社:講談社
 東京入国管理局長だった著者が、日本における外国人処遇は現状でよいのかと問題提起をした本です。
 1970年ころの在日韓国・朝鮮人は65万人だった。1999年には52万人となった。2003年末には47万人。日本国籍を取得した人が20年間で12万人いて、毎年1万人の割合で減っている。1975年ころは、日本人との結婚は3割ほどだったが、 1999年には、それが8割となった。日本人との「同化」が急激に進行しています。
 名古屋入管の管内には14万人のブラジル人が居住している。4割近くを占めている。次いで、韓国・朝鮮の20%、中国15%と続く。名古屋にある、2000世帯の住む保見団地には3500人の日系ブラジル人が生活している。ブラジル人世帯の占める割合は56%になっている。ここでは、日常生活の大半をポルトガル語で生活しているし、やっていける。そうなんですね、ここまで来ているのですか・・・。単一民族の住む国なんて、もう言ってられませんよね。彼らの選挙権はどうなっているのでしょうか。税金だけとって、選挙権は与えないなんて、考えてみたらおかしいですよね。
 留学生が犯罪に走っている。2003年の留学生についての学校別検挙者数を調べると、専門学校や日本語学校よりも、東大・早大などの日本の有名大学が上位に名を連ねている。
 日本人の私たちは、もっとオープンに諸外国から訪れた人々を受けいれるべきだと著者は指摘しているように思います。とはいっても、エレベーターのなかで別の階から屈強な大男が乗りこんできたときには恐怖心を感じてしまいます。それは、単なる同乗者というより、目的があって乗りこんできたと心配するからです。
 単一民族であることを誇ってきた日本ですが(この認識は、もちろん正しくはありません)、否応なしに今やいくつもの民族が参入してきているのです。
 隣は何をする人のか、いま何を考えているのか、生活レベルでの共存を工夫すべき時代になってきているように思います。そのためにもコミュニケーションの必要がますます高まっています。

交通事故の被害者は二度泣かされる

カテゴリー:未分類

著者:柳原三佳、出版社:ルベルタ出版
 交通事故が起きてから警察官がつくった実況見聞調書がひどく杜撰だったため、加害者も被害者も大いに困ったというケースはしばしばです。この本では、どうして杜撰な調書ができるのか、その理由のひとつが解き明かされています。要するに、交通課の警察官が忙しすぎ、ノルマに追われているため、一件一件を丁寧に処理する精神的にも物理的にもゆとりを喪っていることにあるということです。
 管内に生じた交通事故について、1日に平均4回前後も出動し、1ヶ月には60〜70回となる。このうち担当するのは1ヶ月に20件くらい。被害者のケガの程度が2週間以内の事故については、簡約特例方式による1件書類をつくる。これは事故後1ヶ月内に診断書を添付して決裁にあげなければならない。これが8割くらいある。ところが、被害者がなかなか診断書をもってこないので、処理がすすまず、1ヶ月をこえてしまうことも多い。
 特例書式については、県警交通部より、3ヶ月内に処理するよう指導を受けている。早期処理のためノルマ主義があり、一定の処理件数をこなしていないとならない。処理件数が少ないと、超過勤務手当が削られたりもする。
 このように交通警察官があまりに忙しすぎて、もっとも大切な真実追究や事故原因の解明が二の次にまわされている疑いがある。私は、交通警察官が警察署内で冷遇されているのではないかと考えています。警察署内でもっとも優遇されているのは、なんといっても警備・公安警察です。なにしろ、使途のチェックを受けないS(スパイ)対策費を潤沢につかえるのですから、やめられないことでしょう。次に刑事、そしてパチンコ店などをかかえる生活安全課でしょう。
 毎日、本当に地道に事故処理を続けている交通警察官の皆さんには頭が下がります。といっても、杜撰な調書を見つけたら、もちろん、私もその不備を弾劾するつもりでいます。
 この本ではロサンゼルス市警の交通事故処理の状況が紹介されていて、参考になりました。まず、警察署の入り口の壁に若い殉職警察官の肖像写真がずらり飾られているというのに、日本との違いを実感させられます。ロス市警の黒人警部が、のちにロサンゼルス市長となったということであり、かなり警察署の雰囲気も違います。
 ロスでは、交通事故に関する調書は事故当事者であれば、13ドル支払えばすべて見ることができる。著書の開示だけでなく、事故当事者からの直接の問い合わせにも警察は応じている。
 ドイツでは、事故直後の実況見聞調書にヘリコプターを飛ばして現場を上空から写した航空写真が添付されている。
 日本でも、こんなシステムがあればいいな、と思ったことでした。

歴史のなかの天皇

カテゴリー:未分類

著者:吉田 孝、出版社:岩波新書
 「天皇」号をつかいはじめた時期が、実ははっきりしない。なんて、ちっとも知りませんでした。7世紀初の推古天皇の時代とする説と、7世紀後半の天武・持統天皇の時代とする説と二つの有力説がある。しかし、どちらもはっきりした根拠がない。えーっ、そうなんだー・・・。信じられません。
 「天皇」号は、7世紀の東アジアの国際情勢のなかで、随・唐には服属しない。冊封も受けない、という国際意識からうみ出されたものだった。平安時代以降、「天皇」号に対する関心は薄れ、むしろ「天子」号のほうが広く用いられていた。
 江戸時代の後期に「天皇」号が復活したが、一般化はしなかった。日本の君主号が正式に「天皇」と規定されたのは、明治憲法が最初であり、一般には「天子」がひろく用いられていた。中世・近世を通じて公家・武家と同じように「○○院」と呼んでいた過去の天皇を、すべて「○○天皇」とよび変えたのは、1925年(大正14年)からのこと。外交文書における「皇帝」を「天皇」と変えたのは1936年のことである。
 雄略(「天皇」)は、兄であるアナホ大王(安康)がイトコの目弱(まよわ)王に殺されると、有力な王位継承候補者を次々と殺し、最後に大王の位についた。日本において、大王の位は戦いとって得るものでした。平和な禅譲はなかったのです。
 継体王朝は、近江・越前あたりを本拠とする豪族が長い年月をかけて大和に攻め入り、大王位を奪ったというのが、学界でほぼ定説となっているのではないでしょうか。日本の天皇は、決して万世一系というものではありません。
 倭の朝廷は遣隋使をやるにしても、「倭王」に冊封することを、ねばり強く拒んでいた。朝貢はするが、冊封を受けて正式の臣下になることは拒んでいた。桓武天皇の母親である高野新笠は渡来系氏族(和・やまと氏、百済系)の出身であった。「皇別」(天皇の子孫)、「神別」(神々の子孫)に比べて、「蕃別」(渡来人の子孫)は一段低くみられていた。
 810年の「薬子(くすこ)の変」で藤原仲成が処刑されてから、1156年の保元の乱まで、天皇の裁可による死刑執行は、350年間おこなわれてなかった。これは人類史上、きわめて稀な歴史だろう。奈良時代、死刑はほとんど減刑された。
 現代日本は残念ながら、まだ死刑制度が残っています。とりあえず死刑の執行を停止すべきだというのが日弁連の提言です。私も、もっともな提案だと高く評価しています。
 江戸時代、天皇は民衆の笑いの対象になっていた。歌舞伎の天皇は、しばしば道化方は、ひげぼうぼうのどてら姿で、空腹に耐えかねて、扇動の飯を盗んで食う仕草で大いに笑わせた。
 醍醐天皇も菅原道真を太宰府に左遷したために地獄に墜ちたという話が中世に広く流布した。日本人は、昔から天皇をそれほど神様扱いしてこなかったわけです。
 実際、最近のマスコミの雅子さんいじめは度が過ぎているように思います。病気なんですから、もっと優しく見守ってあげたらいいと思うのですが、週刊誌の見出しをみていると、「わが子の入園式のため、公務ドタキャン」とか、ちょっとひど過ぎるように思います。右翼が騒がないのが不思議なほどです。

ヒトラー・コード

カテゴリー:未分類

著者:H・エーベルレ、出版社:講談社
 映画「ヒトラー最期の12日間」の原作ではありません。むしろ、映画とはかなり違った状況が描かれています。たとえば、映画ではエヴァ・ブラウン(ヒトラーの長年の愛人で、自殺する直前に結婚して法的に妻となった)の妹の夫となったフェーゲラインを戦線逃亡の罪で死刑だとヒトラーは叫んでいました。この本では、逆に、ヒトラーは妻のためにフェーゲラインをなんとか赦してやろうとするが、側近から諫められる姿が紹介されています。
 この本は、映画にも出てくるヒトラーの最側近2人をソ連軍が逮捕し、スターリンの命令でヒトラー最期の日々を再現したものです。スターリンの都合の悪いところは大胆にカットされてはいますが、それをさておいてもヒトラー最期の日々が、500頁もの大作として詳細に明らかにされています。なかなかに読みごたえのある本でしたので、私は3日間ほど持ちまわって、ようやく読了しました。ドイツの若手学者による詳細な注釈があって、歴史的事実を正確に知ることのできるところも魅力的です。
 ヒトラーは1945年4月30日午後3時半ころ、ベルリンにある首相官邸地下壕でピストル自殺した。エヴァ・ブラウンはそばで青酸カリを飲んで自殺した。ヒトラーは赤軍の手に落ちたら、檻に入れられてモスクワの赤の広場に運ばれ、怒り狂った群衆の手にかかってリンチされる。このような恐ろしい強迫観念に囚われていた。
 スターリンは、ヒトラーが死んだことをなかなか信じられず、不安になっていった。そこで、スターリンは1945年末に、ソ連の内務人民委員部(NKVD)に首相官邸地下壕でのヒトラー最期の日々を再現し、ヒトラーの死を最終的に証明せよと命じた。この報告書「ヒトラーの書」は1949年12月29日にスターリンに渡された。この本は、それを翻訳したものです。
 ヒトラーには、愛人がいた。若い姪のニッキーだ。ところが、ニッキーは1932年に自殺した。ヒトラーには子どもがいなかったため、性的不能者ではないかという噂もありますが、そうではなかったようです。
 1937年9月、ヒトラー・ドイツ軍の演習場にヒトラー、ムッソリーニと一緒にイギリス軍参謀総長デヴェレル元帥が肩を並べて立った。イギリス参謀本部の代表者がヒトラーのゲストとして、この演習に参加したということは、イギリスがドイツ国防軍の再建と軍備増強を認めたのみならず、それを好意的にみていることの証明だった。イギリスは、このようにして世界に対する過ちを犯した。いやー、本当にひどい過ちですよね。チェンバレンのヒトラー宥和政策と同じ誤ちです。
 1941年12月。モスクワを目前に足踏みしていたドイツ軍の東部戦線の戦況に関するヒトラー御前の作戦会議は大いに荒れた。ヒトラーは叫び、拳でテーブルを叩いて、将軍たちを無能だと非難した。このようなシーンは映画に何度も出てきました。
 その結果、武装SSとドイツ国防軍の対立は激化した。SS兵は国防軍をこう言って非難した。あいつらには真に突撃精神が欠けている。机上の空論しか言わない。国防軍将校のほうからも不平の声があがった。自分たちよりSS部隊のほうが装備も兵器も優れている。おまけに、あいつらは軍部でも特別な地位にある。要するに、どちらの陣営も相手の方が優遇されていると非難しあっていたのです。
 ところが、1941年12月7日、日本が真珠湾でアメリカ艦隊を奇襲したので、ヒトラーの総統本部に活気がよみがえり、モスクワとレニングラードでの敗北は忘れ去られた。そうだったんですか。日本軍が無謀には真珠湾攻撃を始めたとき、ヒトラー・ドイツ軍は既に行きづまっていたのですね・・・。ヒトラーは、1941年12月11日にアメリカ合衆国へ宣戦布告した。このとき、アメリカ参戦のもたらす影響を事前に研究させることもなかった。
 1942年5月、ドイツの実業家たちが軍需産業での労働力不足の解消を求めると、ヒトラーは、ロシア兵捕虜とロシアから連行してきた一般住民を労働力として提供することを約束した。
 1942年秋、ヒトラーの総統本部の戦勝気分はすっかり消え失せていた。ヒトラーは将官たちとのつきあいを完全にやめ、昼食はひとり執務室でとった。夜は葬送音楽のレコードをかけさせた。極度に神経質になり、壁にハエが一匹とまっただけで激怒した。まるで重病人のように土気色の顔、げっそりした頬、目の下が腫れあがり、陰鬱な表情を浮かべた。
 1943年2月、スターリングラードでのドイツ軍壊滅はヒトラーに大打撃を与えた。主治医に興奮剤を注射してもらわないと、ヒトラーはもう耐えられなかった。主治医は1日おきに朝食後ヒトラーに注射をうった。神経性の腸痙攣も起きた。何日もベッドから起きあがれないことがあった。何にでも毒が入っているのではないかと疑い、調理に使う水の検査も命じた。爪をかみ、耳や首筋を血の出るほど、かきむしった。不眠症に悩み、ありとあらゆる睡眠薬を飲んだ。息苦しいので寝室に酸素ボンベをおき、一日に何度も酸素を吸入した。ベッドは電気毛布と電気クッションで暖めた。
 ヒトラーは、ガス室の動向に興味をもっていた。移動ガス室(トラック)をつかうよう直々に命令した。やっぱりユダヤ人殺害そしてソ連兵捕虜大虐殺の張本人だったのです。
 ヒトラーは高官夫人と女性秘書たちと昼食をとった。たわいのない話に花が咲いた。戦争とその恐怖のことは一言も出なかった。女性のファッションと、戦争が女性に強いる苦労が話題だった。そうやって精神のバランスをとろうとしたのでしょうね。
 ヒトラーは、自分が喫した敗北はすべて将軍たちのせいだと言い張った。しかし、将軍たちに責任をとらせることはなかった。ところが、将校たちに対しては敗北主義をとったとして、情け容赦もなく死刑判決が下され、ヒトラーはためらわずサインしていった。
 この本では、クルクス進攻作戦、アルデンヌの戦いについても詳しく紹介され、ヒトラーがいかに期待していたかが明らかにされています。
 ヒトラーの腸痙攣は、ヒトラーが菜食主義であり、運動不足であったこと、主治医が興奮剤を頻繁に処方したため、腸内菌群が死滅したことによるとコメントされています。
 1943年12月、ヒトラーの腰はいっそう曲がり、左手の震えが激しくなった。頭髪はじわじわと白くなった。食事のとき、グラスになみなみと注いだブランデーを一気に飲み干した。もともとヒトラーはアルコールの臭いが嫌いだった。ところが、今や、昼食そして夕食のたびに、かなりの量のブランデーやコニャックを飲んだ。ヒトラーは食事を楽しむということはまったくなかったようです。いかにも人間として狭量ですよね。
 1944年7月20日に起きたヒトラー暗殺未遂事件のとき、ヒトラーが助かったのは、爆発の瞬間、ヒトラーが上半身をテーブルの上に乗り出して、東部戦線の地図に見入っていたので、頑丈な木材でできたテーブル板が爆発の衝撃を受けとめてくれたから。
 このクーデター計画に関連して逮捕された人数は7000人をこえ、うち4980人が殺害された。参謀本部などの60人の将校が死刑判決を受けた。
 1945年2月末、ヒトラーは声帯の手術を受けた。しょっちゅう金切り声をあげたため、声帯に穴が開いてしまったから。
 このころから、ヒトラーは、エヴァ・ブラウンと女性秘書たちとだけ食事をともにした。映画にも、そのわびしい情景が描かれていました。ヒトラーは不眠症に悩んでいたので、女性たちは午前5時、6時ころまで付きあわなければいけなかった。老けこみ、くたびれた様子で、髪は白くなり、腰はひどく曲がり、足を引きずるようにして歩いた。
 異常に神経質で落ち着きがなく、ますます怒りっぽくなり、しばしば矛盾した決断を下した。右目も痛みはじめた。ヒトラーは覚せい剤ペルビチンの依存症だと思われています。
 ヒトラーがエヴァ・ブラウンと結婚したとき、歩くのもやっとだった。顔は血の気を失い、視線は落ち着きなく、さまよっていた。服もしわくちゃ。エヴァ・ブラウンも眠れぬ夜が続いたため、顔色が悪かった。濃紺のシルクのワンピースを着ていた。
 映画は、あまりにもヒトラーを美化していたような気がします。この本をじっくり読んで、その実像をとらえなおすことができたと思いました。ずっしりと迫る重たい本です。読みごたえがありました。

あなたのなかのサル

カテゴリー:未分類

著者:フランス・ドゥ・ヴァール、出版社:早川書房
 イギリスの動物園で、ボノボの飼育場のガラスにムクドリが激突して落下した。ボノボのクニは高い木のてっぺんにのぼり、両脚で幹にしがみつき、両手でムクドリの翼をそっと広げ、オモチャの飛行機を飛ばすように飛ばした。ムクドリはまだ目がさめず、飛べないまま地面に着地した。そこで、クニは木からおりて、ほかのボノボが近づかないよう、長いあいだムクドリを見守った。やがてムクドリは元気を取り戻して飛び立っていった。このボノボの行動は、他者を思いやる共感行動ができることを証明している。
 別の動物園で、ボノボのリンダが産んだメスの赤ん坊(2歳)が、おっぱいをほしがった。赤ん坊が人工保育で育ったため、リンダのおっぱいは出なくなっていた。それでもリンダは赤ん坊の要望を理解し、水飲み場に行って口いっぱいに水を含んだ。そして、赤ん坊の正面にすわって唇をすぼめ、水を口うつしで飲ませてやった。赤ん坊が満足するまで、リンダは水飲み場とのあいだを三度往復した。
 ボノボのメスには乳房がはっきり認められる。Aカップぐらいはある。ボノボのトレードマークは、まん中分けになっている頭の毛。
 ボノボとチンパンジーは身体つきが相当ちがう。チンパンジーは頭が大きく、首が太く、肩幅も広くて、毎日ジムで鍛えているみたい。それに対して、ボノボは首が細く、肩幅も小さくて、上半身がほっそりして知的な外見をしている。二足歩行すると、ボノボは背中がまっすぐで妙に人間っぽい。ボノボは大型類人猿のなかでいちばん最後に1929年に発見された。ボノボは日本にいないそうです。残念です。
 チンパンジーとボノボは鳴き声で区別するのが一番簡単。チンバンジーはフーフーという低い声を出す。ボノボは、むしろヒーヒーといった高い声。
 野生状態のボノボは、思春期になってもとの群れを離れるのはメスのほう。オスはそのまま残り、母親の庇護を受ける。影響力の強いメスの息子は自然と地位も高くなり、食べ物をとっても大目にみてもらえる。動物園では、メスによるオスのイジメが問題になる。くんずほずれつの乱闘となって、負傷するのは必ずオスのほう。
 チンパンジーの世界は、潜在的な暴力という雲におおわれている。動物園でも野生でも、子殺しは死亡原因のかなりの部分を占める。
 第二次大戦中、動物園の近くが空襲を受けたとき、3頭のボノボは心臓発作をおこして全員死んだ。チンパンジーは無事だった。それほど、ボノボは繊細だ。
 チンパンジー社会は、1頭のオスが単独支配することはまずない。あったとしても、すぐに集団ぐるみで引きずりおろされるから、長続きはしない。チンパンジーは同盟関係をつくるのがとても巧みなので、自分の地位を強化するだけでなく、リーダーは同盟者を必要とする。トップに立つ者は、支配者としての力を誇示しつつも、支援者を満足させ、大がかりな反抗を未然に防がなくてはならない。人間の政治とまったく同じ。
 チンパンジー社会では、上下関係があらゆる面に入りこんでいる。メスがトップの座につくのは、誰もがリーダーと認めるからであり、そのため地位をめぐる争いはほとんど起こらない。オスのあいだでは、権力は早い者勝ち。年齢その他の基準で授与されることはない。あくまで競争の末に勝ちとるもの。ライバルたちに用心しながら必死で守るもの。オス同士が同盟関係を結ぶのは、あくまでお互いが必要だから。
 サルには厳格かつ安定した序列関係ができている。チンパンジーは、ケンカに介入するとき、勝者も敗者も、ほぼ同じくらい支援する。いくら形勢が有利でも、増えるのは敵か味方か予想がつかない。サルは勝者を応援する。これはサルとチンパンジーの社会が決定的に異なる点だ。負け側に力を貸したりすると、上下関係に動きが出てくる。チンパンジーのトップの座はサルの社会に比べると不安定なのだ。
 人間の笑顔は、もとをたどれば懐柔の合図。だから男性より女性のほうがいつも笑顔でいることが多い。うーん、そうなんですね・・・。だから、私は、いつもニコニコしているんですね。
 ボノボのセックス好きは有名です。だから、子どもが見物にいく日本の動物園にはボノボがいないのでしょうね。あれ、何してるの?と子どもたちに訊かれたら赤面して、引率の先生はシドロモドロになってしまうことでしょう。ボノボが交尾に要する時間はおどろくほど短く、平均14秒。だから、ボノボの日常は、いつ果てるともしれぬ乱交パーティーというのではなく、親密な性的接触をスパイスのようにまぶした社会生活である。
 セックスといえば、子づくりと性欲のためと人間は考えがちだが、ボノボにとっては、セックスのためのセックス、宥和のためのセックス、愛情表現の性行動など、あらゆるニーズをセックスで満たしている。めざすところは満足感であり、生殖はセックスの一機能にすぎない。ボノボやチンパンジーのオスは、成熟しきったメスを交尾相手に選びたがる。若いメスには目もくれない。すでに健康な子どもを産んだ実績を重視しているからだろう。
 ゴリラは、家族を守るためなら、死もいとわず敵に向かう。ボノボの生息域にはゴリラはいない。チンパンジーの活動範囲はゴリラとぴったり重なりあい競合している。
 ボノボは、永遠の若さをもつ霊長類だ。頭は小さくて丸みを帯びており、白いふさのような尾がはえたまま。声は甲高いし、メスの性器が全面にあるのも、幼形成成熟のひとつ。おとなになっても茶目っ気が抜けない。
 世界に残された類人猿は、チンパンジーが20万頭、ゴリラが1万頭、ボノボとオランウータンが2万頭だけ。2040年には類人猿に適した生息環境が完全に消えるという予測がある。
 著者の「政治をするサル」(平凡社)を読んだとき、私は本当にびっくり仰天してしまいました。まさしく人間と同じで、いかにも高度の政治をするサルの世界が紹介されていたからです。離合集散みごとな高等芸術でした。自民党の派閥抗争なんか顔負けです。果たして、人間はチンパンジーに似てるのか、それともボノボに似てるのか。また、どちらに似たほうが人間にとって幸福なのか。いろいろ考えさせられる本です。

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