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2006年3月 の投稿

植物のこころ

カテゴリー:未分類

著者:塚谷裕一、出版社:岩波新書
 クローン人間というのは不気味ですが、クローン植物は身近にありふれています。ヒガンバナは有名です。この本によって、キンモクセイもクローンだというのを知りました。ニホンスイセンも、シャガもそうなのです。シャガはわが家の庭にもたくさん咲いています。いえ、どんどん延びて広がり、まるで雑草です。でも、シャガの花は可愛いですよ。
 冬から春にかけては庭仕事が楽しい季節でもあります。雑草も少し勢いがありません。蚊はいませんし、太陽もちょうどいいくらいです。夏のカンカン照りはたまりませんよね。
 黄水仙とクロッカスが咲いています。あっ、そうそう、チューリップの芽がぐんぐん伸びています。
 風が強いところや、常に何かに擦られたり触られたりするような環境下では、植物は背が低くなり、花も早く咲くことが多い。毎日なでていたら小さいうちから花が咲いたというのも、この現象の一つであって、ストレスが昴じて急いで種子をつけようとしたわけだ。それを、なでられて気持ちがいいから、恩返しに早く花を咲かせた、などというのは、あまりに人間中心的な、都合のいい解釈である。
 熱帯の森には、シロアリとアリが非常に多い。アリは森のごみ掃除を引き受けている。アリと共生する植物がたくさんいて、それをアリ植物と呼ぶ。アリ植物は、川のそばとか台地の上など、土地からの栄養補給が乏しいところに多い。そういうところでも昆虫はたくさんいるから、アリはせっせとほかの昆虫を餌につかまえてきては、食べかすをアリ植物に与えている。
 なんという融通無碍な植物という生き方。オビに書かれた文句のとおりです。私たち人間も見習いたいものです。
 春はもうすぐです。沈丁花の花が咲いています。チューリップの花は、植えたのが全部咲くと500本をこえるはずです。写真でお見せしたいほど、それは見事なものです。私は、毎年、チューリップの花に囲まれて春を満喫する幸せを楽しんでいます。あなたも一度、わが家の庭を見にきてください。もちろん見物料なんかいりませんよ・・・。

人間の暗闇

カテゴリー:未分類

著者:ギッタ・セレニー、出版社:岩波書店
 ナチスのつくったユダヤ人絶滅収容所のひとつ、トレブリンカ収容所の所長だったシュタングルに女性ジャーナリストがインタビューしました。70時間にも及ぶロングランのインタビューです。そして、関連する人々も取材しています。私は見ていませんが、映画「ショアー」の原作本といえる本です。
 絶滅収容所と強制収容所は違うもの。絶滅収容所は占領下のポーランドに4ヶ所だけもうけられていた。ここでは、生き残るチャンスはなかった。ユダヤ人とジプシーをただ殺害するだけの目的で建設された。強制収容所はナチスの新秩序に抵抗する人間を拘束して再教育するための刑務所的施設としてつくられた。再教育の不可能な囚人はスパイなどとして処刑されたが、大半の囚人は比較的短期間のうちに保釈された。1941年に巨大な奴隷市場がつくられたが、生き残るチャンスはまだあった。これに対して絶滅収容所から生還したのは、わずか87人のみ。
 ユダヤ人とジプシーの大量虐殺は、ヨーロッパ中の劣等種族を抹殺するというナチス・ヒットラーの巨大な構想の第一歩にすぎなかった。ナチスは、それをロシアでまず始め、1941年から1944年までの間に700万人の市民を虐殺した。ついで、ポーランドで、非ユダヤ系ポーランド人300万人を殺害した。
 シュタングルはトレブリンカの前にゾビボール絶滅収容所の所長でもあった。ここで、1942年5月から1943年10月までのあいだに25万人のロシア人、ポーランド人、ユダヤ人、ジプシーが殺された。そして、1943年10月14日、数百人の囚人による武装蜂起が起こった。これらの25万人は、収容所に着いてわずか数時間のうちに跡形もなく殺害された。周辺に住む人々が知らない、気がつかないはずはなかった。夜ともなると、空が真っ赤に燃え上がり、たとえ30キロ離れていても、あたりにはくさい臭いが漂っていたのだから。甘いような、なんとも言えない臭いだった・・・。
 シュタングルがトレブリンカ収容所長だったあいだに90万人が殺されています。その殺害に責任があるとして、終身刑を宣告されました。死刑ではなかったのですね・・・。シュタングルは確信的な古参のナチ党員でしたが、妻はナチ嫌いでした。
 シュタングルは、自分は何ひとつ不正なことはしていない。常に命令に従い、命令以外のことはしてこなかった。個人的に誰かを傷つけたこともない。起こったことはすべて戦争の悲劇であり、世界中どこでも同じだった。このように答えました。同じようなセリフを日本の軍人たちも言っていましたね・・・。
 なぜ、あんな残酷な方法をとる必要があったのか? この問いに対して、シュタングルは次のように答えました。
 いきなり殺すわけにはいかなかった。大量の人間を制御する必要があった。それがあって初めて実行できたのだ。何百万もの人間、男性、女性、子どもを殺害するために、ナチスは単なる肉体的な死がかりではなく、精神的な死と社会的な死を与えた。それは単に犠牲者だけにではない。殺人を行った加害者に対しても、また、それを知っていた傍観者に対しても。そして、さらに、ある程度まで当時、考えたり感じたりすることのできたすべての人間に対して・・・。
 ナチスは現実から目を閉ざしがちな人間心理を巧みに利用して、大量殺人システムをつくりあげた。ヨーロッパ東西のユダヤ人に格差があることに注目した。西側のユダヤ人は現実を把握する能力が高く、事実を知れば抵抗するかもしれないという心配があった。だから、いろいろの偽装工作がなされ、到着した犠牲者は欺かれた。ガス室へと続く回廊に裸で5列に整列させられ、抵抗することなく殺されていった。
 東ヨーロッパから移送されてきたユダヤ人には偽装工作は不要だった。ある種の集団暗示だけで事足りた。犠牲者は到着後2時間以内に全員殺された。この2時間のあいだ、息つく間もなく何も考えさせないようにしていた。これは何千人という人間を殺害するために注意深く計画され、巧妙に利用された時間だった。
 シュタングルにとって、収容所に到着した犠牲者は、もう人間とは思えなかった。物体だな。物以外の何物でもなかった。ただの肉片の塊に過ぎなかった。
 トレブリンカ収容所でも武装蜂起が起きた。その中心人物、ゼロ・ブロッホは、皆の勇気を引き出す言葉と自信と力を与えることのできた人物だった。
 当時、ユダヤ人を匿ったり助けたら、すぐに射殺された。それでも救助しようとする人が収容所の周辺に少数ながらいた。
 強制収容所の看守をしていた人間が、仕事を嫌がって転属願いを当局に出したらどうなったか。多くは処刑されたり、強制収容所へ送られた。
 トレブリンカ駅の駅長がポーランド抵抗組織のメンバーであり、ドイツ軍の動静を観察するために送りこまれた人物であることが紹介されています。この駅長は、収容所に入る列車と人間をずっと数え続けたのです。そして、120万人が殺されたと証言しています。
 コルチャック先生と子どもたちはトレブリンカ収容所で殺されましたが、それはシュタングルの着任する前のことでした。
 シュタングルはアメリカ軍に逮捕され、収容所に入れられましたが、そこからやすやすと脱走しました。アメリカ軍は、むしろナチスに理解を示し、逆にその犠牲者に対しては共感に乏しかったのです。シュタングルはローマに逃げ、そこから教会の力を借りて南米に逃走します。小説「オデッサ・ファイル」があるように、ナチス高官の逃亡を助ける組織としてオデッサの名前は有名ですが、その存在は確認できないとされています。むしろ、ナチス高官の逃亡を助けたのは、赤十字とバチカン・ルートだというのです。
 カトリック教会はボルシュヴィズムに対して大きな不安を抱いていた。教皇ピウス12世は個人的にドイツを好んでおり、反ユダヤ主義的な考え方の持ち主だった。教皇が沈黙したことによって、戦後のナチ戦犯の逃亡にローマの司教らが手を貸す事態を招いた。
 そして、逃亡に成功したシュタングルはブラジルで本名をつかって生活していたのです。サンパウロのオーストリア大使館にも本名で届け出しています。その生活は、あまりゆとりのあるものではなかったようです。いろいろと深く考えさせられる本でした。

ジャンヌ・ダルク復権裁判

カテゴリー:未分類

著者:レジーヌ・ペルヌー、出版社:白水社
 ジャンヌ・ダルクが処刑裁判によって破門・火刑に処せられてから25年たって、復権のための尋問が開かれました。フランス国王シャルル7世の命令によります。1450年のことです。しかし、教会裁判の結論を破棄することは国王の裁判所ではできませんでした。
 1450年4月15日、フランス西北部のフォルミニーの戦闘で、イギリス軍はフランス軍に完敗しました。かつてのアザンクールの戦い(シェークスピアの「ヘンリー5世」で有名です)のお返しをフランスは果たしたのです。
 1452年5月から、教会による調査が始まりました。そこでは、ジャンヌが処刑されたただ一つの理由は、彼女が男の服装を再度着用したことだということが明らかになった。
 そして、被告ジャンヌに弁護士がおかれなかったことは、法規に違反するとされた。
 教会による復権裁判が始まったのは、1455年11月7日。裁判に出頭した証人の尋問調書が残っています。
 ジャンヌは、たった1人で被告席にすわり続けていた。審理の最後まで、指導者も、助言者も、弁護士もいなかった。
 ジャンヌは非常に用心深い答弁をしたので、陪席者たちは感嘆していた。
 あるイギリスの高官がジャンヌの牢獄に入ってきて、暴力で彼女をものにしようとした。これが彼女が男の服装に戻った理由だとジャンヌから聞かされた。
 一緒にいた兵士たちに屈しないためでなければ、彼女は男の服装をすることもなかっただろうと言われていた。
 ジャンヌは火刑台に連行され、柱にしばられながらも、神や聖者への讃辞や信仰に支えられた嘆きの言葉をはき続け、その死の間際には、高い声で「イエズス様」と最期の叫びを残した。
 ジャンヌの遺骸の灰は集められたうえ、セーヌ川に捨てられた。
 復権裁判における証人尋問が終わったのは1456年5月14日。判決は1456年7月7日に下された。処刑裁判の判決は無効であるとして、破棄された。オルレアンの町では、町主催で7月21日に祭典が開かれた。15世紀の裁判なのに、こんなに詳しく過程が分かるというのも、本当に不思議な気がします。
 先日、ジャンヌ・ダルクの遺骨を称するものが残っているので、DNA鑑定にかけて真偽を科学的に調査するという新聞記事を読みました。セーヌ川にすべて捨てられたわけではなく、火刑台に残っていた骨を拾って持ち去った見物人がいたというのです。ジャンヌの残っている衣類と照合するのだそうです。いったいどういう結果が出るのでしょうか・・・。

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