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2005年12月 の投稿

性と生殖の近世

カテゴリー:未分類

著者:沢山 美果子、出版社:勁草書房
 明治になって民衆の堕胎は日本史上初めて犯罪になった。堕胎は近代に至るまで犯罪ではなかった。堕胎が処罰されるようになったのは、富国強兵策の重要な柱である人口増加政策として制定されたもの。
 以上は、いわば今日の私たちの常識のようなものです。しかし、この本はそれは間違いだと強調しています。江戸時代、藩レベルで堕胎・間引きは犯罪として取り締まられていたというのです。津山藩には「赤子間引取締」(1781年)があり、産まないことの禁止・取締に重点をおいていた。仙台藩には赤子養育仕法があって、産むことを奨励し、その救済に重点を置いていた。
 天保2年(1831年)に津山藩主となった松平斉民は、堕胎・間引き禁止政策の一つとして、「西洋書」でみた「露西亜」の育児院のようなものができないかと諮問し、町奉行が育子院構想を答申した。ええーっ、そんなことが江戸時代に考えられていたとは、驚いてしまいました。ロシアに漂流した大黒屋光太夫が日本に帰国してロシアの事情を語った「北槎聞略」などを藩主が読んだらしいのです。
 岡山藩では、捨子養育者に褒賞を与える措置がとられていました。藩が捨子の養育に措置したため、拾われることを期待した捨子をうむことにもなったそうです。
 一関藩の育子仕法では、妊娠・出産について節目で届出が求められていました。月経が停止して5ヶ月たつと、着帯届をしなければいけませんでした。これは、妊娠・出産の管理の意味をもっていたのです。2人目の子どもまでは自力で育てるべきだけど、3人目からは養育料が貸与されていました。ただし、生活が困窮しているかどうかの調査がありました。
 また、この本は江戸時代から明治にかけて津山市で活躍していた女医(光後玉江)が紹介されています。そんな記録が残っていたこと自体が驚きですが、それを現代文にして世に紹介した人もすごいと感心しました。
 江戸時代について、考え直させる本でした。

9.11 生死を分けた102分

カテゴリー:未分類

著者:ジム・ドワイヤー、出版社:文芸春秋
 2001年9月11日。9.11のあのとき、自分は何をしていたのか。かなりの人が覚えていると思います。私は先輩弁護士2人と小料理屋で会食し、夜遅くホテルに戻って何気なくテレビをつけて初めて知りました。あのとき、映像を見ながら心底が凍えるような、悪寒に震えてしまいました。戦争が始める、いや始まった。そんな恐怖心を感じて、しばらく寝つけませんでした。
 1機目が北タワーに突入したとき、ワールドトレードセンターには1万5千人もの人がいました。それから南タワーが崩壊するまでの102分のあいだに現場で何が起きていたのかを刻明に再現していった本です。
 北タワーが攻撃されたのは午前8時46分31秒。南タワーは、その16分28秒後に攻撃された。ところが、南タワーの方が先に、午前9時58分59秒に崩壊した。北タワーは、その後、10時2分25秒、つまり29分26秒後に崩壊した。つまり、北タワーでは102分、南タワーでは57分、何千人もの人々が避難する時間があり、実際に避難できた。
 ワールドトレードセンター全体で、避難が遅れて建物が崩壊する前に脱出出来なかったために死亡した人は1500人以上にのぼるとみられている。
 ワールドトレードセンターでは1993年2月26日にも地下駐車場でテロリストたちが爆弾を破裂されるテロ行為があった。しかし、高層ビル自体はまったく無傷だった。だから、技術者は自信をもち、当時もっとも大きな飛行機であったボーイング707が衝突しても、この建物は倒壊しないと断言していた。
 この建物は、たしかに飛行機の衝撃にも耐える強度をもっていた。建物の巨大な重量を縦の線にそって下に逃がし、土台とその下の岩盤で受けとめるようにした。これで十分に余裕のある強度を確保することができた。実は重力より大きな問題があった。それは、風だ。タワーのどの面もハリケーン並の時速200キロ以上の風に耐えられるようになっていた。ふつうの天候の日でも、建物が受ける風の圧力は9.11の旅客機が与えた力の30倍だった。タワーの質量はジェット機の1000倍。この差を考えたら、飛行機がぶつかったあとも、建物がそのまま立っていたのは不思議ではなかった。だが、建物のなかにいる人たちの安全を考慮した設計にはなっていなかった。
 高層ビルの火災に対しては、建物自体がそこにいる者を保護することが前提となっている。炎上しておらず、煙も充満していないフロアにいる者は、逃げようとするよりも、そのままそこにとどまった方が安全だというのが基本的な考え方。
 ワールドトレードセンターは、建物内の全員が一斉に避難するという事態を想定して設計されていなかった。それでも、各棟には、それぞれ全部で99基のエレベーターが設置されていた。
 ジェット機に積まれていた4万リットルの航空機燃料は巨大な火の玉となった。最大時には幅が60メートル、建物の幅と同じくらいに広がった。燃料自体は恐らく2、3分内に燃えつき、その大部分は、建物の外に噴き出したが、一部はエレベーターシャフトを伝って建物内に広がった。北タワーの上層階には、旅客機の突入後も1000人近い人たちが生存していた。
 センター内にいた人々は、椅子やコンピューターのディスプレイなどを手当たり次第に投げつけて窓ガラスを割り、新鮮な空気を得ようとした。しかし、その結果、その部屋と、その上の部屋に炎を呼びこんでしまった。
 午前9時半までに、南タワーに出勤してきた6000人の大半があともどりして建物を出た。南タワーからの避難は8時46分に始まっていた。9時半の時点では1000人が建物内にいた。このうち600人が生還しなかった。200人は旅客機が突入したとき即死したと考えられる。南タワーにこもっていたエネルギーは、2億7800万ワット時(2億3900万キロカロリー)という途方もないものだった。そのすべてが建物が崩壊した瞬間に放出された。それは原子爆弾100分の1個分のエネルギーだった。アトランタやマイアミといった規模の街に1時間電力を供給できるだけのエネルギーだ。その強烈な衝撃は、400キロメートルも離れたニューハンプシャー州リスボンにある地震計が波動をとらえたほどだった。
 警察の高層ビル専門チームが、近くのヘリコプター発着場に集合し、センターの屋上にロープづたいに降りろという命令に備えて待機していた。しかし、警察本部長が、屋上は煙と熱がひどすぎると判断し、ヘリコプターの出動を止めた。
 消防局の指導部は、タワーの高層階で燃えている火を消すのは不可能だと考えていた。消防隊員は何十キロの重さの装備を携行していたが、そのような道具を使用して鎮火にあたることは求められてはいなかった。
 北タワー上層階にいて、8時46分の旅客機の突入ののちも命があったのに、通れる非常階段を見つけることができなかったため、1000人あまりの人が助からなかった。
 北タワーが崩壊したとき、200人もの消防士が建物内にいた。南タワーが崩壊したことを知らされていなかった。これは、警察と消防の間の意思疎通、情報交換がなされなかったことによる。南タワーの78階より上にいて助かったのは、わずか4人。北タワーでは、高層階は死のフロアーになってしまった。
 消防士たちが勇敢な救出活動に励んでいたこと、また情報が途絶したために多くの人が殉職していったことが分かります。痛ましいテロ攻撃を根絶したい。つくづくそんな気にさせる本でした。

刀狩り

カテゴリー:未分類

著者:藤木久志、出版社:岩波新書
 この著者の本には、いつも目が大きく開かされる思いです。難しく言うと、刮目(かつもく)に値する本です。
 秀吉の刀狩りによって日本人は武装解除され、それ以来、日本人はながく丸腰の文化を形成してきたというのが今の私たちの常識です。でも、この常識は本当なのか。この本を読むと、まったく違った日本人像をもたざるをえなくなります。
 ちなみに、私は、日本人は聖徳太子の「十七条の憲法」以来、和をもって貴しとなしてきた、争いごとを好まず、裁判沙汰を嫌う国民性があるという常識も間違っていると考えています。だって、あの「十七条の憲法」をよく読んでみてください。このところ(もちろん、聖徳太子のいた当時のことです)、裁判があまりにも多い。裁判官も賄賂をもらっていいかげんにしている。もっと仲良くしないとダメじゃないかと、当時の日本人に反省を迫っている文章なのです。争いごとを好まないどころか、あまりに争いごとを好むから、ホドホドにして、せめて裁判は減らせと聖徳太子は言ったのです。
 まちがった常識のひとり歩きは恐ろしいものです。戦国時代に日本にいた宣教師ルイス・フロイスは、「日本史」のなかで、このように書いています。
 日本では、今日までの習慣として、農民をはじめとして、すべての者が、ある年齢に達すると、大刀と小刀を帯びることになっている。
 このころ、刀と脇差は、自立した男たちのシンボルでした。それは、なにも武士だけでのことではなかったのです。つまり、武装解除された丸腰の民衆像というのは、虚像でしかありません。
 当知行(とうちぎょう)の原則とは、中世の山野河海は、村々の自力(武装と闘争)によって、つねに確保できているかぎり、自分の村のものであるという鉄則のこと。
 自検断(じけんだん)とは、村の治安を守るために、また、ナワバリ争いのときに守るために武器をつかい、人を殺す権利も村ごとに行使すること。
 同じ宣教師ロドリゲスは、成人の祝いとしては、名前を変えること、前髪をそること、刀・脇指を帯びることの3点セットで成り立っていたと指摘している。
 サムライとは武士ではなく、刀をさすおとな百姓のことであり、刀をさす資格のない小百姓をカマサシと呼んでいた。 山村では、ふだんの山仕事のとき、村の男たちは脇指をさして山に入っていた。
 ルイス・フロイスは、秀吉の刀狩りのポイントは、武士でない者からすべて刀を没収すること、つまり刀のあるなしで、武士と武士でない者とを峻別しようとすることにあるとした。刀狩令は身分を決めるためのものと見抜いたのだ。
 刀狩りのあと、村々の現実はどうだったのか。徳川時代にも、村々には、弓・ヤリ・鉄砲・長刀・刀など、さまざまな武器がたくさんあり、祭りの場でつかわれ、紛争の場に持ち出されていた。
 寛永18年(1641年)に、新潟・魚沼と陸奥・会津との間で国境争いがあった。このとき、会津方は、鉄砲150挺、弓60張、ヤリ100本ほど持ちだしたと越後側は非難した。それほどの武器を会津の村々が持っていたというわけである。
 徳川幕府は、秀吉の刀狩令について積極的に受け継いだ形跡はなく、また廃棄した様子もない。
 肥後の加藤忠広(清正の子)が改易され、小倉から細川忠利が移ってきた。寛永10年(1633年)、忠利は次のように指令した。
 庄屋は刀・脇指をさすこと。百姓は脇指をさせ。持たない者は、すぐに買い求めてさせ。もし、ささないなら過料をとる。
 1635年(寛永12年)に、肥後藩内に1603挺もの鉄砲があり、天草一揆のあとの1641年には、2173挺へ136%に増えていた。それほどの鉄砲が村々にはあった。
 1642年(寛永19年)、尾張藩は、町人や百姓がふつうの刀・脇指はいいが、大刀、大脇指はダメ。ただし、鞘の色は派手すぎてはいけないという法を出した。外観だけ規制されていた。江戸町人も同じで、長刀や大脇指をさしているのを取り締まる必要があるとされたほど(1648年)。町人たちは、ふだん外出するときも、脇指を身につけていた。
 一揆のときには、鉄砲をつかわないという原則が人々のあいだに貫徹していた。それは領主側も同じことだった。うーむ、すごいことですよね、これって・・・。
 第二次大戦が終わって、全国で武器が没収された。このとき、長野県だけで5万本をこえる日本刀が、熊本県でも2万本をこえる日本刀が没収された。拳銃は1万挺、小銃も猟銃も、それぞれ40万挺近くが没収された。これほど日本人は武器を持っていたのである。日本刀は全国で530万本はあったとされている。つまり、日本人はこれだけ大量の武器をもっていながら、自ら抑制し凍結してきて今日に至ったのである。平和を守るための強いコンセンサス(共同意思)が働いていたというわけである。
 なるほど、なるほど、日本人は決して丸腰ではなかった。それでも、平和を守ってきた。ルールを守って平和を維持してきたのだ。このことがよく分かる素晴らしい本です。

税金裁判物語

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著者:関戸一考、出版社:せせらぎ出版
 税金のとり方って、富める者に弱く、貧しい者からは苛酷に、というのが古今東西変わらないとは思いますが、このごろの日本は一段とそれがひどくなっている気がします。大企業の裏金は膨大なもので、そこに政治家と暴力団が甘い汁のおこぼれにあずかっています。私の住んでいる町の一角に暴力団専用の駐車場がありますが、高級車がズラリ並んでいます。不景気な世の中なのに、どうして彼らだけはもうかっているのか、不思議でなりません。開通したら赤字必至の九州新幹線の建築をめぐって、用地買収から土木建築まで、すべてにわたって自民党の有力政治家のふところをたっぷりうるおしているという話が伝わってきます。なぜ、税務署はあるところから取らないんでしょう。その気になればガッポリ税収をかせげるはずなのに・・・。
 この本は、税金裁判を専門とする弁護士がいわば手引書として書いたものです。実際に扱った事件をもとにしていますから、大変わかりやすく書かれていて、参考になります。
 税務署が漫然と推計課税をし、それが著しく過大な認定であったときには、更正処分それ自体が国家賠償法上の違法行為となる。このような判例があることを知りました。
 課税処分取消訴訟で、更正処分が取り消されると、還付加算金として年利7.3%の金利がつく。判決確定まで10年かかると、元金の7割がプラスされて返ってくる。これは大変大きなメリットがある、ということです。
 マルサとリョーチョーは異なるもの。リョウチョーは令状のない任意調査なので、断ることができるし、調査理由の開示を求めることができる。
 安易に修正申告してはいけない。修正申告してしまえば異議申立はできない。なぜなら、修正申告は、当初の申告が間違っていたことを自らの自由意思で認めることなのだから。あとでこれをひっくり返すのは非常に難しい。
 ですから、税務署員は甘い言葉と恫喝によって、なんとか修正申告をさせようと迫るのです。だから税務署に更正処分を打たせるべきなのです。
 著者は勇気を出して税金裁判を起こそうと呼びかけています。でも、そのまえに5つのポイントがあるとしています。
 1、本人に十分な怒りがあるか。これがないと長い裁判は続けられない。
 2、取引先が協力的か。取引先が非協力だと致命傷になることがある。
 3、更正処分の内容が本人の実態とかけ離れているか。
 4、どの程度の資料が備えてあるか。所得額が争点となったときに、それを具体的に裏づける資料が必要である。
 5、争点がどこになるか。この点は、国税不服審判所の裁決を検討すれば、だいたい予想がつく。
 税務署をむやみに恐れる必要はありません。しかし、ときによって報復調査を仕掛けてくるという嫌らしい体質をもっていることも忘れてはいけません。ですから、軽々しい気持ちで税金裁判を起こすべきではないのです。やはり、何事も、やるからには徹底して、肚を固めてのぞむ必要があります。
 さあ、あなたも不等な課税処分には断固としてノーと言いましょう。権利は、たたかってこそ自分のものになるのです。

歴史学を見つめ直す

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著者:保立道久、出版社:校倉書房
 私と同じ団塊世代である著者は、10年ほど前から日本の歴史社会の構成について、封建制という概念は放棄すべきであると考えるようになったと言います。なるほど、本書はサブ・タイトルとして、封建制概念の放棄とあります。
 日本の武士道を封建制にもとづくものとして対外的に紹介したのは、あの有名な新渡戸稲造が英文で出版した「武士道」でした。ところで、この本のなかで新渡戸はカール・マルクスの資本論を引用し、封建制の活きた形は日本に見られると注意を喚起したというのです。ええーっ、新渡戸とマルクスと、どんな関連があるのか、びっくりしてしまいました。私も学生時代に1度だけ「資本論」を通読し、さらに弁護士になってからもう一度「資本論」を読み直しました。正直いって、私には難しすぎて、よく理解できませんでした。今は、ともかくマルクスの「資本論」を読了したという達成感が残っているだけです。
 この本は、マルクスは本当に当時(江戸時代です)の日本が封建制であると認識していたのか、その根拠は何であったのかを解明しています。マルクスは、イギリスの外交官であったオルコックの旅行記(日本滞在記)「大君の都」を読んで書いたのだが、この旅行記は、必ずしも信頼できるものではないとしています。むしろ、マルクスは、資料批判が必要なこの「旅行記」をふまえて、皮肉を述べていたのだとしています。そして、結論として、先ほど述べたとおり、日本の歴史的な社会構成は、封建制という用語ではとらえられないとしています。
 著者は、また万世一系の思想というのは、中国(唐)そして朝鮮(新羅)の王朝が次々に大きく変わっていくなかで、日本ではそんなことはないという、きわめて新しい(当時としては、の意)イデオロギーであったことも明らかにしています。
 中国や朝鮮において天命をうけた王の家系は百代にもわたって続くという百王思想に対して、日本では天皇は現人神であって万代にも続いていくというイデオロギーの表明であった。つまり、万世一系の思想というのは、日本内部で完結するものとして語られたのではなく、東アジア諸国との対比のなかで語られたものであった。うーむ、なるほど、百に対する万の違い、そういうことだったのかー・・・。
 そもそも、奈良時代半ばまでの王権はきわめて神話的・未開的な色彩が濃く、天皇の神的血統は近親結婚のなかで再生産されていた。たとえば、天武天皇は兄の天智天皇の2人の娘と結婚した。天武王統は、天智天皇の血のまざった子どもに王位を与えようと固執したため、天武王統の男子はほぼ皆殺しされてしまった。少なくとも、8世紀半ばまで王族内婚制は生きていた。
 「君が代」は古今集にのっているが、この古今和歌集は、10世紀初頭、醍醐天皇の権威が確立すると同時に、それを祝うために編集された、きわめて政治的なテキストである。つまり、「君が代」は醍醐天皇に対する天皇賀歌なのであって、単に目上の人に対する寿歌ではない。そこをあいまいにしてはいけない。ふむふむ、なるほど、そうなんですね。
 この本を読んで、平安時代を始めた桓武天皇と朝鮮半島の結びつきの強さに改めて驚かされました。桓武天皇の母が百済王氏である高野新笠であるということは前から知っていましたが、桓武天皇が百済王家救援のために朝鮮半島への出兵まで意識していたとは知りませんでした。ただし、現実には、それよりも国内の陸奥への出兵を優先させたのです。陸奥の反乱をおさえた坂上田村麻呂も渡来氏族だということも知りました。ちょうど、あの有名なアテルイが活躍したころのことです。
 そして、桓武天皇の3人の子どもの乳母も渡来氏族の出身でした。乳母というのを軽く見てはいけません。相当の実権を握る存在だったのです。まだまだ、歴史には解明されるべきことが多いことを知らされます。
 著者は網野善彦氏を評価しつつ、同じ歴史学者として厳しく批判しています。長く網野ファンとしてきた私としても、はっと居住まいをただされるような内容です。
 後醍醐天皇が破産するまでの天皇制は実際的な政治権力だが、それ以降は「旧王」としてイデオロギー的な権力に骨抜きになった。
 網野氏は鋳物師などの商工民から漁民・杣人などにいたる実に多様な生業に携わる人々を非農業民として一括する。しかし、農業と非農業の複合構造の解明こそが必要である。などなどです。肝心なところを紹介する力がないのが申しわけありません。ともかく、網野史観が絶対正しいというものでないことだけはよく分かりました。
 やはり、学問の世界は厳しいんですね。

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