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2005年11月 の投稿

源義経

カテゴリー:未分類

著者:近藤好和、出版社:ミネルヴァ書房
 さすが有職故実(ゆうそくこじつ)を専門とする学者の書いた本だけあって、なるほどそうだったのかと思ったところがいくつもありました。
 甲冑は甲と冑であり、甲が「よろい」、冑が「かぶと」である。しかし、10世紀以降、しばしば逆によまれてきた。よろいは鎧ともかく。大鎧は、弓射騎兵の主戦法である騎射戦での防御をよく考慮したもので、全重量は30キロにもなる。
 馬には前歯と臼歯との間に、歯槽間縁といって歯のない部分があり、啣(はみ)は、そこに銜(くわ)えさせる。
 日本の馬は体高4尺(120センチ)を基準とする。サラブレッドは小さくても体高160センチあるので、日本の馬はかなり小さいことになる。しかし、アジアの草原馬のなかでは日本の馬は標準的な大きさなのであり、日本だけがことさら小さいわけではない。むしろ、競争馬に改良されたサラブレッドやアラブ種の大きさが特殊なのだ。とくに、馬は群をなすのが本能なのに、サラブレッドは逆に他の馬が近づいてくるのを嫌うことから、馬とは言えないという見方もある。
 大鎧などの武具を着装した騎兵は体重ともに100キロはこえていたから、それを乗せた日本の馬は力強かった。気性の荒い駻馬(かんば)だったろう。明治より前の日本には馬を去勢したり、蹄鉄の技術はなかった。なお、外国では左側から馬に乗るが、日本では右側から乗った。
 ところで、現在の走歩行は左右の手足が交互に出るのがふつう。しかし、江戸時代までは左右の手足が同時に出ていた。これをナンバという。相撲のすり足である。これを常足(なみあし)ともいう。四つ足動物は常足だ。騎兵にとって、騎乗者も常足が常態なら、人馬一体の動きができるわけである。現在感覚で考えてはいけない。
 この本で私がもっとも注目したのは、騎馬で断崖絶壁を降りていっている写真です。まさしく直角の絶壁を馬に乗った騎兵が降りています。なるほど、これだったら義経が一ノ谷合戦のとき、鵯越(ひよどりごえ)で坂落としすることはできたのでしょう。訓練(調教)次第で馬は何でもできるようです。著者はいろいろの説はあるが、義経は「吾妻鏡」では70騎をひきつれて鵯越の坂落としを敢行したという見解です。だから現実味があるとしています。ふむふむ、かなり説得的ですね・・・。
 また、壇ノ浦合戦のときの平氏の敗因を潮流が変わったことに求める説には科学的根拠がないとしています。さらに、義経が当時の慣習に反して水手(すいしゅ)や梶取(かんどり)をまず殺して平氏方の船の自由を奪い、それから船内に乱入したことが平氏の敗因になったという説にも根拠が乏しいとしています。むしろ、そうではなくて著者は、平氏に長年つかえてきた阿波重能の裏切りが敗因だとしています。
 歴史にはまだまだ語られるべきことは多い。そういうことのようです。

クルド、イラク、窮屈な日々

カテゴリー:未分類

著者:渡辺 悟、出版社:現代書館
 クルドやイラクの現実がどうなっているのか。新聞やテレビにまったく出てきませんので、この本は貴重な情報です。
 自爆未遂犯として刑務所に入っている20歳(犯行当時は19歳)の青年に面会しています。ベストとベルトに5キロのTNN火薬を仕込んで軍施設の前に行った。ところが発火のスイッチを押す手が震えているうちに、番兵に疑われて捕まったというのです。組織(アンサール・イスラム)に入って4ヶ月たったとき、「パラダイスに行け」と命じられて自爆犯に選ばれたという話にも驚かされます。
 著者はサマワにも出かけました。サマワの人々は日本に対して復興支援ということで期待している。自衛隊のあとに企業が来てくれると信じているわけだ。自衛隊は、あとから来る日本企業を護りに来たというわけ。それをごまかすため、日本政府は、2004年度に15億ドル(1650億円)を寄付し、2007年度までに円借款で35億ドル(3850億円)を援助する。このお金は給水車の購入や病院・学校の修復につかわれる。
 自衛隊を派遣するのに必要な費用は年に377億円。ざっと1日1億円かかるというわけです。そのうち7割の250億円は自衛隊出身の装備費。自衛隊は自己完結型で、食糧も装備も日本から持参するので、現地にはほとんどお金を落とさない。費用対効果という面では、まるで話にならない。自衛隊の給水能力は1日80トン。これに対して、フランスのNGOは年間6千万円で10万人を対象とする給水活動を展開している。給水トラック70台と契約し、合計800トンの飲料水を毎日運んでいる。
 いま、西日本新聞は毎日、サマワにいる自衛隊員の生活ぶりを写真入りで大きく連載しています。しかし、そこにはイラクの人々の生活の様子がまったく見当りません。イラクの人々と接点のない生活をしているからです。町に出たら生命の保障は全然ありません。
 いまNHKはバグダットのパレスチナホテルの2階の奥にいて、外には出ない(会社命令で出られない)のです。高遠さんたち3人がイラクで拘束されたとき、サマワには70人のマスコミ記者がいましたが、会社命令ですぐ自衛隊の宿営地に逃げこみました。そして、自衛隊機に乗ってクウェートまで運ばれたのです。人命尊重というわけです。
 日本のマスコミがアメリカ軍と自衛隊の発表した情報しか報道しないため、著者のようなフリージャーナリストはますます貴重です。外務省の奥大使と井ノ上書記官が殺された事件も犯人は不明のままです。この事件も、実はアメリカ軍による誤射の確率が非常に高いと言われていますが、うやむやのままとなっています。真相究明の努力はまったくなされていないのです。
 サマワにはアメリカ軍による劣化ウラン弾の影響が残っているとみられています。これは、すぐに影響が出てくるものではなく、派遣された自衛隊員は、その精子が壊され、奇形児が生まれる危険性が高いとみられています。しかし、それは5年先、10年先のことですから、そのとき、今の小泉首相がいるはずはありません。
 日本のマスコミは、小泉首相の提灯もちのような報道ばかりせず、もっとイラクの人々のおかれている真実を現地から報道する努力をすべきではないでしょうか。

放送中止事件50年

カテゴリー:未分類

著者:メディア総合研究所、出版社:花伝社
 森繁久弥と佐藤栄作首相が対談した番組(1965年10月13日、TBS)で、森繁が「だいたい政治家になる連中は少し知能程度が低いのでは」と言ったところ、佐藤首相も「たしかに政治家というのは、どこか狂っていなくてはならない」と答えました。しかし、この部分は橋本官房長官によってカットされてしまいました。
 この佐藤首相が引退するときの記者会見(1972年)で、「テレビはどこだ。NHKはどこだ。新聞記者の諸君とは話さない。国民に直接話したいんだ。偏向的新聞は大きらいだ」と言って、内閣記者会が総退場して空っぽとなった記者席を前に、首相がひとりテレビカメラに向かってしゃべったという有名な事件がありました。いま、内閣記者会は小泉首相の手のひらで踊らされるだけで、抗議の総退場なんて考えられもしません。残念でなりません。
 NHKの花鳥風月を扱った番組にはいいものも多いが、肝心な政治・社会の問題には触れないし、迫らない。海外ものに力作があっても、日本政治の核心に迫る問題は巧みに避けている。海外ものでも、日米同盟にかかわる問題になると、とたんに及び腰になってしまう。本当にそうですよねー・・・。だから私はNHKの受信料の支払いを依然として停めています、だって、NHK幹部は、政府・自民党による番組の事前検閲は今後しませんと確約しないのですよ。何が公正・中立・不偏・不党ですか、聞いて呆れます。
 政府と向きあうことをしなくなったというだけでなく、テレビは社会とも対面しなくなっている。憲法改正問題にしても、憲法のどこがどう問題なのか、問題でないのかについて、真正面からとりあげた番組がどれだけあるのか・・・。まったく同感です。日曜朝の、モノ好きな人しか見ていない時間帯での政治討論会だけでお茶を濁されては困ります。ゴールデンタイムに、とことん議論する番組を組むべきなのです。
 私は高校生のとき、紅白歌合戦なんて、あんなものは日本人を一億総白痴化するだけの番組でしかないという誰かの評論を新聞で読み、まったく同感だと思って以来、紅白歌合戦を見なくなりました。大晦日の夜にはほかにもやることがあると思いませんか・・・。
 同じく、高校生のときに朝の連続テレビ小説「おはなはん」をくいいるように見ていました。でも、弁護士になって何年目かのとき、テレビなんか見るのは人生のムダだと思うようになり、見るのをやめてしまいました。テレビを見ないと、頭で毎日すっきりした生活を過ごせます。困るのはたったひとつ、災害情報をすぐに知れないことです。でも、それは田舎に住んでいますので、どうせたいしたことありません。
 ライブドアの買収にあって、フジ・ニッポン放送グループは、放送には「高い公共性」が求められるとくり返し強調した。そのとおりだ。しかし、「面白くなければテレビじゃない」と言ってきたのはフジ・ニッポン放送だったことを忘れてはならない。そのとおりです。頭を空っぽにしてしまうバカバカしい面白さ。視聴率を上げて、いかに広告料を高くとるか。それしかテレビ局の首脳は考えていないのではありませんか・・・。
 かつて「若者たち」やベトナム反戦運動をとりあげた番組は「作品が重すぎる。暗すぎる」という理由で中止に追いこまれた。しかし、現実には重いし、暗いことが多い。お笑いショーばかりを国民が求めているわけではない。本当に、そのとおりです。
 わずか80頁足らずの薄っぺらな冊子ですが、ずっしり重い内容で、両手でもっても支えきれない思いがしたほどです。
 メディア内部の反発力が衰退している、圧力に対する社会的な反発力が乏しくなっている。このように指摘されています。日本をあきらめない。どこかの政党が総選挙のときにスローガンに使っていた言葉ですが、いまの私たちの合言葉にすべきではないかと真剣に思います。いかがでしょうか・・・。

昔、革命的だったお父さんたちへ

カテゴリー:未分類

著者:林 信吾、出版社:平凡社新書
 団塊世代の登場と終焉、そんなサブタイトルがついていることもあって、読まずにはおれませんでした。
 団塊世代は、会社人間の最後の世代である。彼らの多くは下の世代から嫌われた。部下を持つ身になって、どうもコミュニケーションがうまくとれない。建設的な議論ができない。キャッチコピーを連呼するだけの無内容なオヤジに過ぎない。みんなで一斉に動かねば気がすまず、反対意見には耳を貸さない。
 団塊世代はバブル景気の主役とは言えない。単に巨大なマーケッティング・ターゲットとして踊らされただけ。しかし、地上げ、土地転がしでもうけたカネを、株式市場でさらに転がすという狂気の経済活動の現場を駆けまわったのも団塊世代だった。団塊世代なくしてバブル景気はありえなかった。
 うーむ、なかなか鋭い。胸にグサリと来る指摘が次々にくり出されてきます。
 団塊世代には無党派層の比率が高い。議論好きで、かつては革命的であったはずの団塊世代が、実は政治的無関心を蔓延させ、それが社会的な閉塞感をもたらした。
 この本によると、それでも団塊世代は戦後日本の政治を2度だけは流れを大きく変えるのに貢献したといいます。1度目は1975年の田中角栄の退陣です。私が弁護士になった年、たまたま東京地域あたりをウロウロしていると、田中角栄がさっき逮捕されたという知らせが霞ヶ関をかけめぐっていました。角栄逮捕に同行した検察官は、私の横浜での実務修習のときの指導教官でした。今の小泉首相と同じように、マスコミは角栄を天まで高くもち上げたのですが・・・。
 2度目は、1993年の細川内閣の誕生です。非自民の8党派連立内閣に対して71%の支持率が集まりました。しかし、お殿さまが無様に政権を投げ出したあと、自民党が巻き返すと、団塊世代の多くは沈黙を決めこんでしまった。
 うーむ、なるほど、そうも言えるのかー・・・。団塊世代が学生時代と違って、ちっとも政治的な発言をしないことは事実ですよね。ともかく議員が少ない。もちろん議員になっている人はいます。しかし、こんな人が議員になっていいのかしらん、と思うような人ばっかりのような気がします。少し骨があると思った議員は、早々に自殺してしまいました。
 あれだけ政治を議論し、社会の変革を語っていたのに、政治の表舞台にあがった人の少なさは奇妙な感じがしてなりません。この点はヨーロッパともかなり様子が違うようです。フランスやドイツでは、あのころ街頭で名をはせた学生指導者が政治のリーダーに大勢なっていると聞きます。どうして日本はそうならなかったのでしょうか・・・。
 この本は、最後に団塊世代に呼びかけています。いよいよ定年退職を間近にして、自分の年金がどうなるのだけを心配している団塊世代に対する熱烈なアピール、そう思ってしばし耳を傾けてください。
 あなたたちが求めるべきは、年金の保証ではなく、60歳を過ぎてからも働いて社会に貢献できる環境であり、労働に対する正しい対価であるはずだ。
 そしてなにより、より若い世代が、やりがいのある仕事に就くことができ、子どもの可能性に対しては平等な機会が与えられるような社会であるはずだ。
 戦争と差別に反対し、一度は命がけの覚悟で立ち上がったではないか。その問題提起は、ある意味で正しかったことが、今まさに証明されているのではないか。
 あなたたちの子どもの世代は、勝ち組、負け組などと選別されようとしている。かつて疎外からの解放を叫んでいた身として、こうした言葉を聞いてなんとも思わないのか。
 かつてベトナムの子どもたちを殺す戦争には荷担できないと叫び、授業をぶちこわしたのに、今や自衛隊はイラクにまで行っている。若い世代の日本人が、大義なき戦争に駆り出され、砂漠で無意味に殺されるかも知れず、国家の命によってどこかの子どもを殺すかもしれないのだ。これを黙って見過ごすのか。
 団塊の世代は、このまま消えていくべきではない。もう一度、立ち上がるのだ。必要なのは、次世代のため、連帯を求めて孤立を恐れないこと。そうすると、下の世代も、必ずや後に続くだろう。
 久しぶりによくできたアジテーションを聞く思いでした。ここで指摘されているとおりだと団塊世代の一人として思います。私もあきらめることなく、もうひとがんばりするつもりです。私の親しい知人が1968年の東大闘争と学生セツルメントを長編小説にまとめ、近く本として発刊することになりました(「清冽の炎」、花伝社)。
 どうせ、そんな本、誰も読みやしないよ。いや、団塊世代は人生の総括時期にきているから、きっと読むはずだ。このように相反する2つの意見があります。いったい団塊世代は1968年ころ、どう生き、どんな青臭い議論をしていたのか。記録にもとづいて刻明に再現したノンフィクション風の小説です。ぜひ、あなたも読んでみて下さい。

殴り合う貴族たち

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著者:繁田信一、出版社:柏書房
 平安朝裏源氏物語というサブタイトルがついていますが、まさしく貴族に対する従来のイメージを一変させてしまう本でした。
 あの藤原道長が23歳のときのことです。権中納言(ごんのちゅうなごん)であった彼が宮中の官人採用試験の試験管(式部少輔、しきぶのしょう)を拉致して道長の邸宅まで歩かせたというのです。その目的は、試験結果に手心を加えるよう圧力をかけようということでした。また、48歳のとき、左大臣になっていた道長が2人の貴族を自邸の小屋に監禁しました。道長の妻の外出の準備を手際よくすすめることができなかったという理由からです。なんということでしょう。
 また、道長のオイの子(経輔)が天皇(後一条)の御前で殿中(紫宸殿)において取っ組み合いのケンカをはじめたというのです。お互いに相手の頭髪(もとどり)をつかんで、格闘したというのですから驚きです。でも、経輔が19歳だったというのを知れば、さもありなんと納得してしまいます。昔も今も、若者はとかく暴走しがちなのです。
 同じく道長の別のオイ(兼隆)は自分の従者を殴り殺してしまいました。そして、その子の兼房は宮中において蔵人頭(くろうどのとう)を追いかけまわし、さらには宮中で仏事の最中に少納言に対して一方的な暴行を働いたり、宮内少輔(くないのしょう)に集団リンチを加えたのです。
 すさまじい話が当時の「少右記」などの貴族の日誌に記録されています。ちっとも知りませんでした。この本によると、王朝時代に暴力沙汰を起こした貴公子は中関白道隆や粟田関白道兼の息子たちや孫たちばかりではなかったというのです。
 彼らは氷山の一角にすぎない。暴力事件につながるような不品行は、王朝時代の貴公子たちのあいだに蔓延していた。
 道長が成人してからは、その子どもたちが数々の不祥事を繰り返しています。道長の子(三位中将藤原能信・よしのぶ)は20歳のとき、僧侶の娘に対する強姦に手を貸そうとしています。その前、19歳のとき、衆人環境のなかで大路のまっただなかで貴族たちに暴行を加えてもいるのです。道長の息子たちは何度も暴力事件を起こしておきながら、けっして自分自身の手は汚さず、つねにすべてを従者たちにやらせていました。
 王朝時代の貴族社会においては、債権の回収に暴力が用いられるのは、それほど珍しいことではなかった。むしろ、悪質な債務者に対しては、王朝貴族たちはためらうことなく暴力に訴えていた。つまり、王朝貴族たちの行使した暴力は、しばしば債権回収と結びついていた。これでは、まるで、現代の悪徳金貸しです。
 後妻打(うわなりうち)も珍しくはなかった。これは1人の男の妻の座をめぐって、前妻が後妻を迫害するということ。北条政子が頼朝の新しい愛人となった女性(亀)を迫害したのは有名な話です。平安時代にもこの「うわなりうち」が激しくやられていました。ところが、当時の結婚は届出もないので、本人たちの気持ちひとつです。ですから、妻といい、妾と言っても、そこには法的な区別のつけようがありません。
 「源氏物語」の主人公である光源氏のモデルの一人であったはずの藤原道長は、お世辞にも理想的な貴公子とは言えない人物であるし、現実世界の貴公子たちは素行の悪い連中ばかりだった。著者はこのように指摘しています。そうだったのかー・・・。ちっとも知しませんでした。目を覚まされた思いです。

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