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2005年4月 の投稿

司法改革

カテゴリー:未分類

著者:日弁連司法改革実現本部、出版社:日本評論社
 司法改革とは何だったのか。その全体像をふり返るためには不可欠の本です。いわば日弁連による司法制度改革「正史」ですから、あまり面白くないと言えば、そのとおりです。
 そのなかでは、久保井・本林という2人の日弁連元会長のインタビュー記事が読ませます。やはり、会長として2万人をこえる弁護士をまとめるうえで、相当の苦労をされたからです。
 法科大学院には、600人の弁護士が実務家教員として出かけているそうです。単なる予備校にならないように弁護士もがんばっているわけです。
 本林前会長は、今の世の中の変化の速さに即応した日弁連の対応ができるようになったことを最後に指摘しています。常勤の弁護士スタッフを抱えてようやく実現した課題です。これまでは東京のほかは大阪・京都くらいでしたが、九州からもスタッフを送り出せるようになりたいものです。
 とにもかくにも、刑事裁判が裁判員制度の導入によって大きく変わりますし、新しく労働審判制度もできました。裁判所改革にしても、外部の意見を反映するシステムがつくられましたので、その透明化はぐんとすすみました。形式ができても、運用がこれまでと同じでは困ります。司法改革は、まさにこれからが正念場なのです。その意味でも、この本は心ある弁護士にとって必読文献だと思います。

ウルカヌスの群像

カテゴリー:未分類

著者:ジェームズ・マン、出版社:共同通信社
 ブッシュ戦争内閣を動かす外交チームの実像に迫るとオビにあります。本文を読んで、なるほどと思いました。ウルカヌスというのは、ローマ神話の火と鍛冶の神であり、ライスやウルフォウィッツやアーミテージ、そしてチェイニーやパウエルというグループの自称です。
 ウルカヌスは伝統的な国家安全保障問題を中心的な関心事としていて、国際経済におけるアメリカの役割は民間の経済界にまかせている。ウルカヌスは、アメリカのパワーと理念は大きくみて世界に善をもたらすと信じている。アメリカは強く、そしてますます強くなると確信している。
 コリン・パウエルの考えはパウエル・ドクトリンとして公式化された。明確な目標の必要性、アメリカ世論の支持、圧倒的な兵力の投入。戦争は政治の最終手段であるべき。戦争をするときには、国民の理解と支持の得られる目的を持ち、その目的を達成するために国を挙げて資源を動員し、そして勝利しなければならない、というもの。
 パウエルは、貧しく教育のないアメリカ人ほど戦闘に駆りだされて死んでいく様子に深い不公平感を抱いた。有力者の子弟やプロ・スポーツ選手の非常に多くが予備兵や州兵にうまくもぐりこんだことに憤りを感じてもいた。
 パウエルにとって、アメリカの軍事力を維持するうえで大切なのは、それを控えめで慎重に行使すること。実際のところ、パウエルは世間が思っているようなハト派だったことは一度もない。パウエルは長期にわたる殺伐とした、コストのかかりすぎる軍事的介入をアメリカは避けるべきだという信念をもっていた。しかし、それは実際的な考慮からであり、平和主義的な信念からではない。パウエルがめざしたのは、ベトナム戦争のように泥沼に2度と入りこむことを避けながら、アメリカの軍事力を維持・増強していくこと。
 ウルカヌスのヴィジョンは先制行動論、他の追随を許さない超大国アメリカ、超大国アメリカはその民主的価値を海外で広めることを求める。という3つの要素を統合したものからなる。
 臆病者のタカとは、戦闘の経験がないにもかかわらず、戦争を鼓舞する者のことで、チェイニー、ウルフォウィッツその他のブッシュ政権内の兵役経験をもたない人たちを指していた。この25年間を通じてネオコンたちの根底にある関心は、一貫して変わらなかった。アメリカの主要な敵対者をうち負かすために自国の軍事力と理念を推進することがネオコンの一貫した立場である。
 ウルカヌスはアメリカの能力に対して底抜けの楽観主義を抱いている。
 ウルカヌスたちの予想がはずれてしまったのは、今日では明らかなのではないでしょうか。すでにアメリカ兵の戦死者は15000人をこえました。もっとも、イラク人の死者の方は10万人をこえたとみられていますが・・・。イラク占領の負担は、いまやアメリカ経済への限りない重圧になっているように思われます。いつまでもウルカヌスたちに我が世の春を謳歌させていくわけにはいきません。といいつつ、ライス国務長官の悪びれない自信にみちみちた笑顔には怒りをとおりこして呆れてしまう、というのが私の率直な感想なのです・・・。他国を平気で侵略して、何十万人もの市民を虐殺しておきながら、どうして、あそこまで自信満々でいられるのか、不思議でなりません。

庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし

カテゴリー:未分類

著者:成松佐恵子、出版社:ミネルヴァ書房
 江戸時代末期の日本では、成人男子の識字率が50%近くありました。これって、すごいことですよね。だから、日本全国いたるところに、武士から町人から村人まで、日記を書く人が多かったのです。今の日本人にブログがはやるわけが分かるでしょ・・・。
 この本は、今の岐阜県輪之内町、昔の美濃地方に住む庄屋の日記をもとに書かれたものです。西条村では、全世帯の6割以下が2石以下の零細農家でした。士農工商という身分は固定していたイメージがありますが、実は、農民出身の者が武家に養子に入り、郡奉行にまで出世するということもありました。婚姻を通しての社会移動というのがあったのです。
 庄屋を筆頭に、その補佐役の組頭と村民を代表する百姓代の三者を村方三役と呼んでいました。年貢は、江戸時代のはじめに5割をこえていたのが、年がすすむにつれて低下し、4割代になっていました。検見法は毎年の検見が必要でしたので、手間や費用がかかり、村側の賄賂による不正も少なくありませんでした。役人接待マニュアルまであったのです。それで、過去10年間の収穫から平均高を割り出し、租率を定めるのを定免法といい、これで村側は役人へ贈賄する必要もなくなりました。免とは租率のことです。
 一般に男子は成人するまでに、また成人してからも改名することがしばしばでした。一生のうちに3〜4回というのも珍しいことではありません。女性も結婚して名前を変えることがありました。乳幼児の死亡率は高かったのですが、60歳以上の人は少なくないし、80歳をこえる長寿の人も珍しくありませんでした。出産時に母親も死亡することは多く、生まれた子が死んでも、母体が無事であったら、それを感謝するお祝いもありました。母親死亡によって継母や腹違いの兄弟や後添(のちぞえ、後妻)は普通のことでした。
 妻がよく里帰りし、実家の姉妹と旅行に出かけるなど、自由を楽しんでいる様子もうかがえます。大勢の人が集まるときの料理づくりや跡片づけは男性が担当し、女性はしていませんでした。女性が台所仕事をしないというのは必ずしも非難されることではなかったのです。女性が家に拘束され、裏で下働きをさせられていたというイメージは実像からほど遠いようです。
 庄屋は生け花を見物に出かけ、菊づくりに励み、俳諧を楽しんでいました。そして、俳諧の交流のため遠方へも旅に出ていたのです。それは、近くの名古屋や大阪だけでなく、九州との交流もありました。旅行は一泊程度のものを含めて、50年間に計61回も記録されています。本当に日本人は昔から旅行がすきだったんですね。
 明治維新になっても、大きな混乱もなく、庄屋が戸長に名前を変えただけでした。そうなんだ・・・。江戸と明治が本質的なところで連続しているとなると、要するに今の日本人と江戸時代の日本人とで、そんなに変わってはいないということなのです・・・。

絵本の深層心理学

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著者:矢吹省司、出版社:平凡社
 絵本は子どもが読む本というよりは、むしろ大人に読んでもらう本。つまり、絵本は大人が読む本。
 主体的な存在としての人間が、子どもという理由だけで親に支配される。この矛盾から、子どもは親に反抗する。
 子どもは親が頼みの綱、命の綱。その綱が切れてしまうんじゃないかという不安は強烈。
 たしかにそうです。私は小学生のころ、兄と2人で、父親の実家で夏休みを過ごすことがありました。昼間は魚釣りしたり楽しく過ごしましたから、いいのです。問題は夜です。広い座敷に兄と2人で寝ます。ボーン、ボーンと時計がうら寂しい音をたてます。ああ、家でお母ちゃんたちは何をしているかなー・・・。火事にでもあって、親が焼け死んで孤児になっちゃったらどうしよう・・・。夜ごとホントに真面目に心配していました。この世に自分ひとりが残されて天涯孤独の身になったとき、どうやって生きていくのかしらん・・・。心配でたまりませんでした。心細くなっているうちに、寝入ってしまいました。朝になったら、ケロリンコンです。
 いろんな浮き世のしがらみを断ち切って身軽な独り身になったら、自分の素晴らしさは今より際だち、みんなからもっとちやほやされるだろう・・・。機関車ちゅうちゅうは夢想した。しかし、それは経験を通して、完膚なきまでに否定されてしまった。自分のアイデンティティは自分ひとりでは生み出せない。それは他人との関係をへて完成し、他人との関係によって維持されるものだ。
 子どもにとって母の愛を信じられるということは、世界を基本的に信頼できるということを意味している。子どもは、しつけを強要する社会的な意思に逆らいたいという欲望も抱いている。社会的な欲求との両極端に子どもの心は分解しがち。このスイングを繰り返しながら、自分のなかの社会性と反社会性との葛藤に折りあいをつけ、そうすることで幅も深みも奥ゆきもある人格の土台を築いていく。
 子どもは人生の土台となる心の強さを身につけようとがんばっていて、それが切実な生活のテーマとなっている。人生の土台となる心の強さとは、基本的信頼、自律性、自発性のこと。基本的信頼とは、自分が現に生きているこの世界は、不都合な問題を次々と押しつけてはくるけれど基本的にはいいところだ、そうと信じてずっとここで生きてゆきたい、生きてゆけると実感できる能力のこと。自律性とは、自分の心と体はたとえ思いどおりにならないことがままあるとしても、基本的には自分の主体は自分であると実感できる能力のこと。自発性とは、自分は現実的にも心理的にもずいぶん抑圧されてはいるけれど、基本的には自由である、自分の意志で生きてゆけると実感できる能力のこと。
 うーん、いい言葉にめぐりあえました。なるほど、そうですよね・・・。いい本に出会うと、心のなかはすっきり洗われて、気持ちがあったまって、すがすがしくなります。
 モノカキを自称する私も絵本に挑戦してみましたが、残念なことに、売れゆきは芳しくありませんでした。何を訴えたいのか、もうひとつ明確でなかったことに主な原因があると反省しています。それにしても、絵本はいいものです。
 子どもたちが小さいときは、毎晩のように、絵本を読んでやっていました。それは自分に言いきかせるような内容だったのですから、読んでいる私の方が楽しくなって、励まされたりもするのです。まさに大人にとっての絵本でした。斎藤隆介「八郎」やかこ・さとしの「カラスのパン屋さん」などをすぐに思い出します。最近は大分の立花旦子弁護士にすすめられた「嵐の夜に」もいい絵本でした。
 ここに紹介されている絵本の半分ほどを読んでいたのも、うれしいことでした。

凶犯

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著者:張平、出版社:新風社文庫
 中国の山村で、国有林保護監視員が村を牛耳る4人兄弟の言いなりにならず、ついには殺しあいに発展していく。すさまじい展開です。小説は事件発生の前と後とを時間刻みで交互に描いていきます。目まぐるしいのですが、それが緊迫感を生むのに成功していて、結末と原因が手にとるように分かります。
 中国の農村部で、取り残されたような農民の欲望に支えられ、絶大な実権を握って君臨する4人兄弟がうまく描かれています。殺人事件のあと、県から偉い役人が派遣されてきて、聞きとりが始まります。公正な結論が出ることを期待していると、とんでもない。でも、こんなものかなあー。日本だって、表面はともかく、本質的にはあまり変わらないよな。そう思わせる結末です。
 中国でベストセラーになったのも、うなずける凄い小説でした。

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