弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

アジア

2017年1月13日

アレクサンドロスの征服と神話

(霧山昴)
著者 森谷 公俊 、 出版  講談社学術文庫

紀元前334年、アレクサンダー大王(本書ではアレクサンドロス)はマケドニアを出て東方遠征に出発し、わずか10年でギリシャから小アジア、フェニキア、エジプトさらには広大なペルシア帝国まで征服し、インダス川に至るまでの空前の大帝国を築いた。
なぜ、30代と若いアレクサンダー大王にそれが可能だったのか、そして、大王の死後たちまち大帝国が四分五裂してしまったのか・・・。
その謎を本書は解き明かしています。
アレクサンダー大王は、征服された側からみたら、まぎれもない侵略者だ。いったい何のための遠征だったのか・・・。反面、アレクサンダー大王は、諸民族・諸文明との平和共存を目ざしてもいた。
ところで、アレクサンダー大王の墓は発見されていない。各地に建設した都市アレクサンドリアもエジプトを除いて消滅してしまっている。
アレクサンダー大王の帝国は、変幻自在で、その中心は遠征軍とともに絶えず移動していて、留まることがない。そして、首都は、アレクサンダー大王のいる何ヶ月間かのことでしかなかった。
支配体制に一貫した原則は認められない。統治方法も、征服した都市や地域の多種多様な条件と伝統に適応して、多様だった。これを寛容政策と呼んでもいいが、放任とも言える。
アレクサンダー大王は、カメレオンのように姿を変えていった。まずマケドニアの王、エジプトのファラオ、バビロニアの王、そして、ゼウスの子であり、アモン神の子を自称した。
アレクサンダー大王は、すべてを星雲状態のままにして、この世を去った。
アレクサンダー大王を、マケドニア人将兵は絶対的に信頼していた。これが東方遠征の基礎だった。マケドニア軍の中核をなす騎兵部隊は、8隊1800人から成り、仲間とか朋友を意味するヘタイロイという美称をつけて、騎兵ヘタイロイと呼ばれた。
マケドニア歩兵には、ベゼタイロイという重装歩兵部隊があった。1500人の部隊が6隊、900人から成る。長さ5.5メートルにおよび長槍をもつ密集戦列を組んで戦う。前2世紀にローマ軍に敗れるまで、不敗だった。
そして、攻城塔をもち、石弾を打ち出す射出機をもって都市の城壁を攻め落とした。
ギリシア人はマケドニア人に制服された民族でありながら、アレクサンダー大王の帝国では支配者側の一員だった。しかし、両民族の間の壁は深いままだった。
アレクサンダー大王がペルシア帝国を倒して、そこを支配するときペルシア人を登用していったことに、マケドニア人たちの不満が高まった。
アレクサンダー大王は、旧ペルシア領を治めるには、ペルシア人貴族の協力が不可欠であることを認識していながら、肝心の彼らとの間に安定的な統治システムを構築することができなかった。
アレクサンダー大王は、将兵に対して機会あるごとに功績に応じた褒美を与え、部下たちを名誉のための競争へと駆り立てた。すべてのマケドニア人が追求したのは名誉だった。
すべての将兵の出世が王一人の決断に依頼している以上、宴会では側近同士が王の溺愛を求めて争い、激しいつばぜりあいを演じた。
古代マケドニアの社会は、ギリシアと同じく、男性同士の同性愛によって成り立っていた。アレクサンダー大王は、発病してわずか10日目で亡くなった。33歳になる直前だった。
アレクサンダー大王は、父の7回の結婚による騒動を経験しているため、王族の結婚は、王権にとって利益よりむしろ混乱をもたらすと考えたのではないか。自分が結婚すれば、妻の一族と、妹たちが結婚したら、その夫の一族との利害関係が王権にからんでくる。それによる王国の不安定化は避けなければいけないというのが父の結婚から学んだ教訓だった。そして、アレクサンダー大王自身が世継ぎをもうけて王朝を継続させようという観念をもっていなかった。22歳の大王は、まだ自分ひとりの名誉を追求することしか頭になかった。その代償は重かった。
結局、大王が死んだとき、まともな後継者がいなかった。それによって王家は滅亡するしかなかった。
とてもよく分かる分析がなされている文庫本でした。
(2016年2月刊。1230円+税)

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2015年9月21日

イースター島を行く

(霧山昴)
著者  野村 哲也 、 出版  中公新書

 モアイのいるイースター島を隅々まで紹介している、楽しい本です。
 小さな島に1000体も石像があるそうです。洞窟もたくさんあり、夏至の日にだけ壁画を照らし出すサイトもあります。
 著者はイースター島に住んでみて、しかも、現地の人と親しくならなければたどり着けないような秘境にまで出かけています。幻想的な写真とともに紹介されています。
 モアイを宇宙人がつくったという説は信じられません。ポリネシアとかハワイの諸島から移住してきた人たちが墓や墓標として作りあげたものというのが有力です。
 日本で関ヶ原の戦いが起きた1600年ころ、イースター島内部では深刻な食料不足から島民が12の部族に分かれてモアイ倒し戦争を繰り広げた。そんな悲しい歴史があったのですね、、、。
 モアイには眼がはまっていた。その眼は黒曜石などでできていた。
 私はマチュピチュに行っていませんが、行きたい気持ちはあります。同じように、イースター島にも行ってみたいものです。宮崎の都井岬でしたか、和製のモアイ像があるのは・・・。仕方ありません。それでガマンすることにしましょう。
 イースター島の現地に行く人には欠かせない、絶好の手引書です。
(2015年6月刊。1000円+税)

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2015年3月25日

新興大国インドネシアの宗教市場と政治


著者  見市 建 、 出版  NTT出版

 インドネシアの大統領はジョコ・ウィドドという初めての庶民出身です。これまでのような軍人政治家ではありません。どうして、そんなことが可能になったのかを考えさせてくれる本です。ちなみに、著者の名前は、「みいち けん」と読みます。まだ40代と若い学者です。
 インドネシアは、インド、アメリカに続く世界3番目の人口規模の民主主義国家であり、世界最大のムスリム(イスラム教徒)民主主義国である。
インドネシアの経済成長も著しく、その巨大な市場は、「ポスト中国」と期待されている。
 2014年7月の大統領選挙でユドヨノのあとを継いだジョコ・ウィドドは、ジャワ島中部の地方都市ソロの市長から、2012年のジャカルタ州知事となり、今回は、大統領となった。庶民の出であり、2005年までは家具輸出業を経営していた。
 ジョコウィのスタイルは、「抜き打ち視察」で庶民の声に直接耳を傾け、現場の状況を把握し、迅速な決定で現実的な解決策を示すことである。ジョコウィは、ほとんど宗教に縁がなく、ソロ市長のときも、ジャカルタ州知事のときにも、ペアで立候補した副市長、副知事はキリスト教徒だった。
 インドネシアの2億5000万人の人口の9割がムスリムである。しかし、インドネシアは「イスラム国家」ではなく、他宗教の共存が国民国家成立の前提条件となっている。
 現行の1945年憲法の前文にある建国五原則パンチャシラには、それぞれの宗教にもとづいて神を信仰するとされている。
 さらに、ムスリムのなかでも、イスラム系政党を支持する勢力と世俗ナショナリスト政党を支持する努力に二分される。
 敬虔なムスリムは、全体の4割程度で、彼らはイスラム系政党を支持する東南アジアにおいて、シーア派は非常に少なく、おそらくムスリム人口の1%にもみたない。イラン革命は、一般のムスリム知識人や学生のあいだに、シーア派への関心を高めるきっかけとなった。
 民主化以降のインドネシアは、欧米諸国をふくめても、世界でも異例な出版の自由があり、きわめて急進的なイスラム主義者によって執筆・制作された本や映像が流通している。
 イスラム武装闘争派の大半は「読む」活動家であり、その出版物の消費者は、「中間層」である。貧困と教育程度の低さが過激派を生むという俗説は、インドネシアでは的外れである。
近年の宗教行為の「商品化」として注目に値するのは、ズィクルである。ズィクルとは、もともと「記憶」を意味し、神のことを常に覚えているように、数珠を携えて神の名やコーランの章句を繰り返す業を典型とする。しばしば音楽や踊りを伴い、神への愛とともに、精神的な高揚や参加者の一体感が生み出される。
 政治家にとって、宗教的なイメージは大切であるが、イスラムを強調すれば勝てるというわけではない。急速に拡大する大都市圏を中心とした消費市場において、宗教的「標準」を気にしたり、「癒し」を求める消費者ニーズに応えるような商品が宗教行為の商品化や既存のメディア・コンテンツの宗教家によって生まれている。
ジョコウィ大統領は、1961年に大工の長男として生まれた。学校に通うための自転車も買えないほどだったが、叔父の援助を受けて国立大学の森林学部に入った。在学中は学生運動に参加していない。卒業後、小さな家具商を営んでいた。
 2010年には、9割以上の圧倒的な支持を得てソロ市長に再選された。
 ジョコウィは、既存のエリートの連合を前提としながら、注目を集める政策を打ち出し、それを実行することによって、大衆の支持を獲得し、権力を維持し強化してきた。
 ジョコウィは、ジャカルタ州知事選の際には、大集会ではなく、丹念に庶民の市場を回り、屋台で食事をした。
 ジョコウィは、「大衆との連立」を唱え、SNSを積極的に利用し、マスコミの話題をさらった。
 インドネシアでは、政党も宗教団体も、大半は組織より権力者の個人戦位で動いている。それぞれの動員力、政治家をもつメディアを両陣営が奪い合った。あるいは、見返りの資金や新政権における大臣ポストを期待して、政治家や政党のほうから両陣営に近づいた。
 最後に勝負を分けたのは、これまで政治と関わりが薄い人々だった。世論調査で相手方陣営に追い上げられているという危機感をもったジョコウィ陣営は戦略を見直した。SNSで芸能人に発言を呼びかけ、有権者の多少を問わず、ボランティアで集中的な戸別訪問をした。最後には、流動的な政治と宗教の市場、とくに中間層の浮動票がジョコウィを選んだ。
 今日のインドネシアが深く知ることのできる本です。
(2014年12月刊。2300円+税)

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2014年11月29日

バニヤンの木陰で


著者  ヴァディ・ラトナー 、 出版  河出書房新社

 久留米にある靴メーカーに勤めている人と話していたら、カンボジアに提携している工場があるので、プノンペンにも行ったことがあるとのこと、驚きました。私は残念ながら、カンボジアに行ったことはなく、したがってアンコールワットにも行っていません。
 この本は、例の残忍なポル・ポト派がカンボジアを支配していたときの体験をもとにした小説です。自分が体験したことをベースにしているだけに迫真的です。
 文明を敵視したクメール・ルージュ(赤いクメール)の犯罪行為が惻々と伝わってきます。よくも王族の一員であることを隠し通して生きのびることができたものだと驚嘆します。といっても、王子である父親は家族を守るために自ら出頭して、殺されてしまいました。
 ただ、どうやって殺され、その遺体がどうなったのか、まったく不明のようです。それだけ、ポル・ポト派の圧政下では原始的で、野蛮な殺害が横行していたわけです。
 はじめ、プノンペン市民はクメール・ルージュ軍がやってきたときには歓迎する気分もあったようです。ところが、すぐにそれは間違いだと思い知らされます。
 「荷物をまとめて、すぐに出て行け」
 「2、3日のあいだ必要なものだけ持っていけ」
 「どこでもいい、とにかく出て行け」
 「時間はない。すぐに出るんだ。アメリカの爆撃がある」
 「出ていかないと撃つぞ。全員だ。わかったな」
 「革命万歳」
 いきなり都市から農村部へ追いやられ、そこで重労働させられるのです。
 1日仕事は夜明けの1時間後に始まり、日没の1時間前に終わる。すべての家畜は町の共有財産である。生活必需品は、すべて配給される。大人も子どもも、同じ量の米が配給される。
 こうやって1975年から4年近くも、人々はポル・ポト派の支配下におかれ、200万人近い人々が死亡したと推測されている。
 1979年1月、ポル・ポト派はベトナム軍によって打倒された。
 本当に苛酷な生活を強いられたものです。読んでいて胸がつぶれそうになります。でも、これも知るべき現実だと思って、最後まで読み通しました。
 カンボジアの豊かな自然描写がよく描かれているのが救いです。
 ポル・ポト派を直接的に支援していたのは中国でした。そして、アメリカは何もしなかったのです。恐らく介入するメリットになるような利権(天然資源など)がなかったからでしょう。
(2014年4月刊。2600円+税)

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2014年3月11日

民主化のパラドックス


著者  本名 純 、 出版  岩波書店

 とても興味深い話が満載の本で、インドネシアの実情をよく理解することができました。
 日本にとって、インドネシアは古くからの友好国であり、同時に重要なエネルギー・天然資源供給国でもある。
 1970年代から1990年代後半まで、日本のODA(政府開発援助)の最大受け入れ国はインドネシアだった。
 2億人をこえる人口は、インドネシアを中国、インド、アメリカに続く、世界第4位の巨大国家たらしめている。
 インドネシアで「政治の自由」というスローガンが公に議論できるようになったきっかけは、1989年5月、駐インドネシアで米大使の発言だった。これにまっ先に飛びついたのは、スハルト体制の柱である国軍と、政府の翼賛政党「ゴルカル」だった。国軍は、国会の中に一定の議席を占めていた。軍部は、スハルト大統領との確執を強めていた。
インドネシアの民主化要求の盛り上がりは、体制内部の権力闘争、すなわちスハルト大統領と国軍との勢力争いによって生まれた政治空間だった。
 1965年9月30日に勃発した「9.30事件」は、インドネシア現代史のもっともダークな過去である。この「9.30事件」によって、多くのインドネシア国民は、政治がいとも簡単に死に直結することを記憶に植えつけられ、政治に恐怖を抱いた。その一方で、為政者たちは、自らの意志で大衆が操作され、そのうねりで国が動くことに陶酔する。
 スハルトは「9.30事件」の前に情報を得ていたが、あえて事件の発生を止めなかった。この機会を利用して、軍内のリーダーシップをとり、共産党を壊滅に追い込み、スカルノ体制を国軍主導の下で再建しようと考えた。
泥沼化していたベトナム戦争をかかえるアメリカにとって、陸軍の反共作戦は、好ましい事態だった。アメリカは、インドネシア各地の共産党幹部のリストをスハルト側に渡し、その排除を手伝った。「9.30事件」による死者は少なくとも50万人、多くて300万人と言われている。
 魔女狩りは、地主や宗教指導者などの地方有力者にとって、日頃、敵対する人たちを排除する格好の機会にもなった。
スハルト体制は、国民的なトラウマの上に建設された。スハルトの嫁婿であるプラボウオが「陰の司令官」として軍内で横暴な権限を発揮することに対する静かな不満が、軍内にたまっていった。プラボウオは、陸軍特殊部隊を中心として、不満分子の弾圧工作を展開していった。
 大規模な暴動を扇動してスカルノ体制を崩した経験のあるスハルトには、プラボウオのやっていることに脅威を感じた。プラボウオが治安維持回復作戦司令部の復活という時代錯誤の策に走り、暴動を政治利用したことで、社会混乱は深まり、収拾がつかなくなった。
 軍内の権力闘争は、スハルト辞任劇の核にあたる部分を演出した。
プリブミとは、インドネシア語で、「土地の子」という意味。華人系インドネシア人は、生まれながらに「非プリブミ」のレッテルを貼られ、構造的な差別を受けた。
 自然発生の暴動など、インドネシアではありえない。これは、差別とか怒りではなく、政治の力学である。暴動というのは、イベント企画であり、火付け役から扇動役、暴動役まで準備され、それ相応の報酬が支払われることが前提だ。なかでも、反華人の暴動は、人気のプロジェクトだった。なぜなら、スポンサーは国軍だから、報酬も他と一桁ちがうし、プリブミのためという大義名分があるから、リクルートも楽だった。
ハビビ大統領の後ろ盾を得たウィラント国軍指令は、軍内「改革」のキャンペーンをあげて、プラボウオの勢力の一掃に動いた。この浄化は、陸軍特殊部隊に対してのみ行われた。処罰するかどうかは、ウィラントの意志次策だった。これを読みとった多くの将校が、ウィラントへの忠誠を高め、結果としてウィラントの軍内掌握がすすんだ。その意味で「国軍改革」は、ウィラントにとって政敵排除の道具であり、権力闘争のカモフラージュでもあった。
 東ティモールを切り離して損をするのは、コーヒー農園や砂糖農園の利権を牛耳っているスハルト家と国軍であった。
5年の任期をまっとうすることなく、ワヒド大統領が政権の座を追われた(2001年7月)ことで、民主化時代における政治エリートの権力闘争にある種のコンセンサスが形成された。それは、いくら自由な選挙を経て選ばれた大統領であれ、与党連合の力学を無視して好き勝手はできず、連立を組む他党にきちっと利権を分配し、そのパイプを切るようなことはしないという暗黙のコンセンサスである。与党連合に加わって、大臣職や国営企業へのパイプを獲得し、あらゆる公共事業で与党政治家が一枚かむ仕組みをつくり、そこで吸い上げた金を政党運営にあてる。つまり、主要政党エリートで権力と利権のパイを分けあうことで、政治の談合体制をつくる。これが政権安定のカギであることを、メガワティはワヒドの経験から学んだ。
 国民はメガワティに抱いていた「期待」が幻想であったことを徐々に認識していった。独立の父スカルノの娘として強いカリスマ性、そしてスハルト時代の抑圧のシンボルとして社会がメガワティに抱いてきた「人民の母」「弱者の味方」というイメージが急速に崩れていった。
 スハルト時代、メガワティ支持者のNGOや学生運動は、片っ端からコパススの弾圧を受けた。コパススは、旧体制の抑圧と裏政治工作のシンボルとして、スハルト後、急速に存在力を失った。そのコパススの地位回復をメガワティが助けたのは、なんとも皮肉な話だった。
 2003年5月の戒厳令は、一方で軍の失態を外に漏れにくくし、他方で特定エリートの利益拡大に大いに貢献した。メガワティ政権は、このような国軍のフリーハンドを容認した。
 ほとんど国民に対して語りかけないメガワティに対する不満もユドヨノ評価につながった。ユドヨノにはマシーンがなく、あるのは人気だけだった。
 マシーン政治が勝つのか、イメージ政治が勝つのか。
ユドヨノは得票率60%を確保し、圧勝した。しかし、実行派のイメージとは裏腹に、決断力がないことでユドヨノは有名だった。みんなにいい顔をしたがる。ユドヨノは、ストレートに本音を言うのを嫌うジャワ人の典型だった。2009年のユドヨノ再選は、国民が政権の継続を望んだ結果である。
 スハルト体制下、公然の秘密として国軍はさまざまな「治安サービス」を提供し、ナイトクラブやディスコ、賭博場、売春宿などのビジネスの警備を通じて、多額の自己資金を調達した。これは巨大な利権ビジネスであり、国家の軍事予算の2~3倍にのぼっていた。そこに警察が参入した。国軍のライバルとして台頭してきたのだ。
 違法ビジネスをめぐる軍人と警官の対立が生まれた。
 国軍は新地開拓を求め、人身売買や密輸を手がける犯罪集団との関係を深めていった。
 反対に警察は、国軍から縄張りを奪うと同時に、世間に対して治安維持能力があることを示すためにも、国軍と近い犯罪組織の摘発に力を入れた。
 スハルト時代に強行された開発ビジネスや国軍の利権活動が地方経済をひどく歪ませ、その不平等で不正義が蔓延する経済状況こそが住民紛争の根本原因である。
 アンボンの陸軍兵士は積極的にイスラム教グループを支援し、キリスト教集団への攻撃に加担した。地元警察はキリスト教民兵集団をテコ入れしていた。アンボン市警の警官の7割はキリスト教徒だった。
 国軍は、全国各地で地方政治を弱体化し、国軍改革を骨抜きし、ビジネス利権を確保している。
 インドネシア政治のダイナミックな推移がよくも分析されていると驚嘆しながら、一気に読了しました。
(2013年10月刊。2700円+税)


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2013年11月24日

湖上の命


著者  高橋 智史 、 出版  窓社

カンボジア・トンレサップの人々。こんなサブ・タイトルのついた写真集です。私はベトナムには一度だけ行ったことがありますが、カンボジアには行ったことがありません。アンコール・ワットとかアンコール・トムにはぜひ行ってみたいと思っているのですが・・・。
 カンボジアというと、私にとっては平和な国というより、キリング・フィールド。つまり、ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)による大虐殺の国というイメージです。
 そして、カンボジアは、ベトナムと昔からあまり仲が良くないと聞いています。
 そんなカンボジアの中央部にある広大なトンレサップ湖に、そこでの水上生活者としてベトナム人がたくさん住んでいるというのです。驚きました。
 日本人の若きフォト・ジャーナリストが、そんな水上部落に住み込んでとった迫真の写真集です。水上生活者の小船で朝食を売ってまわるおばさん。そして、散髪屋もあります。
 仏教徒だけでなく、キリスト教信者もいます。
 水上生活者に赤ん坊が生まれ、また、年寄りが亡くなっていきます。
子ども、そして若者たちは、ここでも元気一杯です。
 生活の糧は湖の魚たち。
くっきり鮮明な写真で、ベトナム人水上生活の日常生活を知ることができます。貴重な写真記録だと思いました。
(2013年4月刊。2200円+税)

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2013年5月 2日

東アジア共同体

著者  山本 吉宣・羽場 久美子ほか 、 出版  ミネルヴァ書房

国際政治から考える東アジア共同体。というのが正式なタイトルです。「東アジア共同体と朝鮮半島」(李鍾元論文)を中心に紹介します。
朴正熙政権は、経済の立て直しのため、日韓国交正常化を強行し、ベトナムへ派兵したが、その実績を足場としてアジアの反共諸国を束ねるASPACの創設を主導した(1966年)。ASPACは韓国の主導で実現した初めての地域機構だった。しかし、短命に終わり、冷戦的な反共主義の色彩が強かったため、日本ではそれほど注目されなかった。
 盧泰愚政権は、一方ではAPECの創設に積極的に加わりつつ、中ソおよび北朝鮮との関係改善を視野に入れた「北方外交」を展開した。
 金大中政権から「東アジア共同体」構想を本格的に打ち出しはじめた。
 金大中大統領が東アジア地域外交に力を入れたのは、通貨危機に直撃され、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った韓国経済にとって、日中を中心とした域内協力体制の構築が重要であるという経済的要因に加えて、国際舞台での活躍を通して、南北関係の改善に弾みをつけたいという思惑があった。
 「東アジア共同体」構想を牽引した金大中外交のつまずきは、韓国にとって、北朝鮮問題を中心とした「北東アジア」の地域協力が同時に推進すべき重要な課題であることを改めて突きつけるものであった。
 2011年11月、インドネシア(バリ)で開かれた第6回東アジア首脳会議にアメリカとロシアが初めて正式メンバーとして参加した。
 当初、ASEAN+3の12ヶ国で始まった「東アジア」がアメリカからインドにいたる18ヶ国体制に拡大した。直接的には、増大する一方の中国の影響力を牽制するため、ASEANとオーストラリアが勧めたバランス外交だった。
 世界的な冷戦が終結した1990年代以来、韓国は「アジア太平洋」と「東アジア」「北東アジア」の間を揺れつつ、経済的な地位統合と朝鮮半島の脱冷戦という二つの課題を視野に入れ、さまざまな地域戦略を模索してきた。
 民主党・鳩山政権の「東アジア共同体」とその後の著しい鳩山たたきは、アメリカをアジア外交戦略から外せば、日本のどの政権であれ生き残ることはできないことを白日の下にさらした。鳩山民主党政権は、国民やメディアの支持基盤を固めることもないまま、米国外交から離反しようとして、アメリカと日本国内の双方から総攻撃を受けて沈没することを余儀なくされた。
 アメリカはアジアの国ではない。しかし、アメリカはアジアと中途を支配することによって世界大国となったといってよい。
 アメリカの戦略は、アメリカが政策に関与し続けることが第一目標であり、中国を排除するのではなく、むしろ連携しようとしている。ただし、それはアメリカの圧倒的な優先性の下にである。
 EUのように東アジア共同体をつくる試みがあること、それは平和の確保のための努力でもあることを学ぶことができました。
(2012年4月刊。3200円+税)

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2013年2月11日

3万冊の本を救ったアリーヤさんの大作戦

著者  マーク・アラン・スタマティー 、 出版  国書刊行会

アメリカのイラク侵攻戦争は、その初めからインチキでしたよね。大量破壊兵器をイラクのサダム・フセイン政権が隠し持っているというのが侵攻戦争の大義名分でした。しかし、どこにも、そんなものはありませんでした。初めから嘘っぱちだったのです。
 それでも、アメリカ軍はイラクに侵攻し、日本もそれを支えました。膨大なお金をアメリカ軍に投じただけではなく、自衛隊はアメリカ軍将兵の運送事業に従事したのです。兵站(へいたん)は、戦争参加の重要な一環です。
ですから、名古屋高裁判決が日本政府のイラク派兵を憲法に違反していると明確に判断したのは画期的なことですが、当然でした。
この本は、イラク戦争のとき、アメリカ軍と一緒にイギリス軍が侵攻してきたバスラの図書館から、3万冊の本を運び出して、戦火にあうのを免れたという実話をマンガで紹介しています。
マンガでイラク戦争の一局面を知ることが出来ました。このマンガを描いたのは、アメリカ人です。政治風刺画やマンガをよく描いているそうです。
 マンガによってイラク戦争の真実を知ることができました。
(2012年12月刊。1400円+税)

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2012年4月18日

経済大国インドネシア

著者  佐 藤  百 合 、 出版  中公新書

 インドネシアという国には、あまりいい印象がありませんでした。長く軍部独裁が続いてきた国で、9.30事件では共産党をはじめ民主的人士を大量虐殺し、近くはチモール独立運動も圧殺した国というイメージです。
 ところが、この本によれば、そんなインドネシアが最近ぐんと変化したといいます。
 インドネシアの人口は2億4000万人。日本の2倍。ロシアの1.7倍。日本とメキシコの2倍。経済成長率の高さでは、中国・インドが突出していて、それに続くのがインドネシアである。
2004年、インドネシアは建国史上初めての直接大統領選挙を成功させ、ユドヨノ大統領が誕生した。これをもってインドネシアに民主主義体制が確立したといってよい。
 インドネシアでは、毎年200~250万人の新規参入労働力が発生する。
インドネシアは多民族国家である。1128の民族集団と745の言語がある。インドネシアは、6000あまりの無人島を含む、1万7504の島々から成る最大の群島国家である。インドネシアの国語は、最大民族集団のジャワ人のジャワ語ではない。文法がシンプルで表記が簡便なムラマ語(マレー語)を国語としている。
 インドネシアは総人口の88%、2億1000万人がイスラム教徒、世界最大である。しかし、インドネシアはイスラム教を国教とはしていない。ヒンドゥー教のヴィシェヌ神を背に乗せて飛ぶ神の島、ガルーダを国章にしている。インドネシアという国は、各地の多種多様な民族がオランダを共通の敵として共にたたかったという歴史的事実を唯一の根拠として誕生した国である。
 インドネシアでの現地生産の長い日系企業のなかではインドネシアの作業員の質の評価は高い。手先の器用さ、眼のよさ、作業効率の高さ、忍耐強さなどである。
 インドネシアの輸出相手国として、日本は原油・天然ガスの最大の仕向け先として一貫して第一位を占めている。
 うむむ、日本って、インドネシアとそんなに深い関係だったのですね。
 日本から見て、インドネシアは最大の援助対象国である。ODAについて、日本政府からの債務が270億ドルで44%を占める。
 しかし、同時に日本はインドネシアを南進策の下で占領した歴史がある。インドネシア人の日本観も、日本による軍事占領の歴史を起点としている。
 そうなんですね。日本人の私たちの忘れがちなところです。加害者は忘れても、被害者は忘れることができないものです。
 インドネシアの今日を、ハンディに知ることのできる貴重な本でした。

(2011年12月刊。840円+税)

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2012年2月20日

僕は日本でたったひとりのチベット医になった

著者   小川 康 、 出版   径書房

 実に面白い本でした。一日中ずっと読みふけっていたい本です。
 何が面白いって、チベット医学を日本人が学び、それを習得するまでの苦労が生き生きと、手にとるように描かれています。笑いあり、涙あり、驚嘆すべき暗誦ありの日々なのです。
 1970年生まれですから、いま41歳でしょうか。東北大学薬学部を卒業し、しばらく人生の展望を見失っているとき、ひょんなことからチベットに渡ったのです。なんという運命でしょう。チベット医学を学ぶときには、外国人枠(ヒマラヤ枠)で入学できたのでした。
それにしても、短期間のうちにチベット語を習得し、仏教、歴史その他の科目で500点以上(1000点満点)を獲得しなければならないのを突破できたというのですから、実に偉い。なみの努力ではここまでできませんよね。
 試験問題は、たとえば、薬師如来のご身体の色は何色か。その理由を述べよ、というものです。うひゃあ、こんな問題に答えきれるなんて・・・。
 朝7時に起床し、お堂で読経が始まる。般若心経、文殊菩薩、ターラ菩薩のお経を次々と猛烈なスピードで諳んじていく。
ヒマラヤで薬草を採る実習がある。20日間にわたる実習が続く。奈良の正倉院に納められている薬草を調べると、そのひとつがヒマラヤのホンレンであることが判明した。丸一日かけてとってきた薬草を乾燥させると、たった手のひら一杯ほどになってしまう。
 ここでは、教典(四部医典)と解読書を90分のうちに早口言葉のスピードで暗誦させられる。
 著者は、なんとこの暗誦に挑み、成就したのでした。座布団の上で足を組み、背筋を伸ばす。そして、薬師如来の祈りの言葉を捧げると、大きく深呼吸して眼を閉じた。抑揚をかなり大げさにつけた語り口で暗誦を続けた。
 1年に1日だけ、それも満月の光のもとでしか作ることのできない神秘の薬がある。その名も月晶丸。最後に牛乳を混ぜる作業は必ず満月の下で行わなくてはいけない。
 うむむ、この神秘一番の薬はぜひとも服用したいものですね。いったい何に効くのでしょうか?おもに胃かいようなど、胃の熱病に用いられるとのことです。
 順風満帆のように思われる5年間の勉学生活ですが、実はまったく違います。1年のときは快進撃でした。しかし2年生のときはノイローゼになり、3年生で休学し、そして、4年生で復学して、ついに卒業にこぎつけたのです。まさに七転八倒の学園ドラマを演じたのでした。しかし、それにしてもチベット人のなかで日本人一人よくもがんばったものです。すごいです。偉いものです。
 卒業のとき、著者は、4時間半に達成することができたのでした。ここまでくると、読んでいる私も、自分のことのようにうれしくなってしまいます。
 果てしなく続く暗誦です。ええーっ、4時間半も座って暗誦するなんて、とんでもないことです。まさにカミワザですね。そのときの写真が紹介されています。教師や学友たちに囲まれ、広くない講堂の中央に座って暗誦している姿です。途中から、著者がずっと可愛がっていた野良犬が二匹、著者のそばに寄り添っていたというのも嘘のような話でした。
 こうやって著者はチベット医(アムチ)になったのでした。暗誦できるのがどれだけ医者として役に立つのかなどというのは無用の詮索です。すごい勉学の日々でした。読んでいるうちに、なんとなく、私もまだがんばれるかもしれない。そんな不思議な気持ちになりました。
 ちなみに、著者は、今は長野県小諸市で「アムチ薬房」を開設し、チベット医学とともに日本古来の伝統医療の紹介・普及につとめているとのことです。いちど、お世話になりたいと思いました。
 いい本をありがとうございました。
(2011年10月刊。1900円+税)

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