弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年12月22日

プーチン(上)

ロシア


(霧山昴)
著者 フィリップ・ショート 、 出版 白水社

 プーチンのロシアによるウクライナへの軍事侵攻が今なお終息する気配がないのは本当に残念です。欧米各国はウクライナへの軍事援助を強め、日本もその尻馬に乗って軍事的に貢献しようとしていますが、平和憲法を有する日本のやるべきことではありません。もっと国際世論に訴え、外交交渉を強めてロシアのウクライナからの撤退を求める努力をすべきだと私は思います。今のままではプーチンとともに日本を含む各国の軍需産業が栄えるばかりです。それでは、いつまでたっても戦争は終わりません。
 この本は、そもそもプーチンとは何者なのか、その実像を、生い立ちから探っています。
 プーチンがエリツィン大統領から首相に指名されたのは46歳のとき。1991年、ロシアがチェチェンに侵攻していたときだった。プーチンは、この時点では、何ら特色のない実務は役人、慎重さ以外に取り柄のない人物とみられていた。
 プーチンはチェチェンにロシア軍を侵攻させ、チェチェンを強圧的に押さえつけた。その容赦ない生真面目な姿勢はロシア国民の共感を呼び、プーチンの支持を飛躍的に高めた。
 プーチンが生まれたのは1952年10月7日。プーチンの祖父は、サンクトペテルブルグの豪華ホテル(アストリアホテル)で総料理長をつとめた。ラスプーチンも客の1人だった。
 プーチンの両親は、どちらも小学校でせいぜい2、3年の教育を受けたくらい。父親は夜間学校に通って技術の習得に励み、40歳で修了した。
 プーチンは子どものころ素行不良だったが、犯罪者ではなかった。ケンカが始まると、一番に飛び込んだ。伸長の低さを補うやり方でもあった。
 プーチンは、政治について議論することがほとんどない保守的なソヴィエトのプロレタリア階級の中で育った。
 プーチンが大学生のとき、母親が国営宝くじでソ連車をあてた。それで、19歳にしてプーチンは自分の車を有するレニングラード唯一の大学生になった。
 プーチンは柔道を始めた。プーチンは、いつもたくましさを高く評価し、弱いものを軽蔑した。
 プーチンは法学部の学生として、ソヴィエト法の一番の目的が国民の保護ではなく、制度的権威を守ることだと学んだ。
 KGBは、最も頭のいい、聡明な学生は求めなかった。もちろん、バカや怠け者も不要、求めたのは、バランスのとれた学生。当時のソ連では、学生は自分で就職先を探したりしなかった。卒業時に新しい職場を言い渡された。1975年8月、プーチンは中尉という肩書でKGBのレニングラード支局に足を踏み入れた。KGBの階級は、服務期間の長さだけで決まる。プーチンは年長者に取り入るのが得意だった。
 プーチンは異様なほど他人を信用しなかった。プーチンは手札を見せない。感情を隠し、あいまいな合図を送る。
 1986年4月のチェルノブイリ原発(原子力発電所)の爆発は、ソ連の人々のプライドに大打撃を与えた。
 プーチンが家族とともにレニングラードにドイツから戻ったのは1990年2月のこと。ゴルバチョフは、エリツィンに負けた。
このころ、何かを実現するには非公式ネットワークに頼るしかなかった。ロシアのボスは、通常、ムチで支配するが、プーチンは違った。プーチンは、世間話や社交を時間の無駄だと考え、心底から嫌った。バカには容赦がなかった。
プーチンは時間を守る理由がない限り、人を待たせた。それは、自分には相手を待たせる力があるからだ。ロシアでは、嘆願者を待たせるのは、優位性を見せつけるための古い官僚手法なのだ。
 1990年代初めに有力者となったロシア人実業家は、1人残らず、違法取引からスタートした。
 1995年には、サンクトペテルブルグの1人あたり殺人率はニューヨークを上回った。賄賂は、もはや犯罪ではなく、生活の肌理(きめ)の一部だった。
 プーチンの方針は、主要ギャングたちのバランスを維持し、突出したギャング集団がいないようにすることだった。うむむ、なるほど、これは大変賢いやり方です。突出したギャング集団がいたら、とても逆らえなくなることでしょう。
 プーチンが首相になるまでは、クレムリンにいるのは口先ばかりで、実際のプロジェクトを達成できない連中ばかりだった。
 これに対して、プーチンは、実行して、しかも成功させた。そして、プーチンは、たとえ犯罪者だろうと、友達は守る。これを実行した。
エリツィンがプーチンを首相候補として考えはじめたのは1998年夏。
 上巻だけで468頁もある大作です。上京する飛行機の中で必死の思いでプーチンの正体を知ろうと読みすすめました。
(2023年5月刊。4500円+税)

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