弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年9月30日

「私は魔境に生きた」

日本史(戦前)


(霧山昴)
著者 島田 覚夫 、 出版 ヒューマンドキュメント社

 日本の敗戦も知らず、ニューギニアの山奥で原始的な生活を10年も過ごしていた元日本兵の体験記です。
 原始的な生活といっても、最後のころは、現地の人々と交流もあり、山中で狩りをし、川で魚を釣り、畑で野菜をつくって自給自足生活していましたから、「魔境」から出てきた直後の上半身裸の写真をみると、いかにも健康体です。やせおとろえている姿ではありません。ただ、歯には困っていたようです。歯って大切なんですよね。
 著者たちは1943(昭和18)年11月、第四航空軍の一員として、ニューギニアのブーツに上陸した。1945年8月15日の日本敗戦を知らず、そのまま奥地にじっと潜んでいて、1954(昭和29)年9月、現地の村人からの通報によってオランダ官憲に収容され、翌1955(昭和30)年3月、日本に帰還した。
 ニューギニアへの輸送船団は、1943年3月、アメリカの攻撃によって壊滅的な打撃を受けた。第18軍は、人員7300、輸送船8隻、護衛駆逐艦8隻、護衛機のべ200機だった。そのうち、輸送船全部、駆逐艦3隻が沈没し、3664人が死亡した。
ニューギニアではマラリアが猛威をふるい、食糧不足によって兵隊の体力はおとろえていた。
 1944(昭和19)年6月、密林のなかでの籠城生活が始まった。このとき、総人員は17人。第209飛行場大隊。そのなかには、大牟田市大黒町出身の沼田俊夫兵長もいた。この本の著者は曹長。沼田兵長は籠城生活の初期にアメリカ軍と遭遇して戦死した。その遺骨は後で回収されている。
 日本敗戦時(1945年8月)には、当初17人いたのが、8人にまで減ってしまった。食料は乏しく、水も天水に頼った。散髪、ヒゲそりにも困った。柱時計のバネを砥石で研ぎあげて、刃物として、頭を痛い思いで丸ゾリした。マッチがないので、メガネのレンズ2コのあいだに水を詰め、「レンズ」として、枯葉にあてると煙を出して燃えはじめた。ただし、太陽がいるときだけ、朝や曇り空では役に立たない。
 蛙や蛇も取って食べた。蛇は「山うなぎ」と名付けた。元兵士たちはマラリアにかかって次々と死んでいった。
 甘藷(サツマイモか・・・)とタピオカそしてパパイヤの栽培に取り組んだ。バナナがとれるようになったが、甘いバナナは、それだけでは甘過ぎて、食べられなくなった。
 人間の体重を測るための大きな秤(はかり)をつくった。分銅は石で、20貫まで測定できた。これによって、毎日、4人の体重を測定して、健康を管理した。いやあ、これには感動しましたね・・・。さすが日本人です。
 現地の人々との交流が始まったのは、1951(昭和26)年5月のこと。7年ぶりに、自分たち4人以外の人間だった。どうやって会話したか。お互いにまったくコトバが通じない。そこで、日本人同士で一つの芝居をする。尻上りのコトバで名前を質問している光景をつくって、名前を聞いていることを分からせる。そして、「コレは何か?」という質問ができるようになり、品物の名前が次々に判明していった。なーるほど、こんなやり方で、少しずつ時間をかけて根気よくマレー語を身につけていったのでした。
 現地の人々と交流できるようになると、栽培する野菜がどんどん増えていきます。残った元日本兵4人はきっと性格も良かったのでしょう。現地の人々との交流は秘密保持を前提として続いていきます。でも、何年もすると、その秘密は次第に村から村へと広まっていきました。というのも、元日本兵たちは、現地の人々のもつ蛮刀を修理して、ピカピカのよく切れるものにしていったから、それを知り、うらやましく思った他村の人が、問い詰めるのは当然のことです。そして、ついには日本人の存在はオランダ官憲の知るところになったのです。
 ニューギニアの密林で、元日本兵4人が10年も生きのびた理由、その苛酷な状況がよく分かりました。貴重な手記です。
1986年8月刊。2000円)

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