弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年8月 7日

記憶の科学

人間


(霧山昴)
著者 リサ・ジェノヴァ 、 出版 白揚社

 人間の脳は驚異的だ。脳は毎日、無数の奇跡を起こしている。これは、まさしく最近の私の実感でもあります。年齢(とし)をとって認知症になるのを心配している私ですが、毎日、こうやって書きものをしているのも、できるのも、脳の活動のたまものです。
 物忘れのほとんどは、性格上の欠陥でも、病気の病状でもなく、心配すべきことですらない。忘れることは、乗り越えなければならない障害ではない。しっかり覚えておくためには、忘れることが欠かせないことも多い。
 そうなんです。私がこうやって書評を書いているのは、実は、安心して忘れるためです。書いてしまえば残ります。なので、忘れることに心配無用なのです。
 退職した日本人エンジニア(原口證、あきら)は、69歳のとき、円周率を11万1700桁まで暗記した。うひゃあ、な、なんということでしょう。とても信じられません...。
 記憶の形成には、4つの基本的段階をたどる。1つ目は記銘。2つ目は固定化。3つ目は保持(貯蔵)。4つ目は想起(検索)。意識的に思い出せる長期記憶をつくり出すためには、この4つの段階がすべて機能していなくてはならない。まず、情報を脳に入れる。次に、情報同士を糸のように織り合わせる。それで出来あがった情報の布を、脳の持続的な変化という形で貯蔵する。最後に、望んだときは、いつでも情報の布を取り出せるようにしておく。海馬は、記憶をつなぎあわせる。いわば記憶という布の織工だ。新しい記憶を作るためには、どうしても海馬が必要になる。海馬が損なわれると、新たな記憶をつくる能力が正常に機能しなくなる。
海馬は新たな記憶の形成に欠かせないが、できた記憶は海馬にとどまるわけではない。記憶銀行などというものは存在しない。長期記憶を宿す、脳の特定の部屋は存在しない。記憶は、脳のあちこちに貯蔵される。記憶は、関連する情報をつなぐ神経回路という形で、脳内に物理的に存在している。
昔ならったスキルを再現できる能力は、「筋肉の記憶」(マッスルメモリー)と呼ばれている。ただ、このマッスルメモリーは、筋肉ではなく、脳内にある。新たなエピソード記憶や意味記憶の形成には海馬が欠かせないが、マッスルメモリーの形成には海馬はまったく関与していない。一度習得したマッスルメモリーは、意識して思い出そうと努めなくても、再生される。この過程は意識にはのぼらない。
 脳内に保管されるデータは、すべて意味記憶である。脳は、つまらないことや重要でないことを熱心に知ろうとはしない。知識を増やしたかったら、情報を意味のあるものに変える必要がある。感情をともなう経験のエピソード記憶は、感情をともなわない経験よりも記憶に残りやすい。エピソード記憶の形成と保持には、感情、驚き、意味が必要だ。
どのようなエピソード記憶であろうと、何度か想起されているうちに、オリジナルからは相当逸脱してしまう危険をはらんでいる。人間の脳は、誘導的な質問を受けると、まったく経験していないことまで覚えていると思い込むことがある。目撃者と称する人々の証言は、だから、実はアテにならないことが多い。
 ヒトは、見えないものは忘れてしまう。私は、司法修習生のとき、電車の網棚に乗せた大切な書類を忘れて、大変な目にあったことがあります。見えないと忘れてしまうものなんです。
記憶の最大の敵は、時間だ。脳内に貯蔵できた情報を保持したいなら、絶えず活性化させること。情報を思い返し、反復練習し、繰り返すことだ。
 忘れることは、きわめて重要。忘却は、人間の機能を、毎日ありとあらゆる形で助けている。忘れるという人間の能力は、記憶する能力に負けず劣らず、必要かつ不可欠なもの。
 常にストレスを抱えていると、海馬のニューロンが徐々に失われていく。ニューロン新生は脳の多くの領域で一生を通じて起こっているが、とくに海馬で顕著だ。
睡眠は、健康を保ち、生き残り、最高の機能を発揮するためには欠かせない、生物学的には忙しい状態だ。明らかにスーパーパワーと言えるはたらきをしているのが睡眠。睡眠によって、マッスルメモリーも最適化される。人体は、睡眠というプロセスによって、毎晩、心臓病とガンと感染症と、精神疾患と必死に戦い、これらを撃退している。脳をふくむ体内のあらゆる器官の生命力は、十分な睡眠によって向上する。睡眠が足りないと、健康と記憶力は大幅に低下する。
 アルツハイマー病は、ある日突然に発病する疾患ではない。アミロイドプラークが蓄積し、症状があらわれるまで15年から20年の歳月がかかる。アルツハイマー病の予防策としておすすめは、新しく何かを学ぶこと。その新しく学ぶことは、できるだけ意味が豊かで、景色、音、連想、感情を伴うものであることが望ましい。
 いやあ、実にすばらしい指摘のオンパレードです。あなたに、強く一読するようおすすめします。
(2023年5月刊。2700円+税)

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