弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

2023年8月23日

兄・中学生物語

人間


(霧山昴)
著者 干田 實 、 出版 (株)MJM

 岩手県で「田舎弁護士(いなべん)」を自称する著者は80歳、弁護士生活も50年になります。戦後まもなく、全国的に食糧難の時代に中学3年生だった長兄が家計を助けるため、学校に行かずに母親と一緒に1年間、魚の行商生活を送った日々を紹介しています。
 長兄(満穂)は、中古車販売の会社で成功しますが、その基礎には、中学3年生の1年間の行商生活でつちかった商魂と商才、そして商哲学(信用)の三つがあった。さらには運をつかむという、人間の域を超えたと思える完成による。
 一つは、商売は一生懸命でなければならないという商売への熱意。
 二つには、商売がうまくできる才能を磨かなければならないという商売のコツ。
 三つは、商売は、人間として世間から信頼され続けなければならないという人間のあり方。
 長兄は、夕食のあと、両親そして4人の弟たちの前で「明日から、母ちゃんと一緒に行商に出る」と宣言した。病弱の父親は頼りにならず、次兄と著者は弟たちの面倒をみることを約束させられた。ときは昭和27(1952)年のこと。
宣言したとおり、長兄は4月から翌年3月までの1年間、魚の行商を母親と一緒に遂行した。そして行商を終え、中学を卒業すると同時に岩手県南バスに就職した。そこで自動車修理の技術を身につけたことが成人してから生きた。
 行商で売るのは、魚や身を干して保存できるようにした干物(ひもの)。山間部の農家を一軒一軒、まわって売り歩く。背中にアルミニウムの一斗缶を大きな風呂敷に包んで背負い、両手には竹籠を下げ、誰も行かないような山奥の農家、街まで買い物に出るのが難しいような家を一軒一軒歩いて回り、干物を売る。母親は集落の西側から、長兄は集落の東側から一軒一軒、農家を訪ねて売り歩き、夕方、集落の真ん中付近で落ち合うというやり方。
 落ち合ったときにまだ売れ残っているものがあれば、それを一つにまとめ、母親を先に帰し、長兄はもう一度、集落内の農家に向かい、買ってくれそうな家に行って再び行商する。一度断られても、もう一度、買ってくれるようお願いする。
 注文を受けているものを売り歩くわけではない行商は、一度目はたいてい断られる。断られて「はい、分かりました」と引き下がったら行商は成りたたない。断られながらも、何とかして少しでも買ってもらうための努力を尽くさなければならない。行商は、はじめから、そんな商売なのだ。
 行商は、買いたいと思って店を訪ねてくる人に物を売る商売ではない。同じ商売といっても、客のほうから買いに来てくれる店での商売とは、そこが根本的に異なる。行商は、買う気のない人を訪ねて、買う気にさせなければならない。なので、難易度の高い商売だ。
 セールスは断られてからのスタートだ。商売は、あきらめてはならず、粘り強くがんばらなければならないもの。
 長兄は、干物よりも利幅の大きい生魚を売らないといけないと考えた。しかし、生魚はすぐに腐るから、その日のうちに売ってしまわなければいけない。リスクは大きい。でも、売れたら、もうけが大きい。商売にはリスクがともなう。それをいかにして小さく抑えるかが、勝負どこなのだ。
 長兄は、母親と一緒に、それまでの干物のほか、魚の加工品と生魚まで扱うようにした。長兄は、母親と落ちあったときに生魚が売れ残っていると、もう一度、農家をまわって、こう言った。「このまま魚を持ち帰っても悪くなってしまう。捨てるよりは、安くしますから、買ってください。お金でなくてもいいです」
すると、農家の年寄りは、「小豆(あずき)でよかったら、交換しよう」と言ってくれる。
長兄が、「米でも麦でも、大豆でも小豆でもよい。思い切り安くするので買ってほしい。これを売り切らないと、明日の仕入が出来ない。家には小さな弟たちが4人も待っているので、食べさせてやりたい」と言うと、農家の人は、「それは、大変だな」「じゃあ、かわいそうだから、小豆をやるから魚を置いていけ」と言ってくれる。そのうえ、泥のついたジャガイモ、大根、にんじんなどまで持たせてくれる。それでも売れ残った生魚があると、母親に頼んでその夜のうちに塩漬けにしてもらい、優しくしてくれた農家に持っていって、「この間のお礼です」と差し出す。
長兄が物々交換でもらった小豆は街中(まちなか)の菓子屋に持っていくと、高値で買い取ってくれる。長兄は、売り歩く魚よりも、夜帰るとき、農家から物々交換でもらった大豆や小豆、そして米や野菜など、かえって重くなるのが、いつものことだった。なので、著者の家は食糧難をたちまち脱出することができた。
「こんな遅くまで、夕食も食べずにお腹が空いているだろう」といって、長兄は芋やトウモロコシ、そしてトマトなどを食べさせてもらった。生魚を全部売り切り、ご馳走になり、お土産までもらって、長兄が家に帰るのは夜9時になった。
いやあ、いい話でした。根性がありますね。中学3年生でこんな経験をしたのですから、成人して中古自動車販売業を始めると、たちまち成功したのも必然ですよね。
85歳になる今も長兄は元気だそうです。いい本をありがとうございました。
(2023年7月刊。550円)

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