福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

憲法リレーエッセイ

2010年12月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆ 「労働」にもっと敬意を

会 員 木 佳世子(54期)

8月末、日弁連貧困問題対策本部デンマーク調査団に参加してきました。目的はフレキシブルな労働市場・手厚い失業保険制度・積極的労働市場政策によるフレキシキュリティの実情などの視察でした。日程の都合上、前半だけしか参加できませんでしたが、感じたことを書きます。人間にとって働くことは他者から必要とされることによる自己の価値の確認をもたらす、人間の尊厳に直結する非常に重要な営みだと思います。その働くことがデンマークでは非常に大切にされています。よく解雇自由が強調されますが、労働組合の組織率は7割で、労使が社会的パートナーとして国を作ってきた歴史の重みから存在感が大きく、不当解雇には組合が黙っておらず実際には好きなように解雇がなされているということは全くないようです(ただし経営上の理由による解雇は緩やかな印象は受けましたが。)。解雇されても失業保険が2年間あり、安心感につながっています。印象に残っているのは「生産学校」です。デンマークでは職業につくには受けてきた職業教育と資格が重視されるので、教育が非常に重要ですが、やりたいことが分からないとか、非現実的な夢を見たりして教育から離れてしまう若者もいます。そのような若者(16~25歳)にやりたいこと、やれることを見つけ再度教育ルートに乗ることを促すのが生産学校です。日本のフリースクールのような感じで金属加工、木工、調理、ウェブデザイン、被服、保育、軽音楽などの実習が行われていましたが、生産物は製品として販売され、生徒にはそれなりに生活費として役立つ程度の賃金が支払われます。ただし、あくまでも教育なので成果ではなく人格的発達に重きをおいているということでした。生徒たちには正規のルートから外れたコンプレックスなど全く感じられない笑顔がみられました。なお、正規の職業学校でも座学と実習を繰り返すのですが生徒たちには「働いているので」賃金が支払われます。子どもであっても訓練中でも「働けば賃金が支払われる」、それだけ労働に対する敬意が払われていること、使用者側も良質な労働力を使うコストとしての職業訓練・社会保障の負担をきちんと負っていることが印象に残りました。「もう来んでいいけ。」と即日解雇された人や、暮らしていけない賃金しかもらっていない相談者・依頼者の姿が浮かびました。勤労の権利と義務がわざわざ憲法に定められている日本。労働に対してもっと敬意が払われてもいいのでは、と思った視察でした。

2010年5月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆ ―憲法劇を続けて20年―

会員 古 閑 敬 仁(43期)

今年も劇団ひまわり一座による憲法劇が5月2日、少年科学文化会館で行なわれ、数百人の観客を集め、大成功を収めた(はずです。この原稿を書いたときは、まだ4月だから‥) 私は、弁護士1年目から劇団ひまわり一座に入って、毎年、5月の憲法記念日前後に憲法劇に参加しております。

ところで、この劇団ひまわり一座による憲法劇は20年以上も続いています。憲法劇が20年以上も続いているのは、もちろん「憲法改正反対」というテーマが重要で、参加者の多くがそれに賛同してきたからであることは間違いありません。

しかし、それだけで同じ団体が、毎年ゴールデンウィークの忙しい時期に20年も続けてこれるわけはありませんし、毎年300名以上のお客さんを呼べるわけありません。

何故、続けられたか‥私は、出演者も観客も、みんなが「演劇」自体を楽しんでいるからだと思います。

憲法問題というとやはり硬いイメージがあって、一般の市民の方に「憲法問題について考えよう」という催し物をしても、最初から関心や問題意識がある人は参加されますが、そうでない方の参加はなかなか難しいのが現実です。

また、若い人たちには、憲法問題が難しく思えるだけでなく、言葉自体が分からない人も多くなっているようです。大学生に「ホシュ」とか「カクシン」とか、さらには「ゴケン」といっても、「?」という反応が返ってくることがあります。

そこで、「憲法劇」なんです。演劇であれば、とっつきやすいし、「楽しいお芝居があるから見に来ないか?」「僕も出ているから、冷やかしに来てくれ」といって、憲法問題に興味のない人にも観劇を勧めます。そして、見に来てもらって、少しでも憲法問題に関心もってもらったり、考えるきっかけになるのではないでしょうか。実際、私の母や友人たちも、私が出演しているので、毎年見に来てくれ、見終わった感想で「こんな問題もあったんだ」といってくれています。

と、偉そうなことを書きましたが、実際には、劇団ひまわり一座も壁にぶつかっています。 ひとつは、観客が毎年300人以上はいるのですが、固定客が多く、いまひとつ市民への広がりが足りないことと、観客も劇団員も高齢化が進んでいることです。

特に、高齢化はここ数年の課題です。憲法問題は、これからの日本をどうするのかということであり、若い世代にいかにして、憲法のことを考えてもらうかが重要だと思うのです。

で、劇団ひまわり一座としては、劇団員に若い人を増やし、若い観客を引きつけようと思っているのですが、実際にはなかなか、若い弁護士の参加が少ないのが現状です。若い弁護士が増えているのに何故なんでしょうか。演劇に参加すると、裁判員裁判のスキルアップにもなる…かもです。

そこの、君、ぜひ劇団ひまわり一座に入って、明日のスターを目指さないか!!

2010年4月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆

会員 吉澤  愛(61期)

弁護士になって1年余りが過ぎ、忙しい毎日を過ごしています。この不況のさなかに仕事がたくさんあるのはありがたいことですが、それでも時々、自分が別の選択をしていたら、今ごろどんな人生を送っているのだろうと思うことがあります。

昔、たまたま見ていたテレビで、フィリピンの少数言語であるイロカノ語しか話せない被告人が、日本の捜査機関で取り調べを受ける際に英語の通訳しかつけてもらえなかったため、本人の意向とは異なる内容の調書が取られてしまい、それに基づき不当な判決を受けた、というような内容の報道がなされていました。今から考えると、憲法32条や14条が絡むような立派な憲法問題なんですが、当時、私はまだ高校生で、法律など全く分からない素人でした。それでも、そんないい加減なやり方で裁かれたくないよね、と素直に怒りを感じたのを覚えています。

日本にはメジャーな言語の通訳は大勢いても、少数言語の通訳は全然足りないという現状をそのとき初めて知った私は、そのあと随分経ってから、一念発起して法廷通訳を目指すことにしました。選んだ言語はタイ語。タイはどこの植民地にもなったことがなく、タイ語しか話せない人たちが大勢いるので、私の目的にぴったりだと思ったのでした。

当時は、それなりにタイ語で食べていこうと思っていましたので、タイ語だけでなく、タイの文化や歴史も結構真面目に勉強しましたが、その後、諸般の事情から、通訳にはならず今の道に進むことになりました。そんなわけで、当時学んだことはあらかた忘れてしまいましたが、それでも衝撃的でよく覚えているのは、タイ人の先生が王様について説明したときのことです。

「タイでは、王様は仏教徒でないといけません。勝手にイスラム教徒になったりしたら、いろんな儀式ができなくなります。そんなのタイとは呼べません。ありえない。」

不快に感じた方がいたら謝ります。でも、それが一般的なタイ人の感覚のようなんです。 実は、国王が仏教徒でなければならないというのは、慣習レベルの話ではなく、タイ王国憲法に明文で定められています。ただ、同時に、国王は宗教の擁護者であるとも定められており、実際、国王はあらゆる宗教に対して寛容的な立場をとっていると言われています。もちろん、一般国民には信教の自由が憲法上保障されています。

ところで、タイのプミポン国王は、国民から絶大な支持を受けています。だいぶ前になりますが、クーデターを起こした張本人が国王に呼び出されてひれ伏している場面を、テレビで見た方も多いと思います。1992年5月流血事件と呼ばれるクーデターが起きた際、プミポン国王が当時の首相と反政府運動の指導者を呼び出し、和解を呼びかけ事態を沈静化したときの出来事で、俗に「国王調停」とも呼ばれています。

タイでは、頻繁にクーデターが起こりますが、そのたびに憲法が停止され、暫定憲法が作られ、そのあとに恒久憲法が作られるということが繰り返されています。現行憲法は2007年に制定されましたが、これは、立憲革命後に制定された1932年のシャム王国統治憲章から数えて、実に17番目の憲法典です。

一つ前の1997年憲法は、当時の民主化の動きを背景として、初めてクーデターと関係なく正常な手続で制定された憲法でした。政治改革を目的として、それまで国王の任命制だった上院議員を直接選挙で選ぶとか、国家汚職防止委員会を設置するとか、いろいろな規定が盛り込まれました。ですが、この憲法も、結局、2006年のクーデターで停止し、改革は一歩後退しました。民主化への道は、一筋縄ではいかないようです。

とまぁ、タイへの思いを馳せてはみても、なかなか飛んで行く時間が取れません。弁護士にならなかったら、今ごろ、私、どこで何してるんだろう?

2010年3月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆

会 員 小 川 威 亜(53期)

私の修習期は53期で、2000年10月に弁護士登録しました。

その約1年半後の2002年から昨年2009年まで、北九州市において、「北九州憲法集会」なる集会を憲法記念日に(時にはその前後に)事務局長として開催してきました。 憲法に関する集会は、大きく分けて改憲派の集会と護憲派の集会があると思いますが、私が開催してきた集会は護憲派の集会です。 これまで8回の憲法集会を事務局長として開催してきて、強く感じたのは、憲法を護るという活動には終わりがないということです。 現に存在するものを守っていくという活動が、客体が存在する限り終わりがないことは、考えてみれば当たり前のことなのですが、頭で判っているのと実際にやってみるのでは大違いで、集会の準備をしていると(護憲派の私から見れば)、「何で、そんな違憲なことばかりやるんだ!」と言いたくなるような政治家の言動がとても目につきますし、そんな政治家が総理大臣になったり、改憲を政策目標に掲げたりしますから、憲法を護る活動の終わりのなさを本当に痛感します。

しかも、憲法記念日は、ゴールデンウィークの一部ですから、私にとっての連休はいつも5月4日からです。

この活動に終わりがないということと、連休が削られるということは、憲法集会を裏方として支えるメンバーにも大きな影響を与えます。同じ様な内容の集会をやっていては、新鮮みが無くなり面白くないし、当日参加してくれる人も少なくなります。その結果、裏方のモチベーションも低下するということで、2002年の段階で一緒に活動を始めた三役のうち、2009年まで残っていたのは、私1人でした。

もちろん、三役で残ったのが私だけというだけで、当初からメンバー何人か残っていますし、新しく参加してくれたメンバーもいます。短気で、すぐに愚痴を言う私を支えてくれたこれらのメンバーにはとても感謝しています。

憲法が最高法規として存在するにもかかわらず、憲法問題は社会に沢山ありますので、集会のテーマとする事柄には困りません。しかし、所詮素人の集まりに過ぎない私達で、人を呼べるだけの集会を形作るのは、なかなか大変な作業です。

毎年四苦八苦して、ハンセン病問題や、イラク派兵問題、派遣切り問題などをテーマに据え、講演形式にしたり素人で劇を行ったりと演出を変えて集会を行ってきましたが、やはり実質的なトップである事務局長が同じでは、マンネリ化は避けられません。そこで、今年の集会から事務局長を後輩弁護士に交代してもらい、私は平メンバーとなって準備に参加しています。

平メンバーになると、とたんに準備活動への参加頻度が鈍ってしまい、新事務局長には申し訳なく思っています。このエッセイ担当を機に、心を入れ替えて頑張って参加していこうと考えています。

事務局長の交代により多少の若返りを果たすことが出来ましたが、やはり事務局長の個人的頑張りに支えられた集会では、組織的な活動とはいえません。また、集会当日に参加して下さる参加者の多くが50歳代から60歳代で、20歳代や30歳代の参加者数が下手をすると70歳代よりも少ないという、憲法を護る運動に共通する大きな問題に対応する必要もあります。

そこで、数年前頃から始めたことですが、大学生が主体となった集会運営を確立することを目論んでいます。

集会に参加してもらうことで、憲法についてより関心を持ってもらうことができますし、活動を後輩に引き継いでもらうことで、新陳代謝が確立されます。何より、弁護士が作る理屈っぽい集会が若者の目線からの集会に代わっていきます。

加えて、主催者側で参加した学生の友人達が、当日、観客側として参加してくれるという効果も期待できます。

この目論見の最大の問題は、今時の大学生の扱い方を、私や新事務局長がいまいち判っていないという点です。会議をすっぽかされたり、しばらく連絡が途絶えたりすることがままあり、頭を抱えることも少なくありません。修習生ですら扱いに苦労する位ですし、自分自身が大学生だった頃のことを考えると致し方ないことでしょうね。

まだまだ、大学生主体の憲法集会を確立することは出来ていませんが、何とか新事務局長の次の事務局長には大学生を引き込みたいと頑張っています。

「いつまでもあると思うな親と金」という諺がありますが、これは現憲法にも当てはまると思います。なくなってからでは遅すぎます。これを読まれた北九州の護憲派の皆様、是非ともご協力とご参加をお願いいたします。

2010年2月 1日

「息子と平和と」

会 員 近 藤 恭 典(58期)

昨年の初夏、釣りに出かける車の中で、小学6年の息子が、学校の先生に対する不満を話し出した。 修学旅行先の長崎平和公園で、「平和の誓い」という文章を読み上げる役になったらしいのだが、その文章を作って担任の先生に見せたところ、よくないから文章の一部変えろといわれたことが不満だというのだ。 二度と戦争をしないために、戦争を肯定するような政府は認めませんという趣旨の箇所を削るようにと言われたらしい。 何かと気を遣わなければいけない最近の学校の先生にすればそうなのかなと苦笑しながら、この子が戦争を避けることを具体的に考えることもあるのかと嬉しくなった。 私の両親は子どもに対する平和教育には熱心な方で、私は幼い頃から戦争被害を聞く集まりや反戦映画などによく連れて行かれた。その手の本もたくさん買い与えられ、絶対に買ってはもらえなかった漫画も「はだしのゲン」だけは頼みもしないのに家にあった。「はだしのゲン」は擦り切れるほど読み、おかげで、戦争に対する恐怖感は疑似体験として心に刻み込まれた。 湾岸戦争が起こり、PKO協力法の是非を巡って日本中が議論していた頃、当時高校生だった私も、同級生とときどき議論をした。議論の中身は忘れたが、新聞やテレビで聞きかじった言葉をぶつけ合うだけの拙いものであったと思う。 一つだけ覚えているのが、同級生が「お金だけ出しても国際的な信用は得られない。血を流さないといけない。」という当時よく使われていたフレーズを口にしたときに感じたことだ。その時私は、彼と自分とでは、「血を流す」という言葉で想像する情景が、決定的に違うのではないかと思ったのだ。私にとって「血を流す」情景は、焼けただれた皮膚にガラス片を刺したまま焼け野原をさまよう人の姿であり、手足を失い芋虫のような姿で戦場から帰ってきて「殺してくれ」と毎日叫んでいる人の姿である。そういう情景を思い浮かべてしまえば、「血を流さないといけない」などとは、口が裂けても言えるはずがないと思ったのである。 親となって、息子にもぜひ戦争被害を学ばせねばと思ったが、これがうまくいかない。戦争展に誘ってもついてこないし、長崎の平和記念館に連れて行っても早足で駆け抜けてしまう。「はだしのゲン」を買ってきても読んだ気配がないし、普段は見たがる金曜ロードショーも「火垂るの墓」のときはさっさと寝てしまう。 息子の感性は大丈夫だろうかと心配していたところに先の文章のことを聞いたのである。これは戦争と平和について息子と語れるチャンスと思い、じゃあ戦争を肯定する政府を作り出さないために何をしなければいけないだろうか、と話を膨らませようとしたが、これには乗ってこなかった。 息子も今春から中学生になる。漫画やアニメで平和教育をする手はもう使えないだろう。親とあまり話もしなくなるかもしれない。 急いで新しい手を考えないといけない。

2009年9月 1日

学資保険裁判

深堀 寿美(45期)

1 1991年12月、福岡部会の会員を中心に、約100名の代理人で、学資保険裁判中嶋訴訟は提訴に至りました。

原告らの世帯は生活保護を受けていました。当時、生活保護世帯では、高校に修学するための費用が支給されていませんでした。3人の子どもを何とか高校に行かせてやりたいと、世帯の母親は思い、わずかな生活保護費を節約し、約14年間に渡り、毎月3,000円ずつ、郵便局に学資保険として積み立てを行いました。ある時、この保険に約44万円の解約返戻金があることがケースワーカーに知れるところとなり、解約の指導指示を受け、ぐずぐずしている内に、満期がやってきて満期保険金が出ました。福祉事務所がこの金額を収入として取り扱い、今後半年、この約44万円分の保護費を減額する、とした行政処分が違法であるとしてその取り消しを求めた行政訴訟です。

2 弁護団がいうところの、この行政処分が違法であるという趣旨は、保護費や収入認定された収入は、保護世帯が自由に消費してよいはずなので、その保護費等を貯めたからといって、それを再度、収入として認定するのは間違っている、それは生活保護法4条に違反している、というものでした(保護費消費自由の原則)。

3 しかしながら、この裁判、本当は、その1:高校修学は世帯の自立に必要不可欠なので、そもそも生活保護費において高校修学費用を支給しないという基準は、憲法25条1項に違反するものである、その2:高校進学率90%超の現状で、生活保護世帯だけ高校に進学できないのは憲法26条1項「教育を受ける権利」を侵害するものである、その3:生活保護世帯の子どもが高校修学ができない実態は、子どもの権利条約28条に反するものである、という、憲法違反、条約違反を主位的請求原因として主張したかった裁判でした。

平和的で控えめな性格だった事務局長の平田広志会員は、本当は、そういう憲法裁判にしたかったけど、そんなこといったって、その理由で戦っても「確実に」勝てるという見込みはないので、その目的もさりながら、とにかく、子どもの高校進学に備え、世帯が前々から貯蓄をすることは、褒められこそしても、何か悪いことをしたかのごとく、責められたり、挙げ句、一生懸命貯めたお金を取り上げられるような取り扱いが許されるはずがない、ということを生活保護法4条違反、という形で主位的理由とし、それを補強する理由付けとして、憲法25条1項、26条、子どもの権利条約28条を展開し戦ったのでした。

4 この裁判、地裁では、「保護受給権は世帯主にあって個々の子どもには受給権がない」などと、へんちくりんな理屈で、「請求却下」という結論でした(母親は裁判前、父親は裁判途中で他界)。が、高裁では、その点も是正し、高校修学目的で保護費等を貯蓄した場合にそれを収入認定するのは生活保護法4条に違反して違法、と明確に断じました。そして、2004年3月16日、この高裁判決が最高裁でも認められ、高裁判決は確定しました。

最高裁も、処分庁の上告を棄却する、という三行半の理由だけではすまさず、「高校進学は世帯の自立に有用だ」とわざわざ宣言してくれました。そのため、この判決後、保護世帯が、何か悪いことをしているかのようにしてこそこそ貯めていた高校進学費用は、「収入認定しない扱いとする」と厚生労働省が通達を出し、多くの子どもを抱える世帯がほっとし、さらに、2005年度からは、生業扶助の一部として「高校修学費用」そのものが保護費として支給されるようになりました。 5 最高裁に、わざわざ「高校進学が世帯の自立に有用」と宣言せしめ、生活保護基準を変更せしめたのは、地裁の段階から、この問題が憲法問題だ、と主張し続けた成果である、と弁護団は自画自賛しています。

みなさんも、一つ一つの事件で、憲法を意識して主張してみるといいかもしれません。

2008年11月 1日

憲法と私

会 員  吉 村 真 吾(59期)

私は、理系の学部に所属していたため、大学で憲法を学んだことがない。教養部のころ、法律学の授業を受けたような気がするが、これについても全く覚えていない。当時、私の関心は化学や生物学にあった。

そんな私が初めて憲法を学んだのは、司法試験を受験することを思い立った時である。当時、会社勤めをしていた私は、司法試験を受験するため、手はじめに憲法の教科書を購入した。法律のことなど全く分からない私は、司法試験のために何から手を付けてよいかも分からなかったが、「まずは憲法だろう」という安易な考えから、書店の棚にある一番メジャーそうに見えた芦部先生の憲法の教科書を購入した。

そして、会社の寮へ帰り、会社の同僚に司法試験の勉強をしていることが見つからないよう、こっそり、その教科書を読み始めた。

憲法の教科書を初めて読んだ時、私は、憲法とは何とすばらしいものだろうと素直に感動した。難しさを感じるよりもそう感じたことをよく覚えている。

その後は、試験のための勉強が中心になっていったが、会社の寮で密かに感動して読んだ憲法が、私にとっての初めての憲法である。

弁護士としての活動の中で憲法上の権利が問題となる事件は、刑事事件や集団事件に限られ、日常の事件の中で憲法が直接的に問題となることはあまりない。

むしろ、社会問題との関係で人権擁護を使命とする弁護士の職責について考えさせられることが多い。

ここでは、私の実体験を交えて非正規雇用の問題について書いてみたい。

私の世代は、第2次ベビーブームと言われる世代である。大学卒業時には、就職難から就職氷河期と言われたこともある。この世代には正社員としての就職先が得られず、現在も非正規雇用として不安定な雇用環境で生活している者が数多く存在する。

私が司法試験の受験勉強をしていたころを振り返ってみると、アルバイト先には、アルバイトで生計を立てている同年代の者が数多くいた。彼らは、正社員と同じ仕事をしながらアルバイトとして長期間勤務し、或いはアルバイトを転々として生活してきていた。

彼らは、自ら進んで非正規雇用を選択しているのではなかった。話をしてみると、先がどうなるか全く分からない現状に不安を覚え、出来れば正社員になりたいと考えていた。彼らは私と同世代であり、非正規雇用の問題は非常に身近にある問題であった。

非正規雇用の問題の中で特に問題が多いと思われるのは、いわゆる日雇い派遣である。労働者派遣法改正において問題にされているが、日雇い派遣は、憲法が保障する人間の尊厳との関係でも大きな問題を含むと思われる。

私が実際に目にした日雇い派遣の問題を象徴する出来事として、職場での名前の呼ばれ方に関する出来事がある。同じ職場にあって、会社に直接雇用されているアルバイトは、雇用主である会社の社員から名前で「○○君」「○○」などと呼ばれていた。一方、日雇い派遣で働きに来ている者は、名前で呼ばれることさえなかった。呼ばれる時は、「派遣君」または「派遣」である。

日雇い派遣は、その名のとおり、日雇いであり、かつ派遣先と雇用関係もない。そのような関係の中では、名前さえ必要とされていない。彼らは労働力、商品としてのみ扱われているのである。

労働は、人が経済的に自立して生活していくということだけではなく、人が人格的存在として生活していくということにも意味がある。日雇い派遣の問題は、憲法の理念に沿った労働のあり方とはどういうものであるのかを問いかけているように思われる。

私にとって、非正規雇用に関する問題は、同世代の問題ということで非常に身近に感じる問題である。同世代の弁護士として真剣に考えていかなければならない。

2008年5月30日

憲法リレーエッセイ 第12回

会員 紫藤 拓也(55期)

1 はじめに

つい最近、筑後部会の「市民向け憲法講座」の紹介をしたばかりだか、再び「憲法リレーエッセイ」で登場になってしまった。
私は、特に憲法問題だけをがんばっているわけではないが、すべての人権活動が憲法問題につながると考え、依頼に応じて筆をとってもいいかという気になる。
しかし、若輩者の55期生にとっては、憲法は未だ現実に見えないというのが、正直なところである。

2 知識としての憲法

学生時代、憲法の単位は取ったが、授業に出かけた記憶がない。
受験時代も、私の場合かなり長いが、学んだのは、図式化した憲法である。おおまか「封建社会から絶対王政が確立する過程で国家という社会のあり方が生み出され、その国家権力を制限し、国民の自由を守ることを目的として憲法が作られた。その後近代の諸原理が変容を受け現代型の憲法になった。そこにいう新たな諸原理にはこれこれがあり、憲法は目的である人権保障を達成するための手段として統治機構を規定している。残りは各論として条文と判例がある」というものである。「国家」と「国民」を対立させた図式と「人権」と「統治」を対立させた図式があれば、憲法全体の理解をしたと思い込むことができた。
しかも、それぞれの時代の憲法が生まれた背景に関しても、世界史や日本史などの大学受験レベルの歴史の知識に加えて、史実かどうか判然としない架空の小説に登場する歴史観しか持ち合わせていない。
誠に恥ずかしいが、私の憲法の理解はこの程度である。

3 具体的事件における憲法

だから、弁護士になっても、「これって人権問題ですよね」と唐突な相談を受けると、回答に窮してしまうのが現実である。
司法の意義に関する知識では、事件性が要求されるので、憲法を実践しようとすると、具体的な事件の中で憲法問題に結びつける必要が出てきてしまう。しかし、具体的な事件では、憲法を使うすべが私にはまだわからない。
人権活動の一環として信じて集団事件にも多数関与しているつもりだが、いつもこのジレンマに陥ってしまう。
憲法改正の議論を眺め、自らは護憲派だと自称してみても、「市民向け憲法講座」の準備をしてみると、自らの無知を思い知ってしまう。争点についての不十分な知識しか持ち合わせていないのである。
私の世代は、物と情報にあふれ、手を伸ばそうと思えば手に入れられる世代である。

4 見えかけている憲法

ただ、こうした無知な私でも、例えば、刑事事件について、「国家権力による人権侵<害が目の前で行われないようにチェックする仕事をしているのだ」と信じて取り組むことはできる。
集団事件も、過去の人権侵害に対する損害賠償請求事件と平行しながら、同時に将来<の人権侵害を防止するための差止請求事件に関与することで、将来に向かって憲法の理念を実践していると信じ込むことはできる。
弁護士になったとき、どんな弁護士になりたいかと問われたときの答えを弁護士会の自己紹介に書いたことを思い出す。それは、ちょうど娘が生まれた頃だったから、「パパの仕事はなに?」と問う娘に対して、「子どもたちの将来を守る仕事よ」と答えられる弁護士になりたいという内容だった。今では、青臭いなあと思うこともあるが、だから私は公害環境事件を中心として人権問題を実践しているのだと自分に言い聞かせることもできているとも思う。
つい最近、その娘が小学校に入学した。入学式の帰りに警ら中の警官に会う機会があり、娘が「ごくろうさまです」とぺこりとお辞儀をすると、その警官が笑顔で敬礼してくれた。
私は、こうしたとき、憲法の平和を感じる。
だから私は、まだ、見えてはいないが、見えかけている憲法があると信じることができる。

2008年4月16日

憲法リレーエッセイ 第11回

49期 北九州部会 小倉知子

それは東京出張の日だった。他県の弁護士から、欠陥住宅の判決についての原稿を2本、それも締め切りが5日後という過酷な条件で頼まれ、「大変だ」「出来るかな」と私は不安を抱えていた。羽田空港に到着し、事務所に電話を入れた。「永尾先生から電話が入っていました。」嫌な予感がした。「月報の憲法リレーエッセイの原稿を書いて欲しいとのことです。」予感的中。「締め切りは○○日(6日後)だそうです。」えっ!無理だよ。「ゆめゆめお断りにならないように、とのことでした」むむむ、さすが永尾先生、先手を打たれてしまった。永尾先生の依頼を私が断れるはずもなく、そして、私は締め切りがほぼ同じの原稿依頼を3本抱え込むことになった。

実は私は司法試験の受験時代から憲法が大の苦手である。自分では、佐藤(幸治)先生の難解な教科書で憲法が苦手になったと思っている。今でも、「パターナリスティックな」という言葉を聞いただけで、その後の言葉は全く頭に入らなくなるという拒否反応が残っている。司法試験は、最後に芦部先生の易しい(優しいではない)導きによって、なんとか乗り越えられたが、憲法の苦手意識はそのまま。というわけで、今回は他の原稿依頼とは違う次元で、かなり困ってしまった。そこで、まず前例検討。今までの月報を読み返して見た。ふむふむ。高尚な話はしなくても(自分のレベルが落ちるだけで)良いらしい。というわけで、最近の出来事に絡めて憲法について触れることにした。

先日私は、パートの人達だけで組織する労働組合の結成大会に参加し、改正パート法の話をした。 平成18年時点でパート等労働者数は1100万人を超えており、全労働者の4分の1を占めている。そのうち、7割が女性である。パートとして働いている女性の中には、時間の融通が利くからという理由で敢えてパートを選んでいる人もいるだろう。しかし、大半は正社員になりたいけれども『なれない』からパートとして働いていると思われる。そこで、改正パート法は目玉として、正社員と同じ仕事をこなしているパートの(正社員との)差別禁止や均衡待遇を定めた。女性が1人で子どもを抱えながら、パートでフルタイム働き、月額10万円以下しかもらえないというケースは多い。パートであっても、正社員と給料等の待遇が均等になれば生活はかなり楽になるだろう。憲法は、国民に勤労の義務を課すとともに、国民の生存権を定める。しかし、シングルマザーの現状は国民が勤労の義務を果たしていながら、生活保護基準すらも収入が得られない状態である。なぜか。国がフルタイムパートを黙認し、フルタイムで働いても最低限の生活をするのに不十分な程度の最低賃金しか認めていないからである。憲法は国民と国との約束である。国民はその約束に従って(働くという)義務を果たしているのに、国が(生存権を保障するという)約束を果たさないのはおかしくはないか。経営合理化・人件費削減という理由で、パートタイマーを増やし、ワーキングプアを生み出した責任は、企業だけではなく、国にもある。その意味で、今回のパート法改正は不十分ながらもパートの待遇改善(=生存権保障)という、国の約束履行に向けての小さな1歩といえるだろう。今後も一所懸命働いている人がきちんと報われる社会にむけて進んで欲しいと思う。

最後に、原稿を書きながら思ったこと。憲法改正なんて言っている暇があったら、まずは今ある約束(憲法)を守るという基本的なことを国はして欲しいよねぇ。そして、結論は「やっぱり憲法はえらかった」。

以上

2008年4月10日

憲法リレーエッセイ 第10回憲法と私

会員 近藤  真(33期)

私の手元に、オーストラリア人権委員会編集にかかる「みんなの人権−人権学習のためのテキスト」(明石書店、福田弘・中川喜代子訳)という80頁余りの小冊子があります。ここに次のような趣旨の話が出てきます。

「AB2人の裁判官が、夕食後、仕事のことで語り合っています。『今日の裁判の男をどうしましょうか?もし、あなたが私だったら、どのように裁きますか?』とAがBに話しかけました。『あなたは、私が答えられないということを知っているはずです。彼の父親は5年前に死んでしまったというだけでなく、彼は私の息子でもあるのです。』とBは答えました。しばらく、このことについて、考えてみて下さい。分かりますか?Bは、どうして“私の息子”と言い得たのでしょう?だって、話に出た男の父親は、既に死んでいるのですよ。」

この本の設例(Bの話がおかしくないか)は、人権の極めて重要なことを教えてくれます。それは、差別等の反人権的意識は、自分自身の気がつかないところで醸成されているということです。皆さんは正解はわかりますか?そう、「Bは女性裁判官」というのが正解です。10年以上前に大分県で教頭先生以上を対象とした人権の講演をした時に、冒頭の設例の回答を求めてみましたが、正解率は50%を大きく下回っていました。やはり男社会の中で育った中高年世代にとっては、正解に行き着くのが意外と難しかったようです。私のここ数年の関心事は、このような偏見を気付かせてくれる教材、或いは自分自身の偏見度を数値で分からせてくれるような教材がないかなあ、ということです。司法試験の短答式問題のようなものをイメージしています。

ところで、私と憲法の出会いは、大学で杉原泰雄教授のゼミで2年間憲法を勉強したことに遡ります。杉原先生は、「国民主権の研究」等フランスの歴史に基づく重厚な研究で高い評価を得ている憲法学者ですが、他方その授業やゼミは、これほど明解かつ厳格な解釈論はないというほど歯切れがよく、いつも教室は超満員でした。その杉原先生が、ある日、朝日新聞の論壇に、「憲法より国際人権規約の方が人権規定が豊富であり、人権については憲法とともに国際人権規約も学ぶべきである」という趣旨の論考を寄稿されました。「国際人権」などが議論されるようになるずっと以前の1970年代だったと思いますので、今から考えると、杉原先生の炯眼に驚くばかりです。それ以降私の関心事は、国際人権規約を中心とする国際人権条約に移っていったのですが、意識の中では、勉強としての国際人権法よりも、本当に人権が分かる又は本当に人権を実践するということは、もっと身近な、地に足のついたものではないのか、といったようなことを考えてきました。そういう問題意識の中で、1998年12月に、九州弁護士連合会と福岡県弁護士会共催で開催した「親子で学ぶ人権スクール−人権って何だろう」の総合企画をさせていただきました(この内容は、花伝社から同名の本が出版されています)。この時に講演していただいた作家の小田実氏の次のような話も、地に足がついた人権を考えるのに役立ちます。

「私は、子どもたちに人間は助けあわないといけないと教えてきました。…私が一つ失敗したことがあります。太平洋の真ん中の小さな島に行ったときのことです。重そうな荷物を抱えたおばあさんが来たから、私は持ってやりました。そしたら、おばあさんは『ありがとう』とも言わないで去って行きました。…別の人の荷物を持ってやったときにも、『ふん』と行ってしまったのです。『礼儀も知らないな』と私は思いました。そしたら、今度は私が荷物を担いでいたら、だれかがさっと持っていってくれました。そして、ぽんと荷物を置いてさっさと行ってしまいました。それで分かったことは、私のほうが遅れていたということです。つまり、この島では、そんなことは当然のことをしたにすぎないんです。『ありがとう』を言うに値しないのです。…これには驚きました。すばらしい社会です。」

冒頭の裁判官の話や小田実氏の話のような話を沢山掲載した「人権小話集」や「人権意識チェック問題集」のようなものがどこかにないですかね…知っている人は教えて下さい。

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