福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2017年4月 1日

憲法リレーエッセイ 裁判所は憲法を尊重しているか?

憲法リレーエッセイ

会員 永尾 廣久(26期)

「憲法は裁判規範ではなくプログラム」?

元最高裁判事の泉徳治氏は、最高裁の憲法認識を厳しく批判しています。

「日本の最高裁は憲法のやや抽象的文言から国民の具体的な権利自由を導くことに消極です。国民の権利自由は、法律で規定されて初めて生まれると考えがちです。立法作業を経験した裁判官に特にその傾向が強いようです。最高裁は、まず法律制度から入り、法律制度として合理性を有するものであれば、憲法上の合理性を有する、という判断の仕方をよくします。・・・・・。法律の具体的な制度設計が重要な意味をもつのであり、憲法は単なる要請、指針である、憲法は裁判規範ではなくプログラムである、という最高裁の姿勢が現れているように思われます」(『一歩前へ出る司法』、267頁)

そして、泉徳治氏は憲法秩序を守るために日本の裁判所はもっと積極的な役割を果たすべきだと強調しています。私も、全く同感です。

「社会集団全体の利益と集団構成員の利益はしばしば衝突します。ここでも、規格化を求める集団の利益と、選択的別姓でアイデンティティの保持を求める個人の利益が衝突しております。両利益の調和が必要となりますが、このことについて、憲法13条は『すべての国民は、個人として尊重される』と規定し、個人が尊重されて尊厳が守られる社会を作るという指針の下に個人と社会の利益の調和を図るべきことを規定しております。そして、日本社会では、夫婦の約96%が夫の姓を選択しているという状況の下で、選択的別姓を求める女性は少数派に属します。民主主義的プロセス、多数決原理で動く国会では、少数者の利益は無視されがちです。そこで、裁判所が、選択的別姓を認めず夫婦同姓を強制することが憲法13条の個人の尊重に違反するかどうかを厳格に審査しなければならない、そうしなければ憲法秩序が守られないということになります」(同、269頁)

「社会全体としては同一氏で規格化したほうが便利でしょうが、多少の不便は我慢しても個人としての生き方を認めていくべきですよね。個人としての生き方が集団の中で押しつぶされてしまっている」(同、272頁)

「日本の最高裁の建物の中には憲法問題を研究している人が一人もいないんですね」(同、330頁)

官僚派の裁判官だけではダメ

泉徳治氏は、本人自身が最高裁事務総長から最高裁判事に就任するという超エリートコースを歩んだ人ですが、最高裁の裁判官のうち3人くらいは官僚的な発想にとらわれない、人権重視の人が必要だと断言しています。

「官僚派の裁判官が大勢を占めるようになり、社会秩序重視の判決が多くなったように思われます」(同、294頁)

「団藤先生は、刑事法の権威ではありますが、刑事法以外の分野でも優れた個別意見を書いておられます。一つの分野を究めているような人はやはり違いますね。憲法でも他の分野でも立派なご意見をお書きになる。やはり、ああいう方が三人くらい最高裁に必要です。物事の本質を見ようとする人、官僚的な発想にとらわれない人が、必要なんじゃないですかね」(同、99頁)

裁判官の研修についても、注意を要するという泉徳治氏の指摘は大切だと思います。

「私も、裁判官を外部に出して多様な経験を積ませるということには賛成ですが、それによって裁判所が準行政庁的機関になることがあってはならないと思います。外部研修で、統治機関としての意識を強くして帰ってくる人がいないとも限りません」(同、304頁)

「夫婦同姓強制の合憲判断は間違い」

泉徳治氏は、最高裁が夫婦同姓を強制している法律を合憲であると判断したのは間違いだと、すっきりした口調で言い切ります。

「再婚禁止期間の違憲判断は当然であり、夫婦同姓強制の合憲判断は間違いであるというのが私の立場です。・・・・・。(最高裁判決は)まず社会があり、社会の構成要素として家族があり、家族の中に個人があるという発想です。社会の構成要素として家族があるのですから、家族のあり方は社会が民主主義的プロセスで決めればよい、社会全体の便益のためには、家族形態は規格的、画一的であるほうがよい、という発想です。しかし、まず、一個の人間としての男と女があるのではないでしょうか。その男と女が結婚して家庭を作る、家庭が集まって社会を作るのではないでしょうか。個人の尊重、個人の尊厳がまず最初に来るべきところです。多数決原理で個人の人権を無視することは許されないと思います」(同、266頁)

そして、泉徳治氏は、最高裁判決が「権利」よりも先に「制度」ありきとしているとして、厳しく批判しています。

安保法制法は憲法違反

国会で安保法制法案が審議されているとき、山口繁・元最高裁判長官が安保法制法案は憲法違反だと指摘したことが大きく報道されました。

泉徳治氏は、この点について、次のように語っています。

「(問い)2015年の夏に、集団的自衛権の限定的行使を容認する安全保障関連法案の合憲性が大きな争点となっていた頃、山口元長官がインタビューに応えて、法案を違憲だと指摘されたことは意外だった、ということですか。

そうですね。あれは、朝日新聞の記者のお手柄でした。私も山口元長官のご意見に賛成です」(同、308頁)

福岡でも、安保法制法が憲法違反であることを明確にするための裁判(国賠訴訟と自衛隊の派遣差止訴訟)が始まりました。裁判所には勇気を持って事実を見据えて、真正面から判断してもらいたいものです。

憲法を盾に裁判所は一歩前に

泉徳治氏は東京都議会議員定数是正訴訟で、本人が原告となって訴訟を提起しました。これは世間に大変なショックを与えるものでした。その思いを次のように語っています。

「選挙の争点にもならなかった安全保障関連法が国会をすいすいと通過する、憲法改正の論議も始まろうとしている、報道の自由を牽制するような動きもある、一人一票はなかなか実現しない、こういう動きをみておりますと、裁判所も、一歩下がってばかりいて、民主主義国家の中で果たすべき役割を怠っていた責任を免れないのではないかという思いを強くしてきました。また、どこが悪いというよりも、我々世代全体の責任だと思うようになりました」(同、336頁)

その反省の前提となっている司法の現状認識を泉徳治氏は次のように語っています。

「憲法は、立法、行政のほかに司法を設け、国民が、不平等な選挙権などの民主制のゆがみの是正を求め、憲法で保障された権利自由の救済を求めて、立法・行政と対等な立場で議論するフォーラムとして法廷を用意し、裁判所に対し、憲法に違反する国家行為を無効とする違憲審査権を付与しているのです。裁判所は、違憲審査権を行使することにより、民主制のシステムを正常に保ち、憲法で保障された個人の権利自由を救済するという役割を担っております。

したがって、裁判所が、違憲審査権行使の場面で、議会の立法裁量や政府の行政裁量の陰に隠れていては、憲法秩序が保たれません。裁判所は、憲法を盾に一歩前に出て、国会行為が憲法に照らし正当なものかどうかを厳格に審査しなければなりません。ところが、約70年の歴史のなかで、裁判所が法律や処分を違憲と判断した裁判例は20件しかありません。裁判所の中で、憲法で課せられた司法の役割に対する認識が十分に育っていないのです」(同、2頁)

「私は、裁判所が、憲法よりも法律を重視し、法律解釈で立法裁量を最大限に尊重し、法律に適合するならば憲法違反とは言えないとし、条約は無視する、という現状から早く抜け出して、憲法を盾に一歩前に出てきてほしいと願っております」(同、4頁)

形式・枝葉ばかりを気にする裁判官

福岡の法廷に現れる裁判官のうち、まともに当事者の言い分を聞いてくれる人にあたると、正直言ってほっとします。

時間ばかりを気にして、当事者の言い分をまともに聞いていないとしか思えない裁判官が、何と多いことでしょう。形式論には強いけれど、紛争の実質からは目を逸らそうとする裁判官、憲法論を持ち出すと、そんな抽象論なんか主張してもダメでしょ、と言わんばかりに冷たい裁判官が多過ぎます。泉徳治氏の言うように、上が上なら、下も下、そんな気がしてなりません。

でも、私は決して諦めているわけではありません。泉徳治氏の言うとおり、私たちには、今の状況を克服する責任があると思うのです。

泉徳治氏の本に大いに触発され、私も発奮しました。ぜひ、みなさんもご一読ください。

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