福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2014年12月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆ 「過去のこと」

憲法リレーエッセイ

会 員 天 久 泰(59期)

9月のある日、テレビでニュースを見終わった後、妻に、「今、辺野古を見ておかないと後悔しそうだ。10月中に行きたい。」と言うと、「じゃあ行っておいで。」とあっさり承認が下りた。理由は詳しく説明しなかったが、私の表情から決意のほどをくみとってもらえたようだ。辺野古行きは、官房長官の定例会見での一言で思い立った。米軍・普天間基地の辺野古移設をめぐる問題は「過去のこと」であるという一言。

10月中旬の週末、那覇空港からレンタカーを飛ばし、1時間半ほどで名護市・辺野古崎に入った。薄曇りの空。前週に上陸した台風の影響がまだ感じられた。
辺野古の集落に近づきながら、遠目にシュワブの施設が見えた。「辺野古崎」という小さな岬を挟んだ両岸にへばりつくような形で、米軍・キャンプシュワブは存在する。日本政府が米軍・普天間基地の基地機能の移設先と決めた地域。「移設」というが、耐用年数200年と言われる基地の「新築」であることは誰にでも分かる。
漁港近くに、10年ほど抗議の座り込みや監視活動をしているテント村があった。抗議活動の歴史を説明する写真とガイド。私の後にも、途切れることなく見学者が現れていた。

港には小型の抗議船が繋留されていた。船に近寄って見ていると、私が乗りたそうにしていると見えたのか、声をかけてくれた人がいた。「今日の抗議活動は終わった。シュワブの沖を通って母港に船を戻すけど、乗っていくかね。」と聞かれた。笑顔で乗り込む私の重みで船が傾いた。
波飛沫を上げながら、船はあっという間にシュワブの沖に移動した。紺碧とエメラルドグリーンが順繰りにやって来る。実際の辺野古の海は、テレビ映像で見るよりはるかに美しかった。
少し離れた沖には、民間の警備会社の船が見える。沖縄防衛局が導入した船。シュワブの施設内の浜には蛍光色の太線が見えた。太線は大量のフロート(浮き)だった。前週に沖縄を直撃した台風は、基地施設内として立入禁止の区域を示すオレンジ色のフロートを浜に打ち上げたのだ。
同乗するガイドから、漁業補償金として名護漁協に30億円以上が支払われたが、辺野古周辺とその他の地域の組合員との間で分配額にかなりの差がつけられたことが問題となっていると聞いた。

乗船して30分で船の母港に着いた。そこから先ほどのガイドにお願いし、シュワブの正面ゲート前まで車で移動した。
そこには抗議行動をしている50名ほどの人々がいた。若者も、おじーも、おばーもいた。地元の人もいれば県外から来た人もいた。パンを差入れる人、激励のあいさつをする人、琉球三線(さんしん)で民謡を歌い上げる人。提供するものはさまざまだった。差入れの「もずく」を紙コップからすくって食べると海の味がした。
なぜ福岡からやって来たのかと尋ねられることはなかった。そこでは経緯や動機はある意味どうでもよいことだった。その場に居合わせる目的だけが、強く、はっきりとしていた。
正面ゲートの金網フェンスの前には制服姿の警備員が20名ほどいて、搬入搬出の車両とのトラブルが起きないよう警戒している。正面ゲートの前に行ってみる。すると一人の警備員と視線が合った。彼は私だけに聞こえる大きさで、「自分たちも本心は基地反対だから。これは仕事。」と、陽に焼けた顔に少しだけ笑みを浮かべて呟いた。
午後4時になり、普天間基地の辺野古移設に反対するコールが何度も繰り返され、三線の音色で参加者全員が踊り、旗を振り、その日の抗議行動が終わった。
帰途に着く頃には日が暮れていた。明日も今日と同じ一日が繰り返されるのだろう。

民主主義に終わりはない。すべての政治問題について、「過去のこと」と判断を下すのは、権力者ではなく、最終的には国民である。下した判断に誤りがないか、何度でも検証する義務と責任が国民にはないだろうか。
小さな島に厳然と横たわる「今そこにある」問題は、決して「過去のこと」ではない。辺野古で会った、命と平和と未来を懸けて訴える人々の姿は、私にそう教えてくれた。

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