福岡県弁護士会コラム(会内広報誌「月報」より)

2011年4月 1日

◆憲法リレーエッセイ◆  「ポピュリズムと司法の役割」

憲法リレーエッセイ

会 員 武 藤 糾 明(49期)

大学で資本論を読むサークルに入った。社会学科で、ポピュリズムを研究している人がいた。ポピュリズムとは、自己の意図を実現するために、一種の催眠状態を作りだして圧倒的な世論を掌握するという、扇動的な民衆動員の手法である(2005年の「郵政改革なくして改革なし」「自民党をぶっ壊す」による衆議院選圧勝の小泉劇場も該当する)。扇動的民衆動員という方法論だけに着目して、ナポレオンも、ヒットラーも一緒に論じるので、「左も右もごっちゃにして乱暴だ。本質的な分析ではない。」と、当時思っていた。
弁護士になった後、地下鉄サリン事件や和歌山毒カレー事件の弁護人が、社会から厳しく断罪されていた。「弁護士は、何であんな極悪人の味方をするんだ!」ワイドショーだけとはいえない雰囲気が社会に広まった。帰省したときに親戚からも同じ質問を受けた。説明すると、そのときは一応矛を収めてもらえるが、次の盆・正月に帰ると、また同じ質問が繰り返される。4回目くらいから、説明をあきらめて受け流すようになった。
2004年に、監視カメラ問題に取り組み始めた。当初は、賛否両論であり、好意的な報道も行われた。神奈川で、マンションからのつきおとし(未遂)事件が検挙されると、世論は一気に傾いた。「反対している奴は、犯罪者の味方か。」非常識だとされた。
2006年に、福岡市職員が飲酒運転で3人の子どもを死亡させる事件が起こった。被害者と遺族のことを考えれば、最大限の処罰を与えるのが正義だと社会は一色になった。危険運転致死傷罪の適用を争う弁護人の活動は叩かれた。家でとっている新聞も、記者のコラム記事で、弁護人の活動を非難した。暗澹たる思いだった。
しかし、2008年、1審判決は、危険運転致死傷罪の適用を否定した。99%の世論が、「加害者をつるし上げよ」という中、「刑法の謙抑性」「刑罰法規の厳格解釈」という大原則に沿った判断であり、平時なら当然のことながら、ポピュリズム状況下で、良心にのみ従って判断された勇気に深い感銘を受けた。
弁護人が、刑事訴訟法に沿った原則的な活動を行うことに勇気がいる時代になった。裁判官であれば、それとは全く比較にならないほど大変だろう。
私は、極論を言えば、世界中の人が理解しなくても、正しいことは正しいと主張するのが司法の役割だと思う。弁護士も、準司法的役割として、それに貢献する役割を担うべきだと思う。憲法では、「多数決民主主義にゆだねると、少数者の人権が侵害されることがあるので、そういう法律を無効として人権を保障するのが司法の役割だ」とされる。私が言い渡しに立ち会ったハンセン病国賠訴訟違憲判決と住基ネット差止訴訟金沢地裁違憲判決は、まさに司法の正義が示された裁判だった。
「世論の動向」はうつろいやすいし、もともと理性的かどうかもあやふやだ。小泉劇場に熱狂した家族は、「そんなこと(自分が熱狂したこと)あったかな」とのたまわった。
そのときどきの世論が支持することだけに弁護士会の活動を限定するのは疑問だ。
しつこく活動している監視カメラ問題について、2010年の日弁連人権擁護大会シンポジウムで2回目の報告を行った。今回は、NHKのクローズアップ現代にも取り上げてもらった。デジタル時代の監視カメラは、顔認識システムと結合すると、インターネット上で特定の人の行動履歴を正確に追うことも可能となる。
少数意見を世論に広げていく活動を、これからもあきらめずに淡々と行っていきたい。
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