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英国便りNo.6 イギリスのクリスマスと新年の迎え(2004年1月24日記)

カテゴリー:月報記事

松井 仁

刑弁委員会の皆様

少し時期おくれですが、明けましておめでとうございます。

松井です。

今回は、英国でのクリスマスと新年の様子についてレポートしたいと思います。

一一月に入ると、商店街では、どの店もクリスマスの飾りつけをして、プレゼントやクラッカーを店頭に並べます。(クラッカーというのは、紙製の筒状のもので、ひもを引っ張ると、パン! という音と共に、中から小物、クイズの書かれたカード、紙の冠などが出てきます。これを、パーティーの時に各自の席の上に置いておいて、鳴らして盛り上がるのです)。

しかし、街の飾りつけ方(イルミネーション)は、Oxford Street や、Bond Street といったロンドン第一の繁華街でも、いまひとつパッとしません。

私たちの分析では、その理由は、(1)電照が密ではない(2)色がほとんど白熱灯一色、(3)そもそも英国人に飾りつけのセンスがない(?)ということではないかと話しています。福岡天神の方がずっと綺麗であることは確かです。

よく西欧のクリスマスは日本の正月のようなものだと言われますが、確かに、英国でも、クリスマスは年に一度遠く離れた家族が一堂に集まって祝う日となっており、その気合の入れようは並大抵のものではありません。

ある新聞によると、親たちは、独立して遠くの町に住む子供たちに、一〇月ころから「クリスマスにお前たちが帰ってくるのが楽しみだ」などと書いた Emotional Blackmail(感情的脅迫状)を送り、プレッシャーをかけるそうです。とりわけ結婚し
た若い夫婦にとって、どちらの両親と過ごすかは悩みの種で、ある夫婦は、片方の親と過ごすと、もう片方が悲しんだり妬んだりするので、いっそ自分たちだけで過ごすことにした、とか、別の夫婦は、クリスマスの日に両方の親に会うため、何百マイルの距離を車で移動する、といった例が紹介されていました。

親の方も、クリスマスにどんな料理を作るかは重大事で、テレビでは、七面鳥のグリルや、クリスマスプディング(肉や果物や砂糖をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて固めたもの)をはじめとするクリスマス料理番組を連日やっていました。そして、雑誌では、「クリスマスパーティーを成功させる一〇の鉄則」とか、「クリスマスのストレスをどう乗り切るか」という特集をやっていました。

(クリスマス後には、「クリスマス燃え尽き症候群への対処法」とか、「クリスマス後の借金の整理の仕方」などになっていました)。

英国では、一二月二五日(クリスマス当日)と翌二六日(Boxing Day)は公休日となっており、特に二五日は、基本的にすべての商店は閉じられ、公共交通機関までもが運休になります(少数のタクシーが、法外な料金をとって走っているだけです)。ですから、前日に食糧を確保したうえで、家にじっとしているしかありません。

それを聞いていた私たちは、実は、一二月二二日から二六日までの間、ロンドンを抜け出し、パリに滞在していました。ですから、ロンドンの実際の状況を見たわけではありません。どのくらいの人がクリスマスに教会に行っているのかは気になるところですが、今の英国人で、日頃教会に行っている人はほとんどないそうなので(毎日曜日教会に行っている人は、かえって奇異に見られているような感じがします)、ほとんどの人は家で過していたのではないかと想像します。

ところで、パリのクリスマス飾りは、やはりロンドンよりも華やかで(キャバレー・ムーランルージュのネオンを想像してみてください)、わくわくさせられました。そして、クリスマスイブの深夜には、ノートルダム大聖堂をはじめ、街の各教会から鐘の音が鳴り響き、荘厳でした。

さて、パリからロンドンに戻ってみると、クリスマス明けの一二月二七日から、街は冬のバーゲン一色になっていました。ところが私たちは、パリでひどい風邪をもらってきて出遅れてしまいました(寒風の中、オルセー美術館の前の長蛇の列に一時間ほど並んだのが原因)。

一二月三一日大晦日の日は、街のどのパブでも、カウントダウンパーティーを催していて、夕方ころから人が集まりだし、夜には、たくさんの酔っ払いが街を徘徊していました。私たちは、異常に盛り上がったパブの中に入っていく勇気はなく、静かに自宅で新年を迎えることにしました。時計が一二時を回り、テレビで、ロンドンアイ(最近できたテムズ川沿いの大きな観覧車)の上空にあがる花火の中継を見ていると、家の近くからも花火の音がしてきました。窓を開けて外を見てみると、北から東から西から、あちこちの街で花火が上がっているのです。まるでロンドン全体で花火大会があっているような光景を、私たちはしばらく飽きずに眺めていました。

ITコラム 〜“it”と私の六年半〜

カテゴリー:月報記事

弁護士会職員 松本 寛朗

今となっては昔のことですが、一時期弁護士会のホームページを担当していた縁(だと思う)で今月号のITコラムを担当することになりました。

とはいうものの、元来不精者で一応自宅にかなり時代遅れのパソコンがあることはあるけれど、日常生活において全くといっていいほど活用していない私に書くことがあるだろうかと考えました。

現ホームページ委員会担当シスターズの言葉が頭をよぎります。

「ITについてであれば何でもいいんですよ。」

「ものすごく高尚な内容か、ものすごくおもしろい内容じゃないと承知しませんよ。」

…(汗)。

何はともあれ、まずは自宅のパソコンをおよそ一ヶ月ぶりに起動してみることにしました。

カッカッカッ…と何かがひっかかっているような不気味な音。ディスプレイに「Insert system diskette」の文字。再試行。同じ表示。再試行。同じ表示…。

この異常事態発生に、この手の問題に恐ろしく無知な私は短絡的に「壊れた! もうだめだ!」と決めつけてしまいました。元来物持ちの良い私は、今までたいして活用していなかったくせに、いざ故障! ということになると感傷的になるらしくこれまでの様々な記憶がよみがえってきました。ということで、我がパソコン、通称 it と私の歴史をひもといてみようと思います。

思い起こせば約六年半前、it は我が家の一員となりました。当時の接続はダイヤルアップで、まず、接続すればその間だけ電話代がかかり、また、深夜料金で夜一一時以降は電話代が安くなるので、その時間に利用者のアクセスが殺到するためなかなかプロバイダーにつながらない。そんな時代で、自分の部屋が寝るためだけにあるため冷暖房器具を置いていない私は、深夜、冬は毛布にくるまりながら、夏はうちわ片手にひたすら接続するのを待っていたものです。また、奇跡的に接続に成功したとしても、今思うと信じられないほど遅い通信速度でありながら、当時はそれが普通だと思っていたため苦にならず、やっとつながった喜びをかみしめながらメールやインターネットに勤しんだのも懐かしい思い出です。

しばらくすると、アクセスポイントの数も増え、前ほどには接続に時間がかからなくなったのですが、元来飽き性で貧乏性の私は、接続している間中電話代がかかるということに耐えられず、いつしか it とは、職員旅行のパンフレットや親に頼まれて町内会の会計報告を作成といったような簡単な作業や、知りたいことや気になったことをたまーにインターネットで検索したりといった、なんとも薄っぺらな関係となってしまいました。

やがて、世にADSLや光ケーブルといった通信手段が普及し始めてからしばらくたった頃、遅まきながら it もようやく ADSL一二Mの通信手段を得て生まれ変わりました。今までのダイヤルアップに比べると飛躍的な進歩です。電話代は定額だし、とにかく早い(あくまでも今までと比べると)! これを機会にはまり出したのがインターネットオークションです。元来あまり物欲がない私で利用回数こそ少ないものの、出品物(日用品から情報までとにかくありとあらゆるもの)を眺めているだけでもその種類の多様さと安さ、また中には眉つばと思える出品物の胡散臭さに驚かされます。暇さえあればこのオークションに参加しておりました。この画期的なシステムは、ルールさえきちんと守って注意を怠らなければとても有効なものですので、皆さんも利用してみてはどうでしょうか。

さて、この頃になると、約六年をかけて蓄積された情報量に it の頭脳も限界を迎えており、何をするにしてもやたらと時間を要する状態になっていました。あるアプリケーションのアイコンをクリックしてもそれが立ち上がるまで一分以上かかるのも珍しくなく、おまけに頻繁にフリーズ状態に陥ります。そんなことが続くうちに it と私の関係も月に一度アクセスすればいいほう、というなんとも冷え切った関係になっていったのでした。

そんなことを思い出しつつ、ほぼたしなむ程度のインターネットとごく表面的な能力の利用のみのために存在していた it も、天命かそれとも私の使い方がまずかったのか、診断の結果、ハードディスクの一部に損傷を受け、生命活動は継続しているものの外部との意思の疎通に障害があり、情報管理職としての能力は皆無もしくは極めて微小。見えず聞こえず書けず話せずただ回り続けるという、いわゆる脳死状態となってしまったのです。

使用者として it の能力の何%を引き出せただろう。 it としては、「我が生涯に一片の悔いなし!」とは決して言ってくれないだろうとは思いますが、ただ、最後に自らの活動停止をもって私の悩みの種を解決してくれるネタを提供してくれた it に感謝と哀悼の意を捧げつつ、このコラムをしめくくりたいと思います。

今後は、 it に大容量メモリの新たな脳を移植して復活させるのか、全く別の it を迎え入れるのかは決めていないけれど、いずれにしろもっとかまってあげないとな…。

ホームページ委員会だより 〜初めてのブログ体験〜

カテゴリー:月報記事

会員 後藤 富和

県の弁護士の有志でブログを立ち上げました。その内容を少しだけご紹介します。

〜 山笠(六月一七日)〜

山笠の醍醐味は何と言っても、巨大な山笠を舁き廻る舁き山ですが、その前の飾り山も美しくて好きです。その飾り山ですが、博多人形師さんが精魂込めて作り上げた人形を人形師さんの指示に従って私達が地上一〇メートルの山笠に登って飾り付けていきます。山笠に登ったままの私達にはどんな山笠ができているのか、全く分かりません。で、山笠から下りてみて、少し離れた位置から振り返ると、とてもきれいな山笠が出来上がっているという次第です。毎年この瞬間が大好きです。

〜 中国総領事(八月一三日)〜

中国総領事館で総領事と会ってきました。総領事は大変気さくな方で、私の話に真剣に耳を傾けてくださり、それに対して的確なアドバイスと感想をくれました。総領事と私の思うところは概ね一致していました。私の子や孫の世代には、もっともっと日本と中国の関係が良くなって、二度とかつての過ちを繰り返すことのないような平和な関係を築かなくてはならないということです。

仕事で中国に出張することが多いのですが、そのとき思うのは相互に誤解が誤解を生んでいて不信感が募る悪循環に陥っているということです。誤解を解くためにはまず事実をきちんと認識することでしょう。互いに事実をきちんと認めた上で付き合うと、一気に信頼関係が深まります。昨年、出会った中国の方に、今度食事をしようと手紙を出していたら、北京に行った際、私を高級な北京ダックのお店に招待してくれました。食いしん坊の私には最高のもてなしでした。

〜 憲法(九月三日)〜

市民センターで、憲法の講演を行いました。学習会では、そもそも憲法とは何? という質問をします。この質問に対しては、多くの方が「私たち(国民)が守らなきゃいけない義務」と答えます。この答えは大間違いです。憲法は、私たちが義務付けられるものではなく、私たちが国を義務付けるものなんです。正確に言うと「権力を制限して国民の権利を保障する高次の法」です。さらに、憲法の目的って何? という質問もします。よく九条が大事と叫ばれますが(それ自体は間違いじゃない)、憲法の目的は「個人の尊厳」を確保すること(一三条)です。その目的達成の手段の一つとして、戦争放棄(九条)があるということです。

今、九条の改正(特に二項の改正が重要)の裏で、密かに(?)一三条も改正されようとしています。「公共の福祉」の文言が「公益及び公の秩序」に変えられようとしていますが、もしこれが実現されれば、公益(国の利益)の名の下に人権の制約を受け、明治憲法下の法律の留保の下での人権保障と同じレベルになってしまうおそれがあります。

八月二〇日に九弁連で憲法のシンポを行いましたが、今、まさに憲法が旬です。憲法を知らないまま改正されることが一番危険なことだと思います。多くの人に、是非一度憲法を読んでいただきたいと思っています。

…というような感じです。興味をもたれた方、一度覗いてみてください。県弁HPにリンクがあります。

裁判員裁判用法廷の公開

カテゴリー:月報記事

刑事弁護等委員会副委員長 安武 雄一郎

福岡地裁本庁の三〇一号法廷が、この度、裁判員裁判用の法廷として改装され、九月二日、法曹関係者に公開されました。改装のポイントは次のとおりです。

  1. 裁判官三名と裁判員六名が一列に並んで座れるように、法壇がアーチ型となっている(東京高裁に設置された裁判員法廷と同じモデルです)
  2. 法壇の高さが、他の法廷より一〇センチメートル低い
  3. 法壇の後ろに補充裁判員六名が座れるテーブルと椅子が置いてあるため、他の法廷に比べ、法壇がやや前にせり出している
  4. 当事者フロアが傍聴席フロアより五センチメートル高く、いわゆるOAフロアとなっている
  5. 傍聴席フロアが広がり、傍聴席の数が増えた

法壇が前にせり出し、逆に傍聴席が広がりましたので、当事者のフロアのスペースは以前より狭くなり、証人席と法壇の距離が近くなりました。そのため、法壇の高さが低い割には、意外に圧迫感を感じます。当日は、裁判所や検察庁の関係者も多数見学しており、裁判官・裁判員席に見学者に座ってもらって、証人席にも見学者に座ってもらい感想を聞きましたが、尋問中、どこを見ていればよいのか戸惑うとのことでした。実際に私も証人席に座ってみましたが、法壇との距離が近く、法壇が横長いので、単に前を向いているだけでは、裁判官・裁判員九名全員を一度に視野に入れることができず、両端に座っている裁判員の顔を見ようと思ったら、自分の顔を横に動かさなければなりません。また、法壇が横長いため、弁護人席に立って法壇の方向を見たところ、やはり両端に座っている裁判員の顔が見えにくい感じでした。今までみたいに弁護人席に立って、弁論要旨を見ながら弁論したところで説得力はなく、陪審裁判のように、弁護人が法廷の中央に立ち、書類を見ずに裁判官・裁判員全員の目を見据えて語りかけなければ説得的な弁論にはならない、とすら感じました。

裁判員裁判は平成二一年施行ですが、新三〇一号法廷は九月の夏期休廷明けから通常の事件で使用されるとのことであり、この記事が月報に掲載されるころには、新三〇一号法廷を経験される会員も増えることと思います。来るべき裁判員裁判を想像しながら、しばらくは裁判官のお顔だけを拝顔することになります。

英国便りNo.5 イギリスのクリスマスと新年の迎え方(2004年1月24日記)

カテゴリー:月報記事

刑弁委員会の皆様 松井です。

年末となり、皆様忙しい日々を送っておられることと思います。今年最後の便りは、最近英国のマスコミを賑わせた、Soham 殺人事件についてご報告いたします。少々長くなってしまい申し訳ありませんが、英国の刑事手続の特徴が具体的に分かっていただけると思います。

一 事件の概要

二〇〇二年の八月六日、England 東部の街 Soham で、二人の小学生女児が行方不明になりました。

警察総出の捜索の後、八月一七日に二人の死体が発見され、同日、二人の通っていた小学校の男性職員(二九才)が殺人の主犯容疑で、その恋人が従犯容疑で逮捕されました。

二 起訴から公判まで

二人は、当初から犯行を否認していましたが、逮捕の三日後の八月二〇日に殺人罪で起訴されました。日本と違い、起訴前の身柄拘束時間が原則三日しか許されていないためです。当然、その後に様々な客観的証拠収集が行われたものと思われます。

公判(陪審裁判)が始まったのは、二〇〇三年の一一月です。つまり、起訴後一年三ヶ月も経過しています。

このうち最初の二ヶ月は、精神鑑定に費やされています。

その後は、検察側と弁護側で、証拠開示や争点整理などが徹底的になされたものと思われます。

このことは、公判開始直後、弁護側が詳細な事実認否をしたことからもうかがえます。陪審による集中審理のためには、相当の準備期間がいることを物語っています。

三 メディアと陪審員

この事件は、二人の少女が行方不明になったときから世間の注目を集め、容疑者逮捕後は、日本と同じように憶測も交えたセンセーショナルな報道がなされていました。

そのため、弁護側は、公判開始前、「被告人らは、すでにメディアによって有罪とされてしまっている。公正な陪審裁判は期待できない」として、公訴棄却の申立をしました。しかし、裁判長は「陪審員はこれまで報道に接しただろうが、漠然としか記憶していないはず。私は、彼らが証拠だけに基づいて判断できるものと信じる」として申\立を棄却しています。ただし、報道機関に対して、偏見をもった報道をしないように警告するコメントを出しています。報道の自由と裁判の公正との兼ね合いは、どこの国でも難しい問題です。

四 陪審裁判

 一一月にはじまった裁判は、六週間のあいだ、ほぼ連日開廷され、毎日次々と証拠が提出され、たくさんの証人が証言をしていました。

時には、陪審員は皆でバスに乗せられて、少女らが死亡した男性職員の家や、死体発見現場の実況見分にも連れていかれていました。

また、一度陪審員の一人が病気になったため、その人が回復するまで、数日間審理が中止したこともありました。

 陪審員の心理的・肉体的負担は大変なものだろうと思いました。(もちろん検察側・弁護側も連日開廷に対応するのは大変でしょう)。

五 評議と評決

審理当初の弁護側認否のなかで、弁護側は、二人の少女が男性職員宅で死亡したこと、そのとき男性職員がその場にいたという重大な事実を認めていました。しかし二人とも風呂場で溺れて事故死したという主張でした。

ところが、その後の審理の過程で、男性職員は、「少女のうち一人が風呂場で溺れて死んだ。それを見たもう一人が悲鳴をあげたので、黙らせようと首をしめていたら死んでしまった」と供述を変遷させました。

このようなことから、私も含め、多くの新聞が、男性職員の供述を信用しておらず、有罪は間違いないといった論調でした。

しかし、審理が終わって陪審が評議にはいってもなかなか結論がでず、四日間も評議は続きました。そして、本年一二月一七日、一一対一で男性職員に対して二人の少女に対する殺人の有罪判決が出ました(英国では、一二人のうち一〇人以上の多数決で評決を出せます。ちなみに恋人については殺人従犯は無罪、偽証で有罪)。ある新聞は、「この事件で陪審員が四日間真剣に討議し、一人は最後まで無罪主張を譲らなかったということは、英国で無罪推定原則が陪審員にもよく理解されているということを示している」と評価していました。私も感心しました。

六 量刑

ご承知のように、英国では、陪審員は有罪無罪を決めるだけで、量刑は裁判官が決めます。英国は死刑制度がありませんので、最高刑は無期懲役となります(*一)。

本件も、陪審評決をうけて、裁判官は男性職員に無期懲役を言渡しました。

英国の無期懲役は、日本と同じように仮釈放がありますが、最低何年現実に服役しなければならないかは、高等裁判所の裁判官が別途決めることになっています。

本件でも、それが決まるのは来年一月とのことです。

なお、最近Criminal Justice Act二〇〇三という法律が新しくできて、連続して性的動機から子どもを殺した場合には、文字通りの終身刑が適用できることになったのですが、本件でそれが適用されるかは微妙とのことです(本件での性的動機は必ずしも立証されていません。なお後記七参照)。

(*一) 最近、野党保守党の幹部の一人が、「連続殺人犯には死刑を導入すべきだ」と主張しましたが、与党労働党はもちろん、野党内同僚からも大反発を受けていました。ある議員は「近年で最も恥ずべき政治家の発言だ。この三〇年間、もし死刑があったなら間違って処刑されていたであろう者が何人いると思うか」、と怒っていました。死刑は当分導入されないでしょう。

七 事後談

判決後、センセーショナルな事実が公表されました。

有罪とされた男性職員は、一九九五年から一九九九年までの間に八回も、一二歳から一八歳までの少女に対してセックスをしたりレイプをしたという容疑をかけられた「前歴」があったのです。

しかしこれらはいずれも証拠不十分として起訴されず、男性職員は小学校で仕事をし続けていたということです。このことに対して、世論は「いったい警察やソ\ーシャルワーカーは何をしていたのか!?」と反発が巻き起こり、政府は早急な調査を開始しました。

しかし、私が逆に感心したのは、これらの「前歴」がこれまで法廷にも全く提出されず、したがって報道もされていなかったことです(日本の刑事裁判では前歴票などですぐ出てきますよね)。おそらく、証明されていない前歴により、陪審員が予断偏見をいだくおそれがあるので厳しく制限されていたものと思われます。

八 さいごに

以上のように、英国の刑事手続では、公判開始後に集中審理は行われるものの、事前準備に十分な時間をかけたり、証拠の提出にも細心の注意が払われるため、時として裁判終了まで時間がかかってしまうことも多いようです。

このことについて、ある検察官は述べています。

「無期懲役を言渡された被告人が、その後、何を望みに人生を生きると思いますか? 自分の裁判手続に過誤があることを理由に判決を覆すことができないか、そればかりを考えるのです。そして、本当に高裁は判決を覆すのです(*二)。だから、凶悪事件ほど、手続の隅々まで気を使う必要があるのです」

(*二) 陪審の有罪評決および裁判官の量刑に対しては、当該裁判官が許可しないかぎり控訴ができません。ただし法律問題については権利として控訴ができます。

それでは皆さん、よいお年をお迎えください。

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